城輪柵跡(きのわさくあと)。
場所:山形県酒田市城輪。国道7号線から山形県道59号線(酒田八幡線)に入り(山形自動車道「酒田みなと」インター方面)、東へ約6.3km。「城輪史跡公園」となっている。駐車場あり。
「城輪柵跡」は、山形県庄内平野の北部、最上川の北約6kmの荒瀬川・日向川扇状地に位置する古代城柵遺跡。「払田柵跡」(2015年11月28日記事)と同様に、所在地の地名を採って名づけられているが、現在では、平安時代の(そして最終の)「出羽国府」であるということにほぼ異論がない。
古くは「出羽国風土略記」(進藤重記著、宝暦12年(1762年))で、「城輪」という地名から(古代)「官人の居城」跡と指摘されていた。また、中心部の「大畑(おばたけ)」という台地状の場所(後に、自然のものでなく盛土と判明)からは土器、瓦、礎石風の大石などが出土することが知られていた。こうした背景の下、昭和6年に最初の発掘調査が行われ、ほぼ正方位による1辺約720mの方形に角材(柵木)が並べられた遺構が発見された。この外郭の各辺中央に八脚門、各辺四隅に櫓らしき跡が認められ、中心部には1辺約115mの築地等に囲まれた政庁域(内郭)が検出された。これにより、昭和7年には、東北の古代城柵(官衙)遺跡として国の史跡に指定された。昭和6年の調査では建物跡が明確ではなかったが、昭和39年から行われた発掘調査で掘立柱建物跡と礎石建物跡という2つの時代の遺構が確認され、律令制政庁の遺構として律正殿・脇殿・南門等の配置が判明し、概ね4期に亘る建物の変遷があったことがわかったという。その創建時期については、出土した土器(須恵器)の年代観から9世紀後半とされ、終末は不明であるが、11世紀前半まで存続したようである。
ところで、文献資料では、どうなっているだろうか。「日本三代実録」の仁和3年(887年)の記事に「国府は出羽郡井口の地にあり。」というのがある。この「井口」の国府が「城輪柵」であろうということは、現在では、ほぼ異論がない。ただし、「井口」という地名自体は残っていない。また、「出羽郡」ということにも疑問は残る。「城輪柵跡」は最上川の北側にあり、そこは古代「飽海郡」域内というのが通説だからである(因みに「出羽国」が「羽前」・「羽後」に分かれたのは明治以降であるが、その境は最上川だった。つまり、現在の山形県と秋田県の県境とは異なっている。)。これについては、誤記(誤認)であるとする説、最上川の流路が変わった(当時は「城輪柵跡」の南側を流れていた)説、郡境は最上川ではなく、荒瀬川・日向川だったとする説、上記記事時点では出羽郡だったが、後に飽海郡になったとする説がある。
さて、問題は、いわゆる「河辺府」である。「秋田城」が出羽国府であったとする説を前提として、宝亀6年(775年)に「河辺」に国府移転の論議(「続日本紀」)、延暦23年(804年)に「秋田城」を停廃し「河辺府」へ移転(「日本後紀」)の記事があり、この「河辺府」が「秋田城」の次の「出羽国府」とすれば、それはどこか、ということである。上記の「日本三代実録」仁和3年の記事では、続けて「これ(井口の国府)は延暦年中に征夷大将軍・坂上田村麻呂が論奏して陸奥守・小野岑守が建立したものである。」としている。これは「日本後紀」の記事と照応しているようだが、小野岑守が陸奥守に任官されたのは弘仁6年(815年)なので、それ以後、ということになる。そこで、新野直吉・船木義勝両氏は「河辺府」=「払田柵」説を唱え、「出羽国府」は延暦23年に「払田柵」(=「河辺府」)に移り、更に弘仁6~7年(815~816年)頃に「城輪柵」に移ったとしている(「払田柵跡」:2015年11月28日記事参照)。ただし、今のところ「払田柵」が国府クラスとまでは認められておらず、「河辺府」=「井口府」、すなわち「城輪柵」とする説が通説のようである。
酒田市のHPから(城輪柵跡)
山形の宝 検索navi のHPから(城輪柵跡)
写真1:「史跡 城輪柵址」の石碑(標柱)
写真2:政庁東門(復元)
写真3:同上
写真4:政庁南門(復元)。政庁に向かって幅約9mの大路が造られていたとみられる。
写真5:同上、こちらには目隠塀も造られている。
写真6:政庁正殿跡
場所:山形県酒田市城輪。国道7号線から山形県道59号線(酒田八幡線)に入り(山形自動車道「酒田みなと」インター方面)、東へ約6.3km。「城輪史跡公園」となっている。駐車場あり。
「城輪柵跡」は、山形県庄内平野の北部、最上川の北約6kmの荒瀬川・日向川扇状地に位置する古代城柵遺跡。「払田柵跡」(2015年11月28日記事)と同様に、所在地の地名を採って名づけられているが、現在では、平安時代の(そして最終の)「出羽国府」であるということにほぼ異論がない。
古くは「出羽国風土略記」(進藤重記著、宝暦12年(1762年))で、「城輪」という地名から(古代)「官人の居城」跡と指摘されていた。また、中心部の「大畑(おばたけ)」という台地状の場所(後に、自然のものでなく盛土と判明)からは土器、瓦、礎石風の大石などが出土することが知られていた。こうした背景の下、昭和6年に最初の発掘調査が行われ、ほぼ正方位による1辺約720mの方形に角材(柵木)が並べられた遺構が発見された。この外郭の各辺中央に八脚門、各辺四隅に櫓らしき跡が認められ、中心部には1辺約115mの築地等に囲まれた政庁域(内郭)が検出された。これにより、昭和7年には、東北の古代城柵(官衙)遺跡として国の史跡に指定された。昭和6年の調査では建物跡が明確ではなかったが、昭和39年から行われた発掘調査で掘立柱建物跡と礎石建物跡という2つの時代の遺構が確認され、律令制政庁の遺構として律正殿・脇殿・南門等の配置が判明し、概ね4期に亘る建物の変遷があったことがわかったという。その創建時期については、出土した土器(須恵器)の年代観から9世紀後半とされ、終末は不明であるが、11世紀前半まで存続したようである。
ところで、文献資料では、どうなっているだろうか。「日本三代実録」の仁和3年(887年)の記事に「国府は出羽郡井口の地にあり。」というのがある。この「井口」の国府が「城輪柵」であろうということは、現在では、ほぼ異論がない。ただし、「井口」という地名自体は残っていない。また、「出羽郡」ということにも疑問は残る。「城輪柵跡」は最上川の北側にあり、そこは古代「飽海郡」域内というのが通説だからである(因みに「出羽国」が「羽前」・「羽後」に分かれたのは明治以降であるが、その境は最上川だった。つまり、現在の山形県と秋田県の県境とは異なっている。)。これについては、誤記(誤認)であるとする説、最上川の流路が変わった(当時は「城輪柵跡」の南側を流れていた)説、郡境は最上川ではなく、荒瀬川・日向川だったとする説、上記記事時点では出羽郡だったが、後に飽海郡になったとする説がある。
さて、問題は、いわゆる「河辺府」である。「秋田城」が出羽国府であったとする説を前提として、宝亀6年(775年)に「河辺」に国府移転の論議(「続日本紀」)、延暦23年(804年)に「秋田城」を停廃し「河辺府」へ移転(「日本後紀」)の記事があり、この「河辺府」が「秋田城」の次の「出羽国府」とすれば、それはどこか、ということである。上記の「日本三代実録」仁和3年の記事では、続けて「これ(井口の国府)は延暦年中に征夷大将軍・坂上田村麻呂が論奏して陸奥守・小野岑守が建立したものである。」としている。これは「日本後紀」の記事と照応しているようだが、小野岑守が陸奥守に任官されたのは弘仁6年(815年)なので、それ以後、ということになる。そこで、新野直吉・船木義勝両氏は「河辺府」=「払田柵」説を唱え、「出羽国府」は延暦23年に「払田柵」(=「河辺府」)に移り、更に弘仁6~7年(815~816年)頃に「城輪柵」に移ったとしている(「払田柵跡」:2015年11月28日記事参照)。ただし、今のところ「払田柵」が国府クラスとまでは認められておらず、「河辺府」=「井口府」、すなわち「城輪柵」とする説が通説のようである。
酒田市のHPから(城輪柵跡)
山形の宝 検索navi のHPから(城輪柵跡)
写真1:「史跡 城輪柵址」の石碑(標柱)
写真2:政庁東門(復元)
写真3:同上
写真4:政庁南門(復元)。政庁に向かって幅約9mの大路が造られていたとみられる。
写真5:同上、こちらには目隠塀も造られている。
写真6:政庁正殿跡