神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

楯縫神社(茨城県美浦村信太)

2018-03-31 23:49:45 | 神社
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)。同村内の同名の神社と区別して、通称:信太郡惣社楯縫神社、又は信太楯縫神社。
場所:茨城県稲敷郡美浦村信太1830番地。国道125号線「トレセン入口」交差点から南へ約950m、「信太地区公民館入口」という案内板が出ているところで左折(南東へ)、約260m進んで「津田整体院」の角を左折(北へ)、約300mのところで右折(北東へ)、直ぐ。正面の鳥居の右側を通り過ぎると、境内へ自動車が入れる入口があって、その先に駐車スペースあり。
社伝によれば、第12代景行天皇の御代(71~130年?)に創建、霊亀元年(715年)再建という。主祭神は経津主命。常陸国信太郡の式内社「楯縫神社」の論社とされるが、一般に、同じ美浦村郷中に鎮座する「(一宮)楯縫神社」(前項)が比定されており、式内社を紹介する本やウェブサイト等でも触れられていないことが殆ど。ただし、その鎮座する地名でもわかるように、この辺りが古代「信太郡」の中心部であったらしく、「信太郡家(郡衙)」の想定地でもあるとのこと。よって、当神社が式内社「楯縫神社」の後身であっても良く、あるいは、古代に地元の有力者(豪族)によって郡家の守護神として勧請されたということも考えられる。



写真1:「楯縫神社」鳥居。扁額は「信太郡惣社楯縫神社」となっている。


写真2:社殿(拝殿)。なお、当神社は台地の先端にあり、社殿の背後(北側)から急に下がっている。


写真3:社殿(本殿)
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楯縫神社(茨城県美浦村郷中)(常陸国式内社・その4)

2018-03-24 23:27:07 | 神社
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)。同村内の同名の神社と区別して、通称:一宮楯縫神社、又は木原楯縫神社。
場所:茨城県稲敷郡美浦村郷中2988。国道125号線(旧道)「美浦村役場入口」交差点から、国道を北西へ約600m進み右折(北東へ)、約60mで正面に鳥居。駐車スペースあり。なお、鎮座地は、茨城県神社庁のHPの記載では「美浦村木原」となっている。
社伝によれば、創建を推古天皇16年(608年)とするが、神武天皇18年とも、和銅元年(708年)ともいう。現在の祭神は「普都主命」(経津主神)で、これは「常陸国風土記」信太郡の条に、古老の話として「天地始めの頃、高来の里(現・茨城県阿見町竹来が遺称地)に普都大神が降り、葦原中国を平定した後、甲(よろい)・鉾・楯・剣と玉を全て取り外し、白雲に乗って天に帰った」という記事があり、「楯脱ぎ」から「楯縫」となったという。「普都大神」は一般に「経津主神」(フツヌシ)と同神とされ、下総国一宮「香取神宮」の祭神と同じで、常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神・「武甕槌神」(タケミカヅチ)とともに葦原中国を平定した神とされる。ただし、「フツ」というのは刀剣で物を断ち切る音を神格化したものという説もあり、謎の多い神でもある。それはさておき、当神社は「延喜式神名帳」に登載された同名の「式内社」に比定されており、近世には信太郡(荘・庄)一宮とされ、「一宮明神」とも呼ばれていたとのこと。
ところで、祭神については、「彦狭知命」(ヒコサシリ)とする説もある。「式内社」としては、同名の神社が他に3社(但馬国に2社、丹波国に1社)あって、いずれも「彦狭知命」を祀っているという。「彦狭知命」は、「天照大神」が天岩戸に隠れてしまった際、「手置帆負神」(タオキホオイ)とともに「天御量(あめのみはかり)」を使って木材を集め、「瑞殿(みずのみあらか)」を造営したとされる。また、「日本書紀」では、祭祀に用いる神聖な盾を作る「作盾者(たてぬい)」であるとされている。こうしたことから、工匠の守護神とされ、建物の地鎮祭・上棟式の際に、地域の産土神とともに祭神となっている。紀伊国の忌部氏の祖神ともされているのだが、当神社の鎮座地は旧・木原村で、境内に巨大な杉(スギ)の木があったことに因むものという説があるので、「木」を通じて何らかの関係があるのかもしれない。一方で、「出雲国風土記」によれば、出雲国意宇郡には「楯縫郷」(現・島根県出雲市)があり、「布都怒志命」(フツヌシ)が「天の石楯」を縫い直した場所というのが郷名の由来だとされていることから、「楯縫神社」が「経津主神」を祀るのも強ち理由のないこととは言えないともいう。


茨城県のHPから(楯縫神社)


写真1:「楯縫神社」境内入口の鳥居と社号標。鳥居の扁額は「一宮楯縫神社」。


写真2:長い参道の途中にある二の鳥居。深い樹叢の中にあり、茨城県の自然環境保全地域に指定されている。


写真3:拝殿


写真4:本殿
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吉田古墳(茨城県水戸市)

2018-03-17 23:17:49 | 古墳
吉田古墳(よしだこふん)。吉田1号墳。
場所:茨城県水戸市元吉田町345ほか。茨城県道235号線(下入野水戸線)「荒谷一本松北」交差点を北へ約400m、「元吉田中央」交差点を右折(東へ)、突き当り(「明利酒類」本社工場の裏)を左折(北へ)、突き当り右直ぐ。駐車場なし。
「吉田古墳」はJR「水戸」駅の南、約1.3kmの台地上にある古墳で、現状は一辺約8m、高さ約1.6mの盛り土程度にしか見えないが、南に開口する軟質凝灰岩の板石で構築した横穴式石室(奥行き約3m)を有し、内部からは鉄刀や勾玉などが発見されたという。また、石室の奥壁には線刻による壁画が描かれていた点は非常に珍しく、大正11年に国の史跡に指定された。更に、最近の調査の結果、当初の大きさは対辺間約26mの八角墳であると推定されており、石室に線刻壁画がある八角墳は全国で唯一、らしい。因みに、八角墳は天皇(大王)の権威が四方八方に広がることを示すものとされ、天皇(大王)の墓陵に関連があることが多いという。また、線刻壁画がある石室は九州地方に多く、文化の伝播を考える意味で重要とのこと。なお、築造時期は7世紀中葉と推定されている。


水戸市のHPから(吉田古墳)


写真1:「吉田古墳」正面


写真2:「史跡 吉田古墳」石碑と説明板。説明板では「方墳」と記されているが、「多角形墳」であることが明らかになったので、説明板の更新を予定しているとの説明板が別にある。


写真3:古墳の左手前に「木村仙太郎之碑」という石碑があるが、詳細不明。いろいろ調べてみたが、どうやら古墳とは無関係らしい。
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吉田神社(茨城県水戸市宮内町)(常陸国式内社・その3)

2018-03-10 23:36:20 | 神社
吉田神社(よしだじんじゃ)。
場所:茨城県水戸市宮内町3193-2。国道51号線「城南3丁目」から南へ、約550m。突き当り(茨城県道180号線(長岡水戸線))の右側直ぐ。駐車場は、県道交差点から右折(南西へ)して直ぐ(約50m)、また右折(西へ)した先から進む。
当神社の創建時期は不明。ただし、正安4年(1301年)の当神社古文書によれば、同年は創建以来800余年に当たるとあるので、第23代顕宗天皇(485~487年)~第24代仁賢天皇(488~498年)の頃とする。日本武尊が東征の帰途、当地(朝日山)に兵を留めて憩われたという故事から当神社が創建され、日本武尊を祭神とした。その故事の中に、日本武尊が朝日山から湿地帯を眺め、「この辺りを開墾すれば吉き田になるだろう」と言われたとの伝承から、「吉田」という地名が生まれ、当神社も「吉田神社」と称されるようになったという。「延喜式神名帳」に登載された「式内社」(名神大)で、常陸国三宮とされる。何故、当神社が三宮とされたのかは不明だが、一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)、二宮「靜神社」(2018年2月24日記事)がともに東夷平定に関わる神を祀っており、当神社の祭神である日本武尊もそうであるとすれば、関連があるのかもしれない。なお、常陸国においては、四宮以下は不明。「六国史」記事では、「続日本後紀」承和13年(846年)に常陸国那賀郡従五位下勲八等の「吉田神」が「名神」に列せられたことを最初に、「日本文徳天皇実録」天安5年(857年)に従四位下、「日本三代実録」貞観5年(863年)に従四位上、元慶2年(878年)に正四位下と神階が進められたことがみえる。また、後鳥羽天皇が建久4年(1193年)に国司に勅して社殿を改造せられ、以後は「鹿島神宮」の遷宮に次いで当神社の遷宮が行われる習わしとなった。後陽成天皇の父・誠仁親王からは天正4年(1567年)に「第三宮」の直筆を賜り、本社の扁額とした、という。しかし、中世には神宮寺の天台宗「薬王院」(現・「吉田山 神宮寺 薬王院」)の支配が強まり、神威は衰退した。江戸時代に入ると、水戸徳川家から篤く崇敬を受けるようになり、第2代水戸藩主・徳川光圀は寛文7年(1667年)に社殿等を造営したという(このときの社殿等は第二次世界大戦の戦災により焼失、現在の社殿等は昭和23年の再建)。


吉田神社のHP


写真1:境内入口の鳥居と社号標「常陸第三宮 吉田神社」


写真2:「朝日山」という小高い丘の上に鎮座。石段を上る。


写真3:駐車場の脇、「見晴台」と呼ばれる場所の一角にある「日本武尊御遺蹟」。「朝日三角山」とも呼ばれ、日本武尊が御旗を朝日に輝かせ、四方を展望された由縁の場所で、古くから聖地とされてきたという。


写真4:同上、玉垣に囲まれた石碑


写真5:随神門


写真6:拝殿


写真7:境内の「結びの笹」。利き手と反対の手で笹の葉を結べると、良縁に恵まれるとか。


写真8:本殿。簡素ながら力強い感じ。
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権現塚古墳(茨城県那珂市)

2018-03-03 23:29:15 | 古墳
権現塚古墳(ごんげんつかこふん)。新宿古墳群5号墳。
場所:茨城県那珂市静835。「静神社」(前項)前から茨城県道61号線(日立笠間線)を北東へ約200mのところで左折(北へ)、約700m進んだところで右折(東へ)、約300mの交差点の北側の畑の中にある。駐車場なし。
「権現塚古墳」は、那珂市静付近で8基発見された古墳の1つで、那珂市唯一の前方後円墳(他の古墳は殆ど隠滅)。現在の古墳の全長は約31m、前方部幅約20m、後方部径約19m、後円部高約3mとなっているが、発掘調査では全長約50m、前方部幅約30m、後円部径約35mという大きさだったと推定されている。後円部に自然石積の無袖型横穴式石室があり、玄室は長さ約3m、幅約1.4mの長方形。また、周濠の存在が認められている。出土物は、鉄刀、鍔、刀子、鉄鏃、耳輪、臼玉、小玉、円筒埴輪、形象埴輪、須恵器。築造時期は5世紀末頃と推定されているとのこと。
当古墳の南西約800m(直線距離)のところに式内社「靜神社」が鎮座しており、「倭文」という織物を織る部民の長の墳墓ではないか、そして「靜神社」(前項)とも深い関係があるのではないか、ともいわれているようだ。


那珂市教育委員会のHPから(権現塚古墳)


写真1:「権現塚古墳」全景。道路側(南側)から見る。遠目にも、ひょうたん型にみえる。向かって左が前方部、右が後円部だそうである。前方部西南端の下に説明板がある。なお、撮影が日没ギリギリだったため、写りが良くなく、恐縮です。


写真2:西側から見る。古墳全体がフェンスに囲まれているが、説明板の後ろにフェンスの出入口があり、施錠されておらず、開けっ放しになっていた。


写真3:説明版。フェンスに近くて、読み辛い。


写真4:前方部から後円部を見る。


写真5:同上、北側。こちらの方が括れがはっきりしている。


写真6:後円部から前方部を見る。どちらも円形か方形か良くわからない。


写真7:東側から見る。まあ、丸い形かなぁ。
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