神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鷺沼城址

2013-10-26 23:23:41 | 史跡・文化財
鷺沼城址(さぎぬまじょうし)。現在は「鷺沼城址公園」となっている。
場所:千葉県習志野市鷺沼1-9。国道14号線「鷺沼1丁目」交差点から北東に向い、坂の途中の側道に入って約80m。または、習志野市役所の南、約600m(徒歩10分位)。駐車場なし。
「鷺沼城」は、東京湾に向って伸びた舌状台地上に造られた中世城郭で、現在は公園として整備されているが、その敷地内で2つの前方後円墳も発見されている。
古墳(鷺沼古墳群)については、A号墳は全長約25mの南西向き前方後円墳で、墳丘上には「源太様小祠」と呼ばれる祠が祀られていて、通称「源太塚」とも呼ばれている。下総型円筒埴輪が出土したことから、6世紀後半の築造と推定されている。すぐ隣にあるB号墳は、A号墳よりやや小さい前方後円墳であるとされるが、墳丘は原型を止めていない。こちらは、6世紀末頃の築造とされている。B号墳の石棺は覆屋で保護されているが、格子の隙間から見学できる。石棺からは、直刀の破片や鉄鏃等が出土したという。
中世城郭のほうは、特に遺構らしきものは見当たらない。築城時期も不明で、正応年間(1288~1292年)に鷺沼太郎源太光義が居城とした、と「千葉郡誌」にあるが、伝承の域を出ないようである。この鷺沼太郎源太光義が「源太様」で、その墓が「源太塚」であるとされている。一方、「吾妻鏡」によれば、石橋山の戦いで敗れた源頼朝がいったん安房に逃れた後、上総~下総に上って再び数万騎という兵力を集めた。その場所が「鷺沼御旅館」とされるが、もちろん鷺沼のホテルではなく、行軍の仮の宿所ということだろうが、これが「鷺沼城」(中世の城は「館」である。)を指すのならば、少なくとも平安時代末期には存在していたはずである(なお、「鷺沼御旅館」の所在地については、現・習志野市鷺沼ではないという説もある。)。
ところで、古代東海道の「井上」駅を現・市川市市川付近、「河曲」駅を現・千葉市中央区市場町付近とすると、その直線距離は約24kmで、そのちょうど中間(双方から約12km)の位置にあるのが、現・習志野市鷺沼付近になる。駅間の距離は30里=約16kmとされているので、ちょうど中間、というのが確実な証拠になるわけではないが、古代東海道の「浮嶋」駅が鷺沼付近にあり、それが後に「鷺沼御旅館」になったというのも面白い考えではないかと思う。蛇足だが、その他の傍証として、一般に古代駅路の傍に有力豪族の古墳があることが多いこと、「鷺沼城址」の台地が浮島のように見えたのではないかということ等が挙げられる。  


習志野市のHPから(鷺沼古墳群を訪ねる!)

同(鷺沼・津田沼付近に東海道の駅があった!? 1)

同(鷺沼・津田沼付近に東海道の駅があった!? 2)


写真1:「鷺沼城址公園」西側。城址(公園)の本体は台地上で、奥に見える階段を登る。台地の西側崖下には菊田川が流れていた。現在は暗渠化され、「菊田遊歩道」という緑道になっている。


写真2:同上、台地上の広場。奥に馬の埴輪のレプリカが見えるが、出土したものと同形のものではないらしい。


写真3:「鷺沼古墳群B号墳」の石棺のための覆屋


写真4:「鷺沼古墳群B号墳」石棺。石材は凝灰岩で、いわゆる房州石。


写真5:「鷺沼源太満義諸武士之碑」という石碑(昭和34年建立)。戦国時代、いわゆる(第二次)国府台合戦に鷺沼源太満義という武将が参戦しており、その事蹟の石碑ではないかと思われるが、光義と満義、名の読み方が同じであり、子孫なのか、あるいは混同されて伝わったのか、よくわからない。


写真6:「源太塚」(鷺沼古墳群A号墳)。鳥居の奥に「源太宮」という小祠がある。鳥居の辺りが前方部、小祠の後ろ辺りが後円部とされるが、形は不明瞭。






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菊田神社

2013-10-19 23:26:17 | 神社
菊田神社(きくたじんじゃ)。
場所:千葉県習志野市津田沼3-2-5。京成本線「津田沼」駅の東、約300m。駐車場あり。
社伝によれば、弘仁年間(810~824年)頃の創建で、古くは「久々田大明神」と称されていた。往古、当社は「久々田浦」という入江の傍の小島に鎮座していたという。治承年間(1177~1181年)、藤原師経卿らが下総国に左遷され、相模国から船で渡ろうとしたところ時化に遭い、波が静かな所を探して「久々田浦」の入江に着いた。師経卿らは、無事に上陸できたのは「久々田大明神」の御神徳によるものとして、この地にしばらく留まることとした。後に、師経卿の一族は三山の郷(現・船橋市三山。「二宮神社」(式内社「寒川神社」、2012年3月12日記事参照)の鎮座地)に移住したとされる。なお、当神社の祭神が大己貴命(大国主命)と藤原時平命になっているのは、師経卿が祖先の藤原時平命を合せ祀ったためという。また、当神社に隣接する「菊田水鳥公園」の池は、その水源が「二宮神社」の御手洗の泉に発しているといわれている。ただし、藤原師経卿の伝承については史実に反しており、信頼性が殆どないらしい(このことについては、おって別項で書く予定。)。
因みに、当神社の社名は、宝暦年間(1751~1763年)に「菊田大明神」と改めたものである。現在、JRと京成電鉄に「津田沼」という駅があり、これは旧・津田沼町という地名によるものであるが、「津田沼」は谷津、久々田、鷺沼という中核3村から1字ずつ取って造られた合成地名である。現在、習志野市の町名に谷津と鷺沼は復活しているが、久々田(菊田)は残っていない。


千葉県神社庁のHPから(菊田神社)


写真1:「菊田神社」正面鳥居


写真2:社殿。裏にはJR総武本線が通っている。


写真3:隣接する「菊田水鳥公園」
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西向地蔵尊(千葉県船橋市)

2013-10-12 23:55:35 | 史跡・文化財
西向地蔵尊(にしむきじぞうそん)。
場所:千葉市船橋市本町2。JR「船橋」駅前から南に約350m進み、「本町1丁目」交差点から西へ約200m。駐車場なし。
「西向地蔵尊」は、村人達が万治元年(1658年)に建てた地蔵尊像のほか、円西という僧が延宝8年(1680年)に建てた阿弥陀如来像、称誉という僧が元禄9年(1696年)に建てた聖観音像(いずれも石造)などが納められた小堂で、いずれの像も西向きに立てられていることから、その名がある。
船橋市の中心部である本町地区は江戸時代の「船橋宿」で、「西向地蔵尊」のある辺りがその入口であった。西側には、かつて本海川(山谷澪)という川が現・天沼公園付近から海に向って流れていて、河口付近は漁船の船溜りになっていた(本海川は今もあるが、殆ど暗渠になっている。)。そして、その川端(町外れ)に罪人の仕置場(刑場)があったという。だから、この「西向地蔵尊」は、「船橋宿」の出入り口を守るとともに、処刑された罪人の供養のためでもあったのだろう。
さて、「船橋地誌」の著者・長谷川芳夫氏は、古代東海道の「浮嶋」駅の擬定地を、旧「船橋宿」のうち旧九日市(村)とする。九日市は市川から延びる砂洲の先端だが、海神(村)との村境となっていた本海川によって分断されて島のようになっていた。これが「浮嶋」の名の由来である、とする。また、前項(「海神念佛堂」)で書いたように、海神付近には古墳や古い集落があって、駅家を維持し得るだけの人口があった、というのも理由の一つに挙げている。
ところで、現在のメイン道路は「西向地蔵尊」の北側を通っているが、ちょうどここで少しカーヴしている。古代東海道が直進したとすれば、南側を通るのだろうが、現在、その先に直線道路の痕跡はない。地図に直線定規を当ててみると、京成本線「大神宮下」駅付近を通り、同「船橋競馬場」駅の東側で、再び国道14号線に合流する。これが、古代東海道のルートだったのだろうと思われる。


写真1:「西向地蔵尊」


写真2:同上、海神側(西側)に少し引いて撮影。現在は地蔵堂の左を通るのがメイン道路で、その先を約900m進むと「船橋大神宮」(2012年12月1日記事参照)西参道に突き当たる。その先は「宮坂の切通し」であるが、これは徳川家康による東金街道の造成(元和(1615~1624年)頃に完成)によって開かれたものという。地蔵堂の右側にも道はあるが、直線道路の痕跡はみられない。
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海神念佛堂

2013-10-05 23:04:07 | 寺院
海神念佛堂(かいじんねんぶつどう)。
場所:千葉県船橋市海神1-17-16。国道14号線から船橋市街地に向う旧道の三叉路(海神三叉路)から東に約200m。駐車場なし。
創建時期は不明。船橋市の海神地区は、「入日神社」(2012年12月15日記事)または「龍神社」(2012年12月22日記事)の項で書いたように、日本武尊が東征の際、下総国では当地に最初に上陸したという伝説があり、地名の由来にもなっているという。また、中世には「天沼千軒」という大集落があって、その氏神は「八幡神社」であり、別当寺として「天摩山 善光寺(あまのまさん ぜんこうじ)」という寺院があったという。その「善光寺」は現・海神小学校付近にあったとされるが、そこにはかつて古墳もあって(消滅)、石棺と馬の埴輪らしきものが出土したらしい。一説によれば、この「善光寺」は田原藤太こと藤原秀郷が平将門を討つために創建したものだが、その後の戦乱で焼失した。このとき、本尊の阿弥陀如来像は、現・松戸市小金の「東漸寺」に預けられたという。江戸時代、元禄年間には江戸・神田の高麗屋佐治右衛門がこの阿弥陀如来像を念仏堂に安置し、観音堂も寄進した。そして、芝「増上寺」の祐天上人の教化によって、浄土宗の寺院としての形を整えたとされる。藤原秀郷の創建というのは伝説だろう(平将門を裏切った桔梗の前という女性は秀郷の愛妾または娘とされ、将門の死後、各地を彷徨った後に海神念仏堂に滞在したが、目前の海に入水して果てたという伝承もある。)が、本尊の寄木造・定朝様の阿弥陀如来立像は平安時代後期~鎌倉時代初期のものという(昭和42年に船橋市指定文化財に指定)。


船橋市のHPから(指定文化財:木造阿弥陀如来立像)


写真1:「海神念佛堂」


写真2:同上、観音堂


写真3:観音堂の傍らにある「右いち川みち 左行とくみち」と刻まれた道標。本来は行徳街道と成田街道(佐倉道)の分岐点にあったもので、元禄7年(1694年)に建てられた船橋市内最古の道標であるという。

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