神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

井上長者館跡(茨城県行方市)

2023-01-28 23:35:57 | 史跡・文化財
井上長者館跡(いのうえちょうじゃやかたあと)。
場所:茨城県行方市井上2439-8外。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同183号線(山田玉造線)の「井上藤井」交差点から北へ約700mのところにある交差点の西側(現況:畑)。駐車場なし。
現・行方市井上に古くから「長者郭(曲輪)」という場所(字)があり、戦前までは土塁や堀の一部が残っていて、「金塚長者」という長者の館(屋敷)跡との伝承があった。昭和37年、地籍調査のため茨城県農政課からの依頼で航空測量会社が撮影した写真に、約110m四方の土手が回り、二重堀の跡が写し出されていた。現場は概ね平坦な畑が広がっているだけだったが、「ソイルマーク」と言って、表土層の厚さの差が乾燥の差となり、航空写真で見ると、深い溝が埋まっているところは黒く写るというものが検出された。この発見は偶然だったが、直ぐに読売新聞社も航空写真を撮って確認したという。当時も発掘調査が行われたらしいが、結果の詳細は不明になっている。平成元年になって玉造町教育委員会(当時)が発掘調査を行ったところ、幅約4mの二重の空堀が検出され、奈良~平安時代の須恵器や瓦などの遺物が発見された。外堀の復元規模は東西120.5m×南北119.7mのほぼ正方形で、堀の深さは2m以上あり、主軸は北東に18度傾いていることが判明した。築造時期には諸説あるが、鉄砲伝来(16世紀)以降の城館の堀はジグザグ型に造られるようになるので、少なくともそれ以前(中世以前)のものと考えられるという。調査報告書では、出土物の須恵器や瓦片からして8~10世紀(古代)としているが、出土物が極めて少なかったこともあり、中世の城館跡とする説もある。なお、地元に伝わる「高野助右衛門家文書」という古文書(作成年代不明)の中に「金塚長者郭の図」と呼ばれる絵図面があり、これが発見された堀跡の形と一致した。この古文書によれば、長者館の主は源茂義といい、康平5年(1062年)から320年居住して、後に金塚氏と名乗ったという。
さて、行方郡家の所在地については、「常陸国風土記」の記述に基き、「国神神社」(2022年11月12日記事)の鎮座地から逆算して現・行方市(旧・麻生町)行方とするのが通説だったが、現在では現・行方市(旧・玉造町)井上とする説が有力になってきている。また、「常陸国風土記」編纂の時代には現・行方市行方にあったが、その後、現・行方市井上に移転したとする説もある。ただし、「井上長者館跡」が行方郡家の跡かどうかはまだ確定されていない。もし中世のものとすれば、郡司の後身が長者となり、その長者が築いた城館跡かもしれない。


写真1:「井上長者館跡」付近。東側(県道側)から見る。


写真2:同上、南側(農道側)から見る。


参考画像:発見のきっかけとなった航空写真。二重になった正方形のソイルマークがはっきり見える。右側の、上下に走る白い線が県道50号線。この辺りでは、県道がほぼ大字の境界と重なっており、古代官道のルートに近いと思われる。行方郡家が「井上長者館跡」付近にあったとすれば、古代官道を抜きには考えられないだろう。ただ、「井上長者館跡」の主軸の向きがやや北東向きなのに対して、県道はやや北西向きで、一致しないのは多少気になるところではある。
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井上神社(茨城県行方市)

2023-01-21 23:32:55 | 神社
井上神社(いのうえじんじゃ)。通称:大宮大明神、井上の大宮様。
場所:茨城県行方市井上1725。茨城県道183号線(山田玉造線)「井上」交差点から北東へ約850m。駐車場有り(県道の向かい側)。
社伝によれば、第14代・仲哀天皇元年の創祀(4世紀?)。「井上」というのは、「常陸国風土記」にある「玉清井」(前項)の上にあることに因むという。大同元年(806年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州征伐の途上で参詣し、大任遂行と武運長久を祈願した。また、源頼朝が当神社を「大宮」と尊称し、神領を寄進した(戦国時代に喪失。)。明治6年、村社となったが、氏子の減少等もあり、明治44年に「八幡神社」と「永井戸神社」を合併した。これにより、祭神は彦火火出見尊(ヒコホホデミ)と鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)に加え、誉田別名命(ホムタワケ)と倉稲魂命(ウカノミタマ)の2柱が合祀された。なお、現在の本殿は合併した「八幡神社」の本殿を移築したものとされ、行方市指定有形文化財。元の「八幡神社」は、建保元年(1213年)に当時の領主(地頭)・下河辺安房守が勧請・創祀したもので、代々下河辺氏の氏神だったという。
なお、当神社のすぐ北西側に「井上廃寺」と呼ばれる古代寺院遺跡があるが、当神社境内に「井上廃寺」の礎石とされるものが多数置かれている。また、当神社の北に「長者郭」という地名があり、そこから古代官道とほぼ同じ道筋とされる茨城県道50号線(水戸神栖線)(この辺りでは、現・行方市井上と同・行戸の大字界でもある。)の西側に「井上長者館跡」(次項予定)があったとされている。あるいは、これが行方郡家跡かもしれないという。とすれば、当神社も行方郡家に関連があり、その権威が高かったのかもしれない(なお、「国神神社」(2022年11月12日記事)参照)。


行方市のHPから(井上神社本殿)


写真1:「井上神社」鳥居と社号標


写真2:拝殿


写真3:本殿


写真4:社殿背後の石祠


写真5:境内にある「井上廃寺」の礎石?


写真6:同上
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玉清井(茨城県行方市)

2023-01-14 23:34:53 | 伝説の地
玉清井(たまきよのい)。
場所:茨城県行方市井上893-1。国道355号線「荒宿」交差点から北西へ約600m進んで右折(北東へ)、約170mで右折(南東へ)、約80m。駐車スペース有り。目印が乏しいが、国道355号線から田圃の中に森が見えるので、わかりやすい。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「倭武天皇(日本武尊)が天下巡幸を行い、香取海の北方を平定したとき、当地を通った。槻野の清泉を訪れ、水に近寄って手を洗い、玉(勾玉)を泉に落とした。この泉は今も行方の里の中にあって、玉清の井と称している。」(現代語訳)という記述がある。「槻野」という地名の遺称地はないが、一般に当地の池が「玉清井」であるとされている。現在も水は涸れることがなく、地元では「永井戸」と呼んでいた。江戸時代、「天明の大飢饉」(1782~1788年)の折、村人が泉を溜池にした。このとき、江戸の「妻恋稲荷」(「関東総司 妻恋神社」、現・東京都文京区)から分霊を勧請して、「永井戸稲荷神社」を創建。明治44年、「八幡神社」を合祀して「玉清井神社」と改称したという。
なお、「玉清井神社」から、北西約300m(直線距離)のところにも「玉清井遺蹟」(通称:石根様)というところがある。ここには現在、泉は無く、小さな石祠と倒れた石碑などがあるだけで、詳細不明。行方台地の下には水が湧いていたところが何ヵ所かあったようで、他の場所にも伝承地があったのかもしれない。
蛇足:「常陸国風土記」は写本しか残っておらず、省略が多い(ただし、総記と行方郡の条には「省略しない」との注記がある。)ことはよく知られているが、誤字・脱字も結構多いらしい。このため、校訂・注釈により、読み方や意味が変わったりするところがある。日本武尊が泉に玉を落とすところでは、原文は「臨水洗手 以玉□井」となっていて、□が所謂「くずし字」で読み難いため、「落」のほか、「榮」・「為」・「尊」などとする説がある。「落」なら、「玉をうっかり泉に落とした」というニュアンスがあるが、例えば「榮(栄)」なら「さきわう(幸う)」と読んで、「玉で泉を言祝いだ」という意味になるという。確かに、「玉を落とした」だけだと、何だか尻切れトンボのような感じではある。清い泉は貴重なものだったろうし、日本武尊が剣で岩に切りつけて清水を出したという伝説もある(現・茨城県つくば市大形の「鹿島神社」(2020年8月29日記事)など)。仮に「落とした」としても、そこには何か呪術的な、あるいは儀式的な意味があったのだろうと思われる。


茨城県のHPから(玉清井)


写真1:「玉清井神社」参道入口、社号標。


写真2:同上、鳥居


写真3:同上、社殿。祭神:倉稲魂命


写真4:同上、「玉清井」石碑。撰文は栗田寛(元東京帝大教授。「大日本史」最後の執筆者)による。


写真5:同上、「玉清井」


写真6:同上、池の中にある日本武尊の銅像。宮路久子氏の作。


写真7:「玉清井遺蹟」石碑。昭和10年頃、「玉清井」真贋論争があったらしい。


写真8:同上、「槻野清泉 石根神社 祭神 日本武尊 石凝姥命」石碑


写真9:同上、石祠


写真10:手前「玉清井遺蹟」、奥に見える森が「玉清井神社」
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鉾神社(茨城県行方市)(常陸国式外社・その15)

2023-01-07 23:31:32 | 神社
鉾神社(ほこじんじゃ)。別名:鉾大明神。
場所:茨城県行方市小牧72。茨城県道185号線(繫昌潮来線)沿い「行方警察麻生東派出所」前から北へ約1.7km、右折して(南へ)約170mで旧「大和第一小学校」に入る。正門から入って直ぐのところに駐車スペースがある。北側の旧校舎の裏へ回り込んで、東へ約400~500m。ただし、小生が訪問したのはかなり前で、旧「大和第一小学校」(平成25年廃校)では、当時まだグラウンドでゲートボールをしている人たちがいたが、現在はどうなっているか分からない。なお、旧「大和第一小学校」入口から県道を更に北東へ約250m進んだところ(「行方市消防団第3分団第7部」車庫がある。)から非常に狭い道路(普通乗用車では無理。)があって、南西に向かって上って行くと旧「大和第一小学校」の裏に出るので、そこから東に進んでも行ける。
社伝によれば、創建は大同元年(806年)で、鹿島大神の鉾を祀る神社であるともいう(社宝に、古代鉾や大太刀があるとのこと。)。ただし、「常陸国風土記」(養老5年(721年)成立?)行方郡の条にある「田の里」というのが当地を含む古代「道田郷」に当たり、「(波耶武之野という)野の北の海辺に香島の神子の神社がある。」(現代語訳)という記述の「香島神子之社」(常陸国一宮「鹿島神宮」の分社)が当神社のことであるとされるので、創祀はもっと早い可能性がある。当地周辺は、中世には「小牧郷」と呼ばれるようになるが、元々は常陸国衙の金泥大般若経書写料所(経典を作成するための費用に充てられる地域)だったところ、保延5年(1139年)の太政官符によって「鹿島神宮」に日次御供料所(毎日の供物を賄う費用に充てられる地域)として寄進されている。古来、当地に「鹿島神宮」の主要摂社としての当神社が存在したことで小牧郷が「鹿島神宮」の神領となり、当神社の祭典の時は「鹿島神宮」から大禰宜が来て厳修したという。また、「小牧」という地名は、行政上は「コマキ」というが、地元では「コウマギ」と発音するといい、これは当地が「鹿島神宮」の神馬を飼育する牧場、即ち「神牧」だったことに由来すると考えられている。当神社や旧「大和第一小学校」敷地のある「小牧台」という台地は、古代「香取海」の一部だったと思われる北浦に向かって岬状に伸びており、かつては海辺にあって、放牧した馬を囲い込むのに適していたと思われる。明治7年、小牧・籠田など9ヵ村の村社となった。現在の祭神は、武甕槌命・大己貴命ほか。
因みに、茨城県鉾田市の市名は、同市内に鎮座する「鉾神社」に由来するとされるが、天正4年(1576年)に鉾田城主・田山東市正保胤が当神社から分霊を勧請して創建されたものなので、当神社の方が本社となる。
蛇足:社伝で当神社の創建を大同元年としていることについて、地元の郷土史家・箕輪徳二郎氏は次のように推定している。現・行方市小牧285(当神社の南西約600m(直線距離))に天台宗「普門寺」があり、その通称「鉾薬師堂」(堂本尊の薬師如来立像は榧(カヤ)材の一木造りで、平安時代後期作とされる。行方市指定文化財)は、元は「医王山 東光院 三光寺」といい、日向国(現・宮崎県)から来た智東上人が、霊験により、神泉が注ぐ池から神鉾をもって薬師如来像を掬い上げ、堂を建てて安置した。これが大同元年のこととする(大正14年に「長命山 明量院 普門寺」と合併して「普門寺」となった。)。この寺院が中世、当神社の別当であったために、その寺伝の創建年代をもって、当神社の創建としたのではないか、と。


写真1:森の奥に小さく、赤い鳥居が見える。長い参道は古社の雰囲気たっぷり。


写真2:「鉾神社」鳥居と社号標。説明板もある。


写真3:拝殿


写真4:本殿
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