神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

総社神社(秋田県秋田市)

2015-09-26 23:02:32 | 神社
総社神社(そうしゃじんじゃ)。
場所:秋田県秋田市川尻総社町14-6。国道13号線「若葉町」交差点から北東に約680m進み、左折(北へ)して直ぐ。駐車場あり。
社伝によれば、現・秋田市の「千秋公園」(旧・久保田城)の丘は、元は大嶽山・小嶽山・光明山という3つの頂があったことから「三森山」または「三嶽山」と呼ばれていた。神亀元年(724年)のある夜半に真昼のように明るい神光が飛来し、「我は大己貴神である。当地に神社を建立して祀れば、国中安泰・諸人守護・五穀豊穣をもたらすであろう。」との神託があった。そこで、村人が社殿を建立し、影向の時に天降りした磐座を納めて祀ったというのが、当神社の創建であるとする。そして、第一峯に大己貴神・八重事代主神・味鋤高彦根神を祀る「総社宮」、第二峯に天照皇大神・豊受比売大神を祀る「神明宮」、第三峯に別宮攝末社として八幡大神などを祀る19社があったとされ、これらを総称して「三嶽山総社大明神」と呼ばれていたという。慶長7年(1602年)に佐竹氏が常陸から秋田に移封された際、「三森山」に居城を造営することとなり、当神社はいったん現・秋田市楢山川口境に仮遷座したが、湿地帯であったことから、宝永4年(1707年)に現在地に遷座した。社地を譲ってもらったためか、佐竹氏の崇敬が篤く、大いに栄え、明治時代には県社に指定された。
さて、出羽国の「総社」として当神社を紹介しているケースがあるが、一般的な意味での「総社」(国司の重要な任務である官社の巡拝を省略するため、国府の近くに設けた神社で、そこに詣でれば全ての神社に詣でたことにする、というもの)ではない。「総社」が生まれたのは律令制が緩んでくる平安時代で、当時、出羽国府は現・山形県の庄内地方(おそらく「城輪柵跡」)にあったと考えられる。また、「三森山」も、現在では秋田市の中心市街地であるが、佐竹氏が入封するまで周囲は湿地帯で、水田はあったかもしれないが、国司が巡拝するような場所ではなかったと思われる。当神社も「出羽国総社」であるとはしておらず、おそらく、主要な神々を多数祀っているという意味での「総社」であるということだろう。


総社神社のHP

秋田県神社庁のHPから(総社神社)


写真1:「総社神社」正面鳥居と社号標。神明鳥居からもわかるように、現在の主祭神は天照皇大神となっている。


写真2:かなり広い境内


写真3:社殿


写真4:同上


写真5:神社と関係ないが、近くに珍しいものが。(境内の北西端の向かい側)


写真5:同上(拡大)。普通「石敢當」というが、ここのは「散當石」となっている。「石敢當」は、秋田市内では楢山地区に多いが、当神社の前鎮座地が楢山だったことに関係があるのだろうか(遷座の際、氏子を引き連れてきた?)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝平神社(秋田県秋田市保戸野鉄砲町)

2015-09-19 23:10:20 | 神社
勝平神社(かつひらじんじゃ)。
場所:秋田市保戸野鉄砲町4-28。秋田県道56号線(秋田天王線、通称:新国道)「鉄砲町」交差点から東に入って直ぐのところに一の鳥居がある。そこから1区画分の参道の先、狭い道路を挟んで二の鳥居・社殿がある。駐車場無し。
社伝によれば、創建は大同2年(807年)、坂上田村麻呂将軍が東夷征討の折、「勝平山」(標高50m)に陣を置き、陣中守護のため武甕槌神を勧請したという。秋田県神社庁のHPなどには記載がないが、社頭の説明板には、「古くは、齶田浦神とも称したという。」とある。これは当然、「日本書紀」斉明天皇4年条の記事を踏まえてのことと思われる(「古四王神社」の項:2015年8月15日記事参照)。康平年間(1058~1064年)、陸奥守・鎮守府将軍であった源頼義が、軍神として京都・「鞍馬山 鞍馬寺」の毘沙門天を勧請して「勝平山」の西砂山に再建した。近世には「毘沙門山」(現・秋田市「八橋運動公園」内、「日吉八幡神社」の南側辺り)にあって「勝平明神」・「毘沙門天」と呼ばれて信仰を集めたが、明治19年の大火(通称「俵屋火事」)で焼失。「秋葉神社」と合祀して「珍宝神社」と改称し、明治20年に「秋葉神社」の社地に遷座して、明治25年に現在の「勝平神社」に改めたという。なお、「秋田県神社庁」発足時(昭和21年)の庁舎は当神社内に置かれた。
さて、「勝平山」山頂には当神社の奥宮がある。勝平地区は旧・雄物川河口の左岸(西岸)で、右岸(東岸)の土崎湊と向かい合って、「勝平浦」という港であったともいわれている。土崎湊と合わせて「齶田浦」と称した可能性はあるが、「秋田城」に地続きで隣接する土崎湊に比べると、国土開発という面では遅れを取っていたと思われる。ただし、日本海を往来する船からすれば、「勝平山」は格好の目標であったのではないかとも思われ、相応の信仰があったとも考えられる。


秋田県神社庁のHPから(勝平神社)


写真1:「勝平神社」一の鳥居。バス通りに面している。


写真2:参道脇の「秋葉神社旧社殿跡」の石碑


写真3:参道を通って、いったん狭い公道に出ると、社殿前。


写真4:「勝平山」。秋田県庁・市役所前の大通りを西へ向い、秋田運河(旧・雄物川)を越えた正面。


写真5:秋田運河。秋田市土崎方面(北)を見る。左側が「勝平山」。


写真6:「勝平山」山頂にある「勝平神社 奥宮」(場所:秋田県秋田市新屋町砂奴寄。ゴルフ場「秋田カントリークラブ」の駐車場の南端)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両津八幡神社

2015-09-12 23:21:10 | 神社
両津八幡神社(りょうつはちまんじんじゃ)。
場所:秋田県秋田市寺内大畑2。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)して約900mのところの右側(北東側)に社号標があり、そこから狭い道に入った突き当たり。駐車場なし。
社伝によれば、宝亀11年(780年)に鎮守府将軍・大津駿河麿が東夷征伐のため下向して戦功を上げ、帰洛の後、天応元年(781年)に「宇佐八幡宮」(豊前国一宮「宇佐神宮」)の神託によって諸国に八幡宮を建立したうちの1つとされる。また、一説によれば、陸奥出羽按察使・藤原小黒麻呂が勧請し、延暦年中(782~806年)に安倍黒縄が再興したともいう。祭神は、誉田別命。元は、現在「秋田県護国神社」のある場所(=「秋田城」の政庁跡付近)に鎮座していたとされ、近世まで境内も広く、大きな神社であったらしい。現・秋田市外旭川に「八幡田」という地名が残っているが、これは当神社の神領であったのが由来とされる。中世、当地を支配した安東氏以来、武人の神として代々崇敬されたものとみられる。なお、「両津」は、「土崎湊」(現・秋田市土崎)と「勝平浦」(現・秋田市新屋)という2つの港(国府津?)を指すという説もある(ただし、元々は「両都」としていたのを、明治時代初め、国道7号線開削した際に「両津」に改めたともされている。)。
伝承の創建時期については、なかなか信じ難いところもあるが、八幡神を勧請する前から地主神があって、後に習合したともいわれており、ひょっとすると、当神社こそ「日本書紀」の「齶田浦神」、あるいは「日本三代実録」の「高泉神」という式外社の後身かもしれない。


秋田県神社庁のHPから(両津八幡神社)


写真1:「両津八幡神社」参道入口。旧国道沿いに社号標がある(が、うっかりすると通り過ぎてしまう。)。


写真2:同上、鳥居


写真3:同上、社殿


写真4:「秋田県護国神社」。当神社の背後、「秋田城」の政庁跡の北側に鎮座。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空素沼神社

2015-09-05 23:07:55 | 神社
空素沼神社(からすぬまじんじゃ)。
場所:秋田県秋田市寺内高野2-17。旧国道(7号線)沿い、「古四王神社」の西端から北東へ約600m進むと白塗りの鳥居がある。社殿は、そこから北~北西に約150m。駐車場なし。
当地には元々「狼沢」という小沢と田地があったが、元禄元年(1688年)、一夜にして大沼になってしまった。その沼の形がカラス(烏)が羽を広げたように見えることから「空素沼」と呼ぶようになったという。あるいは、行ったものが帰って来ないということで「帰らずの沼」が訛ったものともいう。出羽久保田藩第9代佐竹義和公(1775~1815年)のとき大旱魃があり、当時有徳とされた「亀像山 補陀寺」の徳善、「正法山 長谷寺(通称:赤田の大仏)」の是山、「万国山 天徳寺」の義産を招いて雨乞い修法を行ったところ忽ち霊験があり、「空素沼」南岸に神社を建立して龍神を祀った。これが当神社の創建とされる。現在の祭神は高龗神(タカオカミ)。
ただし、「秋田県史」では、「日本三代実録」貞観7年(865年)条の「出羽国高泉神に従五位下を授与する」記事にいう「高泉神(たかしみずのかみ)」を当神社のことと推定している。「秋田城跡」付近では「高清水霊泉」など多くの泉があるが、「狼沢」=「大神沢」というのが1つの根拠とみられる。ただ、「狼沢」の読み方は「オホイヌサワ」で、付会の感が否めない。また、本来は「生稲沢(おいねさわ)」であるという説もある。こうしたことから、「高泉神」が秋田・高清水岡の泉を祀った自然神であったとしても、それを当神社に当てるのは無理があるように思われる。


秋田県神社庁のHPから(空素沼神社)


写真1:旧国道(7号線)沿い、「護国神社前」バス停付近にある「空素沼神社」の鳥居と石碑。後ろの建物は民家で、社殿はここから北東に約700mのところにある。


写真2:社殿への参道入口の鳥居。「空素沼神社」の扁額が掛けられている。


写真3:社殿前の鳥居と社号標


写真4:社殿


写真5:境内の題目碑。天満宮天神と空素沼龍神の名も見え、雨乞いの神だったことがわかる。


写真6:同じく境内の「小野小町塚」の碑。昭和18年に「おばこ川柳会」がおばこの代表として小野小町を選び、建立したものというが、何故ここに?


写真7:「空素沼」。確かに神秘的な感じがある。標高約30mほどで、丘(高清水岡)の中段辺りにある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする