神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

三光塚古墳

2016-11-26 23:52:36 | 古墳
三光塚古墳(さんこうづかこふん)。
場所:秋田県鹿角市尾去沢東在家40。秋田県道66号線(十二所花輪大湯線)から同191号線(根瀬尾去沢線)に入り南下、交差点から約1.6km。県道沿いにあり、標柱が立っている。駐車場なし。
旧・出羽国に属する現・山形県南部には所謂「古墳時代」の古墳、典型的には大型の「前方後円墳」と呼ばれる古墳も現存している(例えば「稲荷森古墳(山形県南陽市、2016年4月23日記事))が、現・秋田県側には見つかっていない。現・秋田県鹿角市は本来、旧・陸奥国域内であったので、出羽国域内ではないが、「三光塚古墳」は現・秋田県内で唯一、墳丘が現存する古墳であるということで、見に行った。
「三光塚古墳」は、直径10m程の円墳? で、ガラス玉などが出土したという記録はあるが、現存はしていないとのこと。史跡等には指定されておらず、詳しい調査もされていないようで、おそらく奈良~平安時代の墳墓であろうといわれている。現在は個人の墓地になっており、比較的新しい墓石も建てられている(因みに、現所有者の一族は近世まで修験者であったようだ。)。
なお、鹿角市では、十和田十和田錦木字枯草坂5-2というところに「枯草坂古墳」があり、土師器、勾玉、ガラス玉などが出土している。しかし、こちらは、現在は果樹園等になっており、墳丘も消滅しているらしい。出土物は東京国立博物館、秋田県立博物館(秋田県指定有形文化財(考古資料))などに収蔵されているとのこと。


「まるまる秋田」のHPから(三光塚古墳)


写真1:「三光塚古墳」。県道沿いに標柱が立っている(東側から)。


写真2:南側から。


写真3:北側から。


写真4:墳頂
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十和田神社(三湖物語 ・その2)

2016-11-19 23:01:41 | 神社
十和田神社(とわだじんじゃ)。
場所:青森県十和田市奥瀬字十和田14。国道108号線から所謂「休屋」地区に入り、中山半島(中山崎)の突端、「乙女の像」方面に向かう。観光駐車場(有料)の先、すぐ。
社伝によれば、大同2年(807年)、坂上田村麻呂将軍が東夷征討に際して一宇の堂を建立し、日本武尊を勧請して武運長久を祈願したという。 現在も祭神は日本武尊であるが、近世には「青龍大権現」、「熊野大権現」と呼ばれていたとされ、今も奥院に「十和田青龍大権現」を祀っているという。
さて、十和田湖は現・青森県十和田市と秋田県小坂町にまたがる湖で、江戸時代から郡境が不明確であったが、平成20年に青森県6:秋田県4の割合で県境が確定した。面積は61.11平方km(日本の湖沼では12番目)、最大深度は最大深度326.8m(同3番目)という湖だが、次のような伝説がある。即ち、現・秋田県鹿角市に生まれた八郎太郎という青年が巨大な竜に変身し、奥入瀬川を堰き止めてできたのが「十和田湖」である(「三湖物語(その1・八郎太郎生誕之地)」:2016年10月19日記事参照)。そして、八郎太郎は「十和田湖」の主となっていが、その棲み処を巡って南祖坊という修験僧と争うことになる。南祖坊(南蔵坊、南草坊、南光坊、安寿坊など、伝える場所により名も様々である。)は、現・青森県南部町に生まれ、幼少の頃から神童の誉れが高く、現・青森県八戸市の「七崎神社」(前身は「永福寺」という寺院で、「観音堂」とも呼ばれていたとのこと。)で修行した後、紀伊国(現・和歌山県)「熊野三山」で修験僧になった。そこで、「草鞋の切れたところが終の棲家となる。」との神託と鉄の草鞋を授かった。諸国を巡るうち、「十和田湖」に至り、草鞋が切れた。こうして、先住者の八郎太郎と南祖坊の戦いが始まり、7日7晩続いたが、南祖坊が唱える法華経の文字が剣となって八郎太郎を切り付け、ついに南祖坊が勝者となった。八郎太郎は「十和田湖」を去り、南祖坊は入水して竜に変身し青龍大権現となった、という。


玄松子さんのHPから(十和田神社)

青森県神社庁のHPから(十和田神社)

十和田湖国立公園協会のHPから(十和田神社)


写真1:発荷峠から見る「十和田湖」


写真2:「十和田神社」境内入口の鳥居と社号標


写真3:同上、社殿


写真4:同上、境内社の「熊野神社」


写真5:同上、社殿の裏手には巨岩が多く、石祠も祀られている。


写真6:同上、境内社(祭神不明)。


写真7:同上、境内社(祭神不明)。湖の崖上にあり、これが「奥院」だろうか? なお、崖下に「占い場」と呼ばれる場所があり、南祖坊が入水した場所とされる。


写真8:十和田湖に向かう秋田県道2号線(大館十和田線、通称:樹海ライン)沿いにある「十和田山青龍大権現碑」。これより先が聖域であるとの印として建てられたものという。
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黒又山

2016-11-12 23:56:22 | 伝説の地
黒又山(くろまたやま)。
場所:秋田県鹿角市十和田大湯字宮ノ平82(本宮神社の住所)。「大湯ストーンサークル館」前から秋田県道66号線(十二所花輪大湯線)を北東へ約1.2km、「佐藤酒店」の角を右折(南東へ)、約300m進んだところで左折(北東へ)、約150m。駐車場なし。
「黒又山」は、「大湯環状列石」(前項)の北東、約2km(直線距離)のところにある標高280mの山。姿がきれいな三角形に見えることから、人工の山、「ピラミッド」ではないかともいわれている。地元では「クロマンタ」とも呼ばれており、アイヌ語で「神の山」という意味だという説もある。また、階段状の石組構造があるとか、山頂部の地下に空洞があるとか、山頂部にはかつて石造の神殿があって現在もその破片である石が散らばっているとか・・・という「調査結果」もあるらしいが・・・。まあ、人工の「ピラミッド」説はともかく、「大湯環状列石」にすぐ近く、その太陽信仰の祭祀において、「黒又山」も関連していたということはかなり有力説らしい。
因みに、山頂には「本宮神社」が鎮座しており、社伝によれば、万治2年(1659年)、中通四ヵ村一同が大己貴命を祭神とする神社を建立したとされる。また、別伝では、平安時代中期の武将・安倍貞任の一門である本宮徳次郎が、薬師堂を建立したのが創祀とされる。本宮神社と呼ばれるようになったのは明治以降で、いったん旧・大湯町の「神明社」に合併されたが、昭和27年に分祀、独立したとのこと。


秋田県神社庁のHPから(本宮神社)


写真1:「黒又山」。確かに、きれいなピラミッド形。


写真2:「本宮神社」鳥居。ここが「黒又山」の登り口。


写真3:山頂の「本宮神社」社殿。


写真4:社殿前のズームアップ。散らばっている石が石像神殿の破片?

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大湯環状列石

2016-11-05 23:47:45 | 史跡・文化財
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)。
場所:秋田県鹿角市十和田大湯字万座45(「大湯ストーンサークル館」の住所)。国道103号線「腰廻」交差点から南東に約1.6km、秋田県道66号線(十二所花輪大湯線)との交差点を南に進み、すぐ。駐車場有り。
「大湯環状列石」は、縄文時代後期(約4,000年前?)の大規模な二重円形(環状)の配石遺跡(ストーン・サークル)で、国の特別史跡に指定されている。「野中堂遺跡」と「万座遺跡」があり、どちらも内帯・外帯と呼ばれる帯状に列石が配置されていて、前者の直径は約44m、後者は約52m(日本最大)となっている。どちらも、内帯と外帯の間、中央部からみて北西側に、立石を中心とした「日時計状組石」が置かれている。さらに、環状列石を取り囲むように掘立柱建物や土坑などがあったとされ、多くの土器なども出土している。この環状列石の性格については諸説あったが、発掘調査の結果からみて、集団墓(共同墓地)であろうとされ、周囲の掘立柱建物は葬礼のための祭祀施設だったのだろうと考えられているという。なお、「日時計状組石」中心部から環状列石中央部と結ぶ線上に夏至の日の太陽が沈むとされ、太陽信仰もあったのではないかとみられているらしい。ともあれ、使われた石は7,200個以上といわれ、その殆どが石英閃緑ひん岩という緑色をしたきれいな石で、約7~8km離れた安久谷川から運んできたものらしいという。最大の石は重さ約200kgとのことで、相当な労力をつぎ込んだことがわかる。こうしたことから、一部に神秘的なパワー・スポットと考える向きがあることも理解できる。
因みに、当遺跡のほかにも(規模は小さいものの)近隣に同様な遺跡のあることがわかっており、少し距離は離れるが、秋田県北秋田市には「伊勢堂岱遺跡」(国指定史跡)があり、こちらは4つの環状列石が発見されている(史跡公園として整備するため平成28年4月まで非公開だったので、見に行けなかった。)。


「大湯ストーンサークル館」のHP

北秋田市のHPから(国指定史跡伊勢堂岱遺跡)

写真1:「大湯環状列石」。万座遺跡。


写真2:同上


写真3:同上


写真4:同上、日時計状組石


写真5:同上、列石中央部


写真6:野中堂遺跡。列石中央部と日時計状組石


写真7:同上、日時計状組石


写真7:同上。奥に小さく見える屋根が万座遺跡の掘立柱建物(復元)のもの
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