神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

寶林山 地蔵院 円満寺

2024-08-31 23:35:22 | 寺院
寶林山 地蔵院 円満寺(ほうりんさん じぞういん えんまんじ)。
場所:茨城県古河市小堤1405。国道125号線「小堤」交差点から東に約150m。駐車場あり。
寺伝によれば、大同4年(809年)、弘法大師(空海)が陸奥国「湯殿山」(現・山形市鶴岡市。「湯殿山神社本宮」(2016年4月6日記事))への参詣の帰りに当地に滞在し、「寺家山」(現在地から南に約300mのところ)に一宇を建立したことが始まりという。寺宝の金銅三鈷杵・五鈷鈴(密教の法具、茨城県指定文化財)は、その際に弘法大師が納めたものとされる。弘法大師自身が当地に来たというのは伝説に過ぎないだろうが、この金銅三鈷杵・五鈷鈴は中国・唐(618~907年)からの渡来物と考えられており、また、これを模して造られたとみられる平安時代作とされる金銅独鈷杵・五鈷杵もあって、創建当時のものであれば、平安時代末期に現・古河市周辺を支配した下河辺氏の関与があった可能性がある。一方、当寺院の創建の地は中世城館「小堤城」の内堀と中堀の間に当たり、元は城内にあった城主の持仏堂であったものが、後に城域全体を寺院の境内とするようになったのかもしれないという。小堤城主については、室町時代、古河公方の家臣・諏訪三河守頼方であるとの伝承がある。その後、江戸時代に堂宇は数度に亘って焼失したが、天保11年(1840年)、行盛法印によって再建された。⼤正15年に本堂の⼤規模な改修、昭和52年に現在の観⾳堂建⽴、同53年に鐘楼堂が再建されたという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵菩薩。また、正徳4年(1714年)に開創された葛飾坂東観音霊場の第33番札所となっている(観音堂本尊は十一面観世音菩薩)。観世音菩薩は33の姿に変身して衆生を救うとされるので、本来、観音霊場の札所は33ヵ所とされることが多く、本来は当寺院が結願の寺だった(現在は番外を含め41ヵ寺が参加。)。このためか、12年に一度(午年)に行われる観音御開帳の運営事務局も当寺院に置かれているという。


真言宗豊山派 円満寺のHP


写真1:「円満寺」入口、寺号標


写真2:寶聖大観音菩薩像(手前)、聖観音菩薩像(奥)


写真3:山門、鐘楼、イチョウ


写真4:山門


写真5:山門裏のイチョウ。太さからすれば、古木というほどではないと思われるが、乳垂根が多く、長く伸びている。


写真6:本堂


写真7:観音堂
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諏訪神社(茨城県結城市上山川)

2024-08-24 23:32:08 | 神社
諏訪神社(すわじんじゃ)。通称:結城諏訪神社、上山川諏訪神社。
場所:茨城県結城市上山川161。茨城県道23号線(結城坂東線)と同54号線(明野間々田線)の「芝崎」交差点から南に約400m。駐車場あり。ただし、こちらは社殿の裏側に当たり、西向きの社殿の前に約250mの真っすぐな参道があって、入口に朱塗りの両部鳥居がある。
社伝によれば、天慶3年(940年)、「平将門の乱」に対して、俵藤太こと藤原秀郷に将門討伐の宣旨が下り、秀郷が信濃国一宮「諏訪大社」(現・長野県茅野市ほか)から諏訪大明神の神霊を勧請して、現在の境内地で必勝祈願を行ったのを創建とする。将門に勝利した秀郷は下総国と下野国の守護に任じられたことから、諏訪大明神の御神徳に感謝し、社殿を建築して、神事に使った鏑矢を御神体として奉納した。それ以来、源頼朝に従い奥州合戦に参戦した当地の領主(結城郡地頭)の結城氏初代当主・結城朝光が戦勝祈願して勝利を収めるなど、万事必勝の神として多くの武将の信仰が篤かったという。江戸時代には、慶安2年(1649年)に社領五石を認められた。明治6年、村社に列格。現在の祭神は、建御名方命・事代主命・八坂刀女命。
なお、社殿の前にある「勝負岩」は、将門の軍勢の矢から秀郷を守ったといわれ、岩に触るとパワーを授かり、願いが叶うとされている。また、毎月4月3日の神武祭に行われる「太々神楽(だいだいかぐら)」は五穀豊穣、氏子・崇敬者の安寧を祈願するもので、茨城県指定文化財となっている。「太々神楽」自体は茨城県西部・南部の他の神社等でも行われているが、当神社においては、神楽師が半世襲的な伝承形態で、伝承者全員が舞を踊り、笛・太鼓を一通り演奏することができる免許皆伝となった者で構成されており、結城市内の他の神社にも出張して演じることに特徴があるという。


結城諏訪神社のHP

結城市のHPから(上山川諏訪神社太々神楽)


写真1:「諏訪神社」鳥居(社殿正面)


写真2:拝殿。社殿が西向きなのは、本社である信濃国一宮「諏訪大社」の方角を向いているためという。


写真3:本殿。室町時代に再建、元文2年(1737年)改修とされ、結城市指定文化財。


写真4:本殿横の鳥居。ちょっと変な場所にあるが、社殿の背後に県道が通り、専らそちらから参拝者が来るためだろう。


写真5:神事殿(神楽舞台)


写真6:由緒碑


写真7:境内社「天満社」。他にも、石祠の境内社がいくつかある。


写真8:「勝負岩」
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慈眼山 福蔵院 光福寺

2024-08-17 23:33:25 | 寺院
慈眼山 福蔵院 光福寺(じげんさんふくぞういんこうふくじ)。通称:梶内観音。
場所:茨城県筑西市梶内761。茨城県道54号線(明野間々田線)と同357号線(谷和原筑西線)の「黒子」交差点から357号線を南に約1.4km。駐車場有り。
寺伝によれば、貞観元年(859年)、第3代天台座主・慈覚大師により創建された。正徳元年(1711年)、定観法印が阿弥陀堂を建立して再興。元は「赤城山 光福寺」と称していたが、明治初年に「慈眼山 福蔵院 光福寺」と改称した。現在は天台宗寺院で、本尊は行基作という十一面観世音菩薩立像(像高15.15cm)。安産・子育てに御利益ありとして参詣者が多い。また、当寺院の御朱印は住職のユニークな絵入りで人気があるとのこと。なお、南北朝時代、南朝方の関城主・関宗祐の四男・梶四郎祐郷は梶内に出城を作り(現「赤城神社」付近)、当寺院の観音菩薩を熱心に信仰したという(関城は、落城前の興国4年(1343年)まで北畠親房が留まり、歴史書「神皇正統記」を完成させたことでも有名。なお、関城の落城により、関宗祐・祐郷父子は戦死した。)。


写真1:「福蔵院」境内入口。寺号標。


写真2:本堂前


写真3:本堂


写真4:巨大な石碑。本堂裏に御影石による石窟が造られ、石造の観音像が祀られているとのこと(拝観有料)。


写真5:石仏


写真6:「赤城神社」鳥居(場所:筑西市梶内136。「福蔵院」の北西約250m(直線距離)。駐車スペース有り。)。


写真7:同上、社殿。祭神:盤筒男命。由緒不明。明治6年村社。
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等覚院供養塔(伝 藤原高房供養塔)

2024-08-10 23:32:34 | 史跡・文化財
等覚院供養塔(とうがくいんくようとう)。伝 藤原高房供養塔(でん ふじわらのたかふさくようとう)。
場所:茨城県筑西市泉356。国道294号線(常総バイパス)「中館西」交差点から北へ約1kmで左折(西へ)、約1.3km進んで「←泉」という案内板がでているところで左折(南へ)(この先、道路が狭いので注意。)、約350mで突き当りを左折(東へ)、道なりに約180m進むと「等覚院(廃寺)」境内。駐車スペースあり。
伝承によれば、延喜元年(901年)、左大臣・藤原時平の讒言により、右大臣・菅原道真が九州「大宰府」の大宰権帥に左遷されたとき、中納言・藤原高房も常陸国伊佐荘に流された。高房は延長2年(924年)に当地で亡くなり、法名を東岳院殿秋山道融大居士として葬られた。また、高房の子孫である平安時代後期~鎌倉時代初期の御家人で伊達氏宗家の初代当主・伊達朝宗が、主君・源頼朝の法名を清国院殿前柳営譲与崇和大居士として、その供養塔を高房のものと並べて建てたという。「東岳院」はその後、天台宗「弥勒山 等覚院」と称し、「施無畏山 延命院 観音寺」(前項)の末寺であったという。現在も大型の五輪塔(石塔)2基のほか、小型の塔や五輪塔の一部などが10数基残っていて、最も大きな塔(高房の供養塔とされるもの)が鎌倉時代末期頃に造られたと推定されている。
ただし、史実(「日本文徳天皇実録」など)によれば、藤原高房は、藤原北家魚名流の貴族で、天長4年(827年)に従五位下・美濃介に任じられて現地に下向、善政を行って評判が高く、その後も備後守・肥後守・越前守を歴任したが、最終的な官位は正五位下に留まり(三位以上が「公卿」で、五位は下~中級クラス)、仁寿2年(852年)に背中の悪性腫瘍により58歳で亡くなったとされる。よって、上記伝承とは時代も異なり、常陸国に流されたということもない。では、何故ここに高房の供養塔とされるものがあるのか、というと、供養塔の前に建てられた「伊達氏供養塔」石碑に関係があるらしい。戦国大名・伊達政宗で有名な奥州伊達氏は、平安時代末頃から当地(常陸国伊佐郡)の領主であった伊佐氏から起こっている。そして、伊佐氏は、天永2年(1111年)、藤原北家山蔭流の藤原定任の長男・実宗が常陸介に任じられて常陸国伊佐郡に居住し、伊佐氏を称したことに始まるとされる。その山蔭の父が高房であるので、伊達氏の祖先というのは誤りではない。ただ、何故、高房なのか、という疑問はある(因みに、山蔭は仁和2年(886年)に従三位・中納言に任じられている。)。また、高房や頼朝の供養塔でないとすると、誰の供養塔なのか。五輪塔としても中々の優品とみられるし、周囲の五輪塔の数などからみても、あるいは伊佐氏一族の供養塔群かもしれない。
蛇足:茨城県や千葉県に「高房神社」という名の神社がいくつかある。これらの祭神は殆ど武甕槌神(常陸国一宮「鹿島神宮」祭神)か建葉槌神(同二宮「靜神社」祭神)で、これは「鹿島神宮」の摂社「高房社」に関連するもののようである。一方、現・栃木県日光市湯西川に鎮座する「高房神社」は祭神を高房大明神とするが、古くは藤原高房霊としていた。下野国(現・栃木県)は、平将門を討った功績により下野守などに任じられた藤原秀郷(俵藤太)以来、藤原氏の勢力が強く、その先祖で評判の高い高房を祀ったといわれている。ただし、最近では、湯西川温泉を「平家落人の里」として宣伝しているためか、高房というのは、平重盛の六男・忠房の子、あるいは落ちのびた家臣団の長の平高房であり、温泉を発見したことなどもあって、死後に神として祀られたという話になっている。


写真1:「等覚院(跡)」境内入口


写真2:同上、入口正面奥にある「伝 藤原高房供養塔」


写真3:同上、玉垣の前に「伊達氏供養塔」石碑が建てられている。昭和9年に伊達氏の遠孫という人物が建てたものらしい。


写真4:同上、向かって右が藤原高房、左が源頼朝の供養塔とされているようである。


写真5:「等覚院(跡)」から北西約70m(直線距離)にある「泉古墳」(場所:筑西市泉326)。直接関係はないと思われるが、近いので、訪問した。方墳?、墳頂に「稲荷神社」がある。


写真6:同上、「稲荷神社」鳥居


写真7:同上、「稲荷神社」社殿
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施無畏山 延命院 觀音寺

2024-08-03 23:36:24 | 寺院
施無畏山 延命院 觀音寺(せむいさん えんめいいん かんのんじ)。通称:中館観音寺。
場所:茨城県筑西市中舘522-1。国道50号線(下館バイパス)「中館」交差点から北へ約600m、「八幡神社」の裏(北側)の道路に右折(東へ)、約200mで境内入口前となるが、自動車は「八幡神社」裏(「天台宗 法華三昧之道場 觀音寺」の寺号標?がある。)のスペースか、境内入口前の切通しを通り過ぎて五行川(勤行川)を渡った先の「勤行緑地」駐車場を利用。
寺伝等によれば、第31代・用明天皇の時代(585~587年)、中国(梁)から渡来した法輪独守居士が当地に観音菩薩像を安置したのを創建とする(法輪独守居士は「雨引山 楽法寺」(2018年11月17日記事)も創建している。)。当時、当地では疫病が流行っていたが、法輪独守居士が祈願したところ、中舘台地崖下より清らかな水が湧き出し、この水を飲んだ人々は忽ち疫病が治ったという。大化2年(646年)にも、時の左大臣・阿部倉梯の姫の熱病を平癒した霊験があり、孝徳天皇から「延命」という称を賜ったと伝えられる。文治5年(1189年)、中村(藤原)常陸介朝宗が源頼朝麾下の武将として「奥州合戦」に4人の息子と共に前衛として出陣する際、当寺院に戦勝を祈願した。「奥州合戦」での戦功により陸奥国伊達郡(現・福島県伊達市ほか)を所領として与えられ、以降、伊達氏を名乗った。その後、伊達郡は次男・宗村が相続したので、朝宗又は宗村が奥州伊達氏の始祖とされる。江戸時代になっても、当地領主に加え、仙台藩主の帰依が篤く、仙台藩第4代藩主・伊達綱村から飛び地の龍ヶ崎領(常陸国河内郡龍ヶ崎村、現・茨城県龍ケ崎市)から50石を永代寄進されたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。この阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で、筑西市指定文化財。また、観音堂本尊の観音菩薩は、カヤ材の寄木造の立像で高さ約102cm、鎌倉時代の作とされ、大正11年に国宝指定、昭和25年に国指定重要文化財となっている。秘仏だが、年1回御開帳がある。延命観世音菩薩と称し、六臂あるのが特徴。
なお、当地には中世城館「伊佐城」があったとされ、茨城県指定史跡となっている。当寺院本堂付近が二の丸跡といわれ、「伊佐城址」石碑が建てられている。築城時期・築城者は不明だが、上記の中村常陸介朝宗が築城したとの説があり、当地(常陸国伊佐郡)は朝宗の長男・伊佐為宗が相続したので、その一族が居城としたのかもしれない。伝説では、天慶3年(940年)、下野押領使・藤原秀郷(通称:俵藤太)が平将門追討の際に「上館(元館)」・「中館」・「下館」の3館を築いたとされ、「中館」を伊佐氏が改修したものともいわれる。「伊佐城」は、南北朝時代、南朝方について戦ったが、北朝方の高師冬に攻められて興国4年(1343年)に落城し、以後廃城となったという。


天台宗 施無畏山延命院 觀音寺のHP


写真1:「茨城百景 中館観音と下館近郊」石碑


写真2:「國宝中舘觀世音」石碑。観音堂本尊の観音像がいわゆる旧国宝であったことを示すもの。境内に入るため石橋(「延命橋」という名がついている。)を渡る。この下は切通しで、かつて当地が中世城館であったときの堀跡といわれている。


写真3:「觀音寺」観音堂.。江戸時代中期頃の建築で、筑西市指定文化財。


写真4:同上、彫刻が素晴らしい。


写真5:「伊達行朝公供養塔」(覆屋)。中に石塔がある。伊達氏第7代・伊達行朝の供養塔という。筑西市指定文化財。


写真6:「延命水」。台地下、五行川畔に下りたところにある。木の根元から今も清水が湧いているが、水量は多くはなく、残念ながら飲用には適さないようである。


写真7:大門(山門)。「下館城」大手門の移築との伝承がある。


写真8:「下館藩主石川総管公墓所」。第9代下館藩主(最後の藩主で、初代下館藩知事。子爵)・石川総管の墓所。筑西市指定文化財。


写真9:本堂


写真10:同上


写真11:本堂横にある「伊佐城址」石碑。
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