神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

神明神社(茨城県取手市上高井)

2025-03-01 23:33:57 | 神社
神明神社(しんめいじんじゃ)。
場所:茨城県取手市上高井516。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から南東へ約1.1kmで右折(南西へ。県道を関東鉄道常総線「稲戸井」駅方面へ)、約350m進んで、左に(北へ)カーヴする手前の狭い道路(車1台分の幅、舗装あり)を南東へ約150m。駐車スペースあり。
社伝によれば、長治元年(1104年)、平将門の孫・相馬文国が勧請、天正10年(1582年)、龍太夫が再建したという。龍太夫という人物については不明だが、「伊勢神宮」に属して祈祷や参詣案内などを行う「御師(おんし)」だったのではないかといわれている。明治5年、村社に列格。祭神:天照大神。
下総国相馬郡は、将門の乱後、将門の叔父・平良文の所領として認められた。良文の孫・平忠常は下総国・常陸国・上総国に広く勢力を張り、千葉郡を本拠地として千葉介を称して千葉氏の祖となった。その8代目の子孫である千葉氏当主・常重は千葉郡の郡司に加え、相馬郡の郡司も兼ねたが、大治5年(1130年)、相馬郡布施郷を「伊勢神宮」内宮に寄進した。これが「相馬御厨」の成立で、その範囲は、現・茨城県守谷市・取手市及び千葉県野田市・柏市・流山市・我孫子市に及ぶとされる。当地に「神明神社」が勧請されたのは、この「相馬御厨」の守護神とされたからだろう。社伝を信じるなら、当神社の創建は「相馬御厨」の成立より少し早いことになるが、事前に「伊勢神宮」側から寄進の勧誘活動があったのかもしれない。その後、常重の孫・師常が相馬郡を領有し、相馬氏を名乗った。これが後に現・福島県南相馬市に移り、江戸時代を生き抜いて明治時代に華族となった奥州相馬氏の最初である。その相馬氏は、近世に作られた系図では、平将門の直系であるとしている。それは、将門の死後、将門の次男・将国が常陸国信田(信太)郡に逃れ、信田氏を名乗る。当神社の社伝にいう相馬文国は、将国の長男(=将門の孫)に当たる。その子孫・師国には子がなかったので、相馬師常が養子となったというものである。ただし、これは伝説に過ぎず、いわゆる貴種流離譚の一種で、相馬氏の権威を高めようとする意図で創作された可能性が高いものと思われる。
なお、取手市米ノ井にも「神明神社」(旧村社、祭神:天照大神)があるが、創建時期・由緒とも不明。近世に「神明神社」(上高井)から分社されたものらしいという。


発掘情報いばらきのHPから(神明遺跡)


写真1:「神明神社」(上高井)鳥居


写真2:同上、境内の「道祖神」碑


写真3:同上、社殿


写真4:境内社(「稲荷神社」と思われる。)。左は弁才天。


写真5:同上、社殿背後の石祠。風化のせいか「  宮」の文字しか読めない。「天満宮」か?


写真6:「神明遺跡」標柱。「神明神社」(上高井)の南西、約140m(直線距離)、県道328号線沿いに立てられている。「神明神社」を中心とした200~300mの範囲に縄文時代晩期~終末期頃の集落跡が発見された。これまでに、大型住居跡、大型柱穴(ただし、上部構造は不明)、石鏃・石棒などの石器、製塩土器を含む土器などが出土している。


写真7:「神明神社」(上高井)の別当寺院であった天台宗「若宮山 慈光院 八幡寺」(廃寺)本堂。茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)の末寺で、本尊は阿弥陀如来。(「神明神社」(上高井)の北西、約140m(直線距離)。県道328号線沿い。駐車スペースあり)


写真8:同上、境内入口にある観音霊場巡りの記念碑と「叶観音(かなうかんのん)」像


写真9:同上、スダジイの古木と小堂。小堂の中の石像は、智拳印を結んでいるようなので、金剛界大日如来かと思われる。背後のスダジイは結構太い木だと思うのだが、「取手市の巨木と名木」(2010年)には掲載されていない。


写真10:「神明神社」(米ノ井)鳥居(場所:取手市米ノ井386-3。国道294号線に面するコンビニ「ファミリーマート取手米ノ井店」の東側の道路を南西へ約350m。駐車場なし)


写真11:同上、社殿


写真12:同上、境内の小堂(子育地蔵堂)


写真13:同上、庚申塔など


写真14:同上、イチョウの木の下にある石神像や石祠


写真15:同上、ケヤキの巨木。こちらは取手市指定の保存樹木で、樹高22.5m・幹回り5.5m、推定樹齢310年(「取手市の巨木と名木」による。)。なお、同境内には樹高22m・幹回り3mのカヤの木もある。
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駒形神社(千葉県野田市)

2025-01-18 23:31:51 | 神社

駒形神社(こまがたじんじゃ)。
千葉県野田市木間ケ瀬3623。千葉県道17号線(結城野田線)「新宿」交差点から東へ約1.7km。駐車スペースあり。
社伝等によれば、天慶年間(938~947年)、平将門が当地の農家・白石家を訪れ休息したとき、ちょうど正月14日に若餅を搗いて祝う風習があり、将門にも振舞った。ところが、将門の馬が餅の入った水を飲み、喉に詰まらせて死んでしまった。将門は何も咎めなかったが、白石家では馬を哀れみ、以前からあった保食神の祠の傍らに埋葬して、駒形大明神と呼ぶようになった。なお、白石家では、それ以来、若餅は搗かなくなったという。現在の祭神は、武甕槌命。
因みに、当地の地名(字名)の「木間ケ瀬(きまがせ)」は、「駒(こま)」に由来するという。また、利根川の対岸(下総利根大橋を渡ったところ)に茨城県坂東市木間ケ瀬があって、江戸時代初めの利根川東遷事業(東京湾に注いでいた利根川を現・千葉県銚子市を河口とするように付け替えた土木工事)の前は、一体であったと思われる。そして、坂東市木間ケ瀬の北側に長須という地名がある。これは、「延喜式」にも記載がある平安時代の官牧の1つ「長洲馬牧(ながすのうままき)」の遺称地とされている。将門は、下総国の官牧を実質的に支配していたという説もあり、当神社の社伝等が実話かどうかは不明だが、当地が将門や馬との関わりが深いことが窺われる。


写真1:「駒形神社」鳥居。扁額は「正一位駒形大明神」。なお、当神社境内は彼岸花(ヒガンバナ)の名所とのこと。


写真2:鳥居の傍らの青面金剛像など。


写真3:境内社「大杉大神」


写真4:「駒形神社」社殿(南向き)。境内全体が一段高く、南北に長い島のようになっていて、周囲を道路が一周している。社殿は更に高く、塚の上にあるような形になっている。


写真5:「駒形神社」の裏(北側)にある志部集会所と墓地。集会所の前に大きな木の切り株がある。


写真6:集会所の北側に鎮座する「稲荷神社」一の鳥居


写真7:同上、二の鳥居


写真8:同上、社殿(西向き)。「駒形神社」の社伝等の通りなら、こちらのほうが先に存在したことになろう。

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白山神社(千葉県野田市木間ケ瀬)

2025-01-11 23:31:42 | 神社

白山神社(はくさんじんじゃ)。通称:飯塚白山神社。
場所:千葉県野田市木間ケ瀬475。千葉県道7号線(我孫子関宿線)と同162号線(岩井関宿野田線)の「野田市木間ヶ瀬北」交差点から南に230mで右折(西へ)、約270m。駐車スペースあり。
創建時期は不明。伝承によれば、慶雲2年(705年)、疫病が流行したときに祈願した場所という。あるいは、慶雲2年(705年)は全国的に大旱となったので、税を半分にし、東国の各地では加賀国一宮「白山比咩神社」(現・石川県白山市)を勧請して降雨祈願をしたが、当神社もその1つであろう、ともいう。天慶年間(938年~947年)、平将門が京都からの帰途に当地を訪れたとき、村人に歓待されたことに喜び、当神社に3本、浅間神社に2本、香取神社に2本の桜の木を植えたとされ、これを「木間ケ瀬の七本桜」と称した(植えた場所、植えた本数などに諸説あり。)。現在も境内に桜の木はあるものの、もちろん樹齢千年を超すようなものではないが、親木が枯れても、また根元から新芽が出て、何代も続いているとされる。平安時代末期、将門と同じ桓武平氏良文流の千葉氏の崇敬を受けた。元禄・宝永年間(1688~1711年)、領主・深津氏が社殿を修復したという。現在の祭神は、伊弉冉命(イザナミ)。
なお、当神社の社殿東側から真っすぐ南東に伸びる参道があるが、その突き当りを左折(北東へ)したところ(当神社から徒歩2~3分)に「平将門手植えの桜」の石碑と桜の木がある。
蛇足:全国約3000社あるという「白山神社」の総本社とされる加賀国一宮「白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)」の現在の祭神は、白山比咩大神=菊理媛神(ククリヒメ)・伊奘諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の3柱で、近世までは神仏混淆により総称して白山妙理権現といい、本地仏を十一面観世音菩薩としていた。ただし、この祭神については、菊理媛神が「日本書紀」の一書に一瞬出てくるだけで、正体不明な神であることもあって、ククリヒメとイザナミを同一神とする説もあったようである。この辺り、歴史的な経緯を含めてかなり複雑なので詳細は省くが、イザナギが「黄泉(よみ)」(死者の国)から脱出するときに現れた神なので、穢れを祓う神と考えられ、「白山」(標高2702m)の「白い」=「清浄」というイメージと結びついたともいわれている。また、「白山」霊場を開いたとされる奈良時代の僧(修験者)・泰澄は、瞑想中に緑碧池(翠ヶ池)から白山妙理権現の本地仏である十一面観世音菩薩の垂迹である九頭龍王が出現したのを契機とする、との伝説がある。こうしたことが、「白山神社」に疫病封じや降雨の御利益を求める根拠となっているものと思われる。


写真1:「白山神社」鳥居。参道の左手に桜並木がある。


写真2:境内? 自治会館の前にあるスダジイ?の巨木


写真3:灯篭と拝殿。拝殿の前にも桜の木。拝殿横(向かって左)にはクスノキの大木がある。


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:境内の青面金剛像などの石造物


写真7:同上、石造の御嶽三尊像。左「三笠山刀利天」、中央「座王権現」、右「八海山提頭羅神王」。山岳宗教である「御嶽山」信仰の神々で、「座王権現」は主神で国常立尊・大己貴命・少彦名命の3柱の総称、「三笠山刀利天」は「三笠山」頂上に祀られる豊斟渟尊(トヨクムヌ)、「八海山提頭羅神王」は「八海山」に祀られる国狭槌尊(クニサヅチ)という。


写真8:「平将門手植えの桜」の石碑と桜の木


写真9:(右)「平将門手植之櫻 古人之口碑」石碑、(左)「将門霊神」石塔

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香取神社(茨城県坂東市沓掛)

2025-01-04 23:35:20 | 神社
香取神社(かとりじんじゃ)。通称:沓掛香取神社。
場所:茨城県坂東市沓掛4120-1。茨城県道20号線(結城坂東線)「沓掛南」交差点から南へ約150m、コンビニエンスストア「セブンイレブン茨城沓掛店」の前で右折(西へ)、約60mで左側(南側)に駐車場入口、右側(北側)に二の鳥居がある。
創建時期は不明だが、社伝によれば、経津主命の傍系孫・美計奴都加佐命が神籬(ひもろぎ。神を迎える依り代)を立て、祖神を奉斎したのが始まりという(ということは、下総国一宮「香取神宮」からの勧請ではないということだろうか。美計奴都加佐命については不詳。)。大同2年(807年)、空海(弘法大師)の巡錫の折、神社裏に十一面観音が勧請された。弘仁元年(810年)に再び空海が参詣して別当寺院「香取山 金乗院」を建立し、社僧を置いて奉仕させた。天慶2年(940年)、平将門が社殿を造営。正長元年(1428年)、下総結城氏11代当主・結城氏朝が社殿を修築し、刀剣(来国行の作)を奉納した。正徳2年(1712年)、神階正一位に進む。享保9年(1724年)、徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗の命による飯沼の開発(新田3000町歩)に際して沿岸の31ヵ村の名主らが起誓文を捧げて大願成就を祈願し、完成後の享保13年(1728年)には飯沼地方民が本殿と大鳥居一基を奉納した。寛政10年(1798年)、疫病流行のため氏子及び近郷から「金乗院」に大般若経六百巻の奉納があり、社寺で大祈願祭が行われた。天保年間(1830~1844年)、「愛宕神社」の軻遇突智大神を合祀した。明治初期に「金乗院」は廃寺となり、明治6年、村社に列格。現在の祭神は、経津主大神(伊波比主命)と軻遇突智大神。


茨城県神社庁のHPから(香取神社)


写真1:「香取神社」一の鳥居


写真2:二の鳥居、社号標


写真3:二の鳥居横にある神木の欅(ケヤキ)の巨樹。根元に境内社「日枝社(祭神:大山咋神)・庚申社」がある。


写真4:同上、光明真言供養碑や三猿の庚申塔がある。


写真5:同上、西側から見る。根元の太さがよくわかる。樹高約19m・目通り幹囲約7m、推定樹齢200~300年という。


写真6:拝殿


写真7:本殿(覆屋)。本殿は極彩色の豪華な彫刻で飾られているというが、外からは見えない(茨城県神社庁HPの当神社のページに写真があります。)。茨城県指定文化財。平成3~4年に修復され、かつての色彩が蘇ったという。


写真8:境内社「春名神社」(祭神:速須佐男命、櫛名田姫命)
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蛇池大明神(茨城県境町)

2024-11-09 23:33:40 | 神社
蛇池大明神(じゃいけだいみょうじん)。
場所:茨城県猿島郡境町蛇池55。茨城県道17号線(結城野田線)「長井戸北」交差点から東へ約1.2km、「境町消防団第六分団」倉庫の斜め向かい側の狭い道路に入り、南に約120m。駐車場なし。
「蛇池大明神」は、現・茨城県境町の「蛇池」という地名(旧・「蛇池村」)の由来となったとされる大蛇伝説の池の傍らに建つ小祠である。大蛇伝説には2種類あり、その1つは次のとおり。現在は周りがすっかり農地になってしまったが、昔は椿(ツバキ)の木が鬱蒼と茂り、昼でも暗い池があった。そこに長さ十間(約18m)という大蛇が棲んでいて、村人から恐れられていた。見かねた近くの寺の住職・正進法印が、大蛇に向かって「しばらく他の場所に移ってもらいたい」といって、証文代わりに「十年」と書いた水晶の玉(あるいは米粒)を池に投げ入れた。これを見て、大蛇は印旛沼(現・千葉県北部)に引っ越して行ったが、約束の十年が過ぎて、元の池に帰ってきた。ところが、水晶玉の「十」の上に「ノ」が書き加えられていて、「十年」が「千年」になっていた。そこで、大蛇は、仕方なくまた印旛沼に戻っていった。村の者が印旛沼に行くと沼が荒れ狂う、というものである。印旛沼を鵠戸沼(くぐいどぬま。現・境町と坂東市に跨って存在した大きな沼で、現在は干拓されて水田になっている。)とするヴァリエーションもあるが、話の筋には殆ど影響がない。ただ、この話だけだと、大蛇を大明神として祀る必要性があまり感じられない(出て行ってくれたことに感謝した?)。また、大亀を相手に、「十」を「千」に書き換えて騙す話は現・常総市の「寿亀山 天樹院 弘経寺」(2021年5月29日記事)にもある。どちらが先かはわからないが、似たような話が他所にもあるということになる。さて、伝説の2つめは、次のようなものである。村にとても貧しい子沢山の百姓がいたが、金に困り3人の娘を江戸に奉公に出すことにした。父親は娘らの奉公先から奉公金を受け取り、家に帰ろうとしたが、魔が差したのか、遊郭で金を使い果たしてしまった。家に帰り、妻から奉公金のことを聞かれた夫(父親)は、奉公金を遊びに使ったとは言えず、「帰る途中で、池の大蛇に奉公金を呑み込まれてしまった」と、大蛇のせいにした。それ以来、この噂を聞いた村の人々も、何かにつけて自分に都合が悪いことは大蛇の仕業にするようになった。村人のあらゆる悪事の濡れ衣を押し付けられることになった大蛇を憐れんだ、近くの寺の住職・正純法師は「十年間姿を隠し、村人の心が入れかわってから池に戻ってほしい」と頼んだ。こうして、大蛇は池から姿を消し、十年経って戻ってきたが、村人の様子は以前と全く変わっていなかった。このことに絶望した大蛇は、再び姿を消し、戻ってはこなかった。その後、反省した村人が大蛇を憐れみ、祠を建てて供養するようになった。これが「蛇池大明神」であるという。こちらのほうも、いまいち、すっきり腑に落ちるような話ではないと思うのだが、どうだろうか。
一般的には、蛇=竜は水の神で、よく池沼の傍らに祀られる。多くは、旱のときの雨乞い祈願を行ったりする。当地の場合、南に利根川が流れており、昔は沼沢地が多かった土地柄だったとすると、むしろ水害を治める役割があったのかもしれない。
蛇足:伝説は別にして、「蛇池」という名の由来については、「在家(ざいけ)」という言葉が訛ったものというのが有力。「在家」というのは、出家しないままで仏道に帰依した者という意味もあるが、歴史的には、中世の荘園や公領において、民・住屋・耕地を1セットで把握し、夫役などの負担を負わせる徴税賦課単位を指し、「在家」が領主の財産とされていた。東国では、室町時代まで「在家」支配体制が続いたという。天正2年(1574年)の「古河公方足利義氏料所目録」(喜連川文書)の「上幸嶋」分に「在家 清式部」とあり、この「在家」というのが旧・蛇池村のことであり、清式部太夫という人物の支配地だったのだろうと考えられている。


境町観光協会のHPから(蛇池(大蛇伝説))


写真1:「大蛇伝説の池」。説明板がある。


写真2:「蛇池大明神」鳥居


写真3:同上、祠。「弘化三年 蛇池大明神」銘があるという(弘化三年は1846年)。


写真4:「大蛇伝説の池」。周囲約60m。訪問した時には、殆ど水が涸れていた。


写真5:同上


写真6:同上
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