場所:茨城県取手市上高井516。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から南東へ約1.1kmで右折(南西へ。県道を関東鉄道常総線「稲戸井」駅方面へ)、約350m進んで、左に(北へ)カーヴする手前の狭い道路(車1台分の幅、舗装あり)を南東へ約150m。駐車スペースあり。
社伝によれば、長治元年(1104年)、平将門の孫・相馬文国が勧請、天正10年(1582年)、龍太夫が再建したという。龍太夫という人物については不明だが、「伊勢神宮」に属して祈祷や参詣案内などを行う「御師(おんし)」だったのではないかといわれている。明治5年、村社に列格。祭神:天照大神。
下総国相馬郡は、将門の乱後、将門の叔父・平良文の所領として認められた。良文の孫・平忠常は下総国・常陸国・上総国に広く勢力を張り、千葉郡を本拠地として千葉介を称して千葉氏の祖となった。その8代目の子孫である千葉氏当主・常重は千葉郡の郡司に加え、相馬郡の郡司も兼ねたが、大治5年(1130年)、相馬郡布施郷を「伊勢神宮」内宮に寄進した。これが「相馬御厨」の成立で、その範囲は、現・茨城県守谷市・取手市及び千葉県野田市・柏市・流山市・我孫子市に及ぶとされる。当地に「神明神社」が勧請されたのは、この「相馬御厨」の守護神とされたからだろう。社伝を信じるなら、当神社の創建は「相馬御厨」の成立より少し早いことになるが、事前に「伊勢神宮」側から寄進の勧誘活動があったのかもしれない。その後、常重の孫・師常が相馬郡を領有し、相馬氏を名乗った。これが後に現・福島県南相馬市に移り、江戸時代を生き抜いて明治時代に華族となった奥州相馬氏の最初である。その相馬氏は、近世に作られた系図では、平将門の直系であるとしている。それは、将門の死後、将門の次男・将国が常陸国信田(信太)郡に逃れ、信田氏を名乗る。当神社の社伝にいう相馬文国は、将国の長男(=将門の孫)に当たる。その子孫・師国には子がなかったので、相馬師常が養子となったというものである。ただし、これは伝説に過ぎず、いわゆる貴種流離譚の一種で、相馬氏の権威を高めようとする意図で創作された可能性が高いものと思われる。
なお、取手市米ノ井にも「神明神社」(旧村社、祭神:天照大神)があるが、創建時期・由緒とも不明。近世に「神明神社」(上高井)から分社されたものらしいという。
発掘情報いばらきのHPから(神明遺跡)
写真1:「神明神社」(上高井)鳥居

写真2:同上、境内の「道祖神」碑

写真3:同上、社殿

写真4:境内社(「稲荷神社」と思われる。)。左は弁才天。

写真5:同上、社殿背後の石祠。風化のせいか「 宮」の文字しか読めない。「天満宮」か?

写真6:「神明遺跡」標柱。「神明神社」(上高井)の南西、約140m(直線距離)、県道328号線沿いに立てられている。「神明神社」を中心とした200~300mの範囲に縄文時代晩期~終末期頃の集落跡が発見された。これまでに、大型住居跡、大型柱穴(ただし、上部構造は不明)、石鏃・石棒などの石器、製塩土器を含む土器などが出土している。

写真7:「神明神社」(上高井)の別当寺院であった天台宗「若宮山 慈光院 八幡寺」(廃寺)本堂。茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)の末寺で、本尊は阿弥陀如来。(「神明神社」(上高井)の北西、約140m(直線距離)。県道328号線沿い。駐車スペースあり)

写真8:同上、境内入口にある観音霊場巡りの記念碑と「叶観音(かなうかんのん)」像

写真9:同上、スダジイの古木と小堂。小堂の中の石像は、智拳印を結んでいるようなので、金剛界大日如来かと思われる。背後のスダジイは結構太い木だと思うのだが、「取手市の巨木と名木」(2010年)には掲載されていない。

写真10:「神明神社」(米ノ井)鳥居(場所:取手市米ノ井386-3。国道294号線に面するコンビニ「ファミリーマート取手米ノ井店」の東側の道路を南西へ約350m。駐車場なし)

写真11:同上、社殿

写真12:同上、境内の小堂(子育地蔵堂)

写真13:同上、庚申塔など

写真14:同上、イチョウの木の下にある石神像や石祠

写真15:同上、ケヤキの巨木。こちらは取手市指定の保存樹木で、樹高22.5m・幹回り5.5m、推定樹齢310年(「取手市の巨木と名木」による。)。なお、同境内には樹高22m・幹回り3mのカヤの木もある。
