神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

常陸国の古代東海道(その5・曽尼駅)

2023-04-08 23:33:15 | 古道
曽尼駅家の跡(そねのうまやのあと)。
場所:茨城県行方市玉造甲3518付近(石碑の場所)。国道354号線と茨城県道50号線(水戸神栖線)の「泉北」交差点から県道を南東へ約650m。葬祭場「霞ヶ浦セレモニーホール」駐車場の南東端の西側にある民家の前。駐車場なし。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「ここ(提賀の里)から北に、曽尼(そね)の村がある。昔、佐伯(土着の先住民)の疏禰毘古(ソネヒコ)という者が住んでいて、その名をとって村の名とした。今、ここに駅家を置き、曽尼の駅という。」(現代語訳)という記述がある。「提賀」は現・行方市手賀が遺称地で、当地の南、約1.6kmのところに「手賀長者館跡」(2023年2月11日記事)がある。旧・玉造町域では県道50号線が台地の分水嶺を走っており、旧・北浦町境ともほぼ一致している。このため、行方郡の古代東海道も現・県道50号線とほぼ同じルートだったと考えられる。こうしたことから、「常陸国風土記」でいう「曽尼」駅家の比定地としては、現・行方市玉造甲の通称「泉」地区というのが通説になっている。ただし、「曽尼」の遺称地はなく、駅家跡のような遺跡も未発見のため、ピンポイントの場所は特定されていない。そのような中、当地に「曽尼駅家の跡」碑が建てられたのは、ここが通称「うまやの畑」と呼ばれていたことによる。伝承によれば、ここには、土塁と空堀に囲まれた約3haという広い土地があったという。因みに、県道50号線は更に直線的に北上し、現・茨城空港・航空自衛隊百里基地の東側に至る。古代東海道の終点は「常陸国府」(現・茨城県石岡市。2018年1月6日記事)なので、どこかで北西に進路変更する必要があり、その屈曲点がこの辺りとも考えられる。また、単純に北上するルートも支路として考えられ、「常陸国風土記」那賀郡の条に見える「平津(ひらつ)」駅家(現・茨城県水戸市平戸町を遺称地とするのが通説。「大串貝塚」(2018年7月14日記事)の東側あたり。)に向かった可能性が高い。
蛇足:「延喜式」に記載された「曾禰」駅家が、「常陸国風土記」の「曽尼」駅家と同じものかどうかについて論争があったが、現在では別地であるというのが通説となっている。「延喜式」の「曾禰」も遺称地が無く、河岸段丘等を示す地形地名だろうとされていて、比定地は現・茨城県土浦市上高津付近が有力とされている(「曾禰駅」については2022年3月26日記事参照)。「常陸国風土記」では、「曽尼」という地名は昔住んでいた佐伯の名から採った、ということになっているが、どうだろうか。「曽尼」も、「延喜式」の「曾禰」と同じような地形地名だとすると、「夜刀神社」(前項)下の「椎井池」付近は谷津になっているので、それに対する高台という意味かもしれない。その場合、曽尼村は駅家を維持するための駅戸の集落だろうということを前提として、村としては現在の「玉造小学校」や「行方市泉野球場」付近を想定する説もある。


写真1:「曽尼駅家の跡」碑と説明板


写真2:「曽尼駅家の跡」碑


写真3:同上、北西側から見る。奥が茨城県道50号線。手前の狭い道路もしばらく直線的に続いており、こちらが古代東海道の跡だろうか。
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常陸国の古代東海道(その4・板来駅)

2022-09-24 23:27:57 | 古道
現・茨城県潮来市の「長勝寺」境内(仏殿横)に「潮来の駅家跡」という木碑が建てられている。古代のハイウェイともいうべき「古代東海道」は、元々、上総国(現・千葉県南部)から下総国(現・千葉県北部)を経て常陸国(現・茨城県)に入るルートだったが、後に、上総国を経由しないで通るルートに変更された。また、別路として、下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)及び常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)付近を通るルートがあったとされている。それが「眞敷(ましき)」駅(現・千葉県成田市南敷?)~「板来(いたく)」駅(現・茨城県潮来市潮来?)~「曾尼(そね)」駅(現・茨城県行方市玉造?)~常陸国府(現・茨城家石岡市総社一丁目)というルートで、「板来」駅家と「曾尼」駅家のことは「常陸国風土記」行方郡条にも記載がある。「板来」駅家についての「常陸国風土記」の記事によれば、「板来村がある。海辺に近接して駅家を置いている。これを板来駅という。」(現代語訳)となっており、海辺というのは、現・潮来市は常陸利根川の左岸(北岸)に位置するが、古代、南側には内海の「香取海」が広がっていて、対岸の下総国から船で渡ってきたからだろう。因みに、「板来」という地名は、潮(海水)を方言で「イタ」と呼び、その打ち寄せるところとして「伊多来」、「板来」と当て字していたのを、元禄11年(1698年)に第2代水戸藩主・徳川光圀が「潮来」と改称したともいわれている。ところで、現在の「潮来」が「板来」の遺称地であることはほぼ間違いないとしても、「板来」駅家の遺跡はまだ見つかっていないので、厳密には所在地は確定していない。よって、「長勝寺」境内が「板来」駅家の跡とは断定できないが、「稲荷山」という山の南麓にあって、南側は常陸利根川に近いので、十分あり得ることだろう(なお、「稲荷山」は現在「稲荷山公園」となっていて、全長約28mの前方後円墳など8基が確認されている「稲荷山古墳群」がある。)。「鹿島神宮」が重要視されたのは、ヤマト政権からの蝦夷征討政策の前線基地だったからという説がある。その意味でいえば、蝦夷征討は奈良時代末~平安時代初めには概ね一段落し、その後は融和政策が採られていく。「板来」駅は、「日本後記」によれば、弘仁6年(815年)に廃止となっているが、これはそうした経緯の中でのことかと思われる。
蛇足:現・潮来市から常陸国府があった現・石岡市までは、現・霞ケ浦の東岸を北東に進めば、自然に到着する(国道355号線がある。)が、古代東海道のルートとしては行方台地上を通る、現在で言えば茨城県道50号線(水戸神栖線)が概ね相当したらしい。また、潮来からは、「鹿島神宮」に向かう支道があったと思われる。現在もJR鹿島線があり、「香取神宮」の最寄駅である「香取」駅から「潮来」駅を経由して「鹿島神宮」駅に行く。「鹿島神宮」の地政学的な意味は上記の通りだが、このルートでは2回、「香取海」を越える(現・常陸利根川と北浦)ことになるので、これも駅家の維持が難しくなった理由の1つではなかろうかと思われる。なお、「板来」駅家の所在地としては、潮来市潮来付近ではなく、潮来市延方(新宮地区)とする説も有力。こちらの方が、北浦を隔てて「鹿島神宮」とすぐ向かい合う場所にあり、「常陸国風土記」に「板来の南の海に、周囲3~4里(約1.5~2km)の洲がある。春には香島・行方両郡の男女が集まり、様々な貝を拾う。」という記述によく適合するとされる。

海雲山 長勝寺(かいうんざん ちょうしょうじ)。
場所:茨城県潮来市潮来428。国道51号線「土木事務所入口」交差点から南へ約110m進むと、広い「潮来市営長勝寺東駐車場」(無料)がある。山門へは、そこから南西へ約300mだが、途中の道路も狭い住宅地なので、自動車の場合は市営駐車場に止めれば、すぐ西側が「長勝寺」である。なお、JR鹿島線「潮来」駅からは、山門まで約650m(徒歩約8分)。
創建時期は不明だが、文治元年(1185年)に源頼朝が武運長久を祈願して創建したとの伝承がある。現存する銅鐘(国指定重要文化財)は、その銘によれば、元徳2年(1330年)、源頼朝の追善供養のために相模禅定門崇鑑(鎌倉幕府第14代執権・北条高時)が大檀那となって奉納したものとされる。仏殿(本堂)は室町時代後期のもので、茨城県指定有形文化財となっている。しかし、江戸時代には寺勢が衰え、荒廃していたため、これを憂えた水戸藩第2代藩主・徳川光圀が京都「妙心寺」第253世住職を務めた太嶽祖清禅師を招いて中興開山し、諸堂宇を再建した。楼門・方丈・書院・玄関・隠寮・庫裡(これらも茨城県指定有形文化財)などは、再建された元禄年間(1688~1704年)頃のもので、その後、幕府からも寺領10石の朱印状を賜り、隆盛したという。現在は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は阿弥陀如来(伝・運慶作とされ、両脇侍像と共に茨城県指定有形文化財)。


写真1:「長勝寺」山門と寺号標(「長禅禅寺」)


写真2:山門(楼門)。元は真言宗豊山派「普門院」(現・潮来市洲崎)の山門を移築したものという。山門前は桜の名所となっている。


写真3:仏殿(本堂)


写真4:「文治梅(ぶんじばい)」。源頼朝手植えという梅の古木。傍にあるのは、「三吟句碑」で、俳人の松江・芭蕉・曾良の連句を記した石碑。


写真5:鐘楼。銅鐘は「常陸三古鐘」の1つとされる(他の2つは、茨城県土浦市の「等覚寺」と「般若寺」のもの。)。


写真6:勢至堂


写真7:玄関


写真8:「潮来の駅家跡」木碑。目立たない場所にあり、説明板もないので、多くの観光客には顧みられないことだろう。
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常陸国の古代東海道(その3・曾禰駅)

2022-03-26 23:32:00 | 古道
「延喜式」(平安時代中期)に記載された、古代東海道の常陸国に入って2番目の駅家は「曾禰(そね)」駅になる。そして、その先は終点の「常陸国府」(現・茨城県石岡市)なので、結局、常陸国の駅家は「榛谷」駅(2022年1月22日記事)と「曾禰」駅の2つだけとなる。ただし、「常陸国府」から陸奥国や下野国に向かう連絡道もあったので、「常陸国府」内に駅家機能もあったと考えられている。
「曾禰」駅の所在地は、まだ確定されていない。遺称地もないので比定が難しいが、「そね」というのは自然堤防を指す地形地名とされていることもあり、通説は現・茨城県土浦市上高津付近とする。ここは現・霞ケ浦の西浦に注ぐ桜川の右岸(南岸)に当たり、標高20~22mの台地上に縄文時代後期~晩期の集落跡があって、「上高津貝塚」として国指定史跡に指定されている。現在は「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」として公園化されていて、「考古資料館」も併設されている。貝塚は、明治時代に表面採取資料で知られるようになり、昭和5年以降、発掘調査等が行われてきた。貝層は1~1.5mの厚さで、淡水産のシジミを主体として、ハマグリ・アサリ・カキなど海水産を含む。つまり、この辺りが桜川の河口であり、巨大な内海だった所謂「香取海」に注いでいたと思われる。公園内に、貝層の断面が展示されているほか、縄文時代の竪穴住居や掘立柱建物等が復元されている。貝塚のほか、土偶・腕輪・製塩土器なども出土しているが、集落区域については、未発掘のままとなっている。
さて、当地付近が「曾禰」駅の所在地と推定されているのは、上記の通り、「そね」という地形(桜川の自然堤防である台地)、前後の駅家推定地との距離などの理由によるが、他に、「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」の西端を南北に通る通称「鎌倉街道」の存在も挙げられる。「鎌倉街道」は、有事(「いざ鎌倉」)の際に、各地から鎌倉幕府があった現・神奈川県鎌倉市に向かう古道の総称で、当地のもその1つの可能性がある。この道を北に向かうと、平安時代に開基の伝承があり、鎌倉時代に栄えた「龍王山 釈迦院 般若寺」(次項予定)の前を通ることから、古代にまで遡る可能性があるとされている。
なお、「常陸国風土記」行方郡条に、「曾尼(そね)」駅家についての記述がある。かつては、これが「曾禰」駅家と同じものかどうかについて、説が分かれていた。それによって想定ルートが大きく変わってくることになるのだが、現在では「曾禰」駅と「曾尼」駅は別地であることが通説になっている(「曾尼」駅については、いずれ書きたいが、かなり先になりそう。)


「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」のHP

文化遺産オンラインのHPから(上高津貝塚)


写真1:「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」内の「土浦市立考古資料館」


写真2:同上、「上高津貝塚」


写真3:同上、貝塚の地層の断面


写真4:同上、竪穴住居など(復元)


写真5:同上、「鎌倉街道」と称される道。江戸時代末の絵図に、土浦藩の巡検路として記載されているが、古代まで遡る可能性があるとされる。
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常陸国の古代東海道(その2・榎浦津駅)

2022-02-05 23:25:46 | 古道
「常陸国の古代東海道(その1・榛谷駅)」(2022年1月22日記事)で書いたが、「常陸国風土記」(養老5年(721年)成立)では、古代東海道の常陸国最初の駅家は「榎浦津(えのうらのつ)」駅だが、「延喜式」(延長5年(927年)完成)には「榎浦津」駅家の記載はなく、常陸国最初の駅は「榛谷」駅になっている。この間に、古代東海道のルート変更があったことによるものとみられるが、厳密にいえば、「常陸国風土記」には「榎浦之津」に駅家がある、と書かれているだけで、駅名はない(このため、資料によっては「榎浦」駅と称しているものもある。)。そこで、「榎浦津」駅と「榛谷」駅を同じ場所とする説もあり、別とする説も比定地には諸説ある。現・茨城県稲敷市のどこか、ということはおおむね一致するが、具体的には、江戸崎(「榎浦」と音が似ている、小野川河口に「榎浦」という浅い沼があった(現在は干拓され、稲波という地名になっている。))、羽賀(「榛谷(ハンタニ、ハンダ?)が訛ったもの)、下君島(古代廃寺跡がある等)など。そうした中で、現在、「榎浦津」駅の比定地として有力になっているのが、柴崎である(旧・新利根町)。
「常陸国風土記」によれば信太郡の南は「榎浦の流れ海」で、これが下総国との国境でもある。標高などからみて、古代信太郡の南端とみられる旧・新利根町中心部辺りは古代でも陸地で、東に舌状に伸びた半島になっていて、柴崎の西部は南に突き出した岬だったと思われる。そうすると、下総国から船で「香取海」を渡ってきた柴崎付近に港(津)があるのが自然で、羽賀や下君山、江戸崎では、岬を回っていかなければならないので船による距離が長くなり過ぎるのではないかと思われる。柴崎を南北に流れて新利根川につながる用水路があるが(「柴崎橋」の東側に堰がある。)、その用水路の東側、新利根川の南側が「榎浦流海」(「香取海」の一部)だったのではないか。とすると、「延喜式」のルートでは遠回りになるので、「榎浦津」駅と「榛谷」駅は別の場所だったと考えられる。「榎浦津」駅家の具体的な場所は、周囲より一段高くなっている現・「新利根小学校」付近と推定され、その微高地の東端にある「新宿遺跡」からは古墳時代~中世の土器の散布がみられるという(茨城県教育庁文化課「古代東海道と古代の道」)。
蛇足:軍記物語「将門記」には、承平6年(936年)、平良兼が平良正(平将門の叔父だが、敵方)に味方するため、上総国武射郡から下総国香取郡の神前の津を経て常陸国信太郡の苛前の津に渡り、そこから良正の根拠地「水守営所」(「水守城跡」(2020年9月5日記事))に着いた、という記述がある。このとき、良兼は上総・下総の国司とのトラブルを避けるため「少道」(間道)を通ったとされるので、古代東海道のルートではなく、「神前の津」から常陸国に渡ったらしい。「神前の津」というのは、下総国式外社「神崎神社」(2014年2月15日記事)が鎮座する丘(現・千葉県神崎町)が当時は「香取海」に突き出した岬のようになっていたので、その付近が津(港)になっていたと思われる。「苛前の津」(「苛」は原文では草冠に奇。この字はどの辞書にもないが、「エ」と読ませるようである。よって、「えのさきのつ」というのだろう。)は「榎浦之津」と同一とみられるが、確証はない。もし、それが「榎浦之津」と同じなら、少なくとも平安時代中期まで「榎浦之津」は機能していたことになろう。


写真1:現・稲敷市柴崎の「柴崎用水路」。新利根川につながる「柴崎堰」から北を見る。背後(南側)に新利根川が東西に流れている。古代には、この用水路の左側(西)が陸地、右側(東)が「香取海」で、その陸地側に「榎浦之津」(港)があったのではないだろうか。


写真2:水路に沿って長い真っ直ぐな道路がある。左手の方が高く、左手の方が低くなっているのがわかる。右手は住宅地、左手は水田である。


写真3:「柴崎橋」の北、約200mのところにある神社。立派な鳥居もあるが、地図にもない小社で、詳細不明。


写真4:新利根川。江戸時代寛文年間に付け替えられた利根川の新川。利根川の北を東西に流れている。
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常陸国の古代東海道(その1・榛谷駅)

2022-01-22 23:32:41 | 古道
当ブログでは過去に、駿河国と下総国の古代東海道に関連するシリーズ記事を書いた。常陸国についても書こうと思うのだが、常陸国には他国とはちょっと違った事情がある。例えば、①他国では、史料的な制約で、「延喜式」(平安時代中期)に記載された駅家を繋ぐルートを「古代東海道」としているが、「常陸国風土記」(奈良時代初期)には「延喜式」とは異なる駅家についての記載があり、それぞれが編纂された時期によってルート変更があったらしいこと、②古代には所謂「香取海」という巨大な内海が現・茨城県南部に広がっており、陸地も低湿地が多かったなど、現在の地形と大きく異なっていたとみられること、③古代東海道は国府と国府を結ぶものではなく、(連絡路はあったとしても)国府(国庁)や郡家を素通りするルートを通っていることが多いが、常陸国では、その国府(現・茨城県石岡市、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照)が終点であったこと、などがあげられる。
ということで、具体的には、「常陸国風土記」信太郡の条に「榎浦の津(港)がある。ここに駅家が置かれている。東海道の本道で、常陸国の入口である。このため、伝駅使(はゆまつかい)らが初めてこの国に入ろうとするときに、まず口を漱ぎ、手を洗って、東を向いて香島大神(常陸国一宮「鹿島神宮」)を拝してから入るのである。」(現代語訳)という記述がある。一方、「延喜式」には「榎浦津」駅家の記載は無く、常陸国最初の駅家は「榛谷」となっている。いずれも遺称地は無く、その比定地には諸説ある。厳密にいえば「常陸国風土記」では駅家自体の名は記載されていないので、通称「榎浦津」駅と「榛谷」駅が同じ場所なのか、別なのか、これも説が分かれている。とりあえず、ここでは「延喜式」記載のルートとされるものを考える(「榎浦津」駅については別項で書く予定。)。
「延喜式」所載の下総国最後の駅家「於賦(おふ)」(2013年7月27日記事参照)比定地も未確定だが、現・茨城県利根町布川(利根町役場付近)という説が有力で、そこから北東~北へ向かって直線的な現・茨城県道4号線(千葉竜ケ崎線)が走っているのをみると、かなり納得できる説と思う。因みに、県道の東(現・利根町立木)に下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事)があり、県道沿い(龍ケ崎南高校前)に日本武尊所縁の「弟橘媛の櫛塚」(2013年8月3日記事)がある。問題はその後で、古代官道の研究家・木下良氏(國學院大學教授など)によれば、「延喜式」写本の1つである九條家本に傍注があり、「榛谷」を古くは「坂田」とも書いたらしいので、これを「はんた」と読むならば、「榛谷」を「はんたに」と読んで(なお、「榛」は植物のハシバミ、またはハンノキを指す。「榛谷」の通常の読み方は「はりがや」又は「はんがい」だろうか。)、現・茨城県龍ケ崎市半田町(はんだまち)に比定する。そのため、県道4号線が関東鉄道竜ヶ崎線「竜ヶ崎」駅付近に突き当たるところで、東に向きを変えて進むと想定している(因みに、関東鉄道竜ケ崎線が下総国と常陸国の境界線に近い。)。「竜ヶ崎」駅周辺は龍ケ崎市の中心市街地で、古代とは地形も変わっているだろうから、どの辺りを通ったか不明だが、少し東に進んで茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)に入ると、途中で、「稲敷郡」の名の由来となったといわれる「稲塚古墳」(2020年10月24日記事)の前を通る。「稲塚古墳」が「常陸国風土記」信太郡の条にある「飯名神社」所在地であるとすれば、現・半田町も(古代)信太郡域にあったことになるだろう。平安時代中期の「和名類聚抄」では信太郡14郷のうちに「駅家郷」があるとしている。「駅家郷」の比定地は未確定だが、「和名類聚抄」と「延喜式」は成立時期が近いので、平安時代の古代東海道のルートでも信太郡内に駅家があり、それが現・半田町付近でもおかしくはないことになる。
ただし、そもそも、何故「竜ヶ崎」駅付近で方向を変えるのか、現・石岡市に向かうなら単純にそのまま北上すれば良いのではないかという疑問は残る。地形的な問題か、あるいは、平安時代中期になると、律令制維持が難しくなってきて、新たな道路を伸ばすことができなかったのかもしれない。通説では、「榛谷」駅家(現・半田町)から北東に向かい、現・茨城県稲敷市下君山から稲敷郡阿見町竹来付近に通じていた奈良時代の古代東海道に接続し、その道路を利用して現・阿見町を経て現・土浦市~石岡市方面に向かったと考えられている。どこで接続していたかは諸説あるが、現・稲敷市下君山の東側から現・牛久市奥原町の北端辺りまでの間とみられる。現・下君山には「下君山廃寺跡」遺跡があり、現・奥原町の古代集落跡「姥神遺跡」からは貴族しか使わないような「宝珠硯」(牛久市指定文化財)や多くの墨書土器が出土していることから、古代東海道との関連が指摘されている。
確かに、現在コンビニ「セブンイレブン龍ヶ崎半田町店」のある辺りが丘の下で(駅家としては丘の上よりも水などが得やすい丘の下辺りの平地の方が良い。)、ちょうど方向転換の屈曲点でもあるのが、駅家としての立地上、適当な感じはする。そして、北東へ向かい、現在、乙戸川と小野川が合流する辺りを渡って、現・牛久市奥原町を進んで、奥原町の北端辺りで奈良時代の東海道に接続したのではないかと思う。確たる根拠は無いのだが、奥原町に入ったところに「鹿嶋大神宮」が鎮座している。他国では、国土開発の神は大国主神が多いが、常陸国では鹿島神(武甕槌神:タケミカヅチ)であることも多い。古代官道の守護神であってもおかしくはない。


牛久市のHPから(姥神遺跡)


写真1:東西に走る茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)と南北に走る同68号線(美浦栄線)の「半田町」交差点。南東角から北西角を見る。写真の左手側(西)が龍ケ崎市市街地方面、正面やや右手奥が阿見町方面(北)になる。正面に見える丘(比高約20m)が「満願寺」のある「登城山城館跡」という中世城館の址。県道5号線は北東方向に進んできたが、この交差点を過ぎると南東方向に向かうので、これ以上進むとかなり遠回りになるだろう。


写真2:天台宗「満願寺」入口(場所:龍ケ崎市半田町993)


写真3:同上、本堂。南北朝時代の延元2年(1337年)創建という。


写真4:「鹿嶋大神宮」鳥居(場所:牛久市奥原町2222。)


写真5:同上、参道


写真6:同上、石段。かなり急な登りになる。


写真7:同上、社殿。大同元年(806年)、常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請して創建されたという。祭神:武甕槌命。なお、茨城県神社庁のHPでは「鹿島神社」となっている。
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