平将門公鎌輪之宿址(たいらのまさかどこうかまわのしゅくし、たいらのまさかどこうかまわのやどりあと)。
場所:「平将門公鎌輪之宿址碑」は茨城県下妻市鬼怒230(千代川公民館の住所)。茨城県道56号線(つくば古河線)「千代川中学校入口」交差点から南西へ約180m。千代川公民館の裏(西側)。駐車場なし(千代川公民館には駐車場があるが、石碑はフェンスの外にある。)。
「鎌輪之宿」は、「石井営所」(現・茨城県坂東市石井。「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事参照))と並んで平将門の本拠地とされる場所で、現・茨城県下妻市鎌庭に比定されている。「宿」と「営所」については、同じとする説と異なるとする説があるが、「水守城跡」(2020年9月6日記事)で書いたように、「営所」は兵営であり、また荘園経営の拠点という意味が強く、「宿」は居館を指すという説が有力のようである。「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」では、同じ一節に「石井営所」と「石井之宿」が出てくる記述があり、同じとする説では単なる言い換えだが、異なるとする説では「石井」に「宿」と「営所」があったと考えることになる。因みに、「将門記」では、平良兼(将門の伯父であるが、敵方)の本拠地として「服織之宿」(はとりのやどり)があり、現・茨城県桜川市真壁町羽鳥に比定されている。
さて、「将門記」によれば、「鎌輪之宿」は、天慶2年(939年)に将門が常陸国府(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事参照))を攻撃し、国府の印章と正倉の鍵を奪って、長官(国司の長)と詔使(詔書伝達の使者)を「豊田郡鎌輪之宿」に連行して軟禁した、という記述の中に出てくる。また、これ以前、承平5年(935年)に平良正と「川曲村」(現・茨城県結城郡八千代町内の旧・川西村とみられ、「(野爪)鹿嶋神社」(2021年3月13日記事)が鎮座する大字野爪も含まれる。)で戦って勝ち、「本郷」(本拠地)に帰ったという記述、承平6年(936年)に平良兼軍を下野国府(現・栃木県栃木市)に押し込めて包囲したが、あえて囲みを解いて逃走させた後、「本堵」(本拠地の居館)に帰ったという記述があり、どことは示されていないが、いずれも「鎌輪之宿」に帰ったのだろうとみられている。こうしたことから、「鎌輪之宿」は将門の出生地なのではないか、とする説もある。もともと当地は父・平良将の所領であったようであるが、ここに居館があったとすれば、それは元々、母の実家ではなかったか、ともいう。つまり、当時は妻問婚(夫が妻の下に通う婚姻形態)だったからである。なお、将門の母は県犬養春枝の娘とされているが、その詳細は不明(母の実家としては、現・茨城県取手市辺りとする説の方が有力。ここでは深入りせず、いずれ別途書きたい。)。
さて、「鎌庭之宿」があったとされる現・下妻市鎌庭の主要部は、地図で見ると、楕円を2つに割った半円形で、その外周を下妻市鬼怒が帯のように取り巻いている地形であることがわかる。現在は鬼怒川の左岸(東岸)だが、鬼怒川が大きく蛇行していたのを真っ直ぐにする河川改修工事が行われた結果で、昭和3~10年にわたる工事により「鎌庭捷水路」(約2km)が開かれた。つまり、下妻市鬼怒は旧河道部分ということになる。ということで、「鎌輪」という地名の意味もわかるし、元々は三方が鬼怒川に囲まれた自然の要害で、肥沃な土地でもあったのだろうと思われる。 その中で、「宿」(館)が具体的にどこにあったかは不明。説としては、①「鎌庭字館野」(場所:「千代川中学校」の北西側):鎌庭のほぼ中央部だが、現在は水田が広がっている。圃場整備が行われたときに地面を掘り返したが、遺構などは全く出なかったという。②「香取神社」(通称:鎌庭香取神社)(場所:下妻市鎌庭54。上記「千代川中学校入口」交差点から県道を西へ約600m、茶舗「小堀園」のところを右(西へ)側道に入り、約150m。駐車場なし。):現・鎌庭の北端辺りで、旧・鬼怒川河道に面している。上記の通り、将門は騎馬のイメージがあるが、下総国の湖沼が多い低湿地を支配したので、水上交通もうまく使ったようである。③「御所神社」(場所:茨城県結城郡八千代町仁江戸1428。茨城県道56号線(つくば古河線)から同136号線(高崎坂東線)に入り、北へ約300mのところで左折(西へ)、約150m。駐車場なし。):こちらは現・八千代町仁江戸となるが、南に現・下妻市鎌庭の飛び地もあるので、かつては鎌輪の一部だったかもしれない。「御所」というのは、将門の居館跡であることから名付けられ、将門を祭神とする説もある。ただし、「茨城県神社史」によれば現在の祭神は伊弉諾命・伊弉冉命であり、資料によっては「五所神社」という表記もあり、5柱の神を祀る神社であれば、よくある社号である。また、堀戸道光という人物の館跡ともされる(「村史千代川村生活史」)。当神社の北側に「山川沼排水路」という川が流れているが、これは鬼怒川の旧河道であるとされ、「将門記」によれば、平良兼軍に「豊田郡栗栖院常羽御厩」(前項参照)を焼き討ちされた後、将門は「(豊田郡)下大方郷堀越渡」に陣を固めて待機したものの、そこで足の病気(脚気?)になって敗走する記述があるが、この「堀越渡」が八千代町仁江戸付近とされ、後に「堀戸(ほっと)の渡し」と呼ばれるようになったという。堀戸道光という人物は詳細不明だが、当地の裕福な豪族だったようで、下妻城主・多賀谷氏家(1408~1465年)に臣従を迫られ、やむなく応諾したが、庚申の夜の酒宴に招かれて謀殺されたという(「八千代町史」)。水上交通の要所であった将門の館跡に、後に道光が城館を設けたのかもしれない。因みに、当神社の西側に「村岡柴崎古墳群」があり、その1号墳は全長65mの前方後円墳で、4世紀後半頃の築造とされる。現・下妻市鎌庭~八千代町仁江戸辺りは、古くから人が住み、生活や信仰にとって重要な土地であったことが窺われる。
写真1:「平将門公鎌輪之宿址碑」
写真2:写真1の隣にある「建碑由来記」碑。昭和51年の建立で、地元(旧・千代川村)に所縁の英雄として平将門を記念するために、隣接する緑地公園の完成を機に建てられたことを記す。所在地(下妻市鬼怒)でわかるように、ここは鬼怒川の旧・河道である。
写真3:郷土史家が建てたという「平将門鎌輪之宿 居館跡」案内板。現「鎌庭字館野」という場所と思われる。今は水田が広がっているとおり、低地であることから、「居館」の場所としては不適当という説もある。
写真4:「香取神社」境内入口。「香取神社」の創建は天文2年(1533年)、下総国一宮「香取神宮」(現・千葉県香取市)からの分祀。祭神:経津主命。
写真5:同上、境内には「史跡 平将門公鎌輪之宿址 案内」の説明板がある。
写真6:同上、「香取神社」拝殿。社殿は南向き。
写真7:同上、本殿(覆屋)。
写真8:同上、境内社「愛宕神社」ほか。境内社は明治42年に合祀されたもの。
写真9:同上、境内社「水神宮」ほか。この奥(北西側)、境内の外が鬼怒川の旧河道。
写真10:「御所神社」鳥居
写真11:同上、拝殿。社殿は東向き。
写真12:同上、本殿
場所:「平将門公鎌輪之宿址碑」は茨城県下妻市鬼怒230(千代川公民館の住所)。茨城県道56号線(つくば古河線)「千代川中学校入口」交差点から南西へ約180m。千代川公民館の裏(西側)。駐車場なし(千代川公民館には駐車場があるが、石碑はフェンスの外にある。)。
「鎌輪之宿」は、「石井営所」(現・茨城県坂東市石井。「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事参照))と並んで平将門の本拠地とされる場所で、現・茨城県下妻市鎌庭に比定されている。「宿」と「営所」については、同じとする説と異なるとする説があるが、「水守城跡」(2020年9月6日記事)で書いたように、「営所」は兵営であり、また荘園経営の拠点という意味が強く、「宿」は居館を指すという説が有力のようである。「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」では、同じ一節に「石井営所」と「石井之宿」が出てくる記述があり、同じとする説では単なる言い換えだが、異なるとする説では「石井」に「宿」と「営所」があったと考えることになる。因みに、「将門記」では、平良兼(将門の伯父であるが、敵方)の本拠地として「服織之宿」(はとりのやどり)があり、現・茨城県桜川市真壁町羽鳥に比定されている。
さて、「将門記」によれば、「鎌輪之宿」は、天慶2年(939年)に将門が常陸国府(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事参照))を攻撃し、国府の印章と正倉の鍵を奪って、長官(国司の長)と詔使(詔書伝達の使者)を「豊田郡鎌輪之宿」に連行して軟禁した、という記述の中に出てくる。また、これ以前、承平5年(935年)に平良正と「川曲村」(現・茨城県結城郡八千代町内の旧・川西村とみられ、「(野爪)鹿嶋神社」(2021年3月13日記事)が鎮座する大字野爪も含まれる。)で戦って勝ち、「本郷」(本拠地)に帰ったという記述、承平6年(936年)に平良兼軍を下野国府(現・栃木県栃木市)に押し込めて包囲したが、あえて囲みを解いて逃走させた後、「本堵」(本拠地の居館)に帰ったという記述があり、どことは示されていないが、いずれも「鎌輪之宿」に帰ったのだろうとみられている。こうしたことから、「鎌輪之宿」は将門の出生地なのではないか、とする説もある。もともと当地は父・平良将の所領であったようであるが、ここに居館があったとすれば、それは元々、母の実家ではなかったか、ともいう。つまり、当時は妻問婚(夫が妻の下に通う婚姻形態)だったからである。なお、将門の母は県犬養春枝の娘とされているが、その詳細は不明(母の実家としては、現・茨城県取手市辺りとする説の方が有力。ここでは深入りせず、いずれ別途書きたい。)。
さて、「鎌庭之宿」があったとされる現・下妻市鎌庭の主要部は、地図で見ると、楕円を2つに割った半円形で、その外周を下妻市鬼怒が帯のように取り巻いている地形であることがわかる。現在は鬼怒川の左岸(東岸)だが、鬼怒川が大きく蛇行していたのを真っ直ぐにする河川改修工事が行われた結果で、昭和3~10年にわたる工事により「鎌庭捷水路」(約2km)が開かれた。つまり、下妻市鬼怒は旧河道部分ということになる。ということで、「鎌輪」という地名の意味もわかるし、元々は三方が鬼怒川に囲まれた自然の要害で、肥沃な土地でもあったのだろうと思われる。 その中で、「宿」(館)が具体的にどこにあったかは不明。説としては、①「鎌庭字館野」(場所:「千代川中学校」の北西側):鎌庭のほぼ中央部だが、現在は水田が広がっている。圃場整備が行われたときに地面を掘り返したが、遺構などは全く出なかったという。②「香取神社」(通称:鎌庭香取神社)(場所:下妻市鎌庭54。上記「千代川中学校入口」交差点から県道を西へ約600m、茶舗「小堀園」のところを右(西へ)側道に入り、約150m。駐車場なし。):現・鎌庭の北端辺りで、旧・鬼怒川河道に面している。上記の通り、将門は騎馬のイメージがあるが、下総国の湖沼が多い低湿地を支配したので、水上交通もうまく使ったようである。③「御所神社」(場所:茨城県結城郡八千代町仁江戸1428。茨城県道56号線(つくば古河線)から同136号線(高崎坂東線)に入り、北へ約300mのところで左折(西へ)、約150m。駐車場なし。):こちらは現・八千代町仁江戸となるが、南に現・下妻市鎌庭の飛び地もあるので、かつては鎌輪の一部だったかもしれない。「御所」というのは、将門の居館跡であることから名付けられ、将門を祭神とする説もある。ただし、「茨城県神社史」によれば現在の祭神は伊弉諾命・伊弉冉命であり、資料によっては「五所神社」という表記もあり、5柱の神を祀る神社であれば、よくある社号である。また、堀戸道光という人物の館跡ともされる(「村史千代川村生活史」)。当神社の北側に「山川沼排水路」という川が流れているが、これは鬼怒川の旧河道であるとされ、「将門記」によれば、平良兼軍に「豊田郡栗栖院常羽御厩」(前項参照)を焼き討ちされた後、将門は「(豊田郡)下大方郷堀越渡」に陣を固めて待機したものの、そこで足の病気(脚気?)になって敗走する記述があるが、この「堀越渡」が八千代町仁江戸付近とされ、後に「堀戸(ほっと)の渡し」と呼ばれるようになったという。堀戸道光という人物は詳細不明だが、当地の裕福な豪族だったようで、下妻城主・多賀谷氏家(1408~1465年)に臣従を迫られ、やむなく応諾したが、庚申の夜の酒宴に招かれて謀殺されたという(「八千代町史」)。水上交通の要所であった将門の館跡に、後に道光が城館を設けたのかもしれない。因みに、当神社の西側に「村岡柴崎古墳群」があり、その1号墳は全長65mの前方後円墳で、4世紀後半頃の築造とされる。現・下妻市鎌庭~八千代町仁江戸辺りは、古くから人が住み、生活や信仰にとって重要な土地であったことが窺われる。
写真1:「平将門公鎌輪之宿址碑」
写真2:写真1の隣にある「建碑由来記」碑。昭和51年の建立で、地元(旧・千代川村)に所縁の英雄として平将門を記念するために、隣接する緑地公園の完成を機に建てられたことを記す。所在地(下妻市鬼怒)でわかるように、ここは鬼怒川の旧・河道である。
写真3:郷土史家が建てたという「平将門鎌輪之宿 居館跡」案内板。現「鎌庭字館野」という場所と思われる。今は水田が広がっているとおり、低地であることから、「居館」の場所としては不適当という説もある。
写真4:「香取神社」境内入口。「香取神社」の創建は天文2年(1533年)、下総国一宮「香取神宮」(現・千葉県香取市)からの分祀。祭神:経津主命。
写真5:同上、境内には「史跡 平将門公鎌輪之宿址 案内」の説明板がある。
写真6:同上、「香取神社」拝殿。社殿は南向き。
写真7:同上、本殿(覆屋)。
写真8:同上、境内社「愛宕神社」ほか。境内社は明治42年に合祀されたもの。
写真9:同上、境内社「水神宮」ほか。この奥(北西側)、境内の外が鬼怒川の旧河道。
写真10:「御所神社」鳥居
写真11:同上、拝殿。社殿は東向き。
写真12:同上、本殿