神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鹿島郡家跡(神野向遺跡)

2017-10-28 23:18:32 | 神社
鹿島郡家跡(かしまぐうけあと)。神野向遺跡(かのむかいいせき)。
場所:茨城県鹿嶋市大字宮中139-1他。国道124号線の1本西側の道路の「下塙入口」交差点(角にコンビニ「ファミリーマート神野向店」がある。)から西へ約300m、道なりだと南に曲がっていくところで直進(カーヴミラーに「神野向遺跡」の案内板あり。)、更に約200mのところで右折(北へ)、直進すると突き当りに原っぱがある。この広大な原っぱが「郡家跡」で、郡庁の跡は更にその先にある。駐車スペース有り。
「神野向遺跡」は、鹿島郡家(郡役所)跡とされる遺跡。昭和55年に、個人住宅建設に伴う発掘調査によって炭化米や瓦を伴った大溝が検出され、郡衙推定地と考えられるようになった。その翌年、大溝区画域内に礎石建物や掘立柱棟が検出され、東西約150m、南北約180mの正倉(院)域が確認された。昭和59年には、一辺約54m四方の回廊を廻らせた中に、郡庁の中枢建物である前殿、正殿を前後に配した、全国でも類のない構造であることが確認された。また、「鹿嶋郡厨」・「神宮」・「東殿」・「祝家」などと書かれた多数の墨書土器や銅印(「福」)、円面硯、帯金具など数多くの資料も出土しているとのこと(これらは郡家跡の出土物に特有のものが多い。)。「常陸国風土記」には「鹿島神宮」の南に郡家があるとの記載があり、実際に「鹿島神宮」の南約1.5kmの場所に発見された、との意義も大きい。
こうしたことから、「鹿島神宮」・「坂戸神社」・「沼尾神社」とともに、昭和61年に「鹿島神宮境内附郡家跡(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)」として、国指定史跡に指定された。


茨城県のHPから:史跡鹿島神宮境内附郡家跡 (神野向遺跡)


写真1:「神野向遺跡」


写真2:「国指定史跡 鹿島神宮境内附郡家跡」の標柱


写真3:ほとんど何もない原っぱに立派な説明板


写真4:掘立柱跡を示しているのだろうか、円柱の缶が並べてある。
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沼尾神社(常陸国式外社・その2)(茨城県鹿嶋市)

2017-10-21 23:22:05 | 神社
沼尾神社(ぬまおじんじゃ)。
場所:茨城県鹿嶋市沼尾1298。茨城県道242号線(鉾田鹿嶋線)沿い、保育園「鹿嶋さくら園」の北側のやや狭い道路を西へ入り、道なりに直進、約650m。途中から未舗装路になるが、そこに「国史跡沼尾神社→」という案内板が出ている。駐車場あり。
当神社は、「常陸国風土記」において「天の大神社・坂戸社・沼尾社の三社を総称して香島天之大神という」(現代語訳は中村啓信監修訳注「風土記 上」(角川ソフィア文庫)による)とあるうちの「沼尾社」で、現在は鹿島神宮の境外摂社とされている。祭神は経津主大神(フツヌシ)。
「常陸国風土記」によれば、現「鹿島神宮」の北に「沼尾池」があり、古老は「神世に天から流れてきた水沼である」という。その池の蓮根は美味で、食べると病気も治る。(風土記の当時には)郡家(郡役所)は「鹿島神宮」の南にあるが、かつては郡家は沼尾にあった、とされている(元の郡家は坂戸神社(前項)が鎮座する現・鹿嶋市山之上にあったとする説もある。)。
地形を見ると、上記3社のうち当神社が最も北にあり、それぞれ台地上にあるが、間に谷があって、かつては谷部分が湖になっていたのだろう。現在は樹木が生い茂って眺望がないが、樹木がなければ互いに様子が見えたのかもしれない。


茨城県のHPから(沼尾神社)


写真1:「沼尾神社」の長い参道


写真2:鳥居


写真3:社殿(拝殿)


写真4:社殿(本殿)
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坂戸神社(常陸国式外社・その1)(茨城県鹿嶋市)

2017-10-14 23:42:12 | 神社
坂戸神社(さかとじんじゃ)。
場所:茨城県鹿嶋市山之上228。目印がないので説明しにくいが、国道51号線「鹿嶋消防署南」交差点から茨城県道242号線(鉾田鹿嶋線)を北へ約960mのところで左折(西へ)、道なりに約850m、そこから狭い道に入って直ぐ。狭い道の入口に「坂戸神社入口」という標柱?が立っているが、小さい杭のようなものなので見落とし易い。駐車場なし。
養老5年(721年)に成立したという「常陸国風土記」に「天の大神社・坂戸社・沼尾社の三社を総称して香島天之大神という」(現代語訳は中村啓信監修訳注「風土記 上」(角川ソフィア文庫)による)とあるうち、「天の大神社」が現「鹿島神宮」を指し、「坂戸社」が当神社、「沼尾社」が現「沼尾神社」(次項)であるとされる。後2社は現在、「鹿島神宮」の境外摂社になっているが、元々は3社で「鹿島神宮(鹿島大神)」であったということになる。なお、いずれも祭神を明示していないが、現在の当神社の祭神は天児屋根命(アメノコヤネ)とされている。天児屋根命は、天照大神が岩戸隠れした際に岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出したとされる神。コヤネ=小屋根で、神が託宣する建物を意味するともいわれ、祭祀を司った中臣氏の祖神とされている。
ところで、「坂戸」というのは、坂=境、戸=出入口を意味すると思われ、台地上にある当神社の北側が谷になっているところから、そこに船着場があったとか、あるいは、蝦夷地に対峙する前線基地だったとか、いろいろ空想できる。


茨城県のHPから(坂戸神社)


写真1:「坂戸神社」境内入口


写真2:社殿(拝殿)


写真3:社殿(本殿)

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鹿島神宮(常陸国式内社・その1)

2017-10-07 23:27:31 | 神社
鹿島神宮(かしまじんぐう)。
場所:茨城県鹿嶋市宮中2306-1。JR鹿島線「鹿島神宮」駅の南東、約500m。駐車場有り。
社伝によれば、創建は神武天皇即位の年(紀元前660年?)という。天地開闢以前に高天原から天下った「香島の神」(建甕槌神または建御雷神)が霊剣「韴霊剣(フツノミタマノツルギ)」をもって神武天皇東征を助けたことから、その報恩のために祀ったのが始めとされる。なお、古くから鹿島灘で採れる砂鉄から剣が作られていたとされること(「常陸国風土記」)に関連があるかもしれない。「伊勢神宮」(単に「神宮」という。)、「香取神宮」(下総国一宮)とともに、平安時代~明治時代までは「神宮」と称されていた3社のうちの1社で、常陸国一宮。
タケミカヅチは、大国主命の子である建御名方神(タケミナカタ)に勝って葦原中国を平定した神で、その後も、古代東海道の終点(=陸奥の入口)である常陸国に鎮座して東北の荒ぶる神々と対峙することとなったのだろう。ただし、元々は鹿島の土着神で、一般に海上交通の神であったといわれるが、雷に関係があることから、あるいは農業の神だったのかもしれない。和銅6年(713年)の詔により編纂された「常陸国風土記」では「香島」と表記されており、(諸説あるが)「カシマ」というのは「船を繋ぐ杭を打つ島」という意味の「カシシマ」が訛ったものというのが有力説らしい。因みに、「肥前国杵島郡」(現・佐賀県)の「キシマ」という地名も同じ由来という。一説によれば、中臣氏(後の藤原氏)が常総地方の出身で、「香島の神」を信仰していたらしく、後に一族の氏神として「春日大社」(奈良市)に勧請した。このとき、御神体を神使である鹿に載せて運んだということから、「鹿島」という名を使うようになったともいう。これはコジツケぽいが、「続日本紀」養老7年(723年)の記事に「常陸国鹿島郡」と出てくるのが「鹿島」の初出だそうである。
さて、茨城県は地震が非常に多いところである。気象庁のデータによると、1986~1999年(14年間)の各都道府県庁所在地における有感地震の回数をみると、茨城県(水戸市)は915回に及び、全国第1位になっている。全国平均は182回であったというから、いかに多いかがわかる。昔は、地震は地中の大鯰が起こすものとされ、これを当神宮境内の要石が押さえているといわれている。当神宮の要石は社殿の東の森の中に祀られているが、地上に出ている部分はごくわずかで、上面が窪んでいる。実は巨岩で、地中深く続いているとされ、有名な水戸黄門こと徳川光圀公が、要石の根元を確かめようとして七日七晩にわたって石の周囲を掘ったが、掘りきれなかったという。
ところで、現在、当神宮の参道は西側にあるが、かつては北側から参るようになっていた。北側に御手洗池があり、現在も清水が湧いているが、参拝者は御手洗池で身を清めてからお参りしたのであるという。そうすると、御手洗池~奥宮(本来の神社の位置か?)~要石が直線的に並ぶことになる。要石が磐座であったかもしれないというのは、上面が窪んでいるという形状も、一つの証拠ではないかと思われる。磐座には盃状穴(カップホール)があることが多いからである。


鹿島神宮のHP


写真1:「鹿島神宮」の「一之鳥居」。当神宮の西、約2kmの「北浦」水上にある(鹿嶋市大船津)。かつては東西南北の4ヵ所にあったもののうち、西の鳥居に当たる。水底からの高さは18.5mあり、水上の鳥居としては安芸国一宮「厳島神社」(広島県)のものより高く、国内最大級という。


写真2:境内入口の大鳥居と社号標


写真3:楼門


写真4:社殿(拝殿)。北向きで、これは蝦夷の住む地域の方角を向いているのであるという。


写真5:社殿(本殿)。背後に御神木と「鏡石」という上面が平らで丸い石があるとのこと。「鏡石」は磐境(いわさか)だろうとされているものだが、拝殿の背後は立入禁止となっており、間近で見ることができないのが残念。


写真6:「奥宮」。祭神:武甕槌大神荒魂。


写真7:「要石」


写真8:「要石」のクロースアップ。地上に出ている部分はわずかで、上面には窪みがある。


写真9:大鯰を踏まえる建甕槌神のレリーフ


写真10:北側参道から入った所にある「御手洗池」。社殿がある台地から下がった谷の部分にあり、かつては船着き場があったらしい。
コメント (1)
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