風隼神社(かざはやじんじゃ)。
場所:茨城県東茨城郡城里町石塚1088。茨城県道61号線(日立笠間線)と同246号線(錫高野石塚線)の交差点から、県道246号線を北へ約90mのところで左折(西へ)、約200m進むと境内入口。駐車場有り。
社伝によれば、大同元年(806年)の創建。祭神である武甕槌命(タケミカヅチ)が東夷征討の際に当地に立ち寄ったのを記念するため創建されたという。「大甕神社」(2019年11月16日記事)境内の「宿魂石」伝説において、建葉槌命(タケハヅチ)が香香背男(カガセオ)の変身である巨岩を蹴って砕けた石が当地に落ちたといわれ、その石が「神体石」となっている。また、このことが「石塚」という地名の由来になっているとされる。
中世以降、佐竹氏の一族である石塚氏(石塚城主)代々の崇敬が篤く、その後も領主の庇護があったという。なお、元は「風華神社」と称していたが、明治44年に現社号に改称。因みに「常北町史」(1988年)では、石塚台地の北縁に立地することから、北風が強く吹き当たることが社名の由来だろうとしている。
香香背男の化身である巨岩が砕けて飛び、落ちたところに「石」の名が付き、その「石」を御神体として祀る神社があるという繋がりで参拝してみた。ただし、(鎮座地は「石塚」であるものの)当神社には「石」の字は付かない。また、「塚」の方は何を指すのだろうか? 疑問は尽きない。なお、石塚に落ちた場所は当神社ではなく、「手子后神社」(城里町上圷)であるとする説もある。ただし、こちらの祭神は埴安姫命(ハニヤスヒメ)で、土の神。御神体が石とも聞かないし、こちらも「石」の字は付かない。
ところで、改めて地図を見てみると、この辺りは式内社の密集地帯(ちょっと大袈裟か)で、「青山神社」(2019年6月1日記事)からは北東へ約1.4km、「阿波山上神社」(2019年6月15日記事)からは南へ約4.6km、「靜神社」(2018年2月24日記事)からは西へ約5.2km、「藤内神社」(2019年5月4日記事)からは北西へ約5.3kmなど、当神社を取り巻いているような感じになる。伝説は、「石」の字が付く地名から逆に発想されたような感じであるが、一方でヤマト政権の勢力が強い方(現・茨城県西部)から北へ進軍していった印象も受けるが、どうだろうか。
写真1:「風隼神社」正面鳥居と社号標(「村社 風隼神社」)
写真2:参道。雰囲気が素晴らしいが、境内地が官有地とされたために、大正時代には国によって競売され、苦労して取り戻し植林等を行ったという歴史もあるらしい(社号標の後ろの石碑に経緯が書かれている。)。
写真3:境内の「常北八景 風隼の夜の雨」石碑
写真4:社殿
写真5:同上
場所:茨城県東茨城郡城里町石塚1088。茨城県道61号線(日立笠間線)と同246号線(錫高野石塚線)の交差点から、県道246号線を北へ約90mのところで左折(西へ)、約200m進むと境内入口。駐車場有り。
社伝によれば、大同元年(806年)の創建。祭神である武甕槌命(タケミカヅチ)が東夷征討の際に当地に立ち寄ったのを記念するため創建されたという。「大甕神社」(2019年11月16日記事)境内の「宿魂石」伝説において、建葉槌命(タケハヅチ)が香香背男(カガセオ)の変身である巨岩を蹴って砕けた石が当地に落ちたといわれ、その石が「神体石」となっている。また、このことが「石塚」という地名の由来になっているとされる。
中世以降、佐竹氏の一族である石塚氏(石塚城主)代々の崇敬が篤く、その後も領主の庇護があったという。なお、元は「風華神社」と称していたが、明治44年に現社号に改称。因みに「常北町史」(1988年)では、石塚台地の北縁に立地することから、北風が強く吹き当たることが社名の由来だろうとしている。
香香背男の化身である巨岩が砕けて飛び、落ちたところに「石」の名が付き、その「石」を御神体として祀る神社があるという繋がりで参拝してみた。ただし、(鎮座地は「石塚」であるものの)当神社には「石」の字は付かない。また、「塚」の方は何を指すのだろうか? 疑問は尽きない。なお、石塚に落ちた場所は当神社ではなく、「手子后神社」(城里町上圷)であるとする説もある。ただし、こちらの祭神は埴安姫命(ハニヤスヒメ)で、土の神。御神体が石とも聞かないし、こちらも「石」の字は付かない。
ところで、改めて地図を見てみると、この辺りは式内社の密集地帯(ちょっと大袈裟か)で、「青山神社」(2019年6月1日記事)からは北東へ約1.4km、「阿波山上神社」(2019年6月15日記事)からは南へ約4.6km、「靜神社」(2018年2月24日記事)からは西へ約5.2km、「藤内神社」(2019年5月4日記事)からは北西へ約5.3kmなど、当神社を取り巻いているような感じになる。伝説は、「石」の字が付く地名から逆に発想されたような感じであるが、一方でヤマト政権の勢力が強い方(現・茨城県西部)から北へ進軍していった印象も受けるが、どうだろうか。
写真1:「風隼神社」正面鳥居と社号標(「村社 風隼神社」)
写真2:参道。雰囲気が素晴らしいが、境内地が官有地とされたために、大正時代には国によって競売され、苦労して取り戻し植林等を行ったという歴史もあるらしい(社号標の後ろの石碑に経緯が書かれている。)。
写真3:境内の「常北八景 風隼の夜の雨」石碑
写真4:社殿
写真5:同上