天竺山 寂光院 龍角寺(てんじくさん じゃっこういん りゅうかくじ)。
場所:千葉県印旛郡栄町龍角寺239。栄東中学校の北西、約600m。駐車スペースあり。
現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。寺伝等によれば、和銅2年(709年)、竜女が現れて、金造の薬師如来像を祀ったのが創建とされる。天平2年(730年)に釈命上人が寺として整備し、「龍閣寺」と号したという。
伝説によれば、天平3年(731年)、旱魃のとき、釈命上人が降雨の祈祷を行ったところ、寺の南にある池の主という小龍が現れた。小龍は、「この旱魃は龍王が降雨を止めているのである。私は釈命上人に法恩を感じているので雨を降らせるが、龍王に逆らうことになるから、私は殺されてしまうだろう。」と言って消えた。すると、忽ち雨が七日七晩降り続いたが、雲のなかから大きな音がして、龍が首、身体、尾の3つに引き裂かれて地上に落ちてきた。首は当地(旧・下総国埴生庄)に、身体は印西庄(現・印西市)、尾は北條庄(現・匝瑳市)に落ちたので、それぞれの寺に埋葬し、当寺は「龍角寺」、印西庄の寺は「龍腹寺」、北條庄の寺は「龍尾寺」と改称したという。
伝説はともかく、発掘調査により、いわゆる「法起寺式伽藍」の遺構が発見されたほか、出土した古瓦は「山田寺」(奈良県)の様式に似たものであったことなどから、遅くとも7世紀後半(一説に7世紀第2/四半期)にまで遡る古代寺院があったことが判明した。何と、伝承よりも古くから寺院があったことになり、関東地区でも最古クラスとなる。当寺の南にある「龍角寺古墳群」との位置関係からすれば、この地の有力豪族の氏寺だったのだろうと思われる。注目すべきは、「龍角寺古墳群」で最も新しい「岩屋古墳」が7世紀中頃のものとすると、殆ど間を置かずに(あるいは並行して)信仰・祭祀の対象が古墳から寺院に移行したことを示す例となることである。その意味で大変重要な史跡であるといえる。
さて、当寺に関する国指定文化財は2つ。1つは銅製薬師如来坐像で、胴体は後世の補作であるが、頭部は奈良時代のものとされる。もう1つは塔址で、寺伝等によれば三重塔(一説には七重塔)が立っていたといい、塔の高さは推定約33m。塔心礎は花崗岩製で、長径2.49m、短径2.03m。中央に直径81.8cmの丸い穴が開けられている。この塔心礎の穴に溜まった水は、どれほど日照りが続いても枯れず、大雨が降っても増えないとされ、「不増不滅の石」と呼ばれたという。
「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(龍角寺)
栄町のHPから(国指定文化財)
写真1:「龍角寺」境内入口。参道両脇の平たい丸い石は、旧・仁王門の礎石らしい。
写真2:金堂址。奥に見える建物は「校倉作り史料庫」(成田市三里塚にあった下総御料牧場から空港建設に伴って移築された明治時代初期の建物)
写真3:古瓦保存塚(出土した古瓦は県指定有形文化財)
写真4:塔址(国指定史跡)
写真5:塔心礎
場所:千葉県印旛郡栄町龍角寺239。栄東中学校の北西、約600m。駐車スペースあり。
現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。寺伝等によれば、和銅2年(709年)、竜女が現れて、金造の薬師如来像を祀ったのが創建とされる。天平2年(730年)に釈命上人が寺として整備し、「龍閣寺」と号したという。
伝説によれば、天平3年(731年)、旱魃のとき、釈命上人が降雨の祈祷を行ったところ、寺の南にある池の主という小龍が現れた。小龍は、「この旱魃は龍王が降雨を止めているのである。私は釈命上人に法恩を感じているので雨を降らせるが、龍王に逆らうことになるから、私は殺されてしまうだろう。」と言って消えた。すると、忽ち雨が七日七晩降り続いたが、雲のなかから大きな音がして、龍が首、身体、尾の3つに引き裂かれて地上に落ちてきた。首は当地(旧・下総国埴生庄)に、身体は印西庄(現・印西市)、尾は北條庄(現・匝瑳市)に落ちたので、それぞれの寺に埋葬し、当寺は「龍角寺」、印西庄の寺は「龍腹寺」、北條庄の寺は「龍尾寺」と改称したという。
伝説はともかく、発掘調査により、いわゆる「法起寺式伽藍」の遺構が発見されたほか、出土した古瓦は「山田寺」(奈良県)の様式に似たものであったことなどから、遅くとも7世紀後半(一説に7世紀第2/四半期)にまで遡る古代寺院があったことが判明した。何と、伝承よりも古くから寺院があったことになり、関東地区でも最古クラスとなる。当寺の南にある「龍角寺古墳群」との位置関係からすれば、この地の有力豪族の氏寺だったのだろうと思われる。注目すべきは、「龍角寺古墳群」で最も新しい「岩屋古墳」が7世紀中頃のものとすると、殆ど間を置かずに(あるいは並行して)信仰・祭祀の対象が古墳から寺院に移行したことを示す例となることである。その意味で大変重要な史跡であるといえる。
さて、当寺に関する国指定文化財は2つ。1つは銅製薬師如来坐像で、胴体は後世の補作であるが、頭部は奈良時代のものとされる。もう1つは塔址で、寺伝等によれば三重塔(一説には七重塔)が立っていたといい、塔の高さは推定約33m。塔心礎は花崗岩製で、長径2.49m、短径2.03m。中央に直径81.8cmの丸い穴が開けられている。この塔心礎の穴に溜まった水は、どれほど日照りが続いても枯れず、大雨が降っても増えないとされ、「不増不滅の石」と呼ばれたという。
「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(龍角寺)
栄町のHPから(国指定文化財)
写真1:「龍角寺」境内入口。参道両脇の平たい丸い石は、旧・仁王門の礎石らしい。
写真2:金堂址。奥に見える建物は「校倉作り史料庫」(成田市三里塚にあった下総御料牧場から空港建設に伴って移築された明治時代初期の建物)
写真3:古瓦保存塚(出土した古瓦は県指定有形文化財)
写真4:塔址(国指定史跡)
写真5:塔心礎