神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

車塚古墳(茨城県大洗町)

2018-06-30 23:49:40 | 古墳
車塚古墳(くるまつかこふん)。
場所:茨城県東茨城郡大洗町磯浜町2883-1。茨城県道2号線(水戸鉾田佐原線)「大洗駅前」交差点から東に約300mのところで右折(南へ)、狭い道路を道なりに約200m。駐車場なし。古墳の前の道路も狭く、できれば徒歩で。臨海大洗鹿島線「大洗」駅から約1km。
「車塚古墳」は、大洗港(太平洋)の北西側の台地にある「磯浜古墳群」の1つで、平成23年の範囲確認調査によれば、径約88m、高さ約13mの円墳であり、幅約18.5mの周溝を含めると径約120mに及ぶという大型のものである(茨城県内では最大の円墳)。墳丘は中段・下段に平坦面がある3段築成で、全斜面が拳大の葺石で葺かれ、墳頂の縁や中・下段の平坦部に壺型埴輪が置かれていた、という。埴輪の形式などから、築造時期は古墳時代中期初頭(5世紀前後?)とされる。
因みに、「車塚」という名の古墳は各地にあり、形状が貴人の乗る車に似ていることから来ているようだ。また、かつては「大宮司山」、「お富士山」とも呼ばれていたという。「大宮司山」というのは、この古墳の麓に「大洗磯前神社」(2018年5月19日記事)の宮司(大塚氏)の屋敷があったことによる。また、「お富士山」というのは、元は墳頂に「諏訪神社」が祀られていたが、その後は「富士権現社」(浅間神社)が祀られるようになったことによるものらしい。


大洗町のHPから(車塚古墳)


写真1:「車塚古墳」。「史蹟 車塚」の石碑と鳥居(北東側から)。茨城県指定史跡。なお、道路を隔てた反対側(東側)に前方後円墳「姫塚古墳」がある。


写真2:北西側から見る。段になっているのがわかる。


写真3:墳頂の石祠。「富士権現社」(浅間神社)と思われる。


写真4:墳頂からの景色。大きな木で視界が悪いが、東~南には太平洋。


写真5:西を見ると、多分「筑波山」だろう。


写真6:南東側から。


写真7:南側から。


写真8;南西側から。このように、周囲は民家に囲まれている。
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十五郎穴

2018-06-23 23:40:45 | 史跡・文化財
十五郎穴(じゅうごろうあな)。十五郎穴横穴墓群。
場所:茨城県ひたちなか市中根3490ほか。「虎塚古墳」(前項)の南、約250m(徒歩約5分)。
「十五郎穴(横穴墓群)」は、本郷川右(西)岸の台地の崖(凝灰岩)に掘られた横穴墓が群集しているもので、3つの支群に分かれているが、合わせると300基以上の横穴墓があるとされている。造られたのは古墳時代末期~奈良時代に亘るという。構造は古墳の横穴式石室に似ており、発祥は5世紀後半の九州北部地方にあるとされるが、現存しているものは何故か関東地方に多い。茨城県の近県では、埼玉県吉見町の「吉見百穴」(200基以上、国史跡)、栃木県宇都宮市の「長岡百穴」(52基)、千葉県長柄町の「長柄横穴群」(300基以上、国史跡)などが有名で、東京都、神奈川県にもある。何故群集して造られたか不明だが、「大化の改新」による所謂「薄葬令」(大化2年:646年)が関連しているらしい。つまり、これにより地方豪族の権威の象徴であった大きな古墳の造営は殆ど無くなり、簡素な横穴墓が増えたというのである。なお、「館出支群第32号墓」から銅製の方頭金具が付いた大刀が出土した。また、「館出支群第35号墓」からは、鞘尻金具や帯取り金具などの飾り金具が付いた刀子と蕨手刀が出土した。この刀子については、正倉院所蔵品との類似点が見られるという。
因みに、「十五郎穴」という名は、鎌倉時代初期の武士で、仇討で有名な曾我十郎祐成・五郎時致の兄弟がここに隠れ住んでいたとの伝説によるといい、「虎塚古墳」(前項)は十郎の愛人・虎御前の墓として築かれたといわれていたという。


茨城県教育委員会のHPから(十五郎穴)

ひたちなか市観光協会のHPから(十五郎穴:PDF)


写真1:「十五郎穴」。茨城県指定史跡。


写真2:同上


写真3:同上


写真4:同上

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虎塚古墳

2018-06-16 23:21:12 | 古墳
虎塚古墳(とらづかこふん)。
場所:茨城県ひたちなか市中根字指渋34394-1ほか。「中根小学校」付近から茨城県道63号線(水戸勝田那珂湊線)を西へ約300mの交差点から(案内標識有り)、北東へ約1.1kmで「ひたちなか市埋蔵文化財調査センター」。駐車場有り。「虎塚古墳」までは南西方向に徒歩5分。
「虎塚古墳」は、那珂川下流左岸(北側)の低い台地上に築かれた前方後円墳。全長56.5m、後円部径32.5m、前方部幅38.5mという規模で、周濠を伴っている。昭和48年の発掘調査により、後円部に凝灰岩製の横穴式石室があり、その内部に保存状態良好な彩色壁画が発見された。石室は玄室と羨道から成り、玄室は天井3枚、東側壁1枚、西側壁2枚、奥壁1枚の切石で築かれ、内法は長さ3m、幅1.4m、高さ1.5m。玄室内壁には床面を含め白色粘土が塗られ、ベンガラ(酸化第二鉄。赤色の塗料)で三角連続文・環状文・渦文などのの幾何学文様や、槍・楯・大刀・靭(ゆぎ。矢を入れて携行する武具)といった当時の武器・武具等が描かれていた。また、石室内部からは、成人男子の遺骸の一部、副葬品の小大刀・刀子・鉄鏃などが出土した。築造時期は、前方部が発達した墳丘の特徴や出土遺物からみて、古墳時代終末期である7世紀初め頃と推定されている。なお、通常は石室は閉じられているが、春と秋の年2回、石室壁画を一般公開しているとのこと。
ところで、被葬者については当然ながら不明となっているが、東国では「虎塚古墳」のような装飾古墳は少なく、特に前方後円墳は極めて珍しいという。装飾古墳が多いのは九州北部だそうで、「虎塚古墳」の被葬者は九州から移ってきた人物ではないかとの説がある。「常陸国風土記」行方郡の条には、「建借間命」(タケカシマ)が東国の荒賊を討伐し、仲(那賀)国造の初祖に任命されたとの記事があり、「古事記」には、「神八井耳命」(カムヤヰミミ)は意富臣(多氏)、火(肥)君、大分君、阿蘇君、常道(常陸国)仲国造などの祖であるとの記事がある。そうすると、「建借間命」は多氏と同族で、九州北部を本拠としていた一族の出身者であったが、常陸国に派遣されてきたと考えられる。そこで、「虎塚古墳」の被葬者も仲国造家の関係者ではないか、ということのようである。


ひたちなか市のHPから(虎塚古墳)

ひたちなか市観光協会のHPから(虎塚古墳:PDF)


写真1:「虎塚古墳史跡公園」入口。「虎塚古墳」は昭和49年に国指定史跡に指定。


写真2:「虎塚古墳」前方部(南西から)。前方後円墳の形がよくわかる。


写真3:後円部


写真4:後円部に石室がある。


写真5:後円部から前方部をみる。括れ部分がわかる。


写真6:後円部墳頂から前方部をみる。
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清浄石(茨城県ひたちなか市)

2018-06-09 23:57:49 | 名石・奇岩・怪岩
清浄石(しょうじょういし)。
場所:茨城県ひたちなか市平磯町三ッ塚地先海岸。茨城県道6号線(水戸那珂湊線)で「磯崎港」付近から南に約2km。駐車スペースあり。
ひたちなか市の平磯町~磯崎町の海岸は、東へ30~40度傾斜した岩礁が連続しており、これらは「那珂層群」と総称される中生代白亜紀の地層とされている。この地層の岩石は砂岩や泥岩などからなり、泥岩は砂岩よりも波の侵食によって削られやすいため、泥岩の部分が砂岩の部分よりも凹み、鋸歯状になっている。アンモナイト、ウニ、サメ等の化石が発見され、特にアンモナイトは本来の平巻きではなく、「異常巻き」と呼ばれる縦型のものの群棲地として知られる。「異常巻き」アンモナイトは、アンモナイトが絶滅する直前の時期に多発したといわれており、この地層が約7,500万年前という中生代白亜紀に属することを明らかにしたということらしい。なお、翼竜の肩甲骨の化石も発見され、「ヒタチナカリュウ」と命名されたという。
さて、海上に露出している岩石のうち、とりわけ奇妙な形をした岩がある。二間余り(約3.6m)の方形の岩だが、上部平面の中央に円座の様な突起がある。これを、「箱磯」(箱型の岩のため)、「阿字石」(五輪塔の一番下の方形の石(「地」を表し、梵字の種字は「ア」という)に似ているため)、「護摩壇石」(方形の上に円の形が「護摩壇」に似ているため)などと様々に呼ばれていた。「阿字ヶ浦」という地名も、この石に因むという。古くから神聖なものとみられていたようで、付近の神仏、例えば、「酒列磯前神社」(2018年5月26日記事)、「村松大神宮」(茨城県東海村)、「村松虚空蔵堂」(同前)などの神仏は、この磯に影向したともいわれている。なお、「清浄石」というのは、「阿字石」・「護摩壇石」という仏教色が強い名を嫌った常陸水戸藩第2代藩主・徳川義公(徳川光圀)が命名したとのこと。


茨城県教育委員会のHPから(平磯白亜紀層)


写真1:「清浄石 徳川義公命名」石碑


写真2:傾いた地層が海に伸びている。


参考画像:上の写真の先端にある「清浄石」(ネット上の画像をお借りしました。)
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川子塚古墳

2018-06-02 23:25:19 | 古墳
川子塚古墳(かごづかこふん)。川子塚前方後円墳。
場所:茨城県ひたちなか市磯崎町川子塚4618-10。磯崎湊に向かう茨城県道265号線(磯崎港線)沿いで、「酒列磯前神社」(前項記事)の境内入口付近から西に約400m。駐車場なし。
「川子塚古墳」は、ひたちなか市に現存する最大の前方後円墳で、全長約85m、後円部径約40m、前方部幅約43mという規模。墳丘表面に葺石のほか、円筒埴輪・形象埴輪が確認されている。また、墳丘の西側には周溝の跡が残っている。主体部の発掘調査は行われておらず、埋葬施設は不明。なお、埴輪は、当地から北西に約5km(直線距離)の「馬渡埴輪製作遺跡」(国指定史跡。現在は史跡公園となっている。)から供給されたものであるとのこと。古墳の形態や埴輪の特徴から、築造時期は5世紀後半頃と推定されている。なお、主軸は南西向き(後円部の先に磯崎港がある。)。因みに、約100m東にある「木花咲耶姫神社」が鎮座する小丘も、「大穴塚古墳」という径約60mの大型円墳であるらしい。なお、「酒列磯前神社」の創建が斉衡3年(856年)とされており、創祀の由緒は「神磯」にあると考えられるので、直接、この古墳と関連があるわけではないだろうが、この台地自体が古くからの聖地であった可能性はあると思う。


写真1:「那珂湊市文化財 史跡 川子塚古墳」の石碑と説明版。後ろが後円部。


写真2:後円部


写真3:後円部から前方部をみる。


写真4:全景。手前が周溝跡。反対側(東側)は住宅が迫っており、前方部の角が少し削られているようだ。
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