神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

出羽神社(出羽三山神社)(出羽国式内社・その4)

2015-01-31 23:49:42 | 神社
出羽神社(いではじんじゃ)。
場所:山形県鶴岡市羽黒町手向字羽黒山33(「羽黒山」山頂)。JR羽越本線「鶴岡」駅方面からは、鶴岡市役所前から山形県道47号線(鶴岡羽黒線)を東に約13kmで出羽三山神社の境内入口(社務所前)。向かい側の「いでは文化記念館」に駐車場有り。ここから国宝の五重塔などを経由して「羽黒山」山頂(標高414m)まで約1.7km、2,446段という石段を上る(約1時間)が、登るのが辛ければ、県道を更に約3.4km進む(南東へ)と「羽黒山有料道路」があり、料金を払って約1.7km進めば山頂近くの駐車場に着く。
前項(「月山神社」)で書いたように、社伝によれば、推古天皇元年(593年)、崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれて「出羽三山」を開いたとされる。「羽黒山」という名は、霊烏の黒い羽に因むといい、「羽黒山」山頂には「羽黒山 寂光寺」を建立して、修行中に感得した聖観世音菩薩を本尊とし、脇侍として軍荼利明王と妙見菩薩を併せ祀ったという。蜂子皇子は顔が醜く、口が耳まで裂け、鼻の高さは三寸もあるなど、異様な姿であったという。民の苦悩を能(よ)く聴き、除いたため「能除太子(のうじょたいし)」あるいは「能除仙」と呼ばれたが、民の苦悩が毒となって醜い顔に変えたという伝承がある。こうした社伝は史実とは認め難いが、「羽黒山」山頂には「蜂子皇子墓」があり、宮内庁の管理となっている。他の修験の殆どが役行者を開祖としているのに対して、「出羽三山」の蜂子皇子は更に古く、皇族という身分の高さもあるが、このことは逆に、後発がことさらに威厳のある由緒を持ち出したものと思えなくもない。
中世以降、神仏混淆により、聖観音=伯禽州姫命(シナトリシマヒメ)、軍荼利明王=羽黒彦命、妙見菩薩=玉依姫命とされ、これを総称して「羽黒三所大権現」という。伯禽州姫命は、鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と玉依姫命の娘とされるが、玉依姫命と同神、妹神、あるいは竜宮城の乙姫とする説もある。現在では当神社が出羽国式内社「出羽神社」であることを否定する説は殆ど無いが、「出羽神社」という名からすれば出羽国の国魂を祀った神社であると考えられる(現在の祭神は伊弖波神(イデハ)と稻倉魂命)ので、上記のような由緒と整合するのか、疑いを持たれても仕方がない感じはする。ただし、当神社以外に、論社といえるような神社は存在しないようである。これは、明治の神仏分離に当たり、「出羽三山」の神道化が強引に押し進められ、明治6年には当神社の「羽黒神社」の社号が「出羽神社」と改められて国幣小社に指定されるなど、公的に当神社が式内社であるとされたことが大きいと思われる。


出羽三山神社のHP

玄松子さんのHPから(出羽神社(三神合祭殿))


写真1:県道47号線を跨ぐ巨大な「羽黒山大鳥居」。「出羽三山神社」の一の鳥居で、高さ22.5m。


写真2:「出羽三山神社」境内入口


写真3:随神門


写真4:随神門脇の「天拝石」。修験の行法を行った場所の石で、言わば修験の磐座だろう。


写真5:国宝の「羽黒山五重塔」。元は「宝塔山 瀧水寺」の五重塔であったが、現在は末社「千憑社(せんよりしゃ)」と称する(祭神:大国主命)。現存の塔は14世紀の再建とされるが、元々は承平年中(931~938年)に平将門が建立したという伝承がある。


写真6:「三神合祭殿」。手前の池が「御手洗池」で、通称「鏡池」という。この池からは、これまでに500面以上の古鏡が発見され、そのうち平安時代~鎌倉時代のものが最も多かった。この池に鏡を沈めることで穢れを払うという信仰があったらしい。


写真7:境内社「蜂子神社」(旧「能除堂」)。開祖・蜂子皇子を祀る。


写真8:境内の「蜂子皇子墓」



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月山神社(出羽国式内社・その3)

2015-01-17 23:18:29 | 神社
月山神社(がっさんじんじゃ)。
場所:山形県東田川郡庄内町立谷沢字本沢31(「月山」(標高1,984m)頂上)。「羽黒山」方面から山形県道211号線(月山公園線)に入り、終点が「月山」八合目駐車場。そこから登山道を約2時間半歩く。なお、冬期間には参拝が困難であるため、「出羽三山神社」の三神合祭殿で祭祀が行われる。
社伝によれば、推古天皇元年(593年)、崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれて先ず「羽黒山」を開山し、次いで「月山」と「湯殿山」を開山したのが創始という。蜂子皇子は、父の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたことから、聖徳太子の勧めにより宮中を脱出し、船で北へ向った。八乙女浦(現・山形県鶴岡市由良)に上陸し、出羽三山を開いて蔵王権現を感得したとされる。これは伝説に過ぎないが、宝亀4年(773年)、「月山神」に神封2戸寄進という記事(「新抄格勅符抄」)があり、古い由緒のある神社であることは確かである。
現在の主祭神は「月讀命」(ツキヨミ)で、アマテラスの弟神・スサノオの兄神として「イザナギの三貴子」の1柱ともされるが、「記・紀」には殆どエピソードがなく、謎の神である(なお、「記・紀」には性別が判る記述はない。)。ツキヨミ(ツクヨミ)を主祭神とする神社も極めて少なく、①伊勢国の内宮(皇大神宮)別宮の月讀宮、外宮(豊受大神宮)別宮の月夜見宮、②式内社では、壱岐国の「月読神社」と、これを勧請したとされる山城国の「月読神社」(「葛野坐月読神社」)、③当神社、くらいしかという(その他は、殆どがこれらの神社から勧請したものと思われる。)。ツキヨミを祭神としながら、「月山神社」というのは、本来はツキヨミとは関係が無く、月の神が宿る山としての「月山」そのものを信仰するものであったのだろう。出羽三山では、羽黒山が現世、月山が死、湯殿山が再生を司るとの伝承があるというが、月の神に不死または再生の信仰があることは世界各地の伝説にみられるという。月の満ち欠けにより、満月から欠けていって新月で消えても、再び三日月から満月に戻るというサイクルが死と再生を表したものと考えられたのだろう。古代日本でも、万葉集に「月夜見の 持てるをち水」という言葉があり、ツクヨミが「変若水(おちみず)」という若返りの霊薬を持っていると信じられていたらしい。「月読」というのも、月の満ち欠けを読み取ることによって、暦=時の支配者を示したものとされることもある。こうしたこともあって、中世には「月山(神)」は浄土信仰とも結びつき、阿弥陀如来が本地仏とされるようになったと思われる。
ところで、「月山」は古代にも田川郡にあったはずであるが、「日本紀略」の貞観10年(868年)条、「日本三代実録」仁和元年(885年)条、「延喜式神名帳」のいずれにも、「月山神」は飽海郡にあったとされている。これにより、「月山」という山自体を祀ることから離れて、少なくとも9世紀半ばには「月山神社」(社殿)は出羽国府に近い飽海郡に移されていたことが判る。因みに「鳥海山大物忌神社 吹浦口之宮」の社伝によれば、貞観10年(868年)に吹浦の「大物忌神社」に勧請されたとする。何故そういうことになったのかは不明だが、思うに9世紀半ばには律令制が緩み、東北地方では蝦夷の反乱が頻発していたので、出羽国式内社9座のうち名神大社である「鳥海山大物忌神社」と「月山神社」をともに祀り、そのパワーで治安を取り戻そうとしたのではないだろうか。因みに、「日本三代実録」によれば、「大物忌神」と「月山神」は殆ど並列して神階が上がっていくが、当初は「月山神」のほうが「大物忌神」よりも高位にあった(貞観6年(864年)に「月山神」が従三位、「大物忌神」は正四位上)。それが途中で追い着かれ、元慶4年(880年)には、ともに従二位に上った(ただし、「大物忌神」は勲三等、「月山神」は勲四等)。なお、「本朝世紀」天慶2年(939年)の記事では、「大物忌神」は正二位となっている。これは、「大物忌神」が戦乱を予言する神として尊崇されたことによるものかと思われる。
さて、中世以降は「出羽三山」の主峰として修験が隆盛したが、明治以降には神仏分離により、明治7年に国幣中社、明治18年に官幣中社、大正3年には官幣大社(東北地方で唯一)に進んだ。現在では、「出羽神社」・「湯殿山神社」と合わせて宗教法人「出羽三山神社」となっている。


出羽三山神社のHP

玄松子さんのHPから(月山本宮)


写真1:「月山中之宮」の社号標。正面に「御田原神社(みだはらじんじゃ)」(祭神:奇稲田姫神)


写真2:「なで兎」。古くから月読神の神使(使わしめ)は兎であり、この兎を撫でると悪運から逃れられるという。


写真3:「月山本宮」参道入口(「月山」登山道)の鳥居


写真4:しばらく登って振り返ると、雲の向こうに「鳥海山」が見えた。


写真5:9合目の「仏生池(ぶすいけ)」と「真名井神社」


写真6:登山道の難所「行者返し」


写真7:「行者返し」途中の「来名戸神社」


写真8:「月山神社本宮」。これより先は撮影禁止。
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椙尾神社(山形県鶴岡市馬町)

2015-01-03 23:30:05 | 神社
椙尾神社(すぎのおじんじゃ)。
場所:山形県鶴岡市馬町字宮ノ腰169。「鶴岡市立第五中学校」の北、約1kmのところにあるが、山形県道38号線(酒田鶴岡線)の1本西側の町道(旧道?)に面している。駐車場あり。
当神社の創建時期は不明であるが、一説に欽明天皇3年(542年?)といい、勧請の神社ではなく古来の神跡であるとしている。現在の主祭神は事代主命であるが、中古、大和国から龍田彦神・龍田姫神を勧請したとされ、江戸時代までは「小物忌椙尾大明神」と呼ばれていたという。こういうことから、式内社「小物忌神社」の論社とされているが、前項の「飛澤神社」もそうだが、中世以来、その土地の領主に篤く庇護されて、箔付けのために式内社というようになったものと思われる。当神社は、鎌倉時代に出羽国地頭となった武藤氏の居城「尾浦城(大山城)」の北、約1kmのところにあり、武藤氏の後も、最上氏、酒井氏に崇敬された。古来「六供八太夫」と称し、かつては神宮寺6寺・社家8家があったという。現在も残る広い境内、立派な社殿などが往時の隆盛を今も感じさせる。
なお、一説に、当神社は「鳥海山大物忌神社」の第一王子であり(第二王子「城輪神社」、第三王子「小物忌神社」(酒田市山楯))、「小物忌神社」と呼ばれたのは、中世に「小物忌神」を勧請したからという。


玄松子さんのHPから(椙尾神社)


写真1:「椙尾神社」参道入口の鳥居と社号標。この石鳥居は慶長16年(1612年)銘があり、山形県指定有形文化財。


写真2:参道


写真3:二の鳥居


写真4:社殿正面


写真5:豪壮な社殿


写真6:境内も良い雰囲気
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