神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

香取神社(茨城県行方市若海)(常陸国式外社・その18の1)

2023-05-27 23:33:00 | 神社
香取神社(かとりじんじゃ)。通称:若海香取神社。
場所:茨城県行方市若海455。茨城県道116号線沿いの「玉造第一保育園」前から、県道を北へ約500mで右折(北東へ)、道なりに約650m。駐車スペースあり。
社伝によれば、天長2年(825年)、下総国一宮「香取神宮」の分霊を鎮祭したのが創祀という。現在の祭神は経津主命。旧社格は村社(明治14年)。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「鴨野の北に・・・高向大夫(たかむくのまえつきみ)の時代に築いた枡池(ますいけ)がある。北に香取御子之社がある。」(現代語訳)という記述があり、「香取御子之社」というのを「香取神宮」の分祠と解釈して、当神社をこれに比定する説がある。ただし、現・行方市捻木の「香取神社」(次項予定)に比定する説もあり、なかなか決め難いようである。因みに、現・行方市若海、捻木はともに、旧・行方郡現原村(明治22年~昭和30年)に属したが、捻木の方は、古代には茨城郡に属していた(「常陸国風土記」にも、梶無川が茨城郡と行方郡の境である旨が記されている。)ので、あくまでも行方郡についての記述だとすると、当神社が有力ということになるのだろう。なお、当神社は「若海貝塚」の上に鎮座しており、その貝塚からは縄文時代中期頃の保存状態良好な成人男性の人骨が発見されている。この人骨は、うつ伏せで、両膝を折り曲げた状態となっており、伏臥半屈葬という形で埋葬されたものらしい。こうした事例が少ないため、それがどのような意味があったかは不明だが、少なくとも、縄文時代から当地に相当大きな集落があったことは確実と思われる。
ただし、当神社は、「枡池」の遺称地とされる場所(「市杵島神社」(前項)参照)の南西、約1.5km(直線距離)の位置にあり、その意味では「枡池」の北とは言い難いようだ。


写真1:「香取神社」境内入口、社号標。


写真2:鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:石碑。「常陸国風土記」が引用されており、当神社の創祀は(風土記編纂の官命があった)和銅年間より前であるとしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市杵島神社(茨城県行方市)

2023-05-20 23:35:46 | 神社
市杵島神社(いちきしまじんじゃ)。通称:弁天様。
場所:茨城県行方市芹沢1613。茨城県道50号線(水戸神栖線)「榎本」交差点から北西へ約220mで左折(南西へ)、約400m。狭い駐車スペースあり。「玉造工業高等学校」の西側。なお、参道途中にある「子安神社」(祭神:木華開耶媛命)は当神社の摂社。
社伝等によれば、第59代・宇多天皇の9代の後裔である佐々木太郎定綱の末子・頼定は近江国甲賀郡山中村(現・滋賀県甲賀市)に住して山中氏を称したが、その子・四郎泰定は平氏との争乱に敗れ、永暦元年(1160年)に次男・清定と共に武蔵国蕨(現・埼玉県蕨市)に逃れた。その後、佐竹氏に従い、養和元年(1181年)、常陸国行方郡に所領を与えられ、前住地の地名を採って蕨村(現・行方市芹沢字蕨)とし、館を構えた(「山中館」。現・玉造ゴルフ俱楽部若海コースの北端辺り)。領内の「一の沢」地区の「枡池」に佐々木氏の守護神「竹生弁才天」(現・滋賀県長浜市、「都久夫須麻神社(竹生島神社)」及び「巌金山 宝厳寺」)を勧請して社祠を建て、崇敬した。なお、元は「枡池」の池の中にあったが、安政2年(1855年)の大地震によって山津波(土砂崩れ)が発生し、「枡池」自体が埋まってしまったため、やむなく現在地に遷宮したという。大正2年、芹沢「大宮神社」(前項)に合併されたが、その後も氏子は祭典を行い、昭和39年、旧に復した。現在の祭神は市杵島姫命であるが、本尊(御神体?)は鎌倉時代初期の木彫の宇賀神弁財天像であるという。なお、弁才天(弁天)は、元はヒンズー教の河川の女神であるが、仏教に取り入れられて音楽・芸術・福徳の神として信仰されるようになり、わが国では神仏混淆して七福神の1神となり、元の水神としての性格から宗像三女神(市杵島姫命はその1柱)とも同一視されて、海・川・泉などの水辺に多く祀られた。明治期の神仏分離により神社になったところの多くは宗像三女神または市杵島姫命を祭神とするようになったとされている。
なお、伝説によれば、永正元年(1504年)、蕨(山中)城主・山中左衛門清定の孫・定俊に娘が生まれた。しかし、娘の背中に3つの鱗があり、成長すると鱗は全身に広がり、「蛇女良(へびじょろう)」との綽名がつけられた。娘は年頃になってこれを恥じ、一の沢の「枡池」に投身した。以来、「枡池」には大蛇が棲むといわれ、妖気が漂った。投身した娘の甥に当たる山中永定が不憫に思い、叔母の霊を配祀した。11月15日の祭日には「放禮(なげまつり)」といって、神官が馬上から松火を池に投げ込む神事が行われ、永正年間から安政年間まで3百数十年続いたという。現代では先天性魚鱗癬という難病が知られており、これは皮膚が厚い角質に覆われて魚の鱗のように見える病気で、発汗作用が阻害されるので高体温になりやすく、皮膚のバリア機能が低下して感染症にも罹りやすい。遺伝性の病気で、根治療法は無いという。今、合理的に解釈すれば、「蛇女良」が魚鱗癬という病気であった可能性が高いと言えるが、これを知らない昔の人々からすれば、蛇の祟りなどと考えてもおかしくはない。ただし、この伝説においては、そのような因果応報的な話は伝わっていないところが、逆に不思議ではある。
さて、当地の芹沢や蕨といった地名は中世以降のものということになるが、「常陸国風土記」行方郡の条に「(鴨野の)野の北に櫟(イチイ)・柴(クヌギ)・鶏頭樹(カエデ)などの樹木があちこちに生い繁っており、自然と山林を成している。ここに枡池がある。これは高向大夫(たかむくのまえつぎみ)の時に築かれた池である。北には香取神子之社がある。」(現代語訳)という記述があり、「常陸国風土記」の解説書の多くは、この「枡池」が上記の「一の沢の枡池」と同じものとしているようである。「枡池」というからには、四角くて深い池が想像されるが、当神社の南西側は崖で、下に降りてみると、細長い谷が現在は水田になっている。確かに、これの両端を閉じれば四角い池になるような気はする。「枡池」の北の「香取神子之社」については、次項で。


写真1:「市杵島神社」鳥居


写真2:社殿


写真3:石碑。冒頭に、「一の沢地は、常陸国風土記に見える高向大夫が築いた枡池である。」ということが記されている。


写真4:境内の南側が崖になっている。


写真5:下に降りると、細長い水田になっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宮神社(茨城県行方市芹沢)

2023-05-13 23:34:41 | 神社
大宮神社(おおみやじんじゃ)。通称:村社大宮神社。
場所:茨城県行方市芹沢450。茨城県道50号線(水戸神栖線)「榎本」交差点から北西へ約1.2km(廃校になった旧・現原小学校の南西角)で右折(北西へ)、約650m。駐車スペース有り。
社伝によれば、室町時代の文安3年(1446年)、日本武尊が東征の折に国見をされた丘に鎮祭したという。明治14年、村社に列した。祭神は、大日霊貴尊(オオヒルメムチ=天照大神)と武甕槌命。
「現原の丘」碑(前項)が建てられている場所の北、約1km(直線距離)のところに当神社が鎮座しているが、ここは台地の先端で、社殿の背後には平らな農地が広がっている。この台地は、通称「日の岡」といい、中世の城館「芹沢城」があったところとされ、「芹沢城址」という大きな石碑も建てられている。当神社の社伝が言うように、この台地も「常陸国風土記」行方郡条にある「現原の丘」の候補地の1つとなっている。これは「新編常陸国誌」(中山信名が江戸時代後期に編纂し、明治時代に増補・完成された地誌)の説であるが、地元の玉造町郷土文化研究会の調査では、「常陸国風土記」が記述する周囲の展望は似ているものの、谷に囲まれていて平地が少ない、として、現在「現原の丘」碑が建てられている場所周辺(現・「玉造ゴルフ倶楽部若海コース」)の方を推している(前項参照)。
因みに、「芹沢城」は、常陸大掾氏の一族である芹沢氏の居城とされる。旧・行方郡各地に広がった大掾氏一族は殆ど吉田氏系(現・茨城県水戸市が本拠)だが、芹沢氏は大掾本家の多気氏の末裔に当る。南北朝時代に芹沢氏の祖となる平竜太が相模国高座郡に所領を持ち、その芹沢の地(現・神奈川県茅ケ崎市)に館を構えたときに芹沢氏を名乗り、成人後は幹文と改めた。その後、良幹、高幹、望幹と続き、鎌倉御所に仕えたが、常陸国府中城(現・茨城県石岡市)にいた大掾詮国(詮幹)の要請により、幹文の4代孫・良忠が常陸国に戻って荒原郷内(後の芹沢)に所領を与えられた。天文年間(1532~55年)、良忠の3代孫の秀幹のときに「芹沢城」が築かれ、地名もいつしか芹沢村となった。天正19年(1591年)、佐竹氏の「南方三十三館の仕置」により大掾氏一族が殆ど滅ぼされたとき、時の城主・芹沢国幹は難を逃れたものの、「芹沢城」は廃城となった。その後、佐竹氏が出羽国秋田(現・秋田県)に転封になると、代わって入封した秋田実季に仕えたという。現在では、「芹沢城」の遺構は殆ど残っていないようであるが、「御殿」・「要害」などという小字があり、「桝形」・「大門」・「古屋敷」などいう地名も残るという。後に、芹沢氏は医業で有名になったが、その名声ゆえに河童から教えられた治療法によるものという伝説が生まれたようだ(「手接神社」(2019年2月9日記事)参照。なお、当神社の南西約400m、茨城県道16号線(鹿田玉造線)の梶無川に架かる橋に河童像と説明板がある。)。また、「芹沢城址」碑から少し戻って、西へ下りたところに「芹沢鴨生家跡」がある。芹沢鴨は壬生浪士(新選組)の初代筆頭局長で、文久3年(1863年)に暗殺される。江戸時代には水戸藩上席郷士となっていた常陸大掾氏芹沢家の本家出身とも言われるが、出自には不明な点が多いという。


写真1:「大宮神社」鳥居、社号標(「村社大宮神社」)


写真2:同上、拝殿


写真3:同上、本殿


写真4:「大宮神社」の裏に進んだところにある「芹沢城址」碑


写真5:石碑向かい側の畑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現原の丘

2023-05-06 23:31:26 | 史跡・文化財
現原の丘(あらはらのおか)。
場所:茨城県行方市芹沢(「現原の丘」碑)。茨城県道50号線(水戸神栖線)「榎本」交差点から北西へ約1.7km、「現原の丘 五百m現地」という案内看板があるところを左折(南へ)、狭い道路を道なりに約650m。駐車スペースあり。
「常陸国風土記」行方郡の条によれば、「倭武天皇(日本武尊)は「玉清井」(2023年1月14日記事)から更に車駕(みこし)を廻らせて、現原の丘に至り、そこで食事を召し上がった。四方を見渡して、「山が入り組み、海が湾曲している様は、高低長短入り交り、くねくねとしていて美しい。この地を「行細国」(なめくわしくに)というがよい。」と仰った。これにより、後に「行方」(なめかた)というようになった。その丘は、高く立ち現れているところから、現原の丘と名付けられた。」(現代語訳。一部省略)という。この「現原の丘」がどこかについては諸説ある。遺物があるわけではないので何とも決めがたいところだが、「常陸国風土記」の記述ぶりから、いくつかの候補が挙げられている。最も有力とされているのが、行方市芹沢から若海にかけての、現・「玉造ゴルフ倶楽部 若海コース」のある辺りである。玉造町郷土文化研究会は、比定地の条件として、①古代行方郡内にあって、平らで広く開けた台地であること、②古代大益河(現・梶無川)に接していること(「常陸国風土記」には、日本武尊は現原の丘を下りて、梶無川を遡ったという記述がある。)、③展望が「常陸国風土記」の記述に似ていること等をあげて、当地付近を「現原の丘」と推定した(「玉造史叢第45集」)。このゴルフ場だけで広さ約80ヘクタールあるとのことで、どこで日本武尊が食事したかはわかるはずもないが、ゴルフ場のフェンス脇に石碑と説明板が建てられている。
一方、「玉造町の昔ばなし」などの著者・堤一郎氏は、当地(芹沢)からでは海(現・霞ケ浦)は見えない、として、「現原の丘」は現・行方市谷島の台地だろうとしている。ここは、霞ヶ浦に臨んだ高台で、玉造地区で最も高い場所だという。現在は、浄土宗「正念寺」や旧「玉造西小学校」に加えて住宅も多いので、やや狭く感じるが、それらを取り払ってみれば、それなりの広さがあるのだろう。確かに、ここからの霞ヶ浦の眺めは素晴らしかっただろうと思われる。また、この高台から東側に下りれば、すぐに梶無川がある。ただし、難を言えば、谷島は梶無川の右岸(西岸)に当たり、梶無川が茨城郡と行方郡の郡境である(「常陸国風土記」による。)ということからすれば、古代には茨城郡に属していたということになる。
蛇足:「和名類聚抄」(平安時代中期)によれば、常陸国行方郡に「荒原郷」があった。また、中世(鎌倉~室町時代)の古文書に「荒原郷」又は「荒原庄」という記載があるという。明治22年に捻木村・若海村・芹沢村・谷島村が合併して行方郡現原村が発足した(~昭和29年まで存続)。村名は古代の地名に因むというが、古代「荒原郷」の範囲と一致するかは不明である。


写真1:「現原の丘」碑と説明板


写真2:同上。碑の背後は農地、向かい側はゴルフ場。


写真3:浄土宗「得生山 宝池院 正念寺」(場所:茨城県行方市谷島201。国道355号線「玉造町浜」交差点から東の道路に入り、直ぐ左折(北東へ)、約400mで右折(南東へ)、約45mで参道入口。駐車場有り。)


写真4:「正念寺」の向かい側にある旧「玉造西小学校」(平成26年廃校)グラウンド。閉鎖されているので、フェンスの外から撮影。グラウンドの南側(写真の左手奥)が崖になっている。


写真5:旧「玉造西小学校」敷地の南東端から南を見る。霞ヶ浦と湖畔に立つ「虹の塔」が見える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする