神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

兜石

2016-08-27 23:14:15 | 名石・奇岩・怪岩
兜石(かぶといし)。星兜石ともいう。
場所:秋田県横手市金沢字安本館4(「金澤八幡宮」境内)。国道13号線「榊柳」交差点の南、約600mにある押しボタン式信号のところで左折(東~北東へ)、約260mで「金沢公園」・「金澤八幡宮」の入口。そこから道なりに東に進み、約1kmで駐車場。
「金澤八幡宮」は、源義家が後三年合戦(後三年の役)において清原家衡・武衡に戦勝できたのは日頃崇敬する「八幡大神」の加護によるものとして、寛治7年(1093年)、激戦地であった「金澤柵」跡に社殿を建立し、「石清水八幡宮」の神霊を勧請して出羽国の守護神としたものという。江戸時代、久保田(秋田)藩主となった佐竹氏は由緒正しい源氏の嫡流で、八幡信仰があったせいか、当神社を厚く崇敬して「秋田十二社」の1つとした。現在の祭神は、誉田別尊・息長帯姫命・玉依比売命。
「金澤八幡宮」参道途中にある「兜石」は、源義家が凱旋の折に兜を埋め、その上に置いた石であるという。また、その石の傍にある「兜杉」は、清原(藤原)清衡が戦勝記念に植えた杉であるともいわれている。「兜石」自体は、巨石というわけでもなく、形も特別なものでもないが、今でも注連縄が張られ、それ自体が信仰の対象となっているようである。


秋田県神社庁のHPから(金澤八幡宮)


写真1:「金澤八幡宮」鳥居


写真2:同上、社殿


写真3:同上、境内社「兜八幡神社」。「金澤八幡宮」参道途中にあり、源義家・義光兄弟を祀る。


写真4:「兜石」


写真5:「兜杉」。根回り7.45m、目通り5.50m、樹高26m。樹齢約900年といわれる。昭和58年に失火で焼失するまで、横手市天然記念物に指定されていた。


写真6:駐車場にある「納豆発祥の地」石碑。源義家が戦闘糧食として農民に煮大豆を俵に入れたものを差し出させたところ、数日経って糸を引くようになったが、食べてみると意外に美味しかったところから、食用として作られるようになったという説がある。


写真7:「金沢公園」にある「景政(景正)功名塚」。後三年合戦に16歳で初陣し功名を立てた鎌倉権五郎景政(景正)が、源義家の命により敵の屍をこの地に手厚く葬り、弔いのため塚の上に杉を植えた。昭和23年に火災に遭い、杉は幹だけになってしまったが、この塚を中心に「金沢公園」が整備された。
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万箇将軍の墓(紫雲山 瑞光寺)

2016-08-20 23:44:24 | 伝説の地
万箇将軍の墓(まんこしょうぐんのはか)。
場所:秋田県由利本荘市町村字木戸口54(「紫雲山 瑞光寺」の住所)。国道108号線(矢島街道)から秋田県道287号線(南由利原鮎川線、広域農道と重複)に入り、西~南西へ約2.5km。駐車場あり。
曹洞宗「紫雲山 瑞光寺」の創建時期は不明。伝承によれば、大同年間(806~809年)に弘法大師、嘉祥年間(848~851年)に慈覚大師が訪れたという古刹で、中世には「由利三ヵ寺」の1つに数えられた。正中年間(1324~1326年)、由利氏と鳥海氏の争いが激しくなると、当寺が鳥海氏方の陣所となり、兵火に遭って史書や宝物なども焼失してしまった。明応元年(1492年)、加賀国(現・石川県)の曹洞宗「大乗寺」14世・明峰素哲によって再興され、戦国時代には蒲田館(現・由利本荘市東鮎川の山城)の館主・淵名氏の祈願所となったという。本尊・釈迦如来。
当寺には「万箇将軍の墓」と呼ばれる塚があり、次のような伝説が伝えられている。即ち、天平年間(806~809年)に、唐から使節として万箇将軍が遣わされ、水が乾かない奇硯や美しい玉など宝物を朝廷に届ける途中、暴風雨に遭って難破した船は「有耶無耶の関」付近に流れ着いた。このとき、宝物が光り輝き、紫色の雲がたなびいて、「瑞光寺」に向かって流れた。将軍は「瑞光寺」の呉竹和尚に宝物を朝廷に届けるよう頼み、当地で亡くなった。和尚は都に上り、光明皇后に宝物を献上した後、「万箇将軍の墓」を建てて供養したとされる。唐から宝物が届けられたのは、唐の皇帝の后になった藤原鎌足の娘が依頼したからともいう。天平年間とは時代が少し合わないが、享保18年(1733年)には当寺で万箇将軍の千年忌が行われたらしい。なお、「万箇将軍」というのは1万人の兵士を率いる将軍のことをいい、具体的な名前は伝わっていない。


「まるまる秋田」のHPから(万箇将軍の墓)


写真1:「瑞光寺」楼門形式の山門。


写真2:同上、本堂


写真3:同上、墓地の奥から石段を上る。


写真4:同上、「万箇将軍の墓」


写真5:「有耶無耶の関」付近(場所:秋田県にかほ市象潟関)。この道路は国道7号線で、写真の左手が「ウヤムヤノ関」という地名(字)で、日本海の海岸から約300m。「瑞光寺」は、ここから東北に約20km(直線距離)離れている。


写真6:上の写真の信号標識をアップ。一般に「有耶無耶の関」は、現・宮城県と山形県の県境である「笹谷峠」付近というのが有力らしいが、芭蕉の「おくのほそ道」などでは現・秋田県と山形県の県境「三崎岬」付近としているようだ。
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白山神社(秋田県湯沢市松岡)

2016-08-13 23:42:29 | 神社
白山神社(はくさんじんじゃ)。
場所:秋田県湯沢市松岡字聖ヶ沢42。秋田県湯沢市市街地から秋田県道278号線(雄勝湯沢線)で西に向かい、「湯沢松岡簡易郵便局」付近(郵便局自体は県道に面していない。「白山女神像→」の案内板がある。)で右折(北西へ)、道なりに約600mで「白山神社」の鳥居前、登山道の入口に着く。駐車場あり(鳥居の先)。社殿は「白山」(標高289m)の山頂にあり、登山道を約20分。
創建年代不明。伝承によれば、大同年間(806~810年)、当地の洞窟に隠れて各地を荒らしまわっていた蝦夷の首領「阿黒王(悪路王)」を退治した記念として坂上田村麻呂将軍が建立したという。祭神は、伊邪那美命と菊理媛命。「白山(姫)神社」は一般に、加賀国一宮「白山比咩神社」を総本宮として勧請されたもので、古代から加賀国と出羽国は日本海の海上交通を通じて交流があったから、当然その流れを汲むものだろう。当神社は早くから神仏混淆していたらしく、現在の鳥居の右手奥に真言宗「松岡寺」(後に「満福院」。明治期に廃寺。)が別当寺としてあり、宿坊が18坊あったという。現在も登山道の途中に石仏が多く残っている。「満福院」跡の更に奥、通称「構え森」というところからは、寿永3年(1184年)と建久7年(1196年)の銘が入った経筒が出土した。前者には「藤原尼殿」、後者には「藤原女人」と刻まれていて、おそらく近くの銀山を支配していた奥州藤原氏の関係者だろうとみられている。こうしたことから、田村麻呂将軍建立の伝説はともかくとして、当神社も平安時代には既に存在していたはずである。当神社には菊理媛命の像とされる木像が残されていて、秋田県の有形文化財に指定されている。欅(ケヤキ)の一木造で、鉈(ナタ)彫り、足下に用材の株を残す所謂「立木仏」であるなど珍しい特徴があり、古風な様式から、やはり平安時代末期頃の作とされている。御開帳は毎年8月19日の祭礼日のみとなっているが、秋田県立博物館(秋田市)にレプリカが常設展示されている。なお、「白山神社」の不思議な話として、旧暦の5月4日の夜には、雄勝郡内の稲荷神社の狐が提燈に火を灯して四方八方から「白山」に集まるため、この狐火が「白山神社」まで行列をなしていたといい、大正15年頃までは見られたという。
さて、県道278号線を更に西に進み、冬季閉鎖区間手前の切畑地区には「阿黒岩」という、約800万~600万年前の海底火山の活動によってできた凝灰岩の大露頭がある。ここは、田村麻呂将軍が「阿黒王」を退治した場所といい、「阿黒王」の旗を切ったところ、霧が晴れたので「切畑」という地名になったという。崖の中腹の岩穴には「阿黒王神社」の祠が安置されているらしいのだが、道がはっきりせず、たどり着けなかった。


秋田県神社庁のHPから(白山神社)

「ゆざわジオパーク」のHPから(山田)


写真1:「白山神社」鳥居


写真2:登山道途中の祠。このような祠や堂が多数ある。


写真3:「白山神社」社殿


写真4:登山道入口付近にある「白山女神像」の写真。木の根から女神が生まれてきたような造りになっている。


写真5:「阿黒岩」付近の壊れた鳥居


写真6:同上、岩の崖。岩の層がはっきり見える


写真7:「切畑阿黒王名水」。平成24年まで簡易水道として使われていた清らかな湧水。癖がなく、美味しい水だった。

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小野小町遺跡(その2・岩屋洞)

2016-08-10 23:07:16 | 伝説の地
岩屋洞(いわやどう)。
場所:秋田県湯沢市小野大山沢。前項「小町堂」前の道路を北へ約300m進んで左折(南西へ)、突き当りを右折(北へ)、JR奥羽線の踏切を渡ったところにある「熊野神社」横の狭い道路に入る。道なりに進むと雄物川の川岸に出るので、突き当りを右折(北へ)、その直ぐ先の橋を渡って左折(南西へ)。駐車場有り。そこから山道を徒歩10分程度上る。
平安時代前期の女流歌人で美人の代名詞・小野小町は生まれも不詳なら、亡くなったのも不詳で、全国各地にその墓といわれるものが存在するが、確実なところは全く不明である(一般的に、平安時代には現代のイメージのような墓はなく、多くは後世の供養塔などと思われる。)。秋田県湯沢市での伝承によれば、36歳で京都の宮廷を離れ、生まれ故郷の現・湯沢市、小野の里に戻ったという。そして、有名な「深草少将の百夜通い」も、当地での出来事とされている(前項「小町堂」記事にある「二ツ森」が深草少将の墓所とされる。)。「小町堂」が「芍薬塚」と呼ばれていたのは、深草少将が毎夜、芍薬を1株ずつ植えたことに因むという。しかし、深草少将は百夜を前に亡くなってしまい、これを悔やんだ小町は「岩屋洞」という洞穴に籠り、観世音菩薩を祀りながら92歳で亡くなったとされる。なお、この間、自身の像を自刻し、当時は「岩屋洞」の麓にあったという「向野寺」に納めたという。


「まるまる秋田」のHPから(岩屋洞)


写真1:「熊野神社」(湯沢市小野字小野115)。小野小町の父、小野良実が延暦21年に建立したものという。主祭神は所謂「熊野三神」(伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉之男神)。かつて境内に「和歌堂」という小堂があり、小野小町が書いたという和歌や文などを納めてあったが、文禄年間に最上義光の兵火により焼失してしまったという。


写真2:「野中山 向野寺」(湯沢市小野字小野138。上記「熊野神社」の北、約270m)。小野良実が小野氏の菩提寺として建立した元は天台宗の寺院「小野寺(こやじ)」で、千手観世音菩薩を祀っていた。江戸時代に曹洞宗寺院として再興され、本尊は釈迦牟尼仏。当寺に小野小町が自刻したという自らの像が安置されている。


写真3:「岩屋洞」に上る山道の途中にある「二つ滝」のうち「男滝」。別名:「小野小町沐浴の滝」。この水で洗うと眼病に効くともいう。


写真4:同上、「女滝」。


写真5:同上。「女滝」には石仏が嵌め込まれており、「小野寺」の修行の場であったという。


写真6:「岩屋洞」。間口は広いが、奥行きはあまりない。なお、湯沢市は北国・秋田県でも有数の豪雪地帯で、少なくとも雪の時期には、ここではとても生活できたとは思えない。


写真7:同上。内部には石仏が祀られている。
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小野小町遺跡(その1・小町堂)

2016-08-06 23:40:17 | 伝説の地
小町堂(こまちどう)。
場所:秋田県湯沢市小野小町48-17。国道13号線「小町塚前」交差点の西、約80m。駐車場有り。なお、JR奥羽本線「横堀」駅の北東、約1km(徒歩約15分)のところ。
小野小町は、平安時代前期(9世紀頃)の女流歌人で、(日本では)クレオパトラ、楊貴妃とともに世界3大美人と称したりする有名な美女とされる。「古今和歌集」(延喜5年:905年)などにその作品が採録されているにもかかわらず、系譜は曖昧で、美女といわれるが、同時代の絵や像は残っていないなど、不明なことが多く、架空説まであるらしい。その出生地、墓所も不詳で、全国各地に様々な伝承がある。その中で、「秋田美人」という印象とも相俟って、現・秋田県湯沢市小野に多くの伝承、遺跡とされるものがある。
伝承によれば、小野小町は、小野篁の息子で出羽国の郡司・小野良真の娘とされる。これは「尊卑分脈」という室町時代頃の系図集に記されているものだが、当地では、出羽国雄勝郡の郡司として赴任してきた小野良実(おののよしざね。「尊卑文脈」とは異なる。)が村長の娘に産ませた子ということになっている。生まれたのは大同4年(809年)、小野良実の屋敷があったとされる「福富荘桐木田」という場所であったという。そして、13歳になると、父・良実とともに京に上り、宮廷に仕えるが、36歳で当地に戻り、没したとされる。
さて、小野小町の祖父とされる小野篁といえば、夜ごと地獄に通い、閻魔大王の補佐をしていたという伝説があることで有名で、むしろオカルト愛好者のほうが知っている人も多かろう。しかし、若い頃には、陸奥守に任ぜられた父・小野岑守に従って陸奥国で暮らしたことがある。また、小野篁のいとこにあたる小野春風は、「元慶の乱」のとき鎮守府将軍に任ぜられ、乱を治めたとされる。春風も若い頃に辺境で暮らして、現地語(夷語)を話すことができ、これが乱を治めるのに大いに役立ったという。このように、小野氏の一族が陸奥国、出羽国に縁があることは確かだが、そもそも小野良真という人物は「尊卑文脈」以外の資料には名がないほか、小野篁も延暦2年(802年)生まれとされているから、小野小町の祖父というには年回りが合わない。こうしたことから、現・秋田県湯沢市小野は有力な出生地の候補ではあるが、確証はない。
しかし、秋田県では、県をあげて「小野小町のふるさと」をアピールしている。県産の米は「あきたこまち」だし、秋田新幹線は「こまち号」など、枚挙にいとまがない。こうしたイメージは決して最近のことではなく、古くから歌人などが訪れたりしており、江戸時代の紀行家・菅江真澄が当地に来た時にも、既に小野小町を祀る「小町堂」は建てられていたらしい。ただし、当時は田圃のなかにぽつんと建つ小さな堂で、傍らに芍薬(シャクヤク)が植えられて「小町塚」、「芍薬塚」などと呼ばれていたらしい。


道の駅「おがち 小野の郷」のHP


写真1:小野小町産湯の井戸とされる「桐木田の井戸」(場所:「小町塚前」交差点から東南に入り、最初の交差点を北東へ約200m。左手(西側)の田の中。駐車場なし)


写真2:同上。自然石を五角形に組んであり、これは平安時代に京都で流行したものという。


写真3:「姥子石(ばっこいし)」。小野小町の母は、小町を産むとすぐに亡くなってしまったといい、その墓所ともいう。木の下の石に梵字が彫られている。(場所:「桐木田の井戸」の道路を挟んだ向かい側(東側))


写真4:「小町堂」。神社とも仏堂とも判然としない建物で、華やかと言えば、そうかもしれないが、少しケバい。


写真5:「小町堂」前にある有名な歌碑(「花の色は うつりにけりないたつらに 我身世にふるながめせしまに」)


写真6:「二ツ森」。西側からみる。ひょうたん型の古墳のようにも見える。(場所:「道の駅おがち」農産物直売場の駐車場の北側)


写真7:同上。上ってみると、ひょうたん型がよくわかる。ただし、役内川の氾濫によってできた自然丘とも考えられ、古墳とは認められていないようだ。


写真8:同上。高い方が深草少将の墓所(低い方が小野小町の墓所)という伝承がある。なお、上り口に鳥居があるが、小野良実が祀ったとされる「二ツ森走り明神」の社祠があったという。
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