熊野神社(くまのじんじゃ)。通称:明永山熊野神社(みょうえいざんくまのじんじゃ)。
場所:秋田県横手市睦成字明永町10。国道13号線「石町」交差点から東へ(横手市街方面へ)道なりに進み、突き当りを左折(北へ)、住宅地の中のやや狭い道路を約650m直進。駐車場なし(神社裏手に1台程度の駐車スペースあり。)。
社伝によれば、白鳳元年(672年)、役小角(役行者)が、赤子の泣き声を聞いて泣子沢(現・鳴見沢)と名づけた地に「熊野神社」を開創した。弘安9年(1286年)には、役行者の仙跡を尋ねてきた一遍上人(時宗の開祖)が再建したという。中世には別当寺として「明江山 神宮寺 遍照院」があって修験の修行地として栄え、36坊を擁したとされる。天文21年(1552年)の「小野寺合戦」のときに兵火にかかり神社・僧坊が全て焼失し、現在地に移転。その後も、元宮の地と現在地への移転を繰り返したが、現在の社殿は昭和56年改築のものとのこと(元宮については、次項で)。現在の祭神は、伊邪那岐・伊邪那美の大神ほか4柱。
さて、現在、出羽国式内社「塩湯彦神社」は、横手市山内大松川の「御嶽山」山頂に鎮座している神社に比定されている。ただ、その地は人里離れた山中にあり、冬は豪雪に閉ざされる。したがって、当神社が古くから「塩湯彦神社」祭礼のための里宮と考えられていたらしく、中世・近世を通じて時の領主にも庇護され、相応の格式と伝統をもって現在まで伝えられることになったものと思われる。
秋田県神社庁のHPから(熊野神社)
写真1:「熊野神社」正面、一の鳥居。社殿は小丘のうえにある。鳥居の扁額には「明永山熊野神社」とある。
写真2:一の鳥居脇にある「明江山神宮寺遍照院跡」の石碑。
写真3:ずらりと並ぶ鳥居。回りは杉の木立になっているが、願明けに杉の木を植える慣わしがあるらしい。鳥居や杉の木が多いのは、それだけ寄進する人が多かった証しだろう。
写真4:社殿。少しモダンな感じ。
写真5:社殿の裏は「明永沼」の堤になっており、そこから社殿が向いている方向(南西)に「鳥海山」が見える。
写真6:その逆側(北東)を見ると、「明永沼」を越えて「御嶽山」(横手市山内)が見える。
場所:秋田県横手市睦成字明永町10。国道13号線「石町」交差点から東へ(横手市街方面へ)道なりに進み、突き当りを左折(北へ)、住宅地の中のやや狭い道路を約650m直進。駐車場なし(神社裏手に1台程度の駐車スペースあり。)。
社伝によれば、白鳳元年(672年)、役小角(役行者)が、赤子の泣き声を聞いて泣子沢(現・鳴見沢)と名づけた地に「熊野神社」を開創した。弘安9年(1286年)には、役行者の仙跡を尋ねてきた一遍上人(時宗の開祖)が再建したという。中世には別当寺として「明江山 神宮寺 遍照院」があって修験の修行地として栄え、36坊を擁したとされる。天文21年(1552年)の「小野寺合戦」のときに兵火にかかり神社・僧坊が全て焼失し、現在地に移転。その後も、元宮の地と現在地への移転を繰り返したが、現在の社殿は昭和56年改築のものとのこと(元宮については、次項で)。現在の祭神は、伊邪那岐・伊邪那美の大神ほか4柱。
さて、現在、出羽国式内社「塩湯彦神社」は、横手市山内大松川の「御嶽山」山頂に鎮座している神社に比定されている。ただ、その地は人里離れた山中にあり、冬は豪雪に閉ざされる。したがって、当神社が古くから「塩湯彦神社」祭礼のための里宮と考えられていたらしく、中世・近世を通じて時の領主にも庇護され、相応の格式と伝統をもって現在まで伝えられることになったものと思われる。
秋田県神社庁のHPから(熊野神社)
写真1:「熊野神社」正面、一の鳥居。社殿は小丘のうえにある。鳥居の扁額には「明永山熊野神社」とある。
写真2:一の鳥居脇にある「明江山神宮寺遍照院跡」の石碑。
写真3:ずらりと並ぶ鳥居。回りは杉の木立になっているが、願明けに杉の木を植える慣わしがあるらしい。鳥居や杉の木が多いのは、それだけ寄進する人が多かった証しだろう。
写真4:社殿。少しモダンな感じ。
写真5:社殿の裏は「明永沼」の堤になっており、そこから社殿が向いている方向(南西)に「鳥海山」が見える。
写真6:その逆側(北東)を見ると、「明永沼」を越えて「御嶽山」(横手市山内)が見える。