神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

城輪柵跡(出羽国府・その3)

2015-12-26 23:01:32 | 史跡・文化財
城輪柵跡(きのわさくあと)。
場所:山形県酒田市城輪。国道7号線から山形県道59号線(酒田八幡線)に入り(山形自動車道「酒田みなと」インター方面)、東へ約6.3km。「城輪史跡公園」となっている。駐車場あり。
「城輪柵跡」は、山形県庄内平野の北部、最上川の北約6kmの荒瀬川・日向川扇状地に位置する古代城柵遺跡。「払田柵跡」(2015年11月28日記事)と同様に、所在地の地名を採って名づけられているが、現在では、平安時代の(そして最終の)「出羽国府」であるということにほぼ異論がない。
古くは「出羽国風土略記」(進藤重記著、宝暦12年(1762年))で、「城輪」という地名から(古代)「官人の居城」跡と指摘されていた。また、中心部の「大畑(おばたけ)」という台地状の場所(後に、自然のものでなく盛土と判明)からは土器、瓦、礎石風の大石などが出土することが知られていた。こうした背景の下、昭和6年に最初の発掘調査が行われ、ほぼ正方位による1辺約720mの方形に角材(柵木)が並べられた遺構が発見された。この外郭の各辺中央に八脚門、各辺四隅に櫓らしき跡が認められ、中心部には1辺約115mの築地等に囲まれた政庁域(内郭)が検出された。これにより、昭和7年には、東北の古代城柵(官衙)遺跡として国の史跡に指定された。昭和6年の調査では建物跡が明確ではなかったが、昭和39年から行われた発掘調査で掘立柱建物跡と礎石建物跡という2つの時代の遺構が確認され、律令制政庁の遺構として律正殿・脇殿・南門等の配置が判明し、概ね4期に亘る建物の変遷があったことがわかったという。その創建時期については、出土した土器(須恵器)の年代観から9世紀後半とされ、終末は不明であるが、11世紀前半まで存続したようである。
ところで、文献資料では、どうなっているだろうか。「日本三代実録」の仁和3年(887年)の記事に「国府は出羽郡井口の地にあり。」というのがある。この「井口」の国府が「城輪柵」であろうということは、現在では、ほぼ異論がない。ただし、「井口」という地名自体は残っていない。また、「出羽郡」ということにも疑問は残る。「城輪柵跡」は最上川の北側にあり、そこは古代「飽海郡」域内というのが通説だからである(因みに「出羽国」が「羽前」・「羽後」に分かれたのは明治以降であるが、その境は最上川だった。つまり、現在の山形県と秋田県の県境とは異なっている。)。これについては、誤記(誤認)であるとする説、最上川の流路が変わった(当時は「城輪柵跡」の南側を流れていた)説、郡境は最上川ではなく、荒瀬川・日向川だったとする説、上記記事時点では出羽郡だったが、後に飽海郡になったとする説がある。
さて、問題は、いわゆる「河辺府」である。「秋田城」が出羽国府であったとする説を前提として、宝亀6年(775年)に「河辺」に国府移転の論議(「続日本紀」)、延暦23年(804年)に「秋田城」を停廃し「河辺府」へ移転(「日本後紀」)の記事があり、この「河辺府」が「秋田城」の次の「出羽国府」とすれば、それはどこか、ということである。上記の「日本三代実録」仁和3年の記事では、続けて「これ(井口の国府)は延暦年中に征夷大将軍・坂上田村麻呂が論奏して陸奥守・小野岑守が建立したものである。」としている。これは「日本後紀」の記事と照応しているようだが、小野岑守が陸奥守に任官されたのは弘仁6年(815年)なので、それ以後、ということになる。そこで、新野直吉・船木義勝両氏は「河辺府」=「払田柵」説を唱え、「出羽国府」は延暦23年に「払田柵」(=「河辺府」)に移り、更に弘仁6~7年(815~816年)頃に「城輪柵」に移ったとしている(「払田柵跡」:2015年11月28日記事参照)。ただし、今のところ「払田柵」が国府クラスとまでは認められておらず、「河辺府」=「井口府」、すなわち「城輪柵」とする説が通説のようである。


酒田市のHPから(城輪柵跡)

山形の宝 検索navi のHPから(城輪柵跡)


写真1:「史跡 城輪柵址」の石碑(標柱)


写真2:政庁東門(復元)


写真3:同上


写真4:政庁南門(復元)。政庁に向かって幅約9mの大路が造られていたとみられる。


写真5:同上、こちらには目隠塀も造られている。


写真6:政庁正殿跡
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川原毛地獄(出羽国式外社 ・その3?)

2015-12-19 23:35:48 | 寺院
川原毛地獄(かわらげじごく)。
場所:秋田県湯沢市高松字湯尻沢。国道13号線「須川」交差点から秋田県道51号線(湯沢栗駒公園線)に入り、東南へ約13km、「三途川渓谷」の少し先、「川原毛大湯滝」の案内標識が出ているところを右折(南へ)、そこから道なりに約5km。舗装路だが、すれ違いが難しいほど狭く(「川原毛大湯滝」の野湯に入ろうとする物好きが多いせいか、山奥なのに案外すれ違うことが多い。)、注意。駐車場あり。なお、「川原毛大湯滝」へは、駐車場から徒歩15分。
「川原毛地獄」は、「恐山」(青森県むつ市)、「立山」(富山県立山町)と並ぶ「日本三大霊地」の1つとされる。その名の通り、草木が生えない不毛の硫黄山で、江戸時代には秋田・久保田藩の硫黄採取場となり、昭和41年に鉱山としては閉山となったが、今も噴煙が噴出し、硫黄の黄色い色が観察できる荒涼とした場所(一部は濃い硫化水素ガスのため立ち入り禁止)である。霊場としては、大同2年(807年)に月窓和尚が天台宗「霊通山 前湯寺(れいつうさん ぜんとうじ)」を建立したのが始まり。和尚は奇岩、池など136ヵ所を地獄に見立てた。仏典に8大地獄に各々16の小地獄が付随しているとすることによる。天長6年(829年)には、円仁(後の天台宗第3代座主、慈覚大師)が訪れ、「賀波羅偈通融嶮(かわらげつうゆうけん)」に庵を結び、自彫の「佉羅陀地蔵尊(からだじぞうそん)」などを祀った。その後は、人里離れ、あまりに厳しい環境のため寂れていたが、明徳4年(1393年)に梅檀上人により「三途川 十王坂」(現・湯沢市高松字三途川)に移され、長禄3年(1459年)には、当時の稲庭城主・小野寺弥太郎道広が檀郡寺開基となって曹洞宗「嶺通山 廣澤寺(れいつうさん こうたくじ)」に改め、現在地(湯沢市稲庭町字小沢112)に移転した。本尊:釈迦牟尼仏。
さて、「湯沢市史」によれば、「日本三代実録」貞観4年(862年)記事に「熊通男神、石通男神、真蒜神に従五位下を授ける」とあるが、「熊通男神(ゆうついおのかみ)」を「川原毛地獄」、「石通男神(しゃくついお)」を「石神山」(湯沢市皆瀬)、「真蒜神」を「真昼岳(山)」(秋田県仙北郡美郷町、前項「真昼山三輪神社」2015年12月12日記事参照)の神とする。「ユウツイ」は蝦夷の言葉で「複数の温泉」という意味だそうである。その当否については、何とも言えないのだが...。


湯沢市のHPから(川原毛地獄)

湯沢市ジオパーク推進協議会のブログから(菅江真澄と歩く⑫ 「幻の湯から未踏を望む」) :「石神山」は登山の対象にもなっていないようで、殆ど情報がない。この記事のように、かつては巨大な石の威容があったのなら、確かに「石神」と呼んで差し支えないと思われる。


写真1:「川原毛地蔵菩薩」。「霊通山 前湯寺」があった場所に建立されたものという。


写真2:地蔵像前の渓谷からも湯気が立っている。


写真3:「川原毛地獄」。今も硫化水素ガスが出ているところがあり、硫黄で黄色くなっている。


写真4:同上。南側、秋田県道310号線(秋ノ宮小安温泉線)側の駐車場から。


写真5:同上。遊歩道があるが、有毒ガスの具合によっては、地蔵像や「川原毛大滝湯」まで行けないこともある。


写真6:「三途川渓谷」に架かる「三途川橋」。閻魔大王像などが安置されている。


写真7:「三途川十王堂」入口(場所:「三途川渓谷」に架かる「三途川橋」北詰付近。南詰に駐車場有り)


写真8:「三途川十王堂」


写真9:同上、堂内の十王像(湯沢市指定文化財)


写真10:「嶺通山 廣澤寺」寺号標。国道398号線から少し東に入ったところにあり、寺はこの奥、約150m。


写真11:同上、境内入口。奥に見える四脚の楼門が寺格の高さを示す。


写真12:同上、本堂(場所:国道398号線を「湯沢市役所皆瀬庁舎」前付近から北へ約1.3km、「小沢」バス停付近から東に約200m。駐車場有り)
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真昼山三輪神社(出羽国式外社・その2)

2015-12-12 23:40:29 | 神社
真昼山三輪神社(まひるさんみわじんじゃ)。
場所:秋田県仙北郡美郷町浪花字一丈木2。秋田県道50号線(大曲田沢湖線)沿い、千畑小学校の東、約850m。県道から「一丈木公園」方面に分岐する道路に入って直ぐ。駐車スペースあり。なお、「真昼岳」山頂に奥宮がある。
社伝によれば、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が、蝦夷の賊・魁王を退治する祈願のため、「真昼岳(真昼山)」山頂(標高1059m)に一宇を建立したのが創始という。「真昼岳(真昼山)」という名も、田村麻呂が山頂に立った時刻が真昼であったことに因むとされる。寛治5年(1091年)に再建、善知鳥(うとう)3坊・真昼大沢6坊の9坊を擁し、中世以降は小野寺氏、本堂氏の信仰が篤く、「真昼山大明神」と称されたという。「真昼岳」の高さは尺貫法時代には3,739尺といわれ、これを「ミナサク」と読んで、稲が病害虫の害に遭わずに「皆作」という語呂合わせで農民の信仰を集め、仙北郡は勿論、平鹿郡・雄勝郡からも参拝登山の講があったという。
「延喜式神名帳」に登載された官社を「式内社」といい、それには漏れているが古代に既に存在した神社を「式外社」、中でも国の正史である「六国史」に名が見える神社を「国史見在社」(それが今も現存する場合、「国史現在社」)という。出羽国の式外社は一説に11社とされるが、このうち「日本書紀」に見える「齶田浦神」以外は、「日本三代実録」の神階授与の記事にある。このうち、「齶田浦神」と「高泉神」が現・秋田県秋田市の「古四王神社」であるという説が有力であることは以前に書いた(「古四王神社」:2015年8月15日記事)。「日本三代実録」貞観4年(862年)の記事に「出羽国の正六位上・熊通男神、石通男神、真蒜神に従五位下を授ける。」とあり、「熊通男神」・「石通男神」には諸説ある(というか、不明とするものが多い。)が、「真蒜神」は当神社に比定することでほぼ一致している。「真昼岳」を主峰とする真昼山地は陸奥国との国境(現在も秋田・岩手の県境)となっており、「善知鳥」・「峰越」など峠越えの道があったという。こうしたことから、「真昼岳」自体が神とされたものだろう。田村麻呂が真昼に山頂に立ったというのは伝説に過ぎないだろうから、「マヒル」の語源は植物の「蒜」に由来するという説が有力。「蒜」は、ネギ(葱)・ニンニク(大蒜)・ノビル(野蒜)など、食用となるユリ科の多年草の古名である。禅宗寺院の門前にある「戒壇石」に「不許葷酒入山門」と書かれている「葷」も、ネギなどの臭いの強い野菜で、修行の妨げとなるため酒とともに持ち込み禁止とされたものであり、ほぼ同じものを指す。ニンニクが典型だが、「修行の妨げになる」くらい精力増進等に効能があることが古代にも知られていたのかもしれない。「記紀」にも、ヤマトタケルが白鹿に化けた悪神を「蒜」で打ち倒したという逸話も記されている。
さて、当神社の祭神は大物主神であるが、何故そうなのかは、社伝からはよくわからない。ただ、当神社の西、約5km(奥宮である「真昼岳」山頂からは直線距離で約11km)に「払田柵」(2015年11月28日記事)があり、その性格は明らかではないが、もし「河辺府」(=「出羽国府」?)または「(第2次)雄勝城」という国の官衙であれば、大和国の「大神神社」を信奉する人々が関わった可能性もある。「雄勝城」跡の可能性がある「足田遺跡」(2015年11月7日記事)の近くに古社の「三輪神社」(秋田県羽後町杉宮:2015年11月14日記事)が鎮座していることにも何か関連があるのかもしれない。
なお、当神社境内を含む「一丈木公園」は、現在は桜の名所でもあるが、縄文時代中期の竪穴住居跡・祭祀場跡等が出土した「一丈木遺跡」もある。また、明治29年に「真昼山地」の地下4kmを震源とする「陸羽大地震」が発生している。この大地震により秋田県側に「千屋断層」、岩手県側に「川舟断層」の2つ大断層が出現、秋田県側では死傷者205人、重軽傷者736人、家屋の全壊4300軒という大きな被害が出ている。


秋田県神社庁のHPから(真昼山三輪神社)

秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図情報(一丈木)

「真昼岳」登山については、こちら : 倉田陽一さんのHP(和賀岳・薬師岳・真昼山登山情報)


写真1:「真昼山三輪神社」。立派な一の鳥居。


写真2:同上、二の鳥居


写真3:同上、社殿


写真4:「県指定 一丈木遺跡」の石碑(場所:当神社の道路を隔てた北側)


写真5:同上、縄文時代中期の竪穴住居跡


写真6:「真昼山(真昼岳)」登山途中で山頂を見る。


写真7:同上、山頂


写真8:山頂にある「真昼山三輪神社」社号標?


写真9:「真昼山三輪神社」奥宮。この建物は、神社の覆屋兼避難小屋らしい。


写真10:同上。覆屋の中に小祠がある。


写真11:「真昼山」から仙北の平野(西側)を見る。
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古四王神社(秋田県大仙市)

2015-12-09 23:44:51 | 神社
古四王神社(こしおうじんじゃ)。
場所:秋田県大仙市大曲字古四王際30。国道13号線「和合」交差点(「大曲西道路」入口)の南、約300mのところの交差点(「古四王神社」の案内板あり)から、西へ約450m進んだところの交差点を右折(北~北西へ)、突き当たり(「古四王フラワーロード」の看板がある。)を左折(南へ)、次の交差点の角。駐車場有り。
社伝によれば、元亀元年(1570年)、当地の領主・戸沢六郎(兵部)が冨樫左衛門太郎勝家を奉行として建立したという。祭神は大彦命ほか。本殿は「飛騨の匠」の作と伝えられてきたが、昭和5年の解体修理の際、「古川村 大工 甚兵衛」という墨書が見つかり、現・岐阜県飛騨市(旧吉城郡古川町)出身の大工・甚兵衛によって建てられたことがわかったという。室町時代末期の様式を伝えているとされ、釘を1本も使っていないという。明治42年、国宝に指定されたが、昭和29年の文化財保護法の制定により、同年、重要文化財に指定された。当時、美術建築の最高権威であった伊東忠太博士(東京帝国大学教授。「築地本願寺」などを手がけた。)は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆し、建築史家・天沼俊一博士(京都帝国大学教授)も「和・唐・天(天竺:インド)を超越した天下一品の建物」と絶賛した、という。
なお、当神社は、「払田柵」(2015年11月28日記事)の南西、約5kmの位置にある。創建時期からして、格別関係があるとは思えないが、旧国宝というので訪ねてみた。


秋田県神社庁のHPから(古四王神社)

大仙市のHPから(古四王神社本殿)(pdf)


写真1:「古四王神社」鳥居


写真2:「重要文化財 古四王神社」という石碑


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:同上
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本堂城跡

2015-12-05 23:20:27 | 史跡・文化財
本堂城跡(ほんどうじょうあと)。
場所:秋田県仙北郡美郷町本堂城回字館間150ほか。「払田柵跡」(前項)・「秋田県埋蔵文化財センター」から秋田県道50号線(大曲田沢湖線)を東に約350m進み、左折(北へ)。「払田柵」の東端を通って道なりに約1.5km進むと、「本堂城跡」の案内標示があるところで左折(北へ)、約370mで「西門址」付近。駐車スペースあり。
「本堂城跡」は、中世に陸奥国和賀郡で勢力を持った和賀氏の庶流・本堂氏が出羽国山本郡(仙北郡)に進出して築城した平城の跡で、内堀跡など保存状態が良いことから、秋田県指定史跡となっている。本堂氏は、元は和賀山塊に山城を築いていた(「元本堂城」)が、天文4年(1535年)頃、当地に「本堂城」を築き、城下町を整備したとされる。城は、北~北西側の矢島川の水を利用して幅約10mの内堀を廻らしており、この内堀を含めた規模は東西約182m×南北約273mに及ぶ。慶長19年(1614年)銘の古絵図「本堂城廻絵図」が現存しており、それによれば、東西約436m×南北約405mという外堀もあったらしい。その後、本堂氏は江戸時代まで存続して当地を支配したが、慶長5年(1600年)に常陸国新治郡志筑(現・茨城県かすみがうら市)に転封となり、「本堂城」は廃城となった。
ところで、「本堂城跡」の場所に、平安時代の定額寺「安隆寺」があったという説がある。「定額寺(じょうがくじ)」というのは、諸説あるが一般に、「本来は私寺であるが、国分寺など官寺に準ずる寺格を有するものとして公認された寺院」とされる。律令制下では、僧侶には課税されなかったため、僧侶になるには官許が必要だった。寺院も国家鎮護の目的があったから、国家からの経済的支援があったが、そのかわり、官許を得た僧侶が派遣され、国家による統制が行われた。皇族の勅願寺や豪族の氏寺などの大きな私寺は、その存続のために国家の公認と支援を受けるために定額寺になったと考えられている。出羽国には、史料に6つの定額寺が見え、指定年代順に「法隆寺」(斉衡3年:856年)、「観音寺」(貞観7年:865年)、「瑜伽寺」(貞観8年:866年)、「長安寺」(貞観9年:867年)、「霊山寺」(貞観9年:867年)、「安隆寺」(貞観12年:870年)となっている。ただし、いずれも、ありふれた(というと語弊があるが)寺号で、特に前4者には所在地の記載がなく、特定が困難となっている。後2者のうち「霊山寺」には最上郡、「安隆寺」には山本郡という記載があるので、所在地探求の手がかりにはなる。ということで、出羽国山本郡「安隆寺」であるが、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事にあるのだが、実は、これが出羽国「山本郡」の初出になっている。古代の「山本郡」は近世の「仙北郡」に当り、式内社「副川神社」も「山本郡」鎮座である(2015年6月20日記事)。ただ、近世「仙北郡」に「安隆寺」という寺院はなかったようだ。現在、秋田県仙北郡美郷町(旧・千畑町)に「安城寺」という地名があり(「本堂城跡」の南、4~5kmの距離)、これが「安隆寺」から訛ったものという説がある。観応3年(1352年)の古文書に「阿条字郷」という地名が出てくることから、元は「阿条字」で、「安隆寺」から変化したというのを否定する説もあるが、地元では、中世には「安隆寺」は既に退転していて、寺から城になったので、「安隆寺」が「安城寺」に変わったという説を立てている。
なお、同じ美郷町(旧・六郷町)に浄土宗「東光山 本覚寺」を「安隆寺」の後身とする説がある。「本覚寺」は、元は天台宗で、弘治3年(1557年)に浄土宗に改宗した。本堂城主・本堂伊賀守吉隆の菩提寺で、旧・千畑町元本堂にあったが、佐竹義重の命により慶長8年(1603年)、近在の寺院を集めた際に、六郷地区に移された。「定額寺」というのは国家から「額」を授与された寺院であると言う説に基づいて、その額を「御額(おんがく)」と称したとして、それが「本覚(ほんがく)」に変わった、というものである。そもそも「本堂」というのは、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」の総本堂である「根本中堂」に由来する、という説もある。因みに、「本覚寺」には「貞観の写経」(秋田県有形文化財)がある。これは、貞観13年(871年)に上野国大目従六位下・安倍小水麿が「大般若波羅蜜多経」600巻を写したものの1巻で、これが当地で写されたものなら大きな物証だが、もともと同国の天台宗「都幾山 慈光寺」(現・埼玉県比企郡都幾町)に納められていたのを、第28世の白雲上人(1764~1825年)が当地に来たときに持ってきたものとされる。
また、似たような寺号として「安養寺」が、「安隆寺」の後身ではないかという説もある。秋田県大仙市大曲浜町にある浄土真宗大谷派「廣栄山 安養寺」は、元は真言宗だったという。伝承によれば、真言宗では、「雄勝城」と「秋田城」の駅路に沿って、雄勝・山本・秋田の3郡にそれぞれ「安養寺」を建立し、布教と連絡の便に当てたという。現在、秋田県横手市雄物川町沼館に現・曹洞宗「安養寺」があるほか、地名のみであるが、秋田市雄和椿川(旧・河辺郡川添村)、横手市増田町荻袋(旧・雄勝郡西成瀬村)などに「安養寺」がある。


「城郭放浪記」さんのHPから(出羽・本堂城)


写真1:「本堂城跡」。「西門址」の標柱が立っている。今は浅くなっているが、「西門」入口の両側は堀の跡らしい。


写真2:「西門址」付近から北東方向を見る。何も無いこともあって、とても広く見える。


写真3:「東門址」


写真4:北東隅にケヤキ(欅)の大木と小祠が2つある。背後に土塁が良く保存されているが、ここが信仰の場で、田畑にされずに残ったようだ。土塁の裏側に矢島川が流れており、北側は川をそのまま内堀に利用していたらしい。


写真5:ケヤキの巨木に、藁でできた人形が立てかけられている。当地では「ショーキ様」と呼ばれる鬼人で、古来より疫病を防ぐ守り神とされてきたとのこと。元は道教系の神である「鍾馗」と思われ、秋田県湯沢市付近でみられる「鹿島(カシマ)様」と同様、道祖神として疫病を村に入れない機能を持ったものだろう。


写真6:「本堂城址記念碑」。築城から400年を記念して昭和9年に建立されたものらしい。


写真7:「東光山 本覚寺」(場所:秋田県仙北郡美郷町六郷字東高方町26。国道13号線「六郷白山」交差点を北へ約750mのところを右折(東へ)、最初の交差点の北側。駐車場有り)。本尊:阿弥陀如来。秋田三十三観音霊場第14番札所(正観音)。


写真8:同上、楼門。六郷地区には26ヵ寺あるが、楼門があるのは「本覚寺」だけという。


写真9:「廣栄山 安養寺」(場所:秋田県大仙市大曲浜町6-59。秋田県道36号線(大曲大森羽後線)「浜町」交差点から東に約130m進み、狭い道路に左折(北へ)。駐車場あり)。本尊:阿弥陀如来
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