荒久古墳(あらくこふん)。
場所:千葉市中央区青葉町959(「青葉の森公園」内)。県道20号線(千葉大網線、通称:大網街道)「ハーモニープラザ」交差点から北に約300mのところに駐車場(有料)の入口がある。古墳は広い公園内の南西部にあり、「青葉の森公園センター」の建物の前(東側)にある。
「荒久古墳」は、「海上山 千葉寺」の東、約600mのところにある古墳で、古墳時代最終末期の8世紀頃に築造されたものとされる。墳丘はかなり削り取られており、現在は1辺が約9mしかないが、本来は1辺約20mの方墳であったという(円墳説もある。)。埋葬施設として凝灰質性砂岩を使用した横穴式石室があり、玄室は奥行約2m、奥壁の幅は約1.4m。古くから石室が開口しており、「石の唐戸」と呼ばれていたという(現在は保存のため埋め戻され、見ることはできない。)。床には粘土が敷かれた上、両隅に排水溝が設けられていたらしい。いったん明治24年に発掘調査が行なわれたが、そのとき出土した遺物の多くは散逸してしまい、詳細不明となっていた。昭和34年に改めて発掘調査が行なわれた結果、1体分の人骨、琥珀製なつめ玉3個、鉄製の馬具の一部などが出土したという。昭和35年に千葉市の史跡に指定された。
この付近は千葉寺谷と呼ばれ、かつては都川河口の台地であったところで、旧石器時代から集落が形成されていたようだ。因みに、「海上山 千葉寺」と「荒久古墳」はともに標高約20mの台地上の最も高い場所にある(ただし、両者の間は谷になっている。)。古代には旧・下総国千葉郡(現在の千葉市、習志野市、船橋市東部、八千代市西部)を支配した千葉国造一族の墳墓であると考えられている。
「青葉の森公園ビジュアルマップ」さんのHPから(荒久古墳)
写真1:「青葉の森公園センター」前の階段を上っていく。単なる雑木林のようだが…
写真2:「荒久古墳」。塚の高さは低く、樹木が生い茂っているため、傍を通っても、これが古墳とは気付かないだろう。
写真3:「史跡 荒久古墳」の石碑も建てられている。
場所:千葉市中央区青葉町959(「青葉の森公園」内)。県道20号線(千葉大網線、通称:大網街道)「ハーモニープラザ」交差点から北に約300mのところに駐車場(有料)の入口がある。古墳は広い公園内の南西部にあり、「青葉の森公園センター」の建物の前(東側)にある。
「荒久古墳」は、「海上山 千葉寺」の東、約600mのところにある古墳で、古墳時代最終末期の8世紀頃に築造されたものとされる。墳丘はかなり削り取られており、現在は1辺が約9mしかないが、本来は1辺約20mの方墳であったという(円墳説もある。)。埋葬施設として凝灰質性砂岩を使用した横穴式石室があり、玄室は奥行約2m、奥壁の幅は約1.4m。古くから石室が開口しており、「石の唐戸」と呼ばれていたという(現在は保存のため埋め戻され、見ることはできない。)。床には粘土が敷かれた上、両隅に排水溝が設けられていたらしい。いったん明治24年に発掘調査が行なわれたが、そのとき出土した遺物の多くは散逸してしまい、詳細不明となっていた。昭和34年に改めて発掘調査が行なわれた結果、1体分の人骨、琥珀製なつめ玉3個、鉄製の馬具の一部などが出土したという。昭和35年に千葉市の史跡に指定された。
この付近は千葉寺谷と呼ばれ、かつては都川河口の台地であったところで、旧石器時代から集落が形成されていたようだ。因みに、「海上山 千葉寺」と「荒久古墳」はともに標高約20mの台地上の最も高い場所にある(ただし、両者の間は谷になっている。)。古代には旧・下総国千葉郡(現在の千葉市、習志野市、船橋市東部、八千代市西部)を支配した千葉国造一族の墳墓であると考えられている。
「青葉の森公園ビジュアルマップ」さんのHPから(荒久古墳)
写真1:「青葉の森公園センター」前の階段を上っていく。単なる雑木林のようだが…
写真2:「荒久古墳」。塚の高さは低く、樹木が生い茂っているため、傍を通っても、これが古墳とは気付かないだろう。
写真3:「史跡 荒久古墳」の石碑も建てられている。