神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

化け物石(茨城県龍ケ崎市)

2021-12-25 23:19:03 | 名石・奇岩・怪岩
化け物石(ばけものいし)。
場所:茨城県龍ケ崎市貝原塚町2228ー1(「金剛院」の住所)。茨城県道34号線(竜ヶ崎阿見線)と同243号線(八代庄兵衛新田線)の「貝原塚」交差点から34号線を北東へ約500mのところ(「金剛院」の寺号標がある。)で左折(北西へ)、約120m。駐車場有り。
天台宗「金光山 金剛院」境内に、弘長4年(1264年)銘の所謂「下総板碑」がある。高さ約150cm、巾約50cmの大きさで、材質は筑波山産出の黒雲母片岩とみられる。表面には、上部に二条線・天蓋・種子・蓮座偈文と続き、中央の梵字の種子は阿弥陀如来と脇侍の観世音菩薩と勢至菩薩が刻されている。また、願文として「佛説観無量寿経」下巻の偈の一節、「其の仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自到不退転」(その仏の本願力により、名を聞きて往生せんと欲せば、皆ことごとく彼の国に到りて、自ずから不退転に到らん)と記されているとのこと。龍ケ崎市指定文化財(考古資料)。
この板碑には「化け物石」という別名がある。明治25年頃、この板碑は水路の石橋として使われていたが、その辺りに火の玉が出るなど奇怪なことが続いたので、村人らは「化け物石」と恐れ、現在の「金剛院」境内に移した(当初の建立場所は不明)という。板碑は、亡くなった人々の供養や、生前に死後の冥福を願って建立されたものなので、それを踏みつけると祟りがあるということなのだろう。
因みに、「金剛院」参道入口の西側にある旧村社「(貝原塚)八坂神社」は、康平6年(1063年)の創建と伝えられている。源頼義が奥州遠征の帰途に当地を通った折り、 村人が疫病で苦しんでいたため、山城国「八坂大神」(現・京都市東山区「八坂神社」)から分霊を勧請して祀ったところ、たちまち疫病が治まったとされる。また、この「八坂神社」~「金剛院」を含め、「金剛院」背後(北側)の「城山」という台地に中世城郭「貝原塚城」があったらしい。「八坂神社」から「金剛院」に向かうと、いったんかなり下って、また上る形になる。この低いところはかつて城郭の空堀だったという。


写真1:「八坂神社」鳥居


写真2:同上、社殿。祭神:建速須佐之男命。なお、「龍ケ崎鎮守」と称する現・龍ケ崎市上町「八坂神社」は当神社からの分社。


写真3:「天台宗 金剛院」寺号標


写真4:同上、参道石段


写真5:同上、本堂


写真6:同上、石仏など


写真7:同上、「化け物石」(板碑)
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星宮神社(茨城県龍ケ崎市)

2021-12-18 23:22:30 | 神社
星宮神社(ほしみやじんじゃ)。
場所:茨城県龍ケ崎市若柴町683。茨城県道243号線(八代庄兵衛新田線)「若柴配水場入口」交差点から南西へ約450m。駐車スペース有り。
社伝によれば、延長2年(924年)、肥後国「八代神社」(現・熊本県八代市)から分霊を勧請して祀ったものとされる(誰が勧請したかは不明。なお、元慶4年(880年)創建という説もある。)。天慶4年(941年)、常陸大掾・平貞盛が拝殿を建立、寄進したという。境内に「駒止の石」があるが、これには次のような伝承がある。平貞盛(常陸平氏の祖・平国香の嫡男。平将門を討って従五位下に叙せられ、後に鎮守府将軍、陸奥守などを歴任した。)が当地を通りかかると、この石の前で馬が動かなくなった。見ると、そこに日頃信仰する「星野大明神」の祠があり、懇ろに参詣すると馬が再び歩き出したという。この石がどのようなものか、どの資料にも書かれていないが、参拝した際に偶々お会いした当神社の方に伺ったところによると、これは平国香愛用の手水石だったとのこと。もちろん真偽は不明だし、何故そのようなものがここにあるかは不思議だが、将門と国香らが戦ったとされる「藤代川合戦」(前項「伝 平国香供養塔」参照)に関係しているものかと思われる。
さて、当神社の現在の祭神は天御中主命であるが、近世までは妙見神だったと思われる(なお、「稲敷郡郷土史」(大正15年)では「祭神詳ならず」としている。)。上記「八代神社」も同様で、妙見神(妙見尊星王、妙見菩薩などともいう。)は北極星・北斗七星を神格化したものであって、神仏混淆の神だった。それが明治時代の神仏分離によって、多くは仏教色を廃し、祭神を天御中主神などに改めた。妙見神は、桓武平氏良文流を自称した下総国の豪族・千葉氏が篤く信仰していて、現・千葉県千葉市の「千葉神社」(2012年5月5日記事)を始めとして、千葉県内には妙見神社(妙見宮)が多い。当地は常陸国に属するが、国境の小貝川から然程離れていないことから、当神社もそうした影響を受けて成立したのではないかとされている。
蛇足:現在ではあまり想像できないが、江戸時代には当神社の南側に水戸街道の「若柴宿」があって栄え、当神社も近隣の信仰を集めていたようである。当地では、病気になったら、藁の人形を作って当神社の椎(シイ)の木の下に埋めてお祈りすると治るといわれていた。また、妙見神が虚空蔵菩薩と混同され、当地では、虚空蔵菩薩の眷属とされる鰻(ウナギ)を食べると目が潰れるなどとして、鰻を食べない風習があったという(一方で、同じ龍ケ崎市内でも、牛久沼畔が鰻丼の発祥地とされているのは皮肉なことである。)。


写真1:「星宮神社」境内入口、社号標(「宗教法人 星宮神社」)。社号標側面に「祭神 天之御中主神」とある。


写真2:鳥居


写真3:燈籠。江戸時代の地元出身力士・一力長五郎(1815~1859年)の奉献によるものとの説明板がある。前頭筆頭までだったが、大関に強く、「大物喰いの長五郎」と呼ばれたという。


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:境内社「金毘羅大権現」


写真7:「駒止の石」
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伝 平国香供養塔(茨城県龍ケ崎市)

2021-12-11 23:29:11 | 史跡・文化財
伝 平国香供養塔(でん たいらのくにかくようとう)。
場所:茨城県龍ケ崎市川原代町1058-1。茨城県道5号線(竜ヶ崎潮来線)「馴柴小入口」交差点から南東へ約40mで右折(南西へ。「城西中学校→」の案内看板があるところ。)、約350m。「城西中学校」南東付近。駐車場なし。
「伝 平国香供養塔」は、花崗岩製の石造宝篋印塔で、高さ228.3cm×幅90.8cm×奥行90.8cm。伝承によれば、「平将門の乱」の折、平将門と平国香(将門の伯父)らが承平5年(935年)に「藤代川の合戦」で戦い、国香が戦死したため、天慶年間(938~947年)に平貞盛が父・国香の菩提を弔い、民心を安定させるために、現・龍ケ崎市川原代に「安楽寺」を、現・龍ケ崎市小通幸谷町に観音堂を建立したとされ、「安楽寺」に供養塔(一説に墓)を建てたという。この供養塔(宝篋印塔)の特徴として、全体にどっしりとした重量感があること、笠の軒に緩い反りがあること、笠上部に7段・下部に5段の細かい階段がつけられていること等があり、これらを全体的にみて、鎌倉時代後期頃(1262年前後?)のものと推定されている。ということで、平国香の墓ではなく、供養塔としてもかなり時代が下ってからのものとみられるので、国香を供養したものとするのは難しいようである。ただし、このような形式の石造宝篋印塔は珍しく、軒反りのあるものとしては関東最古とみられる優品として、龍ケ崎市指定有形文化財(美術工芸品)となっている。
なお、「藤代川の合戦」で平国香が戦死したというのは、江戸時代の通俗軍記物語「前太平記」によるもので、「藤代川」というのが当地付近の小貝川を指すとされることから、国香が当地で亡くなったという伝承ができたようである。「将門記」も軍記物語で、史料としての信頼性は必ずしも高くないが、成立時期は11世紀頃とされていることから、まずはこれを信じるとすると、将門に敗北後、国香は本拠地とされる現・茨城県筑西市東石田の居館で自害したか、居館に火を放たれて焼死したとみられる(因みに、同地には「国香の墓」とされる場所が数ヵ所ある。)。「前太平記」では、最初から将門を逆賊とし、本拠地とした現・茨城県守谷市~取手市から常陸国府(現・石岡市)に進攻したのを乱の始まりとしているので、「藤代川」で合戦があったと想定したらしい。このような事実誤認があるため、「前太平記」は信頼性が非常に低いと考えられる。
ところで、この供養塔(宝篋印塔)にはヒビが入っているが、これは刀傷だという伝説がある。これが墓石と思われていた昔、ある人が通りかかると、この石塔の影から亡霊が現れた。恐れ慄き、亡霊に切りつけたが、よくよく見ると、石塔に真新しい刀傷がついていたという。

恵雲山 蓮華院 安楽寺(けいうんさん れんげいん あんらくじ)。
場所:茨城県龍ケ崎市川原代町1051。「伝 平国香供養塔」から北西へ約130m。駐車場有り。
現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。寺宝として「総州相馬郡河原代安楽寺」及び「文和二年」(1353年)という銘の鰐口があり(茨城県指定文化財)、南北朝時代には隆盛だったことが窺われる。天正16年(1588年)、下妻城主・多賀谷政経と足高城主・岡見宗治が合戦となり、敗れた岡見宗治は当寺院に逃れて裏門から舟に乗って落ち延びたと伝えられ、そのときの戦火で堂宇・寺宝・記録の多くを焼失したという。江戸時代、貞享年間(1684~1688年)の住持・舜義法印が堂社を建立し、常夜念仏を起こして中興の祖となったとされる。

清水山 慈眼院 観音寺(きよみずさん じげんいん かんのんじ)、通称:小通観音(ことりかんのん)
場所:茨城県龍ケ崎市小通幸谷町7-1。茨城県道208号線(長沖藤代線)「文巻橋」交差点から東へ約250mで右折(北へ)、約150m進んだカーヴのところを右折(西へ)、約70m突き当り(行き止まり)。駐車場なし。
慶長3年(1598年)に牛久城主となった由良国繁が戦死者らの供養のため七観音八薬師(堂)建立した際、当観音堂は「清水山 慈眼院 観音寺」と改められた。本尊の十一面観世音菩薩像は恵心阿闍梨の作とされ、眼病に霊験があるとして参詣者が多かったという。江戸時代は真言宗だったが、明治時代に入り無壇無禄寺院としていったん廃寺となるも、七観音八薬師の由緒を以って曹洞宗「太田山 金龍寺」(現・龍ケ崎市若柴)の末寺として再興された。


写真1:「伝 平国香供養塔」。正面左側から見る。


写真2:同上、裏面左側から見る。塔身の四方にキリーク(阿弥陀)、アク(不空成就)、ウーン(阿閦)、タラーク(虚空蔵)の金剛界四方仏が彫られているというのだが、よくわからない。


写真3:供養塔の後ろにある「大乗妙典六十六部供養塔」


写真4:「安楽寺」境内入口。供養塔のある場所は、現在は「安楽寺」の飛び地だが、かつては境内の一部だったとみられる。


写真5:同上、本堂


写真6:「慈眼院」境内入口


写真7:同上、境内社「水神宮」


写真8:同上、観音堂


写真9:同上、弘法大師堂(「新四国六十七番」とあるが、どの大師講なのか不明。)
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蛇喰古墳(茨城県牛久市)

2021-12-04 23:33:57 | 古墳
蛇喰古墳(じゃばみこふん)。
場所:茨城県牛久市神谷町2-21-3。茨城県道272号線(牛久停車場線)「下柏田」交差点から、通称「ふれあい道路」を南へ約600m進み、通称「女化街道(おなばけかいどう)」に入って南東へ約350m。駐車場有り。
「蛇喰古墳」は、牛久沼と小野川にはさまれた現・牛久市街地に所在する前方後円墳で、全長約45mという大きさは牛久市内で最大規模という。牛久市内では約100基の古墳が確認されているが、殆どが円墳で、前方後円墳は珍しい。未発掘のため詳細は不明だが、埴輪等は確認されておらず、古墳時代後期(6世紀頃?)の築造で、当地を支配した豪族の首長の墳墓とみられている。なお、当古墳の南、約200mのところにあった「貝塚台古墳」(現在は湮滅)では、箱式石棺の内部から人骨2体、直刀5振、銀環1対、鉄鏃が見つかっている。
現在、墳頂に「神谷稲荷神社」が鎮座しているが、元は明治~大正時代の実業家・神谷伝兵衛が所有するブドウ農園(「神谷葡萄園」)の中にあって、明治35年頃に神谷の出身地である現・愛知県豊川市の「豊川稲荷」(曹洞宗「円福山 妙厳寺」)から勧請して創建したものという。
蛇足:「蛇喰古墳」という名称の由来に興味が湧くが、詳細不明。以前、牛久市立中央図書館が資料を調べたものの、わからなかったようである。一般論として、民俗学的には、地名としての「蛇喰」は、「蛇抜(じゃぬけ)」、「蛇崩(じゃくずれ)」と同様に山崩れが発生した場所を意味する。大雨の後、山の地中に隠れていた大蛇が抜け出ると、そこが山崩れになるという伝説が各地にあったらしい。しかし、当地は平地であり、山崩れとは無関係だろう。あるいは、かつては古墳の石室が露出して、そこから大蛇が抜け出たと思われたのかもしれない(根拠なし。)。


写真1:「蛇喰古墳」。「女化街道」側(西側)から。


写真2:前方部(北西向き)に「神谷稲荷神社」の鳥居、参道がある。


写真3:北側から見る(手前が前方部)。


写真4:前方部から後円部を見る。


写真5:後円部墳頂に鎮座する「神谷稲荷神社」社殿。賽銭箱は当然だろうが、社殿の扉も太い鎖と南京錠で厳重に封鎖されている。


写真6:後円部。南東側から見る。
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