神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

平将門公鎌輪之宿址

2021-03-27 23:45:21 | 史跡・文化財
平将門公鎌輪之宿址(たいらのまさかどこうかまわのしゅくし、たいらのまさかどこうかまわのやどりあと)。
場所:「平将門公鎌輪之宿址碑」は茨城県下妻市鬼怒230(千代川公民館の住所)。茨城県道56号線(つくば古河線)「千代川中学校入口」交差点から南西へ約180m。千代川公民館の裏(西側)。駐車場なし(千代川公民館には駐車場があるが、石碑はフェンスの外にある。)。
「鎌輪之宿」は、「石井営所」(現・茨城県坂東市石井。「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事参照))と並んで平将門の本拠地とされる場所で、現・茨城県下妻市鎌庭に比定されている。「宿」と「営所」については、同じとする説と異なるとする説があるが、「水守城跡」(2020年9月6日記事)で書いたように、「営所」は兵営であり、また荘園経営の拠点という意味が強く、「宿」は居館を指すという説が有力のようである。「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」では、同じ一節に「石井営所」と「石井之宿」が出てくる記述があり、同じとする説では単なる言い換えだが、異なるとする説では「石井」に「宿」と「営所」があったと考えることになる。因みに、「将門記」では、平良兼(将門の伯父であるが、敵方)の本拠地として「服織之宿」(はとりのやどり)があり、現・茨城県桜川市真壁町羽鳥に比定されている。
さて、「将門記」によれば、「鎌輪之宿」は、天慶2年(939年)に将門が常陸国府(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事参照))を攻撃し、国府の印章と正倉の鍵を奪って、長官(国司の長)と詔使(詔書伝達の使者)を「豊田郡鎌輪之宿」に連行して軟禁した、という記述の中に出てくる。また、これ以前、承平5年(935年)に平良正と「川曲村」(現・茨城県結城郡八千代町内の旧・川西村とみられ、「(野爪)鹿嶋神社」(2021年3月13日記事)が鎮座する大字野爪も含まれる。)で戦って勝ち、「本郷」(本拠地)に帰ったという記述、承平6年(936年)に平良兼軍を下野国府(現・栃木県栃木市)に押し込めて包囲したが、あえて囲みを解いて逃走させた後、「本堵」(本拠地の居館)に帰ったという記述があり、どことは示されていないが、いずれも「鎌輪之宿」に帰ったのだろうとみられている。こうしたことから、「鎌輪之宿」は将門の出生地なのではないか、とする説もある。もともと当地は父・平良将の所領であったようであるが、ここに居館があったとすれば、それは元々、母の実家ではなかったか、ともいう。つまり、当時は妻問婚(夫が妻の下に通う婚姻形態)だったからである。なお、将門の母は県犬養春枝の娘とされているが、その詳細は不明(母の実家としては、現・茨城県取手市辺りとする説の方が有力。ここでは深入りせず、いずれ別途書きたい。)。
さて、「鎌庭之宿」があったとされる現・下妻市鎌庭の主要部は、地図で見ると、楕円を2つに割った半円形で、その外周を下妻市鬼怒が帯のように取り巻いている地形であることがわかる。現在は鬼怒川の左岸(東岸)だが、鬼怒川が大きく蛇行していたのを真っ直ぐにする河川改修工事が行われた結果で、昭和3~10年にわたる工事により「鎌庭捷水路」(約2km)が開かれた。つまり、下妻市鬼怒は旧河道部分ということになる。ということで、「鎌輪」という地名の意味もわかるし、元々は三方が鬼怒川に囲まれた自然の要害で、肥沃な土地でもあったのだろうと思われる。 その中で、「宿」(館)が具体的にどこにあったかは不明。説としては、①「鎌庭字館野」(場所:「千代川中学校」の北西側):鎌庭のほぼ中央部だが、現在は水田が広がっている。圃場整備が行われたときに地面を掘り返したが、遺構などは全く出なかったという。②「香取神社」(通称:鎌庭香取神社)(場所:下妻市鎌庭54。上記「千代川中学校入口」交差点から県道を西へ約600m、茶舗「小堀園」のところを右(西へ)側道に入り、約150m。駐車場なし。):現・鎌庭の北端辺りで、旧・鬼怒川河道に面している。上記の通り、将門は騎馬のイメージがあるが、下総国の湖沼が多い低湿地を支配したので、水上交通もうまく使ったようである。③「御所神社」(場所:茨城県結城郡八千代町仁江戸1428。茨城県道56号線(つくば古河線)から同136号線(高崎坂東線)に入り、北へ約300mのところで左折(西へ)、約150m。駐車場なし。):こちらは現・八千代町仁江戸となるが、南に現・下妻市鎌庭の飛び地もあるので、かつては鎌輪の一部だったかもしれない。「御所」というのは、将門の居館跡であることから名付けられ、将門を祭神とする説もある。ただし、「茨城県神社史」によれば現在の祭神は伊弉諾命・伊弉冉命であり、資料によっては「五所神社」という表記もあり、5柱の神を祀る神社であれば、よくある社号である。また、堀戸道光という人物の館跡ともされる(「村史千代川村生活史」)。当神社の北側に「山川沼排水路」という川が流れているが、これは鬼怒川の旧河道であるとされ、「将門記」によれば、平良兼軍に「豊田郡栗栖院常羽御厩」(前項参照)を焼き討ちされた後、将門は「(豊田郡)下大方郷堀越渡」に陣を固めて待機したものの、そこで足の病気(脚気?)になって敗走する記述があるが、この「堀越渡」が八千代町仁江戸付近とされ、後に「堀戸(ほっと)の渡し」と呼ばれるようになったという。堀戸道光という人物は詳細不明だが、当地の裕福な豪族だったようで、下妻城主・多賀谷氏家(1408~1465年)に臣従を迫られ、やむなく応諾したが、庚申の夜の酒宴に招かれて謀殺されたという(「八千代町史」)。水上交通の要所であった将門の館跡に、後に道光が城館を設けたのかもしれない。因みに、当神社の西側に「村岡柴崎古墳群」があり、その1号墳は全長65mの前方後円墳で、4世紀後半頃の築造とされる。現・下妻市鎌庭~八千代町仁江戸辺りは、古くから人が住み、生活や信仰にとって重要な土地であったことが窺われる。


写真1:「平将門公鎌輪之宿址碑」


写真2:写真1の隣にある「建碑由来記」碑。昭和51年の建立で、地元(旧・千代川村)に所縁の英雄として平将門を記念するために、隣接する緑地公園の完成を機に建てられたことを記す。所在地(下妻市鬼怒)でわかるように、ここは鬼怒川の旧・河道である。


写真3:郷土史家が建てたという「平将門鎌輪之宿 居館跡」案内板。現「鎌庭字館野」という場所と思われる。今は水田が広がっているとおり、低地であることから、「居館」の場所としては不適当という説もある。


写真4:「香取神社」境内入口。「香取神社」の創建は天文2年(1533年)、下総国一宮「香取神宮」(現・千葉県香取市)からの分祀。祭神:経津主命。


写真5:同上、境内には「史跡 平将門公鎌輪之宿址 案内」の説明板がある。


写真6:同上、「香取神社」拝殿。社殿は南向き。


写真7:同上、本殿(覆屋)。


写真8:同上、境内社「愛宕神社」ほか。境内社は明治42年に合祀されたもの。


写真9:同上、境内社「水神宮」ほか。この奥(北西側)、境内の外が鬼怒川の旧河道。


写真10:「御所神社」鳥居


写真11:同上、拝殿。社殿は東向き。


写真12:同上、本殿
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辨壽山 正智院 佛性寺

2021-03-20 23:44:50 | 寺院
辨壽山 正智院 佛性寺(べんじゅさん しょうちいん ぶっしょうじ)。通称:栗山観音。
場所:茨城県結城郡八千代町栗山476。茨城県道20号線(結城坂東線)から「安静小学校」の北側の道路に入って東へ進み、途中「八千代病院」」前を通って約1.1kmで突き当り右折(南へ)、約130mで突き当り左折(東へ)、約160m進むとまた突き当り。右折して(南へ)約210m進んだ左側(東側)が参道入口だが、ここからは自動車は入れない。最後の突き当りを左折して(北へ)直ぐ(約20m)に右折して(東へ)、約100m進んだところが当寺院の裏手で、駐車場が有る。
寺伝によれば、天平11年(739年)、第45代・聖武天皇の詔により創建されたという。「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」には、承平7年(937年)、将門の敵方・平良兼が「下総国豊田郡栗栖院常羽御厨及び百姓の舎宅を焼き掃う。」(読み下し文)とある。この「栗栖院」が寺院の名なのか、地名(行政区画)なのか、異論がある。つまり、「来栖院」という寺院と「常羽御厩」と民家を焼き払ったと読むか、豊田郡来栖にある「常羽御厩」と民家を焼き払ったと読むかという問題である。「来栖院」を寺院とする説では、当寺院をその後身とするが、地名とする説でも、それが現・八千代町栗山であるとするので、当寺院が承平7年に焼失したことを否定するものではない。その後の消息は不明だが、戦国時代の永禄9年(1566年)、(下妻)多賀谷城主・多賀谷重経が再建するも、再び兵火に罹り焼失。江戸時代の延宝8年(1680年)に観音堂が建立され、元は現在地の南にある「古堂」という場所にあったのを、享保20年(1735年)に現在地に移転した(観音堂は移築)したという。現在は天台宗山門派に属し、本尊は阿弥陀如来。なお、観音堂は江戸時代前期の建立だが、内陣には須弥檀を設けて宮殿を安置するなど、内部架構は禅宗様の手法が取り入れられており、あるいは堂本体より古い可能性があるとのこと。観音堂の本尊は、平安時代初期の作とされる薬師如来坐像(木心乾漆如来形坐像)で、関東~東北で最も古い木彫像の一つという。像高は59.4cmで、乾漆部分が剥落し欅材の木心が露出しているが、両足部分の乾漆断片64片が残っていて、木心乾漆造という技法は9世紀頃には廃れてしまうので、平安時代初期のものということになる。御開帳は33年に一度という秘仏で、最近は平成28年だったとのこと。
さて、「常羽御厩(いくはのみうまや)」についてであるが、次のような説がある。「延喜式」兵部省の項に見える所謂「下総五牧」の1つ「大結馬牧」は、最初は現・茨城県常総市古間木に設けられ、同・大生郷町駒込に官厩が置かれたが、狭いため現・八千代町大間木に移転し、官厩は現・八千代町栗山に置かれたとして、これが「常羽御厩」に当たるとするものである。大間木は栗山の西隣で、栗山の南隣には常総市馬場という大字がある。馬場に白山(城山)というところがあるが、ここに「常羽御厩」の別当・多治経明の居館があったという。多治経明は平将門の腹心で、後に将門から上野守を私綬される武将である。こうしたことから、将門は官牧の牧司ではなかったか、ともいわれる。「大結馬牧」の場所は、現・千葉県船橋市とする説もあり、まだ特定されていないが、「御厩」という敬称を付けられていることなどもあり、可能性はあるようだ(敬称については、官牧ではなく、伊勢神宮などに馬を供給していたからとの説もある。)。いずれにせよ、多数の馬を保有していたことが将門の強さの一因であったことは確かで、だからこそ、平良兼は「常羽御厩」を焼き討ちにしたのだろう。なお、「佛性寺」の南、約2km(直線距離)の常総市馬場の茨城県道217号線(皆葉崎房線)交差点付近に「平将門公史跡 常羽御厩兵馬調練之馬場跡」の石碑と説明板が建てられている。
蛇足:(伝説)平良兼の焼き討ちに遭って「来栖院」(現・「佛性寺」)は焼失したが、観音菩薩は多治経明の家来・横島という者が現・茨城県坂東市長谷に移した(このため、現・「佛性寺」観音堂に観音像はないのだという。)。このとき、良兼の軍勢は戦利品として、梵鐘を奪い取った。当時、「栗栖院」は飯沼の谷津に面しており,梵鐘を船に載せて運ぶ途中、沼の最も深いところに差し掛かったとき、梵鐘が大きな音を立てた。音はどんどん大きくなり、雷鳴のようになって、沼の真ん中で船は転覆し、梵鐘は沼に沈んだ。その後、何百年も経ってから、永禄9年に「栗山観音堂」が再建されると、梵鐘が沈んだ沼から毎晩のように火の玉が浮かび出て,「栗山観音堂」の境内に入り込むと、ふっと消えるという怪異が起こった。村人たちはこの鬼火を沼に沈んだ梵鐘の怨念だろうと思い、その祟りを恐れた。そこで、「栗山観音堂」の住職が梵鐘供養のための大法要を行ったところ、怪異はなくなったという。


写真1:「佛性寺」参道入口。砂利道をゆっくりと上って行く。


写真2:参道入口にある弁財天堂


写真3:仁王門。仁王門は安永3年(1774年)の建立で、楼門形式は茨城県内では珍しいものという。


写真4:仁王門を潜ると、正面に観音堂。仁王門とともに茨城県指定有形文化財(建造物)。中に安置された薬師如来像は茨城県指定有形文化財(彫刻)。


写真5:観音堂の軒の組物


写真6:「栗山観音由来碑」


写真7:観音堂の後ろにある講の記念碑。「男體山」(向かって右)は「日光二荒山神社」登拝講、「太神宮」は伊勢講のものと思われる。


写真8:本堂


写真9:「平将門公史跡 常羽御厩兵馬調練之馬場跡」石碑(場所:茨城県常総市馬場439付近。県道の交差点の直ぐ傍で、駐車スペースがないので注意。)
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鹿嶋神社(茨城県八千代町野爪)

2021-03-13 23:52:04 | 神社
鹿嶋神社(かしまじんじゃ)。通称:みょうじんさま。(同名の神社と区別して)野爪鹿嶋神社。
場所:茨城県結城郡八千代町野爪430。国道125号線と茨城県道136号線(高崎坂東線)の「貝谷十字路」から県道を北へ約2km。県道に面して右側(東側)に当神社の駐車場がある(大きな看板が出ている。)。その近くに大きな鳥居と社号標があり、そこから境内入口まで参道を北東へ約160m。この参道は車道となっていて、自動車の通行も結構多いので、注意。
社伝によれば、大同元年(806年)、藤原鎌足の後裔・藤原音麿が常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請して創建したという。ただし、大同元年というのは古社寺によくある創建年代であり、藤原音麿という人物も史書など他の記録に見えないようだ。一方、神社としての創建は奈良時代に遡るとの説もある。それは、「続日本紀」神護景雲2年(768年)の「毛野川」(現・鬼怒川)の河川改修工事の記事による(なお、これは記録に残る関東地方最古の河川工事であるという。)。当時、鬼怒川は当地の付近で大きく蛇行しており、下流で洪水が度々起こったらしい。そこで、記事によれば、天平寶字2年(758年)に問民苦使(もみくし。臨時に派遣された地方監察官)の藤原朝臣浄弁が鬼怒川に新しい水路を掘って洪水対策をすべきとの提言をして、認められた。然るに、下総国が言うことには、「7年経っても、いっこうに工事が行われない。常陸国に確認したところ、真っ直ぐな水路を掘削すると、まともに神社の敷地に突き当たり、また、人民の多くの家を破壊することになる。それで、太政官から中止命令が出た。しかし、このままでは毎年洪水が起きて、二千余の口分田が損なわれることになるだろう。」とのことだった。これを受けて、下総国結城郡小塩郷小嶋村から常陸国新治郡川曲郷受津村まで千丈余の水路が造られた。なお、(鬼怒川は下総・常陸の国境線になっていたが、)国境は旧来のままとした、というものである。現在の地図でも大字の境界を見れば河道跡がわかるが、現・茨城県結城市山王と八千代町大渡戸の間を西へ進み、八千代町久下田から南東へ、そして八千代町川尻で現在の鬼怒川に繋がるのだが、その手前でいったん北に流れる、つまり逆川になるため、ここから下流で洪水が起きやすかったようだ。そこで、地図をもう一度よく見ると、野爪は川尻のすぐ北側で、当神社は現・鬼怒川の右岸(西岸)、堤防から約220mの位置にある。こうしたことから、「続日本紀」の記事にある「神社」というのが当神社のことではないか、という説になる。残念ながら神社名が記されていないので断定はできないが、可能性はあるのではなかろうか。
さて、平将門について書かれた軍記物「将門記」に所謂「野本合戦」の記事があるが、「野本」という地名の遺称地がなく(「赤浜神社」2021年2月20日記事参照)、比定地には諸説ある。これについて、「野本」は「野爪」の誤りとする説も有力で、当神社も、承平5年(935年)の「野本合戦」のときに社殿焼失したと伝えている。その後、鎌倉時代から戦国時代にかけて当地を治めた結城氏は代々、当神社に対する崇敬が厚く、たびたび社殿を造営している。 江戸時代にも、徳川幕府から庇護され、社領などを寄進されている。また、常陸国真壁郡十六郷の総鎮守として、近隣の信仰を集めたとされる。現在の祭神は、武甕槌命。
蛇足:古代、常陸国新治郡川曲郷は、現・鬼怒川が大きく屈曲していた場所にあった。しかし、上記河川工事のため、鬼怒川の左岸(東岸)から右岸(西岸)に変わったが、国境は旧来のままだったので、鬼怒川右岸(西岸)なのに常陸国に属した。このため、後に「川西村」と称されることになった。常陸国からすれば「元々、常陸国の領地である」と考えるが、下総国側からすれば「下総国の領地になった」とも考えられる。この「川西村」に関する平将門(下総国側)と常陸国掾・源護(常陸国側)の争いが「平将門の乱」の一因ではないか、とする説もある。


茨城県神社庁のHPから(鹿嶋神社)


写真1:「鹿嶋神社」一の鳥居。


写真2:社号標と二の鳥居。


写真3:参道。参道から境内一帯にかけて「野爪緑地保存地域」に指定されている。


写真4:境内入口。新しくて大きな狛犬。


写真5:三の鳥居。扁額は「鹿嶋大明神」


写真6:「夫婦杉」。樹齢約700年という。


写真7:境内社「三日月神社」。祭神:月讀尊。


写真8;拝殿


写真9:本殿。現在の本殿は天明3年(1783年)の再建で、室町時代の永享年間(1429~40年)の様式を基本として造られているという。
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大宝八幡宮

2021-03-06 23:23:44 | 神社
大宝八幡宮(だいほうはちまんぐう)。
場所:茨城県下妻市大宝667。茨城県道335号線(大宝停車場線)と同357号線(谷和原筑西線)の交差点から県道335号線を北へ約300mで「一の鳥居」、そこから更に北に約300mで駐車場のある「三の鳥居」付近。なお、関東鉄道常総線「大宝」駅から「三の鳥居」まで徒歩2~3分。
大宝元年(701年)、藤原時忠(藤原鎌足の玄孫?)が常陸国に下向したとき、東国平定の鎮護神として「宇佐八幡宮」(豊前国一宮「宇佐神宮」)の分霊を勧請したのが創建。社名の「大宝」は創建年号によるとされ、「関東最古の八幡様」と称している。平将門(903?~940年)が戦勝祈願のために度々参拝し、当神社の巫女から「新皇」の位を授けられたと伝わる。康平5年(1062年)、源義家が「前九年の役」凱旋時に当神社に詣でて戦勝奉賽した。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」にある「下妻宮」は当神社のことであり、文治5年(1189年)、奥州平定を記念して源頼朝が鎌倉の「鶴岡八幡宮若宮」を勧請して当神社に摂社「若宮八幡宮」を創建した。中世には神仏混淆が進み、境内に神宮寺として「賢了院」など8ヵ寺があり、総称して「大宝寺」といわれた。15世紀になると、下妻を所領とした多賀谷氏の篤い崇敬を受け、戦勝祈願の都度、刀剣を奉納したことから「剣八幡宮」とまで呼ばれるようになった。江戸時代にも、第3代将軍・徳川家光から115石の朱印状を受けるなど庇護された。明治時代になると、神仏分離により「大宝寺」は廃寺となり、明治4年に県社に列せられた。現在の祭神は、誉田別命(第15代・応神天皇)、足仲彦命(第14代・仲哀天皇)、気長足姫命(神功皇后(仲哀天皇の皇后))。なお、一般に八幡宮(八幡神社)は清和源氏の武家の崇敬が篤く、御利益としては武運長久・立身出世・子孫繁栄などだが、当神社の場合、「大宝」という縁起が良い名を冠しているだけに財運招福、特に宝くじ当選祈願で有名であるらしい。関東鉄道でも、主要駅窓口やウェブショップで「大宝駅開運入場券」(お守り)というものを販売している(「大宝」駅は無人駅です。念のため。)。
蛇足ながら、このブログでも時々引用している平田篤胤著「仙境異聞」(「飯綱神社」(2018年12月15日記事)、「加波山」(2021年1月16日記事)など参照)であるが、そこにも当神社について言及されている。それは、山人(天狗)の下で修業していたという寅吉が家に帰る際、途中の「大宝村の八幡宮に参詣し、神前に奉納された刀剣が大量にある中から一振の脇差を選んで差料としてもらった」(現代語訳)というものである。これは、上記の「剣八幡宮」という異名もあることが江戸時代にも知られていたということだろう。寅吉の話はフィクションとしか思えないが、こうしたエピソードを織り交ぜる辺り、寅吉もなかなかのものである。


大宝八幡宮のHP


写真1:「大宝八幡宮」一の鳥居と社号標(「大寶八幡宮」。入口(一の鳥居)が狭くなっているのは、当神社境内が「大宝城」の一部で、ここが南端の「大手口」に当たるため。少し奥に、二の鳥居も見える。


写真2:一の鳥居付近に残る「大宝城」の土塁。「大宝城」の築城時期は不明だが、南北朝時代には南朝方について戦ったとされる。「大宝城跡」は国指定文化財。


写真3:巨大な三の鳥居


写真4:随身門。昭和天皇御座位六十年を記念して建立された神門だが、仁王像が守っている。


写真5:仁王像(阿形)。表情がファンキー。


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:万葉歌碑。境内には万葉歌碑が6基ある。他の4基は、鐘楼前、摂社「若宮八幡宮」前、同狛犬の台座。


写真9:摂社「若宮八幡宮」(祭神:大鷦鷯命(第16代・ 仁徳天皇))。


写真10:祖霊殿。旧「大宝寺」の護摩堂で、「大宝寺」唯一の遺構(江戸時代のもの)。
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