神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

擁護山 清浄光院 西林寺

2021-07-31 23:27:30 | 寺院
擁護山 清浄光院 西林寺(ようごさん せいじょうこういん さいりんじ)。
場所:茨城県守谷市本町726。国道294号線「けやき台5丁目」交差点から北東~東へ、道なりに約450m。駐車場有り。
寺伝によれば、延喜2年(902年)、延昌(後の第15世天台座主・慈念大僧正)が東国布教の折に創建したという。元は、現・守谷市高野にあって「茶畠山 清浄院」と称したが、鎌倉時代に守谷城主となった相馬種継(陸奥相馬氏第3代・相馬胤綱の子)が中興し、相馬家の菩提寺となった。天文3年(1534年)、「守谷城」(前項参照)にあった妙見八幡祠が当寺院に移されたという。一時期、「東睿山 千妙寺」(現・茨城県筑西市、2021年2月20日記事)支配下にあったが、江戸時代の元禄4年(1692年)、現在地に移って「擁護山 西林寺」と改め、「東叡山 寛永寺」(現・東京都台東区)の末寺となった。天保元年(1830年)の書状によると、寺域3万坪、朱印地20石、門末48ヶ寺を有したとされる。しかし、明治時代に入ると、寺格は高かったが檀家が少ないということから困窮して荒廃し、明治23年には火災に遭って焼失、多くの寺宝が失われた。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
なお、境内に、小林一茶の「行く年や 空の名残を 守谷まで」句碑がある。当寺院の第62世・義鳳上人(俳号:鶴老)が一茶と同じ信濃国(現・長野県)の出身ということもあってか、度々当寺院に逗留したという。この句は一茶が初めて当寺院を訪れたときに詠んだものとされる。因みに、一茶には平将門に関する「梅さくや 平親王の 御月夜」 という句もあり、守谷が将門所縁の地であるとの認識があったものとみられる。


写真1:「西林寺」境内入口


写真2:門前の「出世地蔵」


写真3:本堂。中央に階段がないのが珍しい。現在も立派だが、焼失前は15間四面という巨大なものだったという。


写真4:鐘楼。梵鐘はない(戦時中に供出)。今も予想以上に寺域は広いが、堂宇は本堂と鐘楼だけで、寂しい。


写真5:一茶の句碑


写真6:宝篋印塔。奥に見えるのは歴代住職の墓。


写真7:枝垂桜。巨木というほどではないが、姿が良く、知る人ぞ知る桜の名所らしい。
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守谷城址

2021-07-24 23:21:35 | 史跡・文化財
守谷城址(もりやじょうし)。別名:平将門城址、相馬城址。
場所:茨城県守谷市本町942ほか。国道294号線と茨城県道46号線(野田牛久線)の「北園」交差点から、県道を東へ約900mの交差点(角にコンビニ「ローソン守谷松並庚塚店」がある。)で右折(北へ)、約1kmの信号機のある交差点の1つ先の狭い道路に左折して(東へ)入り、約90mのところに駐車場が有る。なお、南側の高台に「守谷小学校」があるが、その敷地が江戸時代の「守谷城」本丸跡とされる場所で、グラウンドの西端の先に「茨城百景 守谷城址」という石碑と説明板がある。
「守谷城址」は、中世~近世の城郭跡だが、平将門が「新皇」を宣言したとき、ここに王城を築き、今日に準えた「偽都」の中心としたとの伝説がある。実際には、将門の叔父・平良文の後裔、千葉氏の中興・千葉常胤が6人の子(「千葉六党」)に所領を分け与えたとき、「相馬御厨」(「伊勢神宮」に寄進された下総国相馬郡の荘園)を受け継いだのが次男・師常で、相馬(小)次郎師常を名乗るようになったのが始まり(13世紀初頭)とされる。この時点で守谷城の城館があったどうか不明だが、史料では、師常の曾孫・胤継、またはその子・胤親の頃には存在したらしい。中世の守谷城は、現在「守谷城址公園」になっている部分(「城山地区」という。)のみであるが、北東に伸びた舌状の台地(通称「平台山」)を加工した連郭式の城で、三方が小貝川からの水を湛えた沼沢地に囲まれていたという。戦国時代には、相馬氏は古河公方の配下となり、守谷城を古河公方・足利義氏の御座所とするとして、いったん城を明け渡したが、結局、その話は流れた。天正18年(1590年)、北条氏側についていた相馬氏は、豊臣秀吉の小田原城攻めのときに敗れ、没落する。相馬氏の後、徳川家康の家臣・菅沼(土岐)定政が入城し、以後、現・「守谷小学校」周辺まで拡張した(「城内地区」という。更に、その南に形成された城下町を「城下地区」と称する。)。その後、幕府直轄領になったりした後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が佐倉城主となったときに、佐倉藩領になった(佐倉藩は現・千葉県佐倉市で、守谷城主は不在。)。寛文9年(1669年)には酒井忠挙が城主となるが、天和元年(1681年)に厩橋城(現・群馬県前橋市)へ移ってからは空き城となり、城下町も衰退したとされる。
さて、何故、守谷城が将門の「王城」とされたかであるが、軍記物語「将門記」では単に「下総国の亭南」としか書かれていない。「亭」は「国庁」(国司が執務する施設)の意味とされるが、下総国国府は現・千葉県市川市にあったので、ここでは国庁の支庁(出先機関)を指すという説があるものの、詳細は不明(なお、「下総国府」(2013年1月12日記事)、「下総国亭(庁)跡」(2012年9月8日記事)参照)。「偽都」自体を虚構とする説も有力だが、通説では、「亭」は将門の本拠地=石井営所(現・茨城県坂東市、「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事)を指し、「亭南」はその南側のことだろうとする。「将門記」には「相馬郡大井津を以って、号して京の大津と為さん」という記述もあるので、「王城」は相馬郡内だろう(現・坂東市は旧・猿島郡)という反論があるが、そもそも「大津」は京都からかなり距離があるとか、「王城」とは別の場所だから敢えて「相馬郡」と記したとかという再反論があって、何とも言えないところ。その後の軍記物語(「太平記」(14世紀頃?)など)において「将門が相馬郡に都を立てた」というような記述が一般的になるが、それでも、守谷城が将門の「王城」の地であるとする古史料は殆ど存在しない。おそらく、家名に箔を付けたい相馬氏の宣伝によるところが大きかったとみられる。将門は相馬郡の生まれとされて相馬小次郎と名乗ったという説がある(将門は三男であったが、長男が早世したため、次郎と称したとされる。因みに、四男・将頼は御厨三郎、五男・将平は大葦原四郎という。)が、上記の通り相馬氏の始祖・千葉師常が相馬(小)次郎と称したことと重ね合わされているようにも思われる。


守谷市観光協会のHPから(守谷城)


写真1:「茨城百景 守谷城址」石碑。かつては、この辺りに「守谷城」の大手門があったという。なお、向かって右が現・「守谷小学校」。


写真2:同上、横から見る。城址の土塁とされるものが残っている。


写真3:「平将門城址」石碑。「守谷小学校」グラウンドの南側に沿って歩道があるが、そのフェンスの外にあって、写真が撮りにくい場所にある(目立たないところに追いやられた感がある。)。この石碑の背後にも土塁があり、その向こうは谷に向かう坂道になっている。なお、この石碑は、地元の大地主で衆議院議員や茨城農工銀行頭取も務めた斎藤 斐氏らが明治34年に建てたもので、守谷城を将門の城と強く印象付ける契機の1つとなったといわれている。


写真4:「守谷小学校」西門(グラウンド側。正門は北側にある。)


写真5:「守谷城址公園」駐車場から北側を見たもの。左側は自然の谷を利用した堀で、右側が守谷城址。


写真6:「守谷城址公園」入口


写真7:主郭跡。「平台山」という名の通り、かなり広い台地。


写真8:土橋


写真9:土橋の下の西側に、船着き場跡がある。かつては堀にも水があったことになる。


写真10:空堀の先に二郭。古図面では本丸としているようだ。


写真11:右手の一段高いところが「妙見郭(曲輪)」で、北東端部分。相馬氏が築城した際、ここに弓箭神として妙見菩薩を祀ったとされる。


写真12:「妙見郭」から見た「守谷沼」。元は広く「古城沼」という沼沢地であったらしい。低地の奥に見える木々は、北西~南東に流れる小貝川の河岸段丘上のもの。
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北山稲荷大明神(茨城県坂東市)

2021-07-17 23:56:08 | 神社
北山稲荷大明神(きたやまいなりだいみょうじん)。別名:北山稲荷神社、平将門公戦歿之地。
場所:茨城県坂東市辺田1402-1。国道354号線と茨城県道20号線(結城坂東線)の「辺田」交差点から県道を北西へ約1.3km進み、「岩井第二小入口」交差点を右折(北東へ)、交差点角のコンビニ「ファミリーマート坂東辺田店」裏の道路に入り(左折・北西へ)、約200m。駐車スペースあり。
社伝等によれば、明応7年(1498年)に妙海禅尼が将門の菩提を弔うため、平将門の終焉の地である当地に小祠を建て、「御魂明神」と称した。妙海禅尼は文亀3年(1503年)に亡くなるが、村人は「御魂明神」を「稲荷神社」として敬い続け、明和3年(1767年)には正一位の格位を受けたとされる。現在の祭神は不明だが、稲荷神社だと一般的には宇迦之御魂神 (または、倉稲魂命。いずれも「ウカノミタマ」)なので、将門を祀る神社が稲荷神社になった理由もその辺りにありそうだ。
さて、 軍記物語「将門記」によれば、将門の終焉の地は「辛島郡(=猿島郡)之北山」付近とされる。この「北山」がどこかについては諸説あり、通説は将門の娘の如蔵尼が創建したという「國王神社」付近(現・坂東市岩井。2012年10月6日記事)又は将門の本拠地のあった「島広山・石井営所跡」(同、2012年10月13日記事)付近というのが有力説である。ただし、「國王神社」あるいは「島広山・岩井営所跡」から、当地は南に約2kmのところであり、遠く離れているわけではない。当地が将門の終焉の地とされるのは、「北山稲荷大明神」の社伝によるほか、昭和50年に当地から1枚の板碑が発掘されたことも理由となっている。それは、長元4年(1031年)に源頼信が将門の鎮魂を祈って建てたというもので、将門の命日を「天慶三庚子年 二月十四日」と刻していたという。何故、源頼信が板碑を建てたかというと、「平忠常の乱」(1028~1031年)鎮圧の記念のためとされる。平良文(将門の叔父)の孫である平忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な領地を有し、国司の命に服さず、納税もしなかった。長元元年(1028年)には安房守を殺害し、上総国の国衙を占領するなど、反乱を起こした。これに対して、朝廷はなかなか制圧できずにいたが、追討使に任じられた甲斐守・源頼信が上総国に入ろうとした長元4年(1031年)、長い間の乱で疲弊していた忠常が戦わずして降伏した。こうして、労せず乱を治めた頼信が感謝の意も込めて板碑を建立したということになっている。
さて、板碑とは、正式には「板石卒塔婆」といい、石板による仏教式の供養塔を指す。板状に加工しやすい石が現・埼玉県の秩父地方(武蔵型)や現・茨城県の筑波山周辺(下総型)で産出したことなどから、関東地方に多く見られる。また、鎌倉武士の浄土信仰が関連しているともいわれている。そして、現存する最古の板碑は、現・埼玉県熊谷市の「江南文化財センター」にある嘉禄3年(1227年) 銘の「阿弥陀三尊画像板石塔婆」とされている。一般に、鎌倉時代中期頃から造られ始め、南北朝時代に全盛期を迎え、室町時代~安土桃山時代のものもあるが、江戸時代には造られなくなったという。ということで、当地に、出土した板碑のレプリカとされるものが建てられているが、それをみると、上部に梵字の種字(おそらく阿弥陀如来)が刻され、その下に「将門禅門位」とある。これは典型的な板碑の形で、「禅門」とは、在家のまま仏門に入った男子のこと(同様に、女子は「禅尼」。)をいう。こうした形式は、早くても鎌倉時代後期以降と思われる。また、1031年ではまだ将門は逆賊との認識の方が強かったと思われ、朝廷側の頼信が供養塔を建てたというのはどうだろうか。このようなことから、当地が将門の終焉の地であるとの確証はないのだが、後世、それを信じた人々がいたということなのだろう。
なお、当地には将門の怨霊という伝承はないようだが、最近も、霊能者が「ここが将門の終焉の地だ」と霊視したという話があって、大手電機販売チェーン店やコンビニ、自動車ディーラーなどが立ち並ぶ県道のすぐ裏が藪になっていて昼なお暗いという何となく不気味な感じがすることから、知る人ぞ知るミステリー・スポット、あるいは、心霊スポットとなっているようである。


写真1:「北山稲荷大明神」入口


写真2:鳥居と社号標(「正一位北山稲荷大明神」)


写真3:倒れた燈籠の奥に社殿。周囲から藪が迫ってくるような感じ。


写真4:「平将門公戦歿之地 辺田北山」石碑


写真5:「鎮魂 平将門公之碑」と、当地で出土したという板碑のレプリカ?


写真6:社殿


写真7:社殿の後ろにある「板碑出土の処」石碑
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補陀落山 極楽院 長谷寺

2021-07-10 23:11:21 | 寺院
補陀落山 極楽院 長谷寺(ふだらくさん ごくらくいん ちょうこくじ)。通称:長谷観音(ながやかんのん)。
場所:茨城県坂東市長谷1850-1。国道354号線「坂東消防署前」交差点から西へ約1.9km。駐車場有り。
寺伝によれば、本尊の十一面観世音菩薩像は大和国「長谷寺(はせでら)」(現・奈良県桜井市)のそれと同じ霊木から造られたもので、延暦19年(800年)に坂上田村麻呂が奥州遠征の折に安置し祈願したという。現在は真言宗智山派に属し、享保10年(1725年)に「萬蔵院」(2021年6月5日記事)第52世・雄弁上人が開設した「猿島坂東三十三観音霊場」の第33番札所、即ち結願の寺院となっている。本堂(観音堂)は元禄時代(1688~1704年)頃の建立とされ、それ以前の古い建築様式を伝えているという。また、本尊の十一面観世音菩薩像は坂東市指定文化財(彫刻)、境内のイチョウもは坂東市指定文化財(天然記念物)となっている。創建が平安時代初めまで遡るかどうかは別にして、当地の地名が長谷というのは、当寺院に因むものだろう(ただし、読み方は「ながや」。)から、相応の古寺であろうし、地元民の信仰を集めたものと思われる。


写真1:「長谷寺」山門。なお、訪問時には気がつかなかったが、向かって右隣の建物(一見、完全な一般住宅)が「長谷寺」らしい。


写真2:坂東市指定天然記念物のイチョウ。大枝がかなり切られた後だったらしく、一説に樹齢1千年以上ともいわれるような感じはしなかった。他の資料によれば、樹高約16m、目通り幹囲約5.3m、推定樹齢200~300年。


写真3:本堂(観音堂)


写真4:聖徳太子堂


写真5:弘法大師堂
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高野八幡宮(茨城県古河市)

2021-07-03 23:21:40 | 神社
高野八幡宮(こうやはちまんぐう)。通称:北向八幡。茨城県神社庁のHPでは、単に「八幡神社」となっている。
場所:茨城県古河市高野1473。新4号国道「高野」交差点から茨城県道190号線(境間々田線)を南へ、約800mのところ(ガソリンスタンド「キグナス石油 サムスイング高野」がある。)を左折(東へ)、約230m進んで突き当りを左折(北~東へ)、約120mで参道入口。ただし、自動車の場合は、突き当りを逆に右折して(南へ)約70m進み、「高野集落センター」入口付近で左折(東へ)、約90mで社殿横に着く。駐車スペースはあるが、「高野集落センター」に駐車させていただくことも可能かと思う。
「高野八幡宮」の創建時期は不明。明治6年に村社に列した。現在の祭神は、誉田別命。伝承によれば、天慶3年(940年)、平将門の首が当地の大ケヤキ(欅)の枝に掛かり、七日七晩の間、光を放っていた。金剛坊という僧が、この首を石棺に納めて大ケヤキの後ろの竹薮に埋めたという。この竹藪に入っていくと、出て来れないといわれていた。この大ケヤキの下に「将門神社」という小祠があったとされるが、大ケヤキは今は無く(現在の神楽殿辺りにあったらしい。)、竹藪も残っていない。「将門神社」も不明。また、将門の首の供養のため、社殿を南に向けて建立したが、一夜で北向きに変わってしまったいい、「北向八幡」という別名は、この伝説による。北を向いたのは、将門を討った俵藤太こと藤原秀郷の本拠地である下野国(現・栃木県)の方角、北を向いて睨みつけるため、とされる。
一方、当神社の北、約1.3km(直線距離)の現・茨城県境町横塚に「医王山 善福院 法蔵寺」という寺院があり、ここに居た有徳の僧が、下野国に向かって飛ぶ途中の将門の首を祈り落とした、という伝承がある。また、太郎坊という僧は、位を得るため都に上り、将門の謀反を告げ口したといわれ、怒った将門が太郎坊の本尊である不動尊像を六尺(約180cm)の地下に蹴り入れてしまい、掘り出せずに、太郎坊は退転したという話もある(なお、太郎坊が将門の首を祈り落とした、としている資料もある。)。こうしたことから、かつて高野と横塚の人々は、互いに敵対しあい、決して婚姻をしなかったという。高野と横塚は隣接しているが、古河市(旧・総和町)と境町で、行政界は分かれているところから、何か境界争いとか何か反目しあうようなことがあったのかもしれない。

医王山 善福院 法蔵寺(いおうさん ぜんぷくいん ほうぞうじ)。
場所:茨城県猿島郡境町横塚319。茨城県道190号線(境間々田線)、「積水ハウス 関東工場」の南東角の交差点から東へ、約850m。宮戸川に架かる橋の袂。駐車場スペース有り。
寺伝によれば、開山は承平年間(931~938年)という。元は長井戸沼の近くにあったが、その干拓により現在地に移転。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は薬師如来。今は本堂のみとなっているが、本尊の薬師如来像と並んで聖観音菩薩像が安置されており、「猿島坂東観音霊場」第5番札所となっている。上記のような伝説ができるくらい、往時は大寺であり、多くの僧が出入りしていたのだろう。


写真1:「高野八幡宮」鳥居


写真2:同上、境内入口


写真3:同上、社殿


写真4:同上、社殿前。向かって右から神楽殿、御神木、境内社(将門神社?)


写真5:「高野地蔵尊」堂。「高野八幡宮」西口から直ぐ。


写真6:同上、通称「高野ろうそく地蔵尊」。毎年8月23~24日、病気やケガの治癒を願い、身体の悪い部位に合わせて地蔵尊像にロウソクを立てて、火をつける。2日間で、約3千本も立てられるので、地蔵尊像は全身真っ黒。これは2代目で、隣の小堂に初代の菩薩像があるが、完全に壊れて足元だけしか残っていない。この奇祭は、約300年続いているという。


写真7:「善福院」


写真8:同上、宝篋印塔、薬師如来開帳記念碑など。本尊の薬師如来像は秘仏で、60年毎、寅年4月の初寅の日に開帳するという(前回は昭和61年4月4日)。
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