鷺沼城址(さぎぬまじょうし)。現在は「鷺沼城址公園」となっている。
場所:千葉県習志野市鷺沼1-9。国道14号線「鷺沼1丁目」交差点から北東に向い、坂の途中の側道に入って約80m。または、習志野市役所の南、約600m(徒歩10分位)。駐車場なし。
「鷺沼城」は、東京湾に向って伸びた舌状台地上に造られた中世城郭で、現在は公園として整備されているが、その敷地内で2つの前方後円墳も発見されている。
古墳(鷺沼古墳群)については、A号墳は全長約25mの南西向き前方後円墳で、墳丘上には「源太様小祠」と呼ばれる祠が祀られていて、通称「源太塚」とも呼ばれている。下総型円筒埴輪が出土したことから、6世紀後半の築造と推定されている。すぐ隣にあるB号墳は、A号墳よりやや小さい前方後円墳であるとされるが、墳丘は原型を止めていない。こちらは、6世紀末頃の築造とされている。B号墳の石棺は覆屋で保護されているが、格子の隙間から見学できる。石棺からは、直刀の破片や鉄鏃等が出土したという。
中世城郭のほうは、特に遺構らしきものは見当たらない。築城時期も不明で、正応年間(1288~1292年)に鷺沼太郎源太光義が居城とした、と「千葉郡誌」にあるが、伝承の域を出ないようである。この鷺沼太郎源太光義が「源太様」で、その墓が「源太塚」であるとされている。一方、「吾妻鏡」によれば、石橋山の戦いで敗れた源頼朝がいったん安房に逃れた後、上総~下総に上って再び数万騎という兵力を集めた。その場所が「鷺沼御旅館」とされるが、もちろん鷺沼のホテルではなく、行軍の仮の宿所ということだろうが、これが「鷺沼城」(中世の城は「館」である。)を指すのならば、少なくとも平安時代末期には存在していたはずである(なお、「鷺沼御旅館」の所在地については、現・習志野市鷺沼ではないという説もある。)。
ところで、古代東海道の「井上」駅を現・市川市市川付近、「河曲」駅を現・千葉市中央区市場町付近とすると、その直線距離は約24kmで、そのちょうど中間(双方から約12km)の位置にあるのが、現・習志野市鷺沼付近になる。駅間の距離は30里=約16kmとされているので、ちょうど中間、というのが確実な証拠になるわけではないが、古代東海道の「浮嶋」駅が鷺沼付近にあり、それが後に「鷺沼御旅館」になったというのも面白い考えではないかと思う。蛇足だが、その他の傍証として、一般に古代駅路の傍に有力豪族の古墳があることが多いこと、「鷺沼城址」の台地が浮島のように見えたのではないかということ等が挙げられる。
習志野市のHPから(鷺沼古墳群を訪ねる!)
同(鷺沼・津田沼付近に東海道の駅があった!? 1)
同(鷺沼・津田沼付近に東海道の駅があった!? 2)
写真1:「鷺沼城址公園」西側。城址(公園)の本体は台地上で、奥に見える階段を登る。台地の西側崖下には菊田川が流れていた。現在は暗渠化され、「菊田遊歩道」という緑道になっている。
写真2:同上、台地上の広場。奥に馬の埴輪のレプリカが見えるが、出土したものと同形のものではないらしい。
写真3:「鷺沼古墳群B号墳」の石棺のための覆屋
写真4:「鷺沼古墳群B号墳」石棺。石材は凝灰岩で、いわゆる房州石。
写真5:「鷺沼源太満義諸武士之碑」という石碑(昭和34年建立)。戦国時代、いわゆる(第二次)国府台合戦に鷺沼源太満義という武将が参戦しており、その事蹟の石碑ではないかと思われるが、光義と満義、名の読み方が同じであり、子孫なのか、あるいは混同されて伝わったのか、よくわからない。
写真6:「源太塚」(鷺沼古墳群A号墳)。鳥居の奥に「源太宮」という小祠がある。鳥居の辺りが前方部、小祠の後ろ辺りが後円部とされるが、形は不明瞭。
場所:千葉県習志野市鷺沼1-9。国道14号線「鷺沼1丁目」交差点から北東に向い、坂の途中の側道に入って約80m。または、習志野市役所の南、約600m(徒歩10分位)。駐車場なし。
「鷺沼城」は、東京湾に向って伸びた舌状台地上に造られた中世城郭で、現在は公園として整備されているが、その敷地内で2つの前方後円墳も発見されている。
古墳(鷺沼古墳群)については、A号墳は全長約25mの南西向き前方後円墳で、墳丘上には「源太様小祠」と呼ばれる祠が祀られていて、通称「源太塚」とも呼ばれている。下総型円筒埴輪が出土したことから、6世紀後半の築造と推定されている。すぐ隣にあるB号墳は、A号墳よりやや小さい前方後円墳であるとされるが、墳丘は原型を止めていない。こちらは、6世紀末頃の築造とされている。B号墳の石棺は覆屋で保護されているが、格子の隙間から見学できる。石棺からは、直刀の破片や鉄鏃等が出土したという。
中世城郭のほうは、特に遺構らしきものは見当たらない。築城時期も不明で、正応年間(1288~1292年)に鷺沼太郎源太光義が居城とした、と「千葉郡誌」にあるが、伝承の域を出ないようである。この鷺沼太郎源太光義が「源太様」で、その墓が「源太塚」であるとされている。一方、「吾妻鏡」によれば、石橋山の戦いで敗れた源頼朝がいったん安房に逃れた後、上総~下総に上って再び数万騎という兵力を集めた。その場所が「鷺沼御旅館」とされるが、もちろん鷺沼のホテルではなく、行軍の仮の宿所ということだろうが、これが「鷺沼城」(中世の城は「館」である。)を指すのならば、少なくとも平安時代末期には存在していたはずである(なお、「鷺沼御旅館」の所在地については、現・習志野市鷺沼ではないという説もある。)。
ところで、古代東海道の「井上」駅を現・市川市市川付近、「河曲」駅を現・千葉市中央区市場町付近とすると、その直線距離は約24kmで、そのちょうど中間(双方から約12km)の位置にあるのが、現・習志野市鷺沼付近になる。駅間の距離は30里=約16kmとされているので、ちょうど中間、というのが確実な証拠になるわけではないが、古代東海道の「浮嶋」駅が鷺沼付近にあり、それが後に「鷺沼御旅館」になったというのも面白い考えではないかと思う。蛇足だが、その他の傍証として、一般に古代駅路の傍に有力豪族の古墳があることが多いこと、「鷺沼城址」の台地が浮島のように見えたのではないかということ等が挙げられる。
習志野市のHPから(鷺沼古墳群を訪ねる!)
同(鷺沼・津田沼付近に東海道の駅があった!? 1)
同(鷺沼・津田沼付近に東海道の駅があった!? 2)
写真1:「鷺沼城址公園」西側。城址(公園)の本体は台地上で、奥に見える階段を登る。台地の西側崖下には菊田川が流れていた。現在は暗渠化され、「菊田遊歩道」という緑道になっている。
写真2:同上、台地上の広場。奥に馬の埴輪のレプリカが見えるが、出土したものと同形のものではないらしい。
写真3:「鷺沼古墳群B号墳」の石棺のための覆屋
写真4:「鷺沼古墳群B号墳」石棺。石材は凝灰岩で、いわゆる房州石。
写真5:「鷺沼源太満義諸武士之碑」という石碑(昭和34年建立)。戦国時代、いわゆる(第二次)国府台合戦に鷺沼源太満義という武将が参戦しており、その事蹟の石碑ではないかと思われるが、光義と満義、名の読み方が同じであり、子孫なのか、あるいは混同されて伝わったのか、よくわからない。
写真6:「源太塚」(鷺沼古墳群A号墳)。鳥居の奥に「源太宮」という小祠がある。鳥居の辺りが前方部、小祠の後ろ辺りが後円部とされるが、形は不明瞭。