神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

駿河の古代東海道(その8・息津駅)

2011-07-29 23:57:55 | 古道
古代東海道は、駿河国府最寄の「横田駅」から東北に真っ直ぐ進み、次の駅家は「息津(おきつ)駅」となる。「清見寺」の西側辺りから山が海に迫っており、この付近からは古代も近世もほとんど変わらないルートだったとみられる。「清見寺」(あるいは「清見関」)の東側に近世の興津宿(現・静岡市清水区興津中町)があり、「おきつ」の遺称地となっている。
ただし、遺跡等は発見されていないので、当時の「息津駅」は横砂辺りにあったのではないか、という説もある。確かに、①近世興津宿付近は平地が少なく、駅家を維持するための物資・飼料等の調達が不便だったのではないか、②蝦夷の侵入を防ぐための「清見関」の東側に駅家を設置するのは防御上どうか、③中世の浄見長者の屋敷が横砂にあり、この付近に「息津駅」があったのではないか、などを考えると、それなりの説得力もあるように思われる。
通説としては、古代「息津駅」は近世興津宿付近にあり、より具体的には、東海道と身延道の分岐点付近とする(木下良氏ほか)。身延道は、日蓮宗総本山である「身延山 久遠寺」を結ぶ道としてその名があるが、「久遠寺」創建以前から既に、この道は駿河と甲斐・信濃を結ぶ重要な道であった。戦国時代、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻してきたのも、この道によった。現在の通称「身延街道」(国道52号線)は旧道より東側にあるが、旧道の入口は「しずおか信用金庫興津支店」(静岡市清水区興津中町274)の角のところである。現在では、「身延山道」と刻された石碑や大きな題目石が纏めて置かれている(写真)が、かつてはここに小さな仏堂があったという。この付近を「息津駅」と推定するのは、①駅家は重要な道路の分岐点付近に設置されることが多いこと、②古代東海道は、この分岐点付近からいったん北上し、東名高速道路と交差する付近で右折(東へ)し、直進して興津川を渡河したのではないかとみられること、③「横田駅」推定地から約15.6kmで、30里(約16km)間隔の原則に合致すること、④貞応2年(1223年)成立とされる紀行文「海道記」は、西から「清見関」→「興津の浦」→「岫が崎(くきがさき)」(薩埵峠の下の海岸)の順に書かれており、やや時代は下るが、「興津」という地名が「清見関」の東にあるとしていること等による。


写真:身延道追分(分岐)付近。「息津」駅家があった?


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巨鼇山 清見興国禅寺

2011-07-26 22:01:07 | 寺院
巨鼇山 清見興国禅寺(こごうさん せいけんこうこくぜんじ)。
場所:静岡市清水区興津清見寺町418-1。国道1号線「清見寺」交差点の西、約200m。駐車場あり。
寺伝によれば、浄御原天皇(天武天皇)の創建。大和国・竜田山、丹後国・大坂山の関の設置(天武天皇8年(679年))と同時に、駿河国廬原郡に清見関が設置され、その守護のための仏堂として創建されたという。室町時代の連歌師・宗祇の「名所方角抄」にも、天武天皇代に創建されたとの寺伝が記録されている。こうしたことから、今も、大方丈(客殿)の正面、須弥壇の観音像の傍らに「天武天皇尊儀」(尊儀は貴人の位牌のこと。)が安置されているという。
しかし、律令制の崩壊に従い、「清見関」の衰退に伴って当寺も荒廃していった。ようやく、弘長元年(1261年)、聖一国師の法嗣関聖明元によって臨済宗寺院として再興されることになった。そして、足利尊氏は、康永年間(1342~1345年)に七堂伽藍を造営して寺名を「巨鼇山 清見興国禅寺」と改めた。山号は「清見寺山」を大きな亀の姿に見立てたものだが、鎌倉の「建長寺」は正式には「巨福山 建長興国禅寺」というので、これに因んだものともされる。その後、足利第2代将軍義詮は当寺を「十刹」に列し、第3代義満は至徳3年(1386年)に「十刹」を全国と関東に分けて、当寺を全国十刹の第7位に列した。こうして五山派の官寺となったため、住持の任免が幕府によって行われ、京都・鎌倉から高僧が輪番で来ていたという。今川氏も、足利氏の一門であることから、当寺を篤く保護したが、戦国時代には要害の地であったため戦乱に巻き込まれ、再び荒廃した。
今川義元の軍師でもあった太原崇孚(雪斎)禅師が復興に努め、臨済宗妙心寺派の寺院としての「清見寺」第1世とされている。太原禅師は、駿府・「臨済寺」(静岡市葵区大岩町)の住持も務め、このとき竹千代と名乗っていた幼少時の徳川家康公に学問の手ほどきをしたともいわれている。そのせいか、江戸時代になると、徳川幕府の庇護を受けるようになった。仏殿の本尊・釈迦牟尼仏と大方丈の大玄関は、家康公の三女静照院からの寄進であるという。なお、かつては多数の塔中があったといわれるが、今では本坊(「求玉院」)のみとなっている。

参考文献:市毛弘子著「巨鼇山清見興国禅寺の歴史」(昭和49年7月)


巨鼇山 清見興国禅寺のHP


写真1:「清見寺」総門。扁額の「東海名区」は朝鮮通信使によるもので、「日本の名所」という意味。


写真2:総門の後ろにJR東海道本線が通り、境内を横切る形になっている。


写真3:仏殿。本尊は釈迦如来。


写真4:大方丈
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駿河国の古代東海道(その7・清見関跡)

2011-07-22 22:12:16 | 史跡・文化財
清見関跡(きよみがせきあと)。
場所:静岡市清水区興津清見寺町。「清見寺」駐車場の東端付近。
静清平野を一直線に横切ってきた古代東海道も旧・興津町(現・静岡市清水区興津)に入ると、「清見寺山」に突き当たる。現在でも、東海道新幹線と東名高速道路はトンネルで越えている。「清見寺」前は広大な埋立地となっているので、今では「清見寺山」が海岸線に突き出しているというようには見えないが、峻険な山が迫った狭い海岸を利用して、かつてはここに「清見関」という関所があった。
国道1号線の旧道沿いに明治の元老・西園寺公望公爵の別荘「坐漁荘」(写真1)があるが、明治時代でも、その庭先が海岸線だった。今では清見潟公園という細長い公園(東西に約5kmもあるらしい。)となっているところに、万葉歌碑もある。石碑は原文が刻されているが、「盧原の 清見の崎の 三保の浦の 寛(ゆた)けき見つつ もの念(おも)ひもなし」=「盧原にある清見崎の三保浦の広々とゆったりした海を見ながら、私は何の物思いもない」。これは、田口益人が和銅元年(708年)、上野国の国司に任じられて任地に赴く際に作った歌とされる。冒頭に地名を3つ並べて「の」で繋ぐという、とても名歌とは思えないが、駿河湾のゆったりとした感じは伝わってくる。少なくとも、奈良時代初期には「清見崎」という地名があり、しかも、眺めが良い名所であったことがわかる。
さて、「清見寺」の寺伝によれば、「清見関」の創建は天武天皇の時代(在位:673~686年)。東北の蝦夷の侵入を防ぐために設置されたという。後代になるが、菅原孝標女が、寛元4年(1020年)に父の上総国司の任期が終わり帰京するところから記した「更級日記」に「清見関」の様子が描かれている。即ち、「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり」。関所の建物が建ち並び、陸地から海まで柵が設置してあったというのである(「くぎぬき」というのは、柱を立てて横木を渡すこと)。因みに、「清見寺」書院の欄間に不思議な形の木板が使われている(写真4)が、これは、「清見関」の「くぎぬき」の木柱をスライスしたものという。
現在、国道1号線(旧道)沿い、「清見寺」駐車場の端に、「清見関跡」の木碑と礎石とされる石が置かれているが、正確にここにあったというわけではない。中世以降、律令制の崩壊によって維持管理が困難になったことと、東国が安定し関所の必要性が薄れたことから廃れたと考えられている。


写真1:「坐漁荘」(復元)。場所:静岡市清水区興津清見寺町115。


写真2:清水清見潟公園の「万葉歌碑」。「清見寺」駐車場前の丁字路交差点を南に約90m。「津島神社」の向かい側辺り。


写真3:「清見関跡」碑


写真4:「清見寺」書院の欄間
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尾羽廃寺跡

2011-07-19 23:02:12 | 史跡・文化財
尾羽廃寺跡(おばねはいじあと)。
場所:静岡市清水区尾羽。国道1号線の「尾羽」交差点の北側を中心とする地区。駐車場なし。
「尾羽廃寺跡」は、7世紀後半頃、いわゆる白鳳時代の寺院跡で、金堂や講堂の遺構が発見された。寺号が伝えられていないため、地名をとって「尾羽廃寺跡」と通称される。ただし、今、現地に行っても案内板も何もない。現在、尾羽公会堂が建っている辺りが金堂跡とされ、創建期の金堂の規模は東西18.6m、南北14.6mとされている。「創建期の・・・」というのは、平安時代に建て直された形跡があったからである。また、塔跡は未検出だが、石造の露盤が発見されている。露盤というのは、仏塔の相輪の基部にある方形の盤で、錘の役目をしたと思われる。発見された石造露盤(写真2)は、ほぼ正方形(100×97cm、厚さ30cm)で、中央に約38cmの孔が明けてあり、上面には傾斜が付けてある。現在は、「静岡市埋蔵文化財センター」に展示されている。
「尾羽廃寺」がどのような成り立ちの寺院であったかは不明だが、その位置から、廬原国造と何らかの関連があったことは当然想定される。即ち、「尾羽廃寺跡」から南に進むと、「若宮八幡宮」があり、更にその先に式内社「久佐奈岐神社」(通称「東久佐奈岐神社」。2010年9月28日記事)がある。これらは単に近くにあるというだけではなく、一本の道でつながっているようにみえる。また、付近に重要な古墳が多いのも特徴で、「三池平古墳」(2010年10月1日記事)のほか、「午王堂山古墳群」(東名高速道路「清水」IC付近)や「神明山古墳群」(国道1号線「庵原」交差点の東側、「神明宮」境内)などがある。したがって、廬原氏の氏寺であった可能性が高いが、古代東海道に面していたとすれば、旅行者を援助する「布施屋」を兼ねていたのかもしれない。
もともと駿河国は7世紀に珠流河国造と廬原国造の領域を合わせて立てられ、後に国府は安倍郡に置かれたが、かつては「廬原」が西駿河の中心であった時期が存在したと思われる。また、「廬原郡」が置かれたが、「廬原郡家」の所在地は不明である。おそらく、草ヶ谷、尾羽、横砂辺りのいずれかにあったと思われる。あるいは、草ヶ谷から横砂にかけて、式内社「久佐奈岐神社」、「廬原郡家」、「尾羽廃寺」(廬原氏の氏寺?)など(ひょっとしたら「息津」駅家も)の官衙関連施設が建ち並んでいたかもしれない。
ところで、「尾羽廃寺」の石造露盤が展示されている「静岡市埋蔵文化財センター」(写真3)だが、ここは元は明治の元老、井上馨公爵の別荘「長者荘」本館があった場所である。「長者荘」というのは、更にその昔(中世)には、ここに「浄見長者」(「清見長者」、「横砂長者」ともいう。)の屋敷があったため、そう呼ばれたものである。「浄見長者」は廬原国造家の流れを汲む庵原氏という豪族で、後に今川氏傘下に入り、今川氏の滅亡により一族離散したとされる。しかし、盛時の権勢は大したものだったらしい。横砂の東の縁を流れる波多打川の西側に、かつて米糠山(こぬかやま)という小さな山があったという(今はない。)が、この小山は長者屋敷が毎日捨てる米糠が積もり積もってできたのだという伝説がある。つまり、その頃から、長者は精米された白米を大量に消費していたということであり、その贅沢な暮らしぶりが窺われる。

参考文献:「尾羽廃寺跡の研究」大川敬夫(2008年1月)


静岡市埋蔵文化財センター(場所:静岡市清水区横砂東町33-2、駐車場あり)。
静岡市のHPから(静岡市埋蔵文化財センター)


写真1:国道1号線「尾羽」交差点付近(奥が北側)。国道を越えて南側まで寺域があったとされる。交差点から北に狭い道を少し入ったところに金堂の遺構等が発掘された。


写真2:石造露盤


写真3:静岡市埋蔵文化財センター。元の「長者荘」は敷地が約5万坪あったという。
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矢倉神社(静岡市清水区矢倉町)

2011-07-15 23:00:52 | 神社
矢倉神社(やぐらじんじゃ)。
場所:静岡市清水区矢倉町5-7。清水東高校の東、約300m。駐車場なし。
社伝によれば、創建は、仲哀天皇の時代(在位:192~200年)に廬原国造の意加部彦命(オカベヒコ)が日本武尊と景行天皇を祀ったことによるという。当地は日本武尊が東征の際、軍営を布き兵站部や武器庫を置いた旧跡であるという。
古代の伝路とも考えられる「北街道」は、駿河国府や安倍郡家との連絡路でもあって、中世には東海道となった。現在でも県道67号線(静岡清水線)の主要部分を占めているが、県道としては、「天王町」交差点から東南方向に向かい、途中で国道1号線(現・東海道)と合流し、正面はJR「清水」駅となる。旧「北街道」は東に直進して「秋葉山 秋葉寺」の前を通り、五差路(通称「矢倉の辻」)に至る。前項で書いたように、古代東海道(駅路)は現在の東海道新幹線ルートに近いところを通っていたと考えられるので、「矢倉の辻」付近で、古代東海道と北街道が交わっていた(あるいは、ここで分岐した)と思われる。
古代、安倍郡と有度郡の郡境は古代東海道であって、北側が安倍郡、南側が有度郡であった。東側は廬原郡になるのだが、一般に、安倍郡と廬原郡の郡境は長尾川、有度郡と廬原郡の郡境は巴川であったと考えられている。一説によれば、有度郡と廬原郡の郡境は愛染川だったともいう(多分、出典は「駿国雑志」だったと思う。)が、川筋も変わるし、はっきりとはわからない。ただ、巴川が郡境なら当神社は廬原郡にあったといえるが、愛染川が郡境なら有度郡にあったことになる。いずれにせよ、郡境付近にあったわけで、社伝にいうように日本武尊と関係があったかは疑問だが、当神社付近に軍団が置かれて駿河国府の東の守りを固めていたのかもしれない。軍団が郡家(郡司)の指揮下にあったかどうかについては論争があるようだが、国府の西を安倍軍団が、横田駅家付近を有度軍団が、国府の東を廬原軍団が守っていたと考えるとぴったりするような気がする。


静岡県神社庁のHPから(矢倉神社)


写真1:「矢倉神社」入口の鳥居


写真2:社殿


写真3:社殿横の日本武尊の石像。式内社「焼津神社」の日本武尊像とそっくり。


写真4:ご神木のクスノキ




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