井上長者館跡(いのうえちょうじゃやかたあと)。
場所:茨城県行方市井上2439-8外。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同183号線(山田玉造線)の「井上藤井」交差点から北へ約700mのところにある交差点の西側(現況:畑)。駐車場なし。
現・行方市井上に古くから「長者郭(曲輪)」という場所(字)があり、戦前までは土塁や堀の一部が残っていて、「金塚長者」という長者の館(屋敷)跡との伝承があった。昭和37年、地籍調査のため茨城県農政課からの依頼で航空測量会社が撮影した写真に、約110m四方の土手が回り、二重堀の跡が写し出されていた。現場は概ね平坦な畑が広がっているだけだったが、「ソイルマーク」と言って、表土層の厚さの差が乾燥の差となり、航空写真で見ると、深い溝が埋まっているところは黒く写るというものが検出された。この発見は偶然だったが、直ぐに読売新聞社も航空写真を撮って確認したという。当時も発掘調査が行われたらしいが、結果の詳細は不明になっている。平成元年になって玉造町教育委員会(当時)が発掘調査を行ったところ、幅約4mの二重の空堀が検出され、奈良~平安時代の須恵器や瓦などの遺物が発見された。外堀の復元規模は東西120.5m×南北119.7mのほぼ正方形で、堀の深さは2m以上あり、主軸は北東に18度傾いていることが判明した。築造時期には諸説あるが、鉄砲伝来(16世紀)以降の城館の堀はジグザグ型に造られるようになるので、少なくともそれ以前(中世以前)のものと考えられるという。調査報告書では、出土物の須恵器や瓦片からして8~10世紀(古代)としているが、出土物が極めて少なかったこともあり、中世の城館跡とする説もある。なお、地元に伝わる「高野助右衛門家文書」という古文書(作成年代不明)の中に「金塚長者郭の図」と呼ばれる絵図面があり、これが発見された堀跡の形と一致した。この古文書によれば、長者館の主は源茂義といい、康平5年(1062年)から320年居住して、後に金塚氏と名乗ったという。
さて、行方郡家の所在地については、「常陸国風土記」の記述に基き、「国神神社」(2022年11月12日記事)の鎮座地から逆算して現・行方市(旧・麻生町)行方とするのが通説だったが、現在では現・行方市(旧・玉造町)井上とする説が有力になってきている。また、「常陸国風土記」編纂の時代には現・行方市行方にあったが、その後、現・行方市井上に移転したとする説もある。ただし、「井上長者館跡」が行方郡家の跡かどうかはまだ確定されていない。もし中世のものとすれば、郡司の後身が長者となり、その長者が築いた城館跡かもしれない。
写真1:「井上長者館跡」付近。東側(県道側)から見る。
写真2:同上、南側(農道側)から見る。
参考画像:発見のきっかけとなった航空写真。二重になった正方形のソイルマークがはっきり見える。右側の、上下に走る白い線が県道50号線。この辺りでは、県道がほぼ大字の境界と重なっており、古代官道のルートに近いと思われる。行方郡家が「井上長者館跡」付近にあったとすれば、古代官道を抜きには考えられないだろう。ただ、「井上長者館跡」の主軸の向きがやや北東向きなのに対して、県道はやや北西向きで、一致しないのは多少気になるところではある。
場所:茨城県行方市井上2439-8外。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同183号線(山田玉造線)の「井上藤井」交差点から北へ約700mのところにある交差点の西側(現況:畑)。駐車場なし。
現・行方市井上に古くから「長者郭(曲輪)」という場所(字)があり、戦前までは土塁や堀の一部が残っていて、「金塚長者」という長者の館(屋敷)跡との伝承があった。昭和37年、地籍調査のため茨城県農政課からの依頼で航空測量会社が撮影した写真に、約110m四方の土手が回り、二重堀の跡が写し出されていた。現場は概ね平坦な畑が広がっているだけだったが、「ソイルマーク」と言って、表土層の厚さの差が乾燥の差となり、航空写真で見ると、深い溝が埋まっているところは黒く写るというものが検出された。この発見は偶然だったが、直ぐに読売新聞社も航空写真を撮って確認したという。当時も発掘調査が行われたらしいが、結果の詳細は不明になっている。平成元年になって玉造町教育委員会(当時)が発掘調査を行ったところ、幅約4mの二重の空堀が検出され、奈良~平安時代の須恵器や瓦などの遺物が発見された。外堀の復元規模は東西120.5m×南北119.7mのほぼ正方形で、堀の深さは2m以上あり、主軸は北東に18度傾いていることが判明した。築造時期には諸説あるが、鉄砲伝来(16世紀)以降の城館の堀はジグザグ型に造られるようになるので、少なくともそれ以前(中世以前)のものと考えられるという。調査報告書では、出土物の須恵器や瓦片からして8~10世紀(古代)としているが、出土物が極めて少なかったこともあり、中世の城館跡とする説もある。なお、地元に伝わる「高野助右衛門家文書」という古文書(作成年代不明)の中に「金塚長者郭の図」と呼ばれる絵図面があり、これが発見された堀跡の形と一致した。この古文書によれば、長者館の主は源茂義といい、康平5年(1062年)から320年居住して、後に金塚氏と名乗ったという。
さて、行方郡家の所在地については、「常陸国風土記」の記述に基き、「国神神社」(2022年11月12日記事)の鎮座地から逆算して現・行方市(旧・麻生町)行方とするのが通説だったが、現在では現・行方市(旧・玉造町)井上とする説が有力になってきている。また、「常陸国風土記」編纂の時代には現・行方市行方にあったが、その後、現・行方市井上に移転したとする説もある。ただし、「井上長者館跡」が行方郡家の跡かどうかはまだ確定されていない。もし中世のものとすれば、郡司の後身が長者となり、その長者が築いた城館跡かもしれない。
写真1:「井上長者館跡」付近。東側(県道側)から見る。
写真2:同上、南側(農道側)から見る。
参考画像:発見のきっかけとなった航空写真。二重になった正方形のソイルマークがはっきり見える。右側の、上下に走る白い線が県道50号線。この辺りでは、県道がほぼ大字の境界と重なっており、古代官道のルートに近いと思われる。行方郡家が「井上長者館跡」付近にあったとすれば、古代官道を抜きには考えられないだろう。ただ、「井上長者館跡」の主軸の向きがやや北東向きなのに対して、県道はやや北西向きで、一致しないのは多少気になるところではある。