神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

焼津神社(駿河国式内社・その20)

2011-02-25 23:55:33 | 神社
焼津神社(やいづじんじゃ)。祭神:日本武尊。
場所:焼津市焼津2-7-2。県道222号線(上青島焼津線)沿い、焼津中学校の東隣。駐車場有り。
社伝によれば、創建は反正天皇4年(409年)という。そもそも「焼津」という地名は、「日本書紀」の景行天皇40年(110年)の条にある、日本武尊の草薙剣による「向かい火」説話が基になっているとする。したがって、当神社の祭神を日本武尊とするのは当然のようだが、当神社は古くから「入江大明神」と呼ばれていた。当神社の東の海中に「神岩」という岩があり、日本武尊が腰を掛けた岩だという伝説がある。もちろん、当時は陸上にあったのだが、次第に海進があって水中に没したとされる。英雄や偉人の「腰掛岩」伝説は各地にあるが、それが海に沈んだというのは珍しい。当神社が元はもっと海よりにあったという可能性もあるが、当神社境内及び隣接する焼津中学校敷地からは「宮之腰遺跡」という古墳時代中期後半の遺跡が発掘されており、集落跡のほか、意図的に積み重ねられた多数の土器が発見され、これが祭祀遺構であろうといわれている。したがって、当神社の場所が、日本武尊を祀る前からの聖地であった可能性がある。「入江大明神」という神名や「神岩」伝説からすると、当神社も元は海の神を祀っていたのかもしれない。
一説に、当神社の本来の祭神は市杵島姫命であり、現在は境内摂社(本社殿の隣)となっている「市杵島姫神社」が本社ではなかったか、ともいう。江戸時代の地誌類の多くは同説を記しており、日本武尊を祭神とする説は幕末~明治以降であるとされる。あるいは、「市杵島姫神社」は、日本武尊が「火石」と「水石」という宝玉を市杵島姫命に捧げたものともいう。もちろん、今となっては何とも決めがたい。
さて、「焼津」の地名由来譚であるが、式内社「草薙神社」の項(2010年10月15日記事)で記したように静岡市清水区草薙での出来事とする説も有力で、「焼津」というのは、当地が天然ガスの産出地で、そのガスによる野火に由来するともいわれている。


静岡県神社庁のHPから(焼津神社)


写真1:「焼津神社」正面鳥居(南側)


写真2:社殿正面


写真3:境内の日本武尊像。式内社「草薙神社」にある像と同じ彫刻家の作品らしい。


写真4:境内の摂社「市杵島姫神社」。元は「弁財天社」だったらしい。

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当目山 香集寺

2011-02-22 21:13:54 | 寺院
当目山 香集寺(とうもくさん こうしゅうじ)。本尊:虚空蔵菩薩。
場所:焼津市浜当目1727。駐車場なし。
「虚空蔵山(当目山)」(標高126m)の頂上にある。南麓の曹洞宗「恵目山 弘徳院」(けいもくさん こうとくいん)の末寺で、現在は無住。寺伝によれば、弘仁6年(815年)に弘法大師が聖徳太子作の虚空蔵菩薩を安置したのが創始で、この虚空蔵菩薩は伊勢・朝熊の「勝峰山 兜率院 金剛證寺」、京都・嵐山の「智福山 法輪寺」とともに、一木三体の「日本三大虚空蔵菩薩」であるという。したがって、元は真言宗の寺院で、名も「香信楽寺」と称した。しかし、天正9年(1581年)、持舟城の武田軍の兵火にかかって諸舎全焼した(本尊のみは難を逃れた。)。当時は焼津市野秋にあった「弘徳院」の三世全育及びその法嗣玄泉が元和3年(1617年)に曹洞宗寺院として再興し、名も「香集寺」に改めた。
伝説によれば、「虚空蔵山」麓の海を「鐘ヶ淵」といい、ここに「餅米代」という漁場がある。昔、山崩れがあって「香集寺」の鐘が海中に落ちて失われた。そのため、この場所を禁漁とし、もし1年間不漁が続いて本当に困ったときにのみ、大晦日に網を入れる。すると、必ず大漁となって、正月の餅代としたという。上記の武田軍の兵火による焼失の際には鐘が海中に落ちたとされており、あるいは、このとき以来かもしれない。このことも、「虚空蔵山」が漁業と深いつながりがあったことを偲ばせる。


島田信用金庫さんのHPから(虚空蔵尊(焼津市))


写真1:「弘徳院」(式内社「那閉神社」の西隣にある。)。本尊:薬師如来


写真2:「香集寺」山門(仁王門)。焼津市指定文化財だが、崩壊の危機にある。


写真3:「虚空蔵山」山上の「香集寺」本堂


写真4:山上には「船舶無線電信発祥地記念塔」もある。まさに「遠目山」というに相応しい。


写真5:「虚空蔵山」から大崩海岸方面(北東)を眺めると、遥かに富士山が見える。
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那閉神社(駿河国式内社・その19)

2011-02-18 22:44:54 | 神社
那閉神社(なへじんじゃ)。祭神:八重事代主命。
場所:焼津市浜当目3丁目14-13。県道416号線(静岡焼津線)の「浜当目」交差点を南東へ、突き当りを左折(東へ)。正面が「虚空蔵山」で、その南麓にある。当神社の前の狭い道を通り過ぎると海岸で、そこに海水浴客用の駐車場があるが、いつも釣人の車で一杯。
社伝によれば、継体天皇3年(509年)に物部氏が「当目山(現・虚空蔵山)」山上に勧請し、いったん鍋崎海中の「神の岩(かんのいわ)」に遷座したが、大浪を受けて岩が崩壊したため、現在地に奉遷したという。「鍋崎」というのは、かつて「虚空蔵山」から「神の岩」に向かって砂洲ができており、この砂洲を「鍋崎」といったものであり、当神社の別名を「鍋崎大明神」と称した。また、「ナヘ」は「波辺」であろう、ともいう。
「虚空蔵山」は実にきれいな円錐形をした山で、当神社は明らかにこの山自体を神体山として祀ったものと思われる。一説によれば、元々当神社には社殿はなかった、ともいう。山上には「当目山 香集寺」があり、本尊の虚空蔵菩薩を祀るため「虚空蔵山」という名があるが、当神社が元は山上に祀られたというのは、後の仏教(密教)的思想によるものとされる。神体山は、山自体を祀るので、麓に祭祀の場所たる社があるのが寧ろ当然だからである。また、「当目山」というのは「遠目山」でもあって、遠くから(特に沖の船から)の目印になった山でもあったろう。
また、山の東側は海に面した崖で、「御座穴」と呼ばれる洞窟がある(写真3)。海から「神の岩」にやってきた神が、次にこの洞窟に籠もるという。
このように、当神社の祭神は、海からやってくる神としてのエビス=事代主命ということになるのだろうが、原初はもっと素朴な神霊だったのだろうと思われる。


玄松子さんのHPから(那閉神社)


写真1:「那閉神社」正面


写真2:社号標は「延喜式内(郷社)那閉神社」


写真3:背後の「虚空蔵山」の東側は断崖絶壁。海に面して洞穴(「御座穴」)がある。
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鷲峰山 霊山寺(駿河七観音・その7)

2011-02-15 22:14:06 | 寺院
鷲峰山 霊山寺(じゅうほうさん れいざんじ 又は りょうせんじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡市清水区大内597。県道67号線(静岡清水線、通称:北街道)沿い、「ヤマザキYショップまつなが酒店」のある交差点を北西に入る。少し進むと、小川(大内観音沢川)沿いのとても狭い道路となるが、かまわず進むと左手に「大内浅間神社」があり、その先に駐車場がある。ここからは石段となる。この石段は、観音の「三十三化現」に因んで三十三曲がり、途中6基ある丁石は「六波羅蜜」を意味するという。
寺伝によれば、天平勝宝元年(749年)行基菩薩の開創で、「駿河七観音」の1体が安置されたという。その後の状況は不明であるが、国指定の重要文化財となっている仁王門(写真1)は室町時代の永正13年(1516年)の建築で、県内で2番目に古い建造物である。元々は現在地より東の山上(「古御堂」という場所)にあったというが、火事で焼失したため村人が用材を用意したところ、いつの間にか峰を一つ越えた現在地に移されていた。これは、当寺本尊の千手観音が現在地への移転を望み、金剛力士(仁王)に用材を運ばせたのだ、という伝説が残っている。また、地元の大内地区には「大木」姓の人が多いが、これは駿河七観音の元になった大楠に因むという。
真言宗寺院となったのは平安時代とされる。いわゆる密教の山岳寺院であるが、山麓に数坊あり、山上の寺は「奥の院」だった可能性がある。慶長5年(1600年)元識法印の再興とされるが、これは山麓に「寿福院」という本坊(別当)があったが、当時の同寺の住持が浄土真宗に改宗してしまったことで、元識法印が入山して再興したということがあったらしい(因みに、その後「寿福院」は「無量院 寿福寺」となったが、駿河大納言忠長改易事件に連座して廃寺となったという。)。現在は古義真言宗、高野山無量光院の末寺であるが、無住のため、「音羽山 清水寺」(静岡市葵区音羽町)が管理している。
当寺は、「駿河七観音」のなかで最も山岳寺院の趣きを残している。南は草薙、東は清水港を見下ろす位置にあり、観音霊場巡礼ばかりではなく、かつては雨乞いにも霊験があるとされて農民の信仰を受けた。また、所在地の山は「帆掛山」といい、昔は山上に一本松があって、沖の漁師の目印になったという。こうしたこともあって、現在も、有度・三保・興津辺りまで観音信仰が広がり、「霊山寺」というより「大内観音」(オーチのカンノン)のほうが通りが良いらしい。
さて、「駿河七観音」を巡拝してきたが、行基開創(または中興)の伝説に由来するが、行基が駿河国を巡錫したという記録はなく、あくまでも伝説に過ぎない。ただ、これらの寺院に伝わる仏像の中には奈良時代~平安時代初期の頃の作というものがあることも事実である。そして、こうした古寺のネットワークがあり、国分寺(=国の仏教統制)が衰退していく中で、替わって自らの権威を高める手段としても、「駿河七観音」の伝説が作られたのだろうと思う。この伝説が作られた時期は不明だが、中村羊一郎氏は「駿河七観音の伝説は、やはり江戸時代になってから現在の形にまとめあげられたのであると思われる。すなわち、行基ゆかりの伝説をもつ古い寺、それも江戸時代に存在したもの(徳願寺と増善寺は中世に衰退したが今川氏の保護で再興)を七つ選び、観音霊場巡りの中核的存在にしたのだろう。これらの寺がいずれも府中(静岡市)周辺部の、それも風景の好い所にあることは慰安を兼ねた霊場巡りにいっそうの楽しみを与えたに違いない。」という「大胆な推測」をしている(「安倍川~その風土と文化~」)。今も昔も風景や桜などの花が美しい場所が多い、ということは間違いないところである。


写真1:「霊山寺」仁王門


写真2:仁王門を入ると右手に鐘楼、奥に本堂。春になると、しだれ桜が美しいらしい・・・


写真3:本堂


写真4:石段の途中にある「仁王の力石」。この石を踏むと、疲れが取れるという。
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布袋山 自在院 平澤寺(駿河七観音・その6)

2011-02-11 20:03:49 | 寺院
布袋山 自在院 平澤寺(ほていさん じざいいん へいたくじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡市駿河区平沢50。県道407号線(静岡草薙清水線、通称:南幹線)から、県立美術館へ上っていく道路の1本南の道路を道なりに約2.5km。途中、道幅が狭い所もあるので注意。駐車場あり。
寺伝によれば、和銅年間(708~715年)に行基菩薩がこの地に草堂を建て、自刻の地蔵菩薩を安置したことが始まりで、養老2年(718年)に行基菩薩が再訪し「駿河七観音」の1体を納めて本尊としたという。
日本平丘陵の北麓に2本の谷があり、東側が草薙の谷で、中央の凸部には県立大学・美術館・図書館などができて住宅地も増えてきているが、西側の平沢の谷は今も農村の雰囲気を残しており、ハイキング客も多い。沢というのは山間にあるのが普通であるが、ここの沢は平地から湧き出ているので「平沢」と名付けられたという。また、当寺のある辺りは、道路の両側の山が高くなっており、袋のなかのような印象を与えることから「布袋山」という山号にしたとされる。ハイキング客が多いのも、この道路が「久能寺」へ向かう道だったからで、当寺はかつて「久能寺」の子院であった可能性が高い。したがって、この頃は天台宗寺院であったと思われるが、室町時代以降、駿河国守護・今川氏の崇敬を受け、特に今川義元は毎月当寺に参詣し、そのため自らが休憩する仮殿まで建てたという。天文年間(1532~1555年)には新義真言宗に改宗した(現在は真言宗智山派)が、今川・武田・徳川時代を通じて領主の保護を受け、平沢村全村を寺領とするなどして栄えたが、明治になって寺領を取り上げられ、無住となった。しかし、その後も壇信徒が寺を守り、貴重な建築物・仏像等が守られた(その後、住職が入ったのは昭和17年)。


「平沢観音 平澤寺」のHP


写真1:「平澤寺」山門


写真2:観音堂は、この石段の上


写真3:観音堂
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