神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

風隼神社

2019-11-30 23:07:40 | 神社
風隼神社(かざはやじんじゃ)。
場所:茨城県東茨城郡城里町石塚1088。茨城県道61号線(日立笠間線)と同246号線(錫高野石塚線)の交差点から、県道246号線を北へ約90mのところで左折(西へ)、約200m進むと境内入口。駐車場有り。
社伝によれば、大同元年(806年)の創建。祭神である武甕槌命(タケミカヅチ)が東夷征討の際に当地に立ち寄ったのを記念するため創建されたという。「大甕神社」(2019年11月16日記事)境内の「宿魂石」伝説において、建葉槌命(タケハヅチ)が香香背男(カガセオ)の変身である巨岩を蹴って砕けた石が当地に落ちたといわれ、その石が「神体石」となっている。また、このことが「石塚」という地名の由来になっているとされる。
中世以降、佐竹氏の一族である石塚氏(石塚城主)代々の崇敬が篤く、その後も領主の庇護があったという。なお、元は「風華神社」と称していたが、明治44年に現社号に改称。因みに「常北町史」(1988年)では、石塚台地の北縁に立地することから、北風が強く吹き当たることが社名の由来だろうとしている。
香香背男の化身である巨岩が砕けて飛び、落ちたところに「石」の名が付き、その「石」を御神体として祀る神社があるという繋がりで参拝してみた。ただし、(鎮座地は「石塚」であるものの)当神社には「石」の字は付かない。また、「塚」の方は何を指すのだろうか? 疑問は尽きない。なお、石塚に落ちた場所は当神社ではなく、「手子后神社」(城里町上圷)であるとする説もある。ただし、こちらの祭神は埴安姫命(ハニヤスヒメ)で、土の神。御神体が石とも聞かないし、こちらも「石」の字は付かない。
ところで、改めて地図を見てみると、この辺りは式内社の密集地帯(ちょっと大袈裟か)で、「青山神社」(2019年6月1日記事)からは北東へ約1.4km、「阿波山上神社」(2019年6月15日記事)からは南へ約4.6km、「靜神社」(2018年2月24日記事)からは西へ約5.2km、「藤内神社」(2019年5月4日記事)からは北西へ約5.3kmなど、当神社を取り巻いているような感じになる。伝説は、「石」の字が付く地名から逆に発想されたような感じであるが、一方でヤマト政権の勢力が強い方(現・茨城県西部)から北へ進軍していった印象も受けるが、どうだろうか。


写真1:「風隼神社」正面鳥居と社号標(「村社 風隼神社」)


写真2:参道。雰囲気が素晴らしいが、境内地が官有地とされたために、大正時代には国によって競売され、苦労して取り戻し植林等を行ったという歴史もあるらしい(社号標の後ろの石碑に経緯が書かれている。)。


写真3:境内の「常北八景 風隼の夜の雨」石碑


写真4:社殿


写真5:同上
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石神社(茨城県東海村)

2019-11-23 23:19:38 | 神社
石神社(いしじんじゃ)。
場所:茨城県那珂郡東海村石神外宿1。国道6号線「榊橋南」交差点から東に入り、直ぐ左折(北へ)、約80mで鳥居前。駐車場はないが、久慈川の土手下に多少の駐車スペースがある。
創建年代は不明。「大甕神社」(前項)の「宿魂石」伝説において、その折られた巨石の上の部分が飛んできたところで、それを御神体として祀ったとされる(なので、創祀は神代ということになる。)。ただし、当神社では、天津神に反抗する香香背男(カガセオ)が巨石の上に住み悪事を為していたのを、天手力雄命(アメノタヂカラオ)が祈念を凝らして巨石を折った、ということになっている。このため、祭神は、(建葉槌命ではなく)天手力雄命。もっとも、これは本家の常陸国二宮「靜神社」(2018年2月24日記事)においても、近世には(水戸藩第2代藩主・徳川光圀により)主祭神が天手力雄命とされていたことに原因があるようである。
また、この伝説は当地の地名由来譚にもなっていて、往古は「石頭」と称したが、中世以降に「石上」と書くようになり、徳川光圀の命により「石神」に改めたという。ただし、鎌倉時代の「弘安大田文」という文書に「石神」との記載があるとのことで、ちょっと怪しいらしい。祭神といい、地名といい、常陸国では徳川光圀(水戸黄門)の権威は絶大である。
なお、「東海村史 民俗編」(平成4年)によれば、当神社の「神体石」は高さ六寸(約18cm)、周囲二尺一寸(約64cm)の大きさ(明治時代の「新編常陸誌」による。)であるとされ、かつては「神体石」そのものを祀り、社殿は設けなかった。また、「神体石」の根は地中に何m埋まっているかわからない(「数丈たるを知らず」)と言われていたようである。因みに、御神体が石だということで、「神体石」が本殿内に納められているのではないか? と書いているブログ等もあるが、社頭の由緒書によれば「神石は地中より突出し、鹿島の要石に似て」いるとのこと。下の写真5を見ると、本殿らしきものは小祠であり、その前の四角くなっているところに「神石」が埋まっているように思われる。「神石」は確認できないが、確かに「鹿島神宮」境内の「要石」のような祀り方のようだ。そうだとすると、「天手力雄命を祭神として祀るのに、(敗者の)香香背男の化身ともされる石を御神体とするのはおかしい」という人もあるが、香香背男の石を埋め込み、それを本殿の神が押さえつけているようにも見えるのだが、如何であろうか。


写真1:「石神社」正面鳥居


写真2:社号標。「石、神社」? 


写真3:社殿


写真4:同上、横から。拝殿の後ろにブロック塀で囲まれたところがある。


写真5:失礼して、中を覗いてみると、小祠がある。本殿? その前の地面に四角く区切られたところがあり、ここに「神石」が埋められているのではないだろうか。


写真6:久慈川に架かる国道6号線「榊橋」から見る。

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大甕神社

2019-11-16 23:43:02 | 神社
大甕神社(おおみかじんじゃ)。別名:大甕倭文神社(神宮)(おおみかしずじんじゃ(じんぐう))。
場所:茨城県日立市大みか町6-16-1。国道6号線「日研入口」交差点から側道(旧道)を東へ約250m、または同「大みか神社入口」交差点(信号)の北東の側道(旧道)から南へ約220m。駐車場有り。なお、国道6号線沿い、「大みか神社入口」交差点から南西に約40mのところに大鳥居があり、そこから入っても良いようだ(駐車スペースもある。)。
社伝によれば、創建は皇紀元年(紀元前660年)。「日本書紀」によれば、所謂「葦原中国平定」において、経津主神(フツヌシ)と武甕槌命(タケミカツチ)が邪神、草木・石までも平定したが、星神・香香背男(カガセオ)(別名:天津甕星(アマツミカホシ)、天香香背男(アメノカガセオ))だけが従わなかった。そこで、倭文神・建葉槌命(タケハヅチ)が遣わされ、服従させることができた、という。これが常陸国のことだとは書いていないが、経津主神は下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)の、武甕槌命は常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)の、建葉槌命は常陸国二宮「靜神社」(2018年2月24日記事)の祭神である。そして、当地(現・茨城県日立市付近)が奥州に向かう交通の要衝であることからして、あるいは当地に星を守護神とする(最後の)反ヤマト勢力が居たのではないか、という考え方もある。面白いのは、経津主神と武甕槌命という武力最強コンビでも倒せなかった香香背男を、本来は織物の神である建葉槌命が服従させたというところで、織物に神秘の力が宿っているという信仰があったのではないか、という妄想もあり得よう(建葉槌命は女神で、武力ではなく、懐柔したとする説もある。)。
因みに、民話では、「経津主神と武甕槌命が常陸国を平定しようとしていたとき、久慈の大甕山を支配していた香香背男が反抗し、妖術を使って自分の姿を岩に変え、どんどん大きくなって天にも届くかと思われるほどになった。そこで、建葉槌命が鎧兜に身を固めて駆け付けると、その巨大な岩を金の沓(くつ)で思いきり蹴とばした。岩は3つに割れて、1つは石神(現・茨城県東海村石神外宿)、1つは石塚(現・茨城県城里町石塚)に、1つは石井(茨城県笠間市石井)に飛んで行った。残った岩の根が現在当神社境内にある「宿魂石」であり、香香背男の魂が宿っている。」ということになっている。民話なので色々とヴァリエーションがあり、「金の沓」というのが「鉄の沓」になっている話もある。これが、建葉槌命を奉斎する一族が強力な鉄製の武器を持っていたのではないか、とする説になったりもしているようだ。
さて、当神社は、元は「大甕山」(現・「風神山」)中腹(山頂という説もある。)に祀られたが、元禄8年(1695年)、第2代水戸藩主・徳川光圀の命により、香々背男の磐座である「宿魂石」の上に遷座したという。これが現在の本殿で、武葉槌命(建葉槌命)を祭神とする。また、境内社として「甕星香々背男社」があり、こちらは地主神として甕星香々背男(ミカボシカガセオ)を祀るという。


大甕神社のHP


写真1:「大甕神社」正面鳥居と社号標(「大甕倭文神社」)


写真2:石段を上ると、すぐ拝殿。


写真3:拝殿の向かって右に進むと「宿魂石」石碑と巨石。ただし、この巨石のみが「宿魂石」ではなく、岩山全体を指すとのこと。


写真4:「宿魂石」を上っていくと、なんと鎖場が。。。


写真5:頂上に本殿がある。


写真6:本殿。神額は「式外 大甕神社」となっている。「式外」というのは、所謂「式内社」ではないが、「延喜式神名帳」成立当時には存在していた神社である、という意味だろうか。


写真7:境内社「甕星香々背男社」


写真8:境内北東側にある白い大鳥居と社号標。国道6号線に面しているが、こちらは裏参道に当たる。


写真9:当神社の国道を隔てた西側にある「風神山」の中腹にある「古宮跡」と思われる場所。当神社のHPによれば、石碑が建てられていたようであるが、今は無いらしく、立入禁止になっている。
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鹿島神社(茨城県常陸太田市春友町)

2019-11-09 23:44:30 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県常陸太田市町春友町406。国道349号線「常福地」交差点から北へ約1.4km、直進「矢祭 里美」方面と「西河内 町屋」方面分岐の道路標識の下の交差点(分岐の手前(1つ南側))を右折(東へ)、約120mのところで左折(北東へ)、直ぐ、左手(北側)に下りていく道があり、その正面。駐車場なし。
創建年代は不明。茨城県常陸太田市には「鹿島神社」が多い(茨城県神社庁のHPでは同市内に12社(「鹿嶋神社」、「鹿島日吉神社」を含む。)もある。)のだが、当神社を参拝したのは、当神社が常陸国式内社「天速玉姫命神社」の論社となっているからである。当神社に関してはデータが少ないのだが、式内社「天速玉姫命神社」の論社とされる根拠は、鎮座地の「春友(はるとも)」という地名が元は「速玉(はやたま)」と呼ばれていたという伝承があるからということらしい。また、「鹿島神社」なので、現在の祭神は武甕槌命であるが、合わせて天速玉姫命も祭神とされており、かつては天速玉姫命のみだったという説もあるとのこと。ただし、これらの論拠にどの程度の信頼性が置けるか不明(検証困難)。
ということで、式内社「天速玉姫命神社」に比定するには論拠が薄弱で、一般には茨城県日立市鎮座の「泉神社」(前項)とするのが定説のようである。当神社の方を推すのは、例えば榎本実著「古社巡礼」(1990年)で、同じく常陸国久慈郡鎮座の式内社「薩都神社」(2019年9月28日記事)との関係を重視する。「日本三代実録」によれば、貞観8年(866年)と同16年(874年)に神階授与の記事があるが、どちらも「薩都神」(「薩都神社」)と「天之白羽神」(「天志良波神社」)と同時昇格となっている。そして、当神社の位置関係として、「薩都神社」から直線距離で北へ約3km、「天志良波神社」から同じく北へ約2.6kmと近い。さらに、「薩都神社」は「御岩山」が神体山であり、磐座あるいは巨岩信仰と思われる祭祀跡があった。一般に、「速玉」というのは泉の象徴とされるが、榎本氏はまず、「速玉」という神名から紀伊国式内社「熊野速玉大社」を連想する。次いで、その元宮ともいわれる摂社「神倉神社」の磐座「ゴトビキ岩」を挙げる。そして、「磐座」繫がりで、天速玉姫命は、「薩都神社」の祭神である立速日男命(タチハヤヒヲ)の后神であると推定する。このように大胆な連想続きなので、それはそれで面白いが、やっぱり根拠は薄弱と言わざるを得ないと思う。榎本氏は、他の式内社の比定についても通説・定説とは違う見解を多く示されており、寧ろ敢えて通説ではない見解を重視する傾向があるように思われる。


写真1:「鹿島神社」正面鳥居と社号標((村社)鹿島神社)。鳥居の扁額は「鹿島大明神」。塚のように、一段高いが、やや狭い敷地に社殿が南面して建っている。背後に「里川」が流れている。


写真2:拝殿


写真3:本殿

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泉神社(茨城県日立市)(常陸国式内社・その25)

2019-11-02 23:52:58 | 神社
泉神社(いずみじんじゃ)。
場所:茨城県日立市水木町2-22-1。国道245号線「大みか駅入口」交差点から北~北西へ約1km、「水木わかば幼稚園」近くの信号のある交差点を右折(西へ)(北西角に「泉神社入口」の案内柱がある。)、約140mで正面鳥居。駐車場は鳥居の横を通り過ぎたところにある。
社伝によれば、第10代崇神天皇49年(紀元前49年?)、久自国造・船瀬宿禰の奏請により、大臣・伊香色雄命(イカガシコオ)が勅命を奉じて当地に鎮祭したのが創建。上古、霊玉が当地に天降り、泉が湧き出したところから、その霊玉を神体とし、霊玉を神格化した天速玉姫命(アマノハヤタマヒメ)を祭神としたという。古くは「天速玉姫命神社」と称し、「延喜式神名帳」に登載された式内社とされる。また、「日本三代実録」の貞観8年(866年)条に「常陸国の正六位上天之速玉神に従五位下を授ける」、同じく貞観16年(874年)条に「常陸国の従五位下天之速玉神に従五位上を授ける」という記事が見え、神名に「姫」が欠けるが、これが当神社のことであるとされている。当地は奥州に向かう交通の要衝であることから、中世以降は武将の戦勝祈願などが盛んに行われたという。享禄3年(1530年)に佐竹氏第16代・佐竹義篤が社殿を修理し、社号を「泉大明神」に改めたとされ、明治に入り「泉神社」として郷社に列した。
因みに、崇神天皇は実在性が高いヤマト王権最初の天皇(大王)という説が強いが、その在世は3世紀後半頃と考えられているようである。また、「先代旧事本紀」の「国造本紀」によれば、第13代成務天皇の時代に物部氏の祖の伊香色雄命の3世孫の船瀬足尼(船瀬宿禰)が初代・久自国造に任命されたという記事があるらしいので、社伝からすれば(年代はともかく)、当神社は式内社「稲村神社」(2019年8月24日記事)と同じく物部氏が奉斎した神社ということになろう(「梵天山古墳」(2019年8月17日記事も参照)。
なお、「常陸国風土記」久慈郡の条には、「密筑(みつき)」の里に村人が「大井」という清らかな泉があり、夏の暑い時期には酒・肴を持ち寄って男女が集まり宴会を行う、というような記述がある。「密筑」は現・日立市水木町(みずきちょう)が遺称地であり、「大井」というのが当神社の泉であるという。風土記には当神社についての言及が無いが、他の地理的な記述も含め、まず妥当な推定だろう。こうしたことも、「天速玉姫命神社」と名乗っていないにも関わらず、当神社が式内社に比定される理由があるといえよう。


泉神社のHP


写真1:「泉神社」境内入口の鳥居と社号標(式内郷社 泉神社)。「茨城百景 泉ヶ森」の石碑も。


写真2:「御神木」。杉の樹に桜が根付いた宿り木で、推定樹齢450年というものだったが、昭和の初めに落雷の被害を受け枯死してしまったようだ。


写真3:社殿前の鳥居


写真4:社殿


写真5:「目洗いの泉」


写真6:「史跡 泉ヶ森」石碑


写真7:社殿横から少し下りたところにある泉。「厳島神社」(祭神:市杵島比売命、別名:弁財天)が祀られている。


写真8:泉からは今も盛んにきれいな水が湧き出している。この泉と、南に約7.5km(直線距離)離れている現・茨城県東海村の「阿漕ヶ浦」(池)とは底でつながっているという伝説があって、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が「阿漕ヶ浦」に投げ込んだ木槌がこの泉に浮かび上がったという。


写真9:神社の北側にある「イトヨの里泉が森公園」


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