神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

妙福山 明音院 佐竹寺

2019-08-31 23:27:36 | 寺院
妙福山 明音院 佐竹寺(みょうふくさん みょうおんいん さたけじ)。通称:北向観音。
場所:茨城県常陸太田市天神林町2404。茨城県道61号線「天神林町」交差点から南西へ約500m。駐車場有り。
大同2年(807年)に徳一大師の草創ともいうが、寺伝では、寛和元年(985年)に花山天皇の勅願により元密上人が「稲村神社」(前項)の北にある「洞崎の峰」(観音山)に創建したという。始めは「観音寺」と称する律宗寺院で、永延2年(988年)に「明音院」と改称した。保延6年(1140年)、新羅三郎・源義光(八幡太郎・源義家の弟)の孫、源昌義(佐竹氏初代)が当地に土着し、当寺院の本尊(十一面観世音菩薩)に居城である「馬坂城」の武運隆盛を祈ると、霊験あらたかであったことから、佐竹氏代々の祈願寺とした。因みに、源(佐竹)昌義が当寺院を詣でたとき、20尋(「尋」は両手を広げた長さで、近代では1尋=6尺=約1.8m)の長さに節が1つしかない奇竹を見つけ、これを瑞兆として「佐竹」氏に改名したという。こうしたことから、当寺院は佐竹氏に厚く庇護されて隆盛し、文永6年(1269年)には「佐竹寺」と号するようになった。天文12年(1543年)に兵火で焼失したが、同15年(1546年)に第18代・佐竹義昭が「佐竹城」の鬼門除けとして現在地に再建、戦国時代末期の天正15年(1546年)には6支院・3ヵ坊を有する大寺であった。しかし、関ヶ原合戦後に佐竹氏が出羽国・秋田に移封されると、寺勢は衰えた。それでも、坂東三十三観音霊場第二十二番札所、常陸三十三ヶ所霊場第十一番札所となり、江戸時代には賑わいを見せたが、明治期に入ると廃仏毀釈により荒廃し、昭和24年までは無住の寺院であったという。現在は真言宗豊山派の寺院で、本尊の十一面観世音菩薩像は聖徳太子の御製と伝わる。


佐竹寺のHP

茨城県教育委員会のHPから(佐竹寺本堂)


写真1:「佐竹寺」入口の山門と寺号標(「坂東廿二番霊場 佐竹寺」)。上記本文で、「佐竹城の鬼門除けとして再建された」とあるが、ここでの「佐竹城」は「馬坂城」(現・常陸太田市天神林町。なお、現在の地名は「間坂」)のことだろう。当寺院はその鬼門、即ち艮(丑寅=北東)の方角にある。「佐竹城」は、「太田城(舞鶴城)」(現・常陸太田市中城町)の別名でもあるので紛らわしいが、「太田城」からは裏鬼門(南西)に当たる。「馬坂城」は佐竹氏発祥の地であるが、二代・佐竹隆義からは「太田城」が佐竹氏代々の居城となっている。


写真2:山門に掲げられた「五本骨扇に月丸」紋。言うまでもなく、佐竹氏の家紋である。「吾妻鏡」によれば、佐竹四郎(佐竹氏第3代・佐竹秀義)が文治5年(1189年)に「奥州合戦」に参加した際、無紋の白旗を掲げていたため、源頼朝から同じ旗であることを咎められ、旗に五本骨月丸扇を付けて区別したことに由来するという。そもそも佐竹氏が無紋の白旗を使っていたのは常陸源氏の嫡流であったことによるものだろう。


写真3:本堂(観音堂)


写真4:同上。萱葺の堂々とした建物。元禄時代に大幅な改造がなされているということだが、各所に桃山時代の様式があり、国指定重要文化財となっている。


写真5:本堂の丸窓と火頭窓
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稲村神社(茨城県常陸太田市)(常陸国式内社・その21)

2019-08-24 23:49:29 | 神社
稲村神社(いなむらじんじゃ)。
場所:茨城県常陸太田市天神林町3228。茨城県道61号線「天神林町」交差点から南西へ約500m。「佐竹寺」山門前を右折(北西へ)、道なりに狭い道路を南西方向に約280m進む。参道に入ったところに駐車スペースあり。入口から真っ直ぐな参道が社殿前まで約270m続く。
一説に、第12代・景行天皇40年(110年?)、日本武尊が東征の折、当地に天神七代を祀り、戦勝を祈願したともいう。社伝では、第13代・成務天皇代(131~190年?)に、物部連の祖である伊香色雄命(イカガシコオ)の三世孫、船瀬足尼(フナセノスクネ)が久自(久慈)国造に任命されたとき、大祖である饒速日尊(ニギハヤヒ)を祀ったのが始めとする。物部氏族二十五部の中に「狭竹物部」があり、その一族が居住したことにより「佐竹郷」の名の由来となった。祖神・ニギハヤヒを祀るので「天津神」の意味で「天神」と呼び、また神鏡7面があったので「七代天神」ともいったという。元禄6年(1693年)に水戸藩第2代・徳川光圀が当地を巡見した際、村の鎮守であった「八幡神社」を廃し(光圀は「八幡神社」嫌いであった。)、6ヵ所に分かれて祀られていた「天神」を合祀して、現在地(天神山)に移して「七代天神宮」(または「七代天神社」)と称し、村の鎮守と定めた。「天神」の名から、江戸時代には菅原道真公が祭神とされていたようであり、常陸国式内社「稲村神社」に比定され、「稲村神社」と改称されたのは明治時代になってかららしい。現在の主祭神は饒速日尊で、天神七代(天地開闢の初めに現れた7代の天津神)とされる国常立尊・国狹槌尊・豊斟渟尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸之道尊・大苫辺尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉册尊を配祀する。
さて、常陸国式内社「稲村神社」は、「続日本後紀」嘉祥2年(849年)の記事に「常陸国久慈郡の稲村神が官社に預かる。水旱のときに祈ると必ず霊験があったからである」という趣旨の記載がある。また、「日本三代実録」元慶2年(878年)の記事に「常陸国正六位上の稲村神に従五位下を授ける」、同じく元和元年(885年)の記事に「常陸国従五位下の静神と稲村神に従五位上を授ける」という記事がある。そして、延喜式神名帳に常陸国久慈郡鎮座の小社「稲村神社」として登載された。当神社はこの式内社「稲村神社」に比定されているが、上記のように、古く「稲村神社」と呼ばれていたという根拠がない。しかし、当神社の南西、約2km(直線距離)のところに「梵天山古墳」(前項)があり、これが久慈国造・船瀬足尼の墳墓との伝承があること、当地の隣に「稲木」(現・常陸太田市稲木町)があり(「天神林」は「稲木」からの分村であるとする文書もあるらしい。)、元は「稲材神社(いなきじんじゃ)」であったのを「稲村」と間違えられたのだ、ということから、当神社が式内社「稲村神社」に比定されることになったようである。なお、他の論社として「近津神社(下津宮)」(現・茨城県久慈郡大子町)と「磯部稲村神社」(現・茨城県桜川市)があるが、前者は古代には陸奥国の領域内、後者は常陸国だが新治郡の領域と考えられるので、有力ではないとされる。ということで、当神社が式内社「稲村神社」に比定されることに、ほぼ異論がない状況と考えられる。


写真1:「稲村神社」境内入口の社号標(「延喜式内 (郷社)稻村神社」)


写真2:一の鳥居


写真3:参道は台地の狭く長い尾根上を進む。


写真4:二の鳥居。社殿は一段高いところにある。


写真5:神門


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:境内には小祠がずらり。


写真9:摂社「雷神社(らいじんじゃ)」。元々当神社は降雨祈願に御利益があり、後に「雷神社」が摂社として独立し、この石祠を神輿の中に入れて練り歩く「雨乞い神事」が行われたという。
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梵天山古墳(茨城県常陸太田市)

2019-08-17 23:14:03 | 古墳
梵天山古墳(ぼんてんやまこふん)。別名:梵天塚古墳。
場所:茨城県常陸太田市島町2317。茨城県道166号線(和田上河合線)「梵天山入口」交差点から南西へ(「梵天山厄除け大師」という大きな看板があり、矢印の方向へ)、約1.3km進んだところで(「梵天山 宝金剛院」という看板が出ている。)右折(北西へ)、突き当りを左折(西へ)直ぐのところに「宝金剛院」という寺院があり、その裏手に「梵天山古墳」がある。「宝金剛院」に駐車場有り。
「梵天山古墳」は、常陸太田市南西端の台地上にある「梵天山古墳群」(前方後円墳1基、円墳12基、横穴墓60数基)の主墳で、墳丘長約151m、後円部径約81m(高さ約13m)、前方部幅約56m(高さ約8m)という前方後円墳で、茨城県内第2位(第1位は石岡市の「舟塚山古墳」(墳丘長約186m。2018年2月10日記事)の規模という。なお、「宝金剛院」の建立により後円部の一部が削られたといわれ、後円部径は約90m、墳丘長も約160mの規模だった可能性があるらしい。発掘調査は行われていないが、葺石・埴輪・周溝はないとされる(周辺の古墳からは直刀などが出土しているとのこと。)。築造時期については、後円部に対して前方部が未発達という特徴から、古墳時代初期あるいは同前期とする説があり、具体的には5世紀前半~中期と推定されているようだ。被葬者については、その規模からみて、古くから久慈川流域を支配した首長の墳墓とされ、初代の久自(久慈)国造・船瀬足尼(フナセノスクネ)の墓と伝えられている。因みに、「先代旧事本紀」(平安時代初期成立?)の「国造本紀」によれば、第13代成務天皇の時代に物部氏の祖である伊香色雄命(イカガシコオ)の3世孫の船瀬足尼(船瀬宿禰)が初代久自国造に任命されたとされる。
蛇足:「水府志料」(小宮山楓軒著、江戸時代後期)によれば、当古墳は「亀の形に似ているというところから「金亀山」とも言い、亀を食べる者が登ると必ず怪我をする。このため、村人は亀を食べない。」という記述があるらしい。


常陸太田市観光物産協会のHPから(梵天山古墳群)

茨城県教育委員会のHPから(梵天山古墳群)


写真1:「梵天山 宝金剛院 性海寺」(真言宗豊山派、本尊:大日如来)境内入口


写真2:同上、本堂。「梵天山古墳」は、本堂の向かって左脇を抜けて、背後にある。


写真3:「梵天山古墳」墳頂への登り口。


写真4:鳥居を潜って後円部に上る。


写真5:後円部の墳頂にある祠。


写真6:後円部から前方部を見る。


写真7:前方部から後円部を見る。


写真8:後円部の下から前方部を見る。括れがわかる。


写真9:前方部(南から見る)。
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鞍掛石(茨城県那珂市)

2019-08-10 23:12:56 | 名石・奇岩・怪岩
鞍掛石(くらかけいし)。
場所:茨城県那珂市門部。茨城県道62号線(常陸那珂港山方線)と同104号線(那珂瓜連線)の交差点から、県道104号線を西へ約1kmのところで左側道に入り、道なりに西へ約400m。側道に入ったところと、所在地への入口のところに「鞍掛石」の案内看板がある。駐車場なし。
茨城県中央部から北部にかけて、八幡太郎・源義家にまつわる伝説が多く残されている。義家の弟である新羅三郎・義光の孫、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現:茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)に住み、地名に因んで「佐竹」氏を名乗ったとされており、源義家は佐竹氏にとって英雄的な祖先ということになる。
「鞍掛石」は、源義家が奥州征伐に向かう途中、鞍を馬から外して石に掛けて休憩したところ、後日その石が鞍に似てしまったというもの。確かに鞍の形にそっくりだが、もちろん、石の形が変わったというのは伝説に過ぎないだろう。それが、玉垣に囲まれ、鳥居・石碑も建てられるなど、今に至るまで神聖なものとして守られていることに重みを感じる。
因みに、「鞍掛石」のある場所は台地の端で、台地上には「小屋場館」という中世の城郭跡があり、当地付近は源義家が奥州征伐のための兵馬を飼育していた場所という伝承もあるらしい。中世には、山や丘の上に領主の館があり、その山の根(麓)に配下の集落が生まれ、そこから「根小屋」(「根古屋」)という地名が関東を中心に各地に今も残っている。そして、当地には次のような伝承もあるという。即ち、当地に源頼家の館があったが、粗末なものであった。そのため、義家に遠慮して、当地の農家の屋根には瓦を葺かない(「屋根を瓦葺にした家は滅びる」)し、また檜(ヒノキ)造りにはしない(「ヒノキは火柱が立つ」)というもの。もちろん、今ではそのようなことはないようだが、源義家にまつわる「長者伝説」(長者が過大な歓待をしたことで、滅ぼされるという伝説。「台渡里官衙遺跡群」2019年3月16日記事参照)を考えると、おとなしくしていて滅ぼされずに済んだという逆の話かもしれない。


那珂市観光協会のHPから(史跡・天然記念物)


写真1:「鞍掛石」前の鳥居


写真2:「源義家公遺跡 鞍掛石之碑」


写真3:石祠


写真4:「鞍掛石」
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天満宮(茨城県常陸太田市赤土町)

2019-08-03 23:26:53 | 神社
天満宮(てんまんぐう)。通称:赤土天満宮、赤土鎮守様。
場所:茨城県常陸太田市赤土町2206。茨城県道29号線(常陸太田那須烏山線)と同62号線(常陸那珂湊山方線)の交差点(「金砂郷郵便局がある。)から、県道29号線を東に約750m進み、茨城県道36号線(日立山方線)への分岐の手前を左折(北へ)、約1.4km。駐車スペースあり。
当神社は元禄元年(1688年)の創祀とされ、菅原道真公を祭神とする。しかし、常陸国式内社・久慈郡鎮座の「立野神社」の論社として必ず言及される神社である。それは、内山信名(1787~1836年)著「新編常陸国誌」の地図に、式内社「立野神社」として当神社の位置が示されていることによるものらしい。鎮座地の赤土町には「立野」という小字もあることも指摘されている。榎本実著「古社巡礼」(1990年)によれば、当神社を式内社に推す背景として、一般に式内社「立野神社」に比定されている茨城県常陸大宮市上小瀬に鎮座の「立野神社」(2019年7月20日記事)の位置が古代には(久慈郡ではなく)那珂郡に属したのではないか、とするところにある。だが、古代の郡境がどこにあったのかは難しい問題で、これは水掛け論で終わりそうである。赤土町に「立野」という地名(小字)があるということも、現在の地図でみると、赤土町の南端辺りで、当神社からは結構離れている。そこで、榎本氏は、式内社「立野神社」は廃絶してしまって「立野集落の背後の山頂に祀られている「風神」の小祠が名残り」なのだろう、としている(「立野神社」の主祭神は級長津彦命で、風の神である。)。そのような小祠が現在もあるのかどうか、確かめられないのが残念。
なお、玄松子さんも当神社が式内社「立野神社」の可能性があると書いている。論拠としては、「天満宮」(天神)として菅原道真公を祀っているが、古くは「天津神」を祀っていたのではないかということ。また、「当社の鎮座地が、人家の遠い山頂であることも、天満宮を祀るような場所ではないような印象」であるとしている。しかし、前者については、元の社があったとすれば、その神を合祀していても良いような気がする(因みに、境内社として八幡・厳島・春日・別雷の4社があるとのこと。)。また、後者については、印象なので何とも言えないが、菅原道真公は今でこそ学問の神様だが、元は雷神であり、高い場所にあってもおかしくはない。それに、当神社がある場所は、「赤土圷館」という中世の山城があったとされるところ(ただし、敷地は狭いので、砦のようなものか。)で、近代の赤土村は全国に先駆けて煙草耕作組合が設立されてタバコの葉の生産が盛んであった(所謂「水府煙草」)ということで、古くからそれなりに栄えていた場所なのではないかとも思われる。
ということで、結論は出ないが、当神社を式内社「立野神社」に比定することはなかなか難しいのではないか、と思われる。


玄松子さんのHPから(天満宮(常陸太田市))

常陸太田市教育委員会のHPから(赤土町の地域資源)


写真1:「天満宮」。山の中の神社、ちょっとコワイ。


写真2:鳥居。横の建物は神輿の収蔵庫らしい。いきなり急な石段を上っていく。


写真3:最初の石段を上ると、山道。


写真4:再び急で長い石段。


写真5:拝殿。扁額は「天満宮」。境内は円墳の上のような感じで、広くはない。


写真6:本殿。ところどころ鮮やかな彩色がされている。


写真7:境内社
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