神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鎌倉権五郎目洗いの池(千葉県野田市)

2025-01-25 23:31:03 | 伝説の地
鎌倉権五郎目洗いの池(かまくらごんごろうめあらいのいけ)。
場所:千葉県野田市目吹1754。千葉県道3号線(つくば野田線)と同7号線(我孫子関宿線)「野田市目吹」交差点から北西に約350mで左折(南へ)、約200m。駐車場なし。
鎌倉権五郎平景政(景正)は、桓武平氏の祖・高望王(平高望)の5世孫といわれ、源義家に従って「後三年の役」(1083~1087年)に参戦、矢で右目を射られるも奮闘し、清原武衡の家臣・鳥海弥三郎を討ち取ったとされる猛将である。歌舞伎十八番のうち「暫」の主人公であり(ただし、その豪勇さから名を借りただけ。)、現・神奈川県に多い「御霊神社」の祭神ともなっているが、当地の伝承では、「後三年の役」の戦功により、現・野田市目吹の一帯を知行地として与えられたとされる。そして、その領内に、1年中涸れることがない不思議な泉があるのを聞き、その湧水に右目の傷を浸したところ快癒したという伝説があり、その泉を「鎌倉権五郎目洗いの池」と称し、「目吹(めふき)」という地名の由来ともなっているという。
ただし、「目吹」という地名は、古代、当地一帯に官牧(国が管理する牧場)として馬牧の「長洲牧(長洲馬場)」が置かれ(当地の北、約9kmに現・茨城県坂東市長須という地名があり、これが遺称地とされる。)、「馬夫給(めぶき)庁」という役所があったことで「めふき」という地名が生じたという説も有力。
蛇足:当ブログの古い記事で、現・千葉県佐倉市の「長熊廃寺跡」(2014年1月4日記事)で「五良神社」(景政を祀る。)、現・秋田県横手市の「兜石」(2016年8月27日記事)で「景政功名塚」(景政が敵の屍を埋葬した塚とされる。)について触れているので、ご参照ください。


野田市観光協会のHPから(鎌倉権五郎目洗いの池)


写真1:「鎌倉権五郎目洗いの池」入口。道路沿いに標柱が立っており、そこから雑木林(竹林)の中を少し下る。


写真2:結構急な下り坂。


写真3:竹林の先に水面が光っている。


写真4:足元の土がかなり柔らかく、あまり池に近づくと沈み込みそうだ。また、池は落葉などで殆ど覆われている。


写真5:池の入口の向かい側にある庚申塔などの石造物。野田市内にはこうした石造物が多く残されている。
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駒形神社(千葉県野田市)

2025-01-18 23:31:51 | 神社

駒形神社(こまがたじんじゃ)。
千葉県野田市木間ケ瀬3623。千葉県道17号線(結城野田線)「新宿」交差点から東へ約1.7km。駐車スペースあり。
社伝等によれば、天慶年間(938~947年)、平将門が当地の農家・白石家を訪れ休息したとき、ちょうど正月14日に若餅を搗いて祝う風習があり、将門にも振舞った。ところが、将門の馬が餅の入った水を飲み、喉に詰まらせて死んでしまった。将門は何も咎めなかったが、白石家では馬を哀れみ、以前からあった保食神の祠の傍らに埋葬して、駒形大明神と呼ぶようになった。なお、白石家では、それ以来、若餅は搗かなくなったという。現在の祭神は、武甕槌命。
因みに、当地の地名(字名)の「木間ケ瀬(きまがせ)」は、「駒(こま)」に由来するという。また、利根川の対岸(下総利根大橋を渡ったところ)に茨城県坂東市木間ケ瀬があって、江戸時代初めの利根川東遷事業(東京湾に注いでいた利根川を現・千葉県銚子市を河口とするように付け替えた土木工事)の前は、一体であったと思われる。そして、坂東市木間ケ瀬の北側に長須という地名がある。これは、「延喜式」にも記載がある平安時代の官牧の1つ「長洲馬牧(ながすのうままき)」の遺称地とされている。将門は、下総国の官牧を実質的に支配していたという説もあり、当神社の社伝等が実話かどうかは不明だが、当地が将門や馬との関わりが深いことが窺われる。


写真1:「駒形神社」鳥居。扁額は「正一位駒形大明神」。なお、当神社境内は彼岸花(ヒガンバナ)の名所とのこと。


写真2:鳥居の傍らの青面金剛像など。


写真3:境内社「大杉大神」


写真4:「駒形神社」社殿(南向き)。境内全体が一段高く、南北に長い島のようになっていて、周囲を道路が一周している。社殿は更に高く、塚の上にあるような形になっている。


写真5:「駒形神社」の裏(北側)にある志部集会所と墓地。集会所の前に大きな木の切り株がある。


写真6:集会所の北側に鎮座する「稲荷神社」一の鳥居


写真7:同上、二の鳥居


写真8:同上、社殿(西向き)。「駒形神社」の社伝等の通りなら、こちらのほうが先に存在したことになろう。

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白山神社(千葉県野田市木間ケ瀬)

2025-01-11 23:31:42 | 神社

白山神社(はくさんじんじゃ)。通称:飯塚白山神社。
場所:千葉県野田市木間ケ瀬475。千葉県道7号線(我孫子関宿線)と同162号線(岩井関宿野田線)の「野田市木間ヶ瀬北」交差点から南に230mで右折(西へ)、約270m。駐車スペースあり。
創建時期は不明。伝承によれば、慶雲2年(705年)、疫病が流行したときに祈願した場所という。あるいは、慶雲2年(705年)は全国的に大旱となったので、税を半分にし、東国の各地では加賀国一宮「白山比咩神社」(現・石川県白山市)を勧請して降雨祈願をしたが、当神社もその1つであろう、ともいう。天慶年間(938年~947年)、平将門が京都からの帰途に当地を訪れたとき、村人に歓待されたことに喜び、当神社に3本、浅間神社に2本、香取神社に2本の桜の木を植えたとされ、これを「木間ケ瀬の七本桜」と称した(植えた場所、植えた本数などに諸説あり。)。現在も境内に桜の木はあるものの、もちろん樹齢千年を超すようなものではないが、親木が枯れても、また根元から新芽が出て、何代も続いているとされる。平安時代末期、将門と同じ桓武平氏良文流の千葉氏の崇敬を受けた。元禄・宝永年間(1688~1711年)、領主・深津氏が社殿を修復したという。現在の祭神は、伊弉冉命(イザナミ)。
なお、当神社の社殿東側から真っすぐ南東に伸びる参道があるが、その突き当りを左折(北東へ)したところ(当神社から徒歩2~3分)に「平将門手植えの桜」の石碑と桜の木がある。
蛇足:全国約3000社あるという「白山神社」の総本社とされる加賀国一宮「白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)」の現在の祭神は、白山比咩大神=菊理媛神(ククリヒメ)・伊奘諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の3柱で、近世までは神仏混淆により総称して白山妙理権現といい、本地仏を十一面観世音菩薩としていた。ただし、この祭神については、菊理媛神が「日本書紀」の一書に一瞬出てくるだけで、正体不明な神であることもあって、ククリヒメとイザナミを同一神とする説もあったようである。この辺り、歴史的な経緯を含めてかなり複雑なので詳細は省くが、イザナギが「黄泉(よみ)」(死者の国)から脱出するときに現れた神なので、穢れを祓う神と考えられ、「白山」(標高2702m)の「白い」=「清浄」というイメージと結びついたともいわれている。また、「白山」霊場を開いたとされる奈良時代の僧(修験者)・泰澄は、瞑想中に緑碧池(翠ヶ池)から白山妙理権現の本地仏である十一面観世音菩薩の垂迹である九頭龍王が出現したのを契機とする、との伝説がある。こうしたことが、「白山神社」に疫病封じや降雨の御利益を求める根拠となっているものと思われる。


写真1:「白山神社」鳥居。参道の左手に桜並木がある。


写真2:境内? 自治会館の前にあるスダジイ?の巨木


写真3:灯篭と拝殿。拝殿の前にも桜の木。拝殿横(向かって左)にはクスノキの大木がある。


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:境内の青面金剛像などの石造物


写真7:同上、石造の御嶽三尊像。左「三笠山刀利天」、中央「座王権現」、右「八海山提頭羅神王」。山岳宗教である「御嶽山」信仰の神々で、「座王権現」は主神で国常立尊・大己貴命・少彦名命の3柱の総称、「三笠山刀利天」は「三笠山」頂上に祀られる豊斟渟尊(トヨクムヌ)、「八海山提頭羅神王」は「八海山」に祀られる国狭槌尊(クニサヅチ)という。


写真8:「平将門手植えの桜」の石碑と桜の木


写真9:(右)「平将門手植之櫻 古人之口碑」石碑、(左)「将門霊神」石塔

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香取神社(茨城県坂東市沓掛)

2025-01-04 23:35:20 | 神社
香取神社(かとりじんじゃ)。通称:沓掛香取神社。
場所:茨城県坂東市沓掛4120-1。茨城県道20号線(結城坂東線)「沓掛南」交差点から南へ約150m、コンビニエンスストア「セブンイレブン茨城沓掛店」の前で右折(西へ)、約60mで左側(南側)に駐車場入口、右側(北側)に二の鳥居がある。
創建時期は不明だが、社伝によれば、経津主命の傍系孫・美計奴都加佐命が神籬(ひもろぎ。神を迎える依り代)を立て、祖神を奉斎したのが始まりという(ということは、下総国一宮「香取神宮」からの勧請ではないということだろうか。美計奴都加佐命については不詳。)。大同2年(807年)、空海(弘法大師)の巡錫の折、神社裏に十一面観音が勧請された。弘仁元年(810年)に再び空海が参詣して別当寺院「香取山 金乗院」を建立し、社僧を置いて奉仕させた。天慶2年(940年)、平将門が社殿を造営。正長元年(1428年)、下総結城氏11代当主・結城氏朝が社殿を修築し、刀剣(来国行の作)を奉納した。正徳2年(1712年)、神階正一位に進む。享保9年(1724年)、徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗の命による飯沼の開発(新田3000町歩)に際して沿岸の31ヵ村の名主らが起誓文を捧げて大願成就を祈願し、完成後の享保13年(1728年)には飯沼地方民が本殿と大鳥居一基を奉納した。寛政10年(1798年)、疫病流行のため氏子及び近郷から「金乗院」に大般若経六百巻の奉納があり、社寺で大祈願祭が行われた。天保年間(1830~1844年)、「愛宕神社」の軻遇突智大神を合祀した。明治初期に「金乗院」は廃寺となり、明治6年、村社に列格。現在の祭神は、経津主大神(伊波比主命)と軻遇突智大神。


茨城県神社庁のHPから(香取神社)


写真1:「香取神社」一の鳥居


写真2:二の鳥居、社号標


写真3:二の鳥居横にある神木の欅(ケヤキ)の巨樹。根元に境内社「日枝社(祭神:大山咋神)・庚申社」がある。


写真4:同上、光明真言供養碑や三猿の庚申塔がある。


写真5:同上、西側から見る。根元の太さがよくわかる。樹高約19m・目通り幹囲約7m、推定樹齢200~300年という。


写真6:拝殿


写真7:本殿(覆屋)。本殿は極彩色の豪華な彫刻で飾られているというが、外からは見えない(茨城県神社庁HPの当神社のページに写真があります。)。茨城県指定文化財。平成3~4年に修復され、かつての色彩が蘇ったという。


写真8:境内社「春名神社」(祭神:速須佐男命、櫛名田姫命)
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