古代東海道は、駿河国府最寄の「横田駅」から東北に真っ直ぐ進み、次の駅家は「息津(おきつ)駅」となる。「清見寺」の西側辺りから山が海に迫っており、この付近からは古代も近世もほとんど変わらないルートだったとみられる。「清見寺」(あるいは「清見関」)の東側に近世の興津宿(現・静岡市清水区興津中町)があり、「おきつ」の遺称地となっている。
ただし、遺跡等は発見されていないので、当時の「息津駅」は横砂辺りにあったのではないか、という説もある。確かに、①近世興津宿付近は平地が少なく、駅家を維持するための物資・飼料等の調達が不便だったのではないか、②蝦夷の侵入を防ぐための「清見関」の東側に駅家を設置するのは防御上どうか、③中世の浄見長者の屋敷が横砂にあり、この付近に「息津駅」があったのではないか、などを考えると、それなりの説得力もあるように思われる。
通説としては、古代「息津駅」は近世興津宿付近にあり、より具体的には、東海道と身延道の分岐点付近とする(木下良氏ほか)。身延道は、日蓮宗総本山である「身延山 久遠寺」を結ぶ道としてその名があるが、「久遠寺」創建以前から既に、この道は駿河と甲斐・信濃を結ぶ重要な道であった。戦国時代、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻してきたのも、この道によった。現在の通称「身延街道」(国道52号線)は旧道より東側にあるが、旧道の入口は「しずおか信用金庫興津支店」(静岡市清水区興津中町274)の角のところである。現在では、「身延山道」と刻された石碑や大きな題目石が纏めて置かれている(写真)が、かつてはここに小さな仏堂があったという。この付近を「息津駅」と推定するのは、①駅家は重要な道路の分岐点付近に設置されることが多いこと、②古代東海道は、この分岐点付近からいったん北上し、東名高速道路と交差する付近で右折(東へ)し、直進して興津川を渡河したのではないかとみられること、③「横田駅」推定地から約15.6kmで、30里(約16km)間隔の原則に合致すること、④貞応2年(1223年)成立とされる紀行文「海道記」は、西から「清見関」→「興津の浦」→「岫が崎(くきがさき)」(薩埵峠の下の海岸)の順に書かれており、やや時代は下るが、「興津」という地名が「清見関」の東にあるとしていること等による。
写真:身延道追分(分岐)付近。「息津」駅家があった?
ただし、遺跡等は発見されていないので、当時の「息津駅」は横砂辺りにあったのではないか、という説もある。確かに、①近世興津宿付近は平地が少なく、駅家を維持するための物資・飼料等の調達が不便だったのではないか、②蝦夷の侵入を防ぐための「清見関」の東側に駅家を設置するのは防御上どうか、③中世の浄見長者の屋敷が横砂にあり、この付近に「息津駅」があったのではないか、などを考えると、それなりの説得力もあるように思われる。
通説としては、古代「息津駅」は近世興津宿付近にあり、より具体的には、東海道と身延道の分岐点付近とする(木下良氏ほか)。身延道は、日蓮宗総本山である「身延山 久遠寺」を結ぶ道としてその名があるが、「久遠寺」創建以前から既に、この道は駿河と甲斐・信濃を結ぶ重要な道であった。戦国時代、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻してきたのも、この道によった。現在の通称「身延街道」(国道52号線)は旧道より東側にあるが、旧道の入口は「しずおか信用金庫興津支店」(静岡市清水区興津中町274)の角のところである。現在では、「身延山道」と刻された石碑や大きな題目石が纏めて置かれている(写真)が、かつてはここに小さな仏堂があったという。この付近を「息津駅」と推定するのは、①駅家は重要な道路の分岐点付近に設置されることが多いこと、②古代東海道は、この分岐点付近からいったん北上し、東名高速道路と交差する付近で右折(東へ)し、直進して興津川を渡河したのではないかとみられること、③「横田駅」推定地から約15.6kmで、30里(約16km)間隔の原則に合致すること、④貞応2年(1223年)成立とされる紀行文「海道記」は、西から「清見関」→「興津の浦」→「岫が崎(くきがさき)」(薩埵峠の下の海岸)の順に書かれており、やや時代は下るが、「興津」という地名が「清見関」の東にあるとしていること等による。
写真:身延道追分(分岐)付近。「息津」駅家があった?