神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

弓田香取神社

2012-09-29 23:39:29 | 神社
弓田香取神社(ゆだかとりじんじゃ)。
場所:茨城県坂東市弓田274。国道354号線「岩井交番前」から県道20号線(結城坂東線)に入り、北東へ約3km。「弓田のポックリ不動尊」の案内板のところから狭い道を西へ入り、約700m。駐車スペース有り。県道から先の道路は狭いので注意。
当神社の創建時期は不明だが、この辺りに律令時代から兵営(古代の軍団?)があり、その守護神として祀られたものという(祭神:経津主命)。承平3年(933年)には平将門も参拝したという。また、当神社と、約300m東にある「慈光寺」(通称「弓田のポックリ不動尊」)との間は「兵庫屋敷」(武器庫)と呼ばれており、平将門は、「承平天慶の乱」を起こすのに律令以来の軍団や武器庫を自らの為に利用したらしいという。なお、近くには「談義所」という小字のほか、駒跿(こまはね)、馬立(またて)などといった地名があって、いかにも軍事的な意味がありそうだが、「弓田(ゆだ)」というのは、元は「湯田」で、「火急のときに用立てる資金を得る田」という意味だそうである。
ちなみに、「慈光寺」も奈良時代創建の伝承を持つ寺院である。概要は次の通り。

明王山 知恩院 慈光寺(みょうおうさん ちおんいん じこうじ)。
場所:茨城市坂東市弓田388-2。駐車場有り。
寺伝によれば、天平18年(746年)に行基菩薩の高弟が創建し、悪魔降伏のため不動明王を本尊とした。元は法相宗で「知恩院」と称したが、鎌倉時代初期に天台宗に改宗し、「慈光寺」と称した。戦国時代には諸堂が戦火に遭ったが、不動明王像は自らイチョウの大木に避難して無事だったという。不動明王像が安置されている不動堂は、元は阿弥陀堂で、この不動尊を拝むと、その願いが阿弥陀仏に届き、臨終に際して苦しまずにポックリと逝けるとして「ポックリ不動尊」として信仰を集めているという。「北関東三十六不動尊霊場」の第35番札所。


坂東市のHPから(弓田の不動尊)

「北関東三十六不動尊霊場」のHPから(慈光寺)


写真1:「弓田香取神社」正面


写真2:社殿


写真3:境内に「榊山古墳群」と「中北遺跡」の石碑がある。当神社は古墳上にあったらしいが、現在は消滅。「中北遺跡」は周囲の集落跡で、現在は畑になっているらしい。


写真4:「慈光寺」入口。「ポックリ不動尊」の名も見える。


写真5:不動堂




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平将門赦免供養之碑

2012-09-22 23:02:37 | 史跡・文化財
平将門公赦免菩提供養之碑(たいらのまさかどこうしゃめんぼだいくようのひ)。
場所:茨城県常総市蔵持552-5付近。県道24号線(土浦境線)と県道136号線(高崎坂東線)の交差点から、県道136号線を南下、約850mのところで右折(西へ)して狭い道に入る。約100m進むと、「蔵持公民館」の前にある。公民館に駐車スペースあり。
「平将門公赦免菩提供養之碑」など建長5~7年(1253~1255年)銘の板碑は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼が民政安定のために当地の先霊を慰めるべく豊田四郎将基(伊勢平氏の祖・平貞盛の4世の孫。鎮守府副将軍となり、豊田郷を領した。)の供養碑を建てた。このとき、平将門公の祭祀がきちんと行われていないと知り、自ら執奏して勅免を得、下総国守護千葉氏第十五代胤宗に命じ、将門公を赦免し霊を供養する板碑の建立を命じたものとされる。これらの板碑は、元々は神子女字引手山(前項の「六所塚古墳」の東側、鬼怒川右岸の台地)にあったが、洪水により埋まっていたものが昭和5年の河川改修工事で掘り出されたものという。「神子女(みこめ)」という変わった地名は元々「御子埋」であって、平将門公一族の墳墓の地を称したと伝えられている(現在、「平親王将門公一族墳墓之地」という石碑が建てられている。)。
掘り出された板碑は4基あり、3基は蔵持の「観音堂・阿弥陀堂」脇に、1基は新石毛にあった「妙見寺」境内に安置されたが、「妙見寺」が廃寺になったので「壽廣山 観音院 西福寺」に移設された(いずれも常総市指定文化財)。蔵持の板碑は「不動石」・「阿弥陀石」と呼ばれて、それ自体が信仰の対象となっており、「西福寺」の板碑も、江戸時代に運び出そうとしたところ夜中に火炎を噴出したため「炎石」という別名がある。また、この板碑を縄で縛ると病気が快癒するともいう。
これらの板碑は、平将門公が東国で人気を集めていたことの証拠であろうが、それにしても赦免を受けるまで300年以上かかったとは・・・。


常総市のHPから(蔵持建長銘石碑)

同上(西福寺の建長銘板碑)

JA常総ひかりのHPから(浄土宗、西福寺)


写真1:「平将門公赦免菩提供養之碑」など建長年間の銘がある板碑が並んでいる。


写真2:これらの板碑は「観音堂・阿弥陀堂」(向って右)と「大師堂・お釈迦堂」(左)の脇にある。


写真3:板碑の西、約200mのところにある「香取神社」。この裏山に「蔵持城」という中世の城があったという。


写真4:「壽廣山 観音院 西福寺」(場所:茨城県常総市新石下1034)。浄土宗の寺院だが、境内の池に島を設え、88ヵ所の小堂を建てて四国八十八ヵ所霊場巡拝ができるようになっている。


写真5:「西福寺」入口のすぐ左にある建長銘板碑。別名「炎石」
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六所塚古墳

2012-09-15 23:23:41 | 古墳
六所塚古墳(ろくしょづかこふん)。
場所:茨城県常総市蔵持251。県道24号線(土浦境線)と県道136号線(高崎坂東線)の交差点から、県道136号線を南下、約1km。「松田自動車工業」付近にある水路に沿った農道に入り、左手(東)奥。農道は舗装されているが、狭く、古墳近くには駐車場もないので、農道に自動車で入っていくのはお勧めしない。
「六所塚古墳」は、鬼怒川右岸(西岸)、現・常総市(旧・石下町)の台地先端にある大型の前方後円墳で、全長約70m、後円部径約45m、前方部幅約35mの大きさとされ、一部に周濠跡もあるようだ。発掘調査等は行われていないようで、築造時期は不明だが、古墳時代中期(5世紀頃?)のものとされる。この古墳の東側、篠山字神子女(みこのめ)という地区を中心に「六十六塚」といわれた多数の古墳があり(確認できたもので85基あったという。)、神子女(神子埋)古墳群と呼ばれている。「六所塚古墳」も「神子女(神子埋)73号墳」と称されることがあるが、開発や盗掘などにより現存する古墳は20数基となっているようだ。
この古墳が「六所塚」と呼ばれるようになった由縁であるが、平良将(平将門の父)が、現・市川市国府台にあった下総国府を現・常総市国生(「六所塚古墳」の北、約3km)に移した際、下総国総社「六所宮」を当地に勧請したことによる、との伝承がある。また、一説によれば、「六所塚古墳」は平良将の墳墓であるとされ、良将が皇統を引くことから「御所塚(五所塚)」と呼ばれていたが、将門の乱の後は逆賊とされたため「六所塚」と称して隠したという。


常総市のHPから(六所塚)


写真1:「六所塚古墳」全景(西側から)


写真2:常総市指定文化財の碑と説明板


写真3:前方部(南側から)


写真4:前方部から後円部(南東から)。夏草に覆われていて判りにくいが、瓢箪型になっている様子がみえる。
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下総国亭(庁)跡

2012-09-08 23:41:04 | 史跡・文化財
下総国亭(庁)跡(しもふさこくちょうあと)。
場所:茨城県常総市国生。県道136号線(高崎坂東線)「長塚節生家」案内標識のところを東に入り(式内社「桑原神社」へは西に入る。)、約400m。駐車場なし。
伝承によれば、鬼怒川右岸(西岸)の台地には北総地区最初の開拓地で、古くから集落や古墳などが造られた。桓武天皇の孫である高望王は、寛平元年(889年)に臣籍降下して平高望と名乗り、昌泰元年(898年)に上総介に任じられて坂東に下向した。このとき、長男・国香、次男・良兼、三男・良将(良持と表記する記録もある。)を伴って任地に赴き、息子らは上総国、下総国、常陸国などに土着して関東における高望王流桓武平氏の勢力を広げていった。そして、現・常総市国生は、平良将が居館を築いて政務を行ったところという。そもそも「国生」という地名は、元は「こっちょう」と読み(現在は「こっしょう」)、「国庁」が訛ったものであるとされる。「国庁」というのを文字通り下総国府の官衙とする説もあるが、通説では、下総国府は奈良・平安時代を通じて現・千葉県市川市国府台にあったとされるので、ここでは地方で国の政務を行う役所(国の出先事務所)という意味だろうと思われる。
さて、平良将の子がかの有名な平将門で、伝説では、将門は国生の居館で生まれたという。将門の乱を描いた軍記物語である「将門記」(成立:鎌倉時代?)には、将門が「新皇」を自称して、下総国の「亭南」に王城(皇居)を定めたという記述がある。「亭南」がどこを指すのかということについては諸説あって、茨城県坂東市・同守谷市・千葉県柏市などがそれぞれ市のHP等で将門の王城の所在地であるとの説を紹介している。一般には、将門の王城の所在地は現・坂東市岩井付近とされており、そこは現・常総市国生の「下総国亭(庁)跡」の石碑の場所から南西約10kmのところに当たる。
とはいえ、発掘調査によって建物の礎石など居館の遺跡が発見されたわけではなく、あくまでも伝承であって、石碑のある場所に居館があったということでもないようだ。


写真1:「平将門公史跡 下総国亭(庁)跡」という石碑と説明板が建てられている。


写真2:北東に筑波山が見える。直線距離は約18km。

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桑原神社(茨城県常総市)(下総国式内社・その8)

2012-09-01 23:27:19 | 神社
桑原神社(くわはらじんじゃ)。
場所:茨城県常総市国生1186。関東鉄道常総線「石毛」駅から西へ約2kmで県道136号線(高崎坂東線)に入り北上、更に約2km。境内は県道に面しているが、県道側からは石段を少し登って入ることになるので、「長塚節生家」の案内標識のところから西側へ回りこむ。駐車スペースあり。
社伝によれば、下総の国司となった桑原王が宝亀3年(772年)、現鎮座地の東、鬼怒川右岸(西岸)の本屋敷と呼ばれた場所に、王の祖である豊城入彦命(トヨキイリヒコ)などを祀ったのが創始であるとされる。鬼怒川右岸のこの台地上には、かつて「東山塚」という高さ10mもある前方後円墳があった(鬼怒川の堤防工事のための土採りで消失してしまったらしい。)といい、古墳時代から大きな集落があったとされている。延喜年間(902~921年)には平良将・将門父子が当地を本拠地とし、当神社は国土開発・農業発展の守護神として崇敬を受けた。その後、鬼怒川の水害等もあり、集落が次第に西に移ったのに合わせ、延宝6年(1678年)、当神社も現在地に遷座したという。
しかし、江戸時代には誤って「香取神社」とされていた時期があったらしく、享保4年(1719年)に本殿を建替えた際、寛永2年(1625年)の棟札が発見され、そこに「日本国関東下総国生桑原大明神造立一宇」という記載があったことから、公儀に届けた。宝暦8年(1758年)になって、当時の寺社奉行阿部伊予守から呼び出しがあり、当神社が延喜式内「桑原神社」であることを証明する書状が名主に下付されたという。
ところで、桑原王という人物については情報が少ないが、天智天皇の第7皇子であった志貴皇子の孫だったらしい。志貴王子は、壬申の乱によって天武天皇系に皇統が移ったことによって、天皇になれなかったのだが、六男の白壁王が光仁天皇に即位したことから、「春日宮御宇天皇」の追尊を受けた。このことにより、桑原王も、その皇孫として二世王待遇となったとされる。そして、「続日本紀」によれば、神護景雲3年(769年)に下総員外介、宝亀元年(770年)下総守、宝亀2年(771年)には上総守に任命されている。こうしたことから、当神社が桑原王と関係があるとしても、桑原王自身が創建したというのは少し疑わしいようだ。祭神の豊城入彦命は、崇神天皇の第1皇子であったが、夢占いによって東国平定のために派遣され、弟の活目尊(イクメ)が皇太子となった(後の垂仁天皇)。このため、豊城入彦命を祖とする豪族は関東北部に多く、特に毛野氏が有名である。上野国・下野国は、元は上毛国・下毛国といい、「かみつけ(こうづけ)のくに」・「しもつけのくに」と読むのは、そのせいである。毛野氏の同族である桑原臣の一族が当地を治め、その祖である豊城入彦命などを祀ったものともいわれている。


玄松子さんのHPから(桑原神社(常総市))


写真1:「桑原神社」境内入口。社号標は「延喜式内 郷社桑原神社」


写真2:「平将門公史跡 桑原大明神」の石碑もある。


写真3:社殿(南向き)


写真4:彫刻が施され、木目も美しい扁額
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