擁護山 清浄光院 西林寺(ようごさん せいじょうこういん さいりんじ)。
場所:茨城県守谷市本町726。国道294号線「けやき台5丁目」交差点から北東~東へ、道なりに約450m。駐車場有り。
寺伝によれば、延喜2年(902年)、延昌(後の第15世天台座主・慈念大僧正)が東国布教の折に創建したという。元は、現・守谷市高野にあって「茶畠山 清浄院」と称したが、鎌倉時代に守谷城主となった相馬種継(陸奥相馬氏第3代・相馬胤綱の子)が中興し、相馬家の菩提寺となった。天文3年(1534年)、「守谷城」(前項参照)にあった妙見八幡祠が当寺院に移されたという。一時期、「東睿山 千妙寺」(現・茨城県筑西市、2021年2月20日記事)支配下にあったが、江戸時代の元禄4年(1692年)、現在地に移って「擁護山 西林寺」と改め、「東叡山 寛永寺」(現・東京都台東区)の末寺となった。天保元年(1830年)の書状によると、寺域3万坪、朱印地20石、門末48ヶ寺を有したとされる。しかし、明治時代に入ると、寺格は高かったが檀家が少ないということから困窮して荒廃し、明治23年には火災に遭って焼失、多くの寺宝が失われた。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
なお、境内に、小林一茶の「行く年や 空の名残を 守谷まで」句碑がある。当寺院の第62世・義鳳上人(俳号:鶴老)が一茶と同じ信濃国(現・長野県)の出身ということもあってか、度々当寺院に逗留したという。この句は一茶が初めて当寺院を訪れたときに詠んだものとされる。因みに、一茶には平将門に関する「梅さくや 平親王の 御月夜」 という句もあり、守谷が将門所縁の地であるとの認識があったものとみられる。
写真1:「西林寺」境内入口
写真2:門前の「出世地蔵」
写真3:本堂。中央に階段がないのが珍しい。現在も立派だが、焼失前は15間四面という巨大なものだったという。
写真4:鐘楼。梵鐘はない(戦時中に供出)。今も予想以上に寺域は広いが、堂宇は本堂と鐘楼だけで、寂しい。
写真5:一茶の句碑
写真6:宝篋印塔。奥に見えるのは歴代住職の墓。
写真7:枝垂桜。巨木というほどではないが、姿が良く、知る人ぞ知る桜の名所らしい。
場所:茨城県守谷市本町726。国道294号線「けやき台5丁目」交差点から北東~東へ、道なりに約450m。駐車場有り。
寺伝によれば、延喜2年(902年)、延昌(後の第15世天台座主・慈念大僧正)が東国布教の折に創建したという。元は、現・守谷市高野にあって「茶畠山 清浄院」と称したが、鎌倉時代に守谷城主となった相馬種継(陸奥相馬氏第3代・相馬胤綱の子)が中興し、相馬家の菩提寺となった。天文3年(1534年)、「守谷城」(前項参照)にあった妙見八幡祠が当寺院に移されたという。一時期、「東睿山 千妙寺」(現・茨城県筑西市、2021年2月20日記事)支配下にあったが、江戸時代の元禄4年(1692年)、現在地に移って「擁護山 西林寺」と改め、「東叡山 寛永寺」(現・東京都台東区)の末寺となった。天保元年(1830年)の書状によると、寺域3万坪、朱印地20石、門末48ヶ寺を有したとされる。しかし、明治時代に入ると、寺格は高かったが檀家が少ないということから困窮して荒廃し、明治23年には火災に遭って焼失、多くの寺宝が失われた。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
なお、境内に、小林一茶の「行く年や 空の名残を 守谷まで」句碑がある。当寺院の第62世・義鳳上人(俳号:鶴老)が一茶と同じ信濃国(現・長野県)の出身ということもあってか、度々当寺院に逗留したという。この句は一茶が初めて当寺院を訪れたときに詠んだものとされる。因みに、一茶には平将門に関する「梅さくや 平親王の 御月夜」 という句もあり、守谷が将門所縁の地であるとの認識があったものとみられる。
写真1:「西林寺」境内入口
写真2:門前の「出世地蔵」
写真3:本堂。中央に階段がないのが珍しい。現在も立派だが、焼失前は15間四面という巨大なものだったという。
写真4:鐘楼。梵鐘はない(戦時中に供出)。今も予想以上に寺域は広いが、堂宇は本堂と鐘楼だけで、寂しい。
写真5:一茶の句碑
写真6:宝篋印塔。奥に見えるのは歴代住職の墓。
写真7:枝垂桜。巨木というほどではないが、姿が良く、知る人ぞ知る桜の名所らしい。