十王前横穴墓群(じゅおうまえおうけつぼぐん)。通称:かんぶり穴。
場所:茨城県日立市十王町伊師56他。国道6号線「小貝浜入口」交差点から約700m、十王川に架かる豊良橋を渡ったところで右折(北へ)、約300m。そこから徒歩で橋を渡って直ぐ(橋のところに案内柱が立てられている。)。川畔に駐車スペース有り。
「十王前横穴墓群」は、十王川に面する丘陵の西斜面の岩壁を横に彫り込んで造った墳墓で、現在29基が確認されている。特筆すべきは、3基(2号墳、11号墳、14墳)に三角形・菱形の紋様や武具などの線刻や、赤・黒・白の彩色がある装飾横穴墓と呼ばれるものであること。三角形・菱形は鎮魂や魔除けの意味があると言われているほか、刀・靫(ゆき。矢を入れて背負う道具)などとみられる線刻は被葬者の地位・性格を示しているのかもしれない。また、装飾古墳は九州北部に多いので、九州との関連性があるとされている。なお、造られたのは7世紀後半頃という。
ところで、「常陸国風土記」の逸文とされるものの1つに、次のような話がある(「塵袋」:鎌倉時代中期)。「昔、兄と妹が同じ日に田植えをした。遅い時間に植えた者は伊福部の神の崇りにあって殺されるぞ、と言われていたのに、妹は遅い時間から田植えを行った。その時、雷が落ちて妹を殺してしまった。兄は妹の仇を討とうと思ったが、雷神の居場所を知らない。その時、一羽の雌の雉(キジ)がやって来て兄の肩に止まった。績麻(をみ。紡いだ麻糸を環状に巻いたもの。俗に「へそ」という、とある。)を雉の尾羽根にかけると、雉は伊福部の岳(丘)に飛んで行った。兄が績麻の糸を辿っていくと、岩屋(洞窟)にたどり着いたので、中を覗くと雷神が寝ていた。兄が刀を抜いて雷神を斬ろうとすると、雷神はあわてて起き上がり、100年後まで、あなたの子孫には雷の被害がないようにしますと言って、命乞いをした。兄は雷神を許し、また雉に対しては、この恩を忘れないと誓ったので、それ以来、この地に住む者は雉を食べない。」(大意)。「塵袋」では「常陸国記」からの引用ということとなっているが、これが「常陸国風土記」であることにはほぼ異論がなく、また郡名もないが、「岩屋」(原文では「石屋」)というのが「かんぶり穴」のことであるという説が多い。それは、「かんぶり」というのが「雷震」を意味する「かんぶる」に由来することによるというものである(「かんぶる」については「賀毘礼之高峯」(2019年10月12日記事)参照)。また、「かんぶり穴」の北、約3.5kmのところに伊吹(イブキ)というヒノキ科の常緑樹の樹叢(国の天然記念物)があり、これを「イブキ山」と呼び、その西側に「いぶき台団地」という住宅団地がある。そして、今は「館山神社」(日立市川尻町)の境内社となっている「白山神社」が「お雉さま」と称され、地元の人は雉を食べない、と伝えられている。ただし、この「白山神社」は、現在は廃寺となっているが、常陸(水戸)三十三観音霊場の第16番札所であった真言宗「法徳山 長楽院 宝幢寺」(文明元年(1469年)開山)境内にあった「白山権現」が移されたものである(「宝幢寺」は今は無いが、同じ場所に日蓮宗「慈好山 蓮光寺」(日立市川尻町604ー2)がある。)。開基帳によれば、「白山権現」は「宝幢寺」開山の松橋坊俊意が文明4年(1472年)に勧請したものらしい。「白山神社」といえば、加賀国一宮「白山比咩神社」が総本社だろうが、キジが神使であるとは聞いたことがない。そこで、なぜ当地の「白山神社」が「お雉さま」と呼ばれるようになったのか不明だが、「宝幢寺」の信徒集めのために上記の「塵袋」の話を利用したのではないか、とも疑ってしまう。
それはさておき、上記の話自体にも、色々ツッコミ処がある。例えば、「伊福部の神」だが、「伊福部(いおきべ、いふくべ、いふきべ)」については、①笛吹きを担当した部民、②製鉄の際の踏鞴を吹く部民、③景行天皇の皇子である五百城入彦皇子(イオキイリヒコ)の名代の部民など諸説ある(ついでながら、「ゴジラ」の映画音楽の作曲家・伊福部昭を思い出す。)。ただし、ここでは、寧ろ日本武尊(ヤマトタケル)の伊吹山(現・滋賀県米原市)の話に関連があるのだろう。日本武尊は伊吹の神と対決に行く途中、大蛇(「日本書紀」による。「古事記」では巨大な白猪。)が現れるが、これを神使として相手にしなかったが、神そのものであって、氷雨を降らされ、病身となって下山する羽目になる。そして、その後、能褒野(のぼの。現・三重県亀山市)で亡くなる、という話である。大蛇といい、氷雨といい、水神・雷神に繋がるキーワードが出てくる。しかし、伊吹の神が日本武尊を弱らせるほどの力を見せたのに対して、「塵袋」の話では、妹を蹴殺した一方で、兄には刀で脅されただけで降参するような存在となっている。洞窟で寝ていた、というのも変と言えば変である。製鉄に関連しているとすれば、雷神とは鉄鉱石の鉱脈を探す山師で、夕刻に里に下りてきて女性を襲い、犯人を捜してやってきた兄に殺されかける、という話かもしれない。さて、本当に「常陸国風土記」にあった話なのだろうか。
写真1:「十王前横穴墓群」への道。十王川に架かる木橋を渡る。十王川では鮎(アユ)の天然遡上もみられるらしい。
写真2:同上、入口。「かんぶり穴を守る会」の皆さんが整備されているようで、竹のチップが敷き詰められて歩きやすい。なお、竹林には侵入厳禁(筍の盗掘があるらしい。以っての外。)。横穴墓群は、この奥の右手の斜面にある。
写真3:同上、1号墳? と説明版。この横穴墓には線刻等がない。少し屈めば、玄室の中に入れる。
写真4:同上、玄室内部。台形になっている。
写真5:同上、他の横穴墓。
写真6:同上。
写真7:「館山神社」(場所:茨城県日立市川尻町2374。国道6号線沿い、「豊浦中学校」入口の直ぐ西側)。鳥居と社号標、聖徳太子碑。なお、国道を隔てて向かい側に「蠶養神社(こがいじんじゃ)」があり、当地がわが国最初の養蚕の地であるとする。
写真8:同上、社殿。祭神:大山祇神。
写真9:「白山神社」(「館山神社」境内社。明治42年に「館山神社」と合併)。加賀国一宮「白山比咩神社」からの勧請と思われるが、祭神は白山比咩大神(菊理媛神)ではなく、伊弉冉命(イザナミ)とのこと。
場所:茨城県日立市十王町伊師56他。国道6号線「小貝浜入口」交差点から約700m、十王川に架かる豊良橋を渡ったところで右折(北へ)、約300m。そこから徒歩で橋を渡って直ぐ(橋のところに案内柱が立てられている。)。川畔に駐車スペース有り。
「十王前横穴墓群」は、十王川に面する丘陵の西斜面の岩壁を横に彫り込んで造った墳墓で、現在29基が確認されている。特筆すべきは、3基(2号墳、11号墳、14墳)に三角形・菱形の紋様や武具などの線刻や、赤・黒・白の彩色がある装飾横穴墓と呼ばれるものであること。三角形・菱形は鎮魂や魔除けの意味があると言われているほか、刀・靫(ゆき。矢を入れて背負う道具)などとみられる線刻は被葬者の地位・性格を示しているのかもしれない。また、装飾古墳は九州北部に多いので、九州との関連性があるとされている。なお、造られたのは7世紀後半頃という。
ところで、「常陸国風土記」の逸文とされるものの1つに、次のような話がある(「塵袋」:鎌倉時代中期)。「昔、兄と妹が同じ日に田植えをした。遅い時間に植えた者は伊福部の神の崇りにあって殺されるぞ、と言われていたのに、妹は遅い時間から田植えを行った。その時、雷が落ちて妹を殺してしまった。兄は妹の仇を討とうと思ったが、雷神の居場所を知らない。その時、一羽の雌の雉(キジ)がやって来て兄の肩に止まった。績麻(をみ。紡いだ麻糸を環状に巻いたもの。俗に「へそ」という、とある。)を雉の尾羽根にかけると、雉は伊福部の岳(丘)に飛んで行った。兄が績麻の糸を辿っていくと、岩屋(洞窟)にたどり着いたので、中を覗くと雷神が寝ていた。兄が刀を抜いて雷神を斬ろうとすると、雷神はあわてて起き上がり、100年後まで、あなたの子孫には雷の被害がないようにしますと言って、命乞いをした。兄は雷神を許し、また雉に対しては、この恩を忘れないと誓ったので、それ以来、この地に住む者は雉を食べない。」(大意)。「塵袋」では「常陸国記」からの引用ということとなっているが、これが「常陸国風土記」であることにはほぼ異論がなく、また郡名もないが、「岩屋」(原文では「石屋」)というのが「かんぶり穴」のことであるという説が多い。それは、「かんぶり」というのが「雷震」を意味する「かんぶる」に由来することによるというものである(「かんぶる」については「賀毘礼之高峯」(2019年10月12日記事)参照)。また、「かんぶり穴」の北、約3.5kmのところに伊吹(イブキ)というヒノキ科の常緑樹の樹叢(国の天然記念物)があり、これを「イブキ山」と呼び、その西側に「いぶき台団地」という住宅団地がある。そして、今は「館山神社」(日立市川尻町)の境内社となっている「白山神社」が「お雉さま」と称され、地元の人は雉を食べない、と伝えられている。ただし、この「白山神社」は、現在は廃寺となっているが、常陸(水戸)三十三観音霊場の第16番札所であった真言宗「法徳山 長楽院 宝幢寺」(文明元年(1469年)開山)境内にあった「白山権現」が移されたものである(「宝幢寺」は今は無いが、同じ場所に日蓮宗「慈好山 蓮光寺」(日立市川尻町604ー2)がある。)。開基帳によれば、「白山権現」は「宝幢寺」開山の松橋坊俊意が文明4年(1472年)に勧請したものらしい。「白山神社」といえば、加賀国一宮「白山比咩神社」が総本社だろうが、キジが神使であるとは聞いたことがない。そこで、なぜ当地の「白山神社」が「お雉さま」と呼ばれるようになったのか不明だが、「宝幢寺」の信徒集めのために上記の「塵袋」の話を利用したのではないか、とも疑ってしまう。
それはさておき、上記の話自体にも、色々ツッコミ処がある。例えば、「伊福部の神」だが、「伊福部(いおきべ、いふくべ、いふきべ)」については、①笛吹きを担当した部民、②製鉄の際の踏鞴を吹く部民、③景行天皇の皇子である五百城入彦皇子(イオキイリヒコ)の名代の部民など諸説ある(ついでながら、「ゴジラ」の映画音楽の作曲家・伊福部昭を思い出す。)。ただし、ここでは、寧ろ日本武尊(ヤマトタケル)の伊吹山(現・滋賀県米原市)の話に関連があるのだろう。日本武尊は伊吹の神と対決に行く途中、大蛇(「日本書紀」による。「古事記」では巨大な白猪。)が現れるが、これを神使として相手にしなかったが、神そのものであって、氷雨を降らされ、病身となって下山する羽目になる。そして、その後、能褒野(のぼの。現・三重県亀山市)で亡くなる、という話である。大蛇といい、氷雨といい、水神・雷神に繋がるキーワードが出てくる。しかし、伊吹の神が日本武尊を弱らせるほどの力を見せたのに対して、「塵袋」の話では、妹を蹴殺した一方で、兄には刀で脅されただけで降参するような存在となっている。洞窟で寝ていた、というのも変と言えば変である。製鉄に関連しているとすれば、雷神とは鉄鉱石の鉱脈を探す山師で、夕刻に里に下りてきて女性を襲い、犯人を捜してやってきた兄に殺されかける、という話かもしれない。さて、本当に「常陸国風土記」にあった話なのだろうか。
写真1:「十王前横穴墓群」への道。十王川に架かる木橋を渡る。十王川では鮎(アユ)の天然遡上もみられるらしい。
写真2:同上、入口。「かんぶり穴を守る会」の皆さんが整備されているようで、竹のチップが敷き詰められて歩きやすい。なお、竹林には侵入厳禁(筍の盗掘があるらしい。以っての外。)。横穴墓群は、この奥の右手の斜面にある。
写真3:同上、1号墳? と説明版。この横穴墓には線刻等がない。少し屈めば、玄室の中に入れる。
写真4:同上、玄室内部。台形になっている。
写真5:同上、他の横穴墓。
写真6:同上。
写真7:「館山神社」(場所:茨城県日立市川尻町2374。国道6号線沿い、「豊浦中学校」入口の直ぐ西側)。鳥居と社号標、聖徳太子碑。なお、国道を隔てて向かい側に「蠶養神社(こがいじんじゃ)」があり、当地がわが国最初の養蚕の地であるとする。
写真8:同上、社殿。祭神:大山祇神。
写真9:「白山神社」(「館山神社」境内社。明治42年に「館山神社」と合併)。加賀国一宮「白山比咩神社」からの勧請と思われるが、祭神は白山比咩大神(菊理媛神)ではなく、伊弉冉命(イザナミ)とのこと。