小物忌神社(おものいみじんじゃ)。
場所:山形県酒田市山楯字三之宮48。JR羽越本線「砂越」駅方面から山形県道40号線(酒田松山線)から国道345号線へ左折(北東へ)、約1kmで北に緩やかにカーヴする辺りで右手(東)に当神社の赤い鳥居(写真1)が見える。この鳥居の奥に駐車場あり。
社伝によれば、景行天皇の時代、武内宿禰の北陸巡視の際に初めて官籍に録せられたという。この表現は当神社の公式HPによるものだが、これでは創建の由来がよくわからない。武内宿禰来訪の前から存在した地主神ということなのだろうか。その名から、「鳥海山大物忌神社」と対の神であることには間違いないのだが・・・。祭神は級長津比古命・級長津比賣命・豊受比賣命で、前2者は風の神、後者は「鳥海山大物忌神社」の祭神である大物忌大神と同一神(=倉稲魂命=豊受比賣命)とされる。「鳥海山」のかつての最高峰「七高山」の近くに「虫穴岩」あるいは「風岩」という巨岩がある。溶岩から蒸気が抜けた穴がたくさん開いている岩だが、それ以外にも「風穴」もある。昔は、こうした穴から風が出て、それに乗って害虫が里に下りてくると信じられた(このため、虫害を防ぐため、岩の穴に紙を詰める風習があったという。)。このようなこともあり、「大物忌大神」(鳥海山)自身が風の神とされることもあるが、「大物忌大神」が月山神との対比で太陽神、あるいは「鳥海山」が龍の蟠る形とされるように水の神とされたことで、風の神を「小物忌神社」に当てたのではないだろうか(私見)。
さて、当神社は「延喜式神名帳」出羽国飽海郡三座のうちの1社に挙げられているが、「日本三代実録」の中に、元慶2年(878年)に従五位下、元慶4年(880年)に従五位上に叙せられた記事がある(ただし、「袁物忌神」という名になっている。)。当神社は、古来「三之宮大座明神」と呼ばれてきたといい、出羽国三宮であるというのだが、「大物忌大神(鳥海山大物忌神社)」の第3王子であるという伝承による。とすれば、所謂「一宮」制度の三宮とは異なる気がする。当神社が出羽国式内社「小物忌神社」に比定されるのも、旧・三之宮村(現在地の西側)に鎮座していたということが大きいように思う。しかし、所謂「一宮」制度自体が平安時代末期(12世紀?)頃に自然発生的に成立したと思われることなどからすれば、出羽国三宮即ち式内社「小物忌神社」という証拠にはならないだろう(因みに、出羽国二宮とされる「城輪神社」は式外社である。)。ところで、「大座明神」という名のほうにも面白い伝承がある。天正年中(1573~1593年)、兵火のために社殿が焼失し、残った神体の台座のみを祀っていたから、というのだが、流石にこれは真実とは思えない。ただ、その頃には社領も没収されて社殿も荒廃し、江戸時代に別当の長久寺が再興するも、堂社には観音像が祀られて社号は忘れられたとされる。明治9年に現在の「小物忌神社」と再び称するようになり、「鳥海山大物忌神社」の摂社に指定された、という。
小物忌神社のHP
玄松子さんのHPから(小物忌神社)
写真1:「小物忌神社」参道入口の鳥居。社号標は「縣社 小物忌神社」となっているが、よく見ると、脇に小さな字で「式内」とも刻されている(この写真では見えないくらい)。
写真2:参道途中の鳥居
写真3:同
写真4:社殿。森の中だが、社殿・境内とも美しく保たれている。
写真5:境内にある「夢草堂」
場所:山形県酒田市山楯字三之宮48。JR羽越本線「砂越」駅方面から山形県道40号線(酒田松山線)から国道345号線へ左折(北東へ)、約1kmで北に緩やかにカーヴする辺りで右手(東)に当神社の赤い鳥居(写真1)が見える。この鳥居の奥に駐車場あり。
社伝によれば、景行天皇の時代、武内宿禰の北陸巡視の際に初めて官籍に録せられたという。この表現は当神社の公式HPによるものだが、これでは創建の由来がよくわからない。武内宿禰来訪の前から存在した地主神ということなのだろうか。その名から、「鳥海山大物忌神社」と対の神であることには間違いないのだが・・・。祭神は級長津比古命・級長津比賣命・豊受比賣命で、前2者は風の神、後者は「鳥海山大物忌神社」の祭神である大物忌大神と同一神(=倉稲魂命=豊受比賣命)とされる。「鳥海山」のかつての最高峰「七高山」の近くに「虫穴岩」あるいは「風岩」という巨岩がある。溶岩から蒸気が抜けた穴がたくさん開いている岩だが、それ以外にも「風穴」もある。昔は、こうした穴から風が出て、それに乗って害虫が里に下りてくると信じられた(このため、虫害を防ぐため、岩の穴に紙を詰める風習があったという。)。このようなこともあり、「大物忌大神」(鳥海山)自身が風の神とされることもあるが、「大物忌大神」が月山神との対比で太陽神、あるいは「鳥海山」が龍の蟠る形とされるように水の神とされたことで、風の神を「小物忌神社」に当てたのではないだろうか(私見)。
さて、当神社は「延喜式神名帳」出羽国飽海郡三座のうちの1社に挙げられているが、「日本三代実録」の中に、元慶2年(878年)に従五位下、元慶4年(880年)に従五位上に叙せられた記事がある(ただし、「袁物忌神」という名になっている。)。当神社は、古来「三之宮大座明神」と呼ばれてきたといい、出羽国三宮であるというのだが、「大物忌大神(鳥海山大物忌神社)」の第3王子であるという伝承による。とすれば、所謂「一宮」制度の三宮とは異なる気がする。当神社が出羽国式内社「小物忌神社」に比定されるのも、旧・三之宮村(現在地の西側)に鎮座していたということが大きいように思う。しかし、所謂「一宮」制度自体が平安時代末期(12世紀?)頃に自然発生的に成立したと思われることなどからすれば、出羽国三宮即ち式内社「小物忌神社」という証拠にはならないだろう(因みに、出羽国二宮とされる「城輪神社」は式外社である。)。ところで、「大座明神」という名のほうにも面白い伝承がある。天正年中(1573~1593年)、兵火のために社殿が焼失し、残った神体の台座のみを祀っていたから、というのだが、流石にこれは真実とは思えない。ただ、その頃には社領も没収されて社殿も荒廃し、江戸時代に別当の長久寺が再興するも、堂社には観音像が祀られて社号は忘れられたとされる。明治9年に現在の「小物忌神社」と再び称するようになり、「鳥海山大物忌神社」の摂社に指定された、という。
小物忌神社のHP
玄松子さんのHPから(小物忌神社)
写真1:「小物忌神社」参道入口の鳥居。社号標は「縣社 小物忌神社」となっているが、よく見ると、脇に小さな字で「式内」とも刻されている(この写真では見えないくらい)。
写真2:参道途中の鳥居
写真3:同
写真4:社殿。森の中だが、社殿・境内とも美しく保たれている。
写真5:境内にある「夢草堂」