神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

東睿山 金剛寿院 千妙寺

2021-02-27 23:25:55 | 寺院
東睿山 金剛寿院 千妙寺(とうえいさん こんごうじゅいん せんみょうじ)。
場所:茨城県筑西市黒子214。茨城県道357号線(谷和原筑西線)と同54号線(明野間々田線)の「黒子」交差点から、357号線を北へ約130mのところ(丁字路)を右折(東へ)、約80mで駐車場。
寺伝によれば、天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)の関東弘教の命を受け、直弟子である円仁(慈覚大師)が最澄作の釈迦如来像を背負って巡錫していた折、現・茨城県筑西市赤浜付近に至ると、釈迦如来像が動かなくなった。そこで、その地に、承和元年(834年)、第53代・淳和天皇の勅許により「承和寺」を創建した。寺号は、創建時の年号を採ったものである。貞観元年(859年)、第56代・清和天皇の勅願による祈祷が行われたとき、「大恩寺」に改められた。その後、「平将門の乱」による戦火で本堂など全てが焼失した。南北朝時代の観応2年(1351年)、崇光天皇(北朝第3代)の勅により、第16世住職・亮守が現在地に移転して再興、中興開山とされる。亮守は千部の妙典(妙法蓮華経)を小石に書写し、浄域の中心に埋納したことから、寺号を「千妙寺」と称するようになった。また、亮守は、台密三昧流の法流を汲んでいたことから、三昧流の伝法灌頂道場として隆盛した。盛時には、末寺・門徒寺は7ヵ国に600余ヵ寺を数えたとされる。伝法灌頂道場は、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」(現・滋賀県大津市)と当寺院にだけに伝えられる貴重な宗教行事といい、山号の「東睿山」というのは東の「比叡山」の意味で、慶長18年(1613年)、第108代・後水尾天皇の勅号により授けられたとのこと。本尊は釈迦如来。
なお、寺伝では古代の「承和寺」が移転したものとされるが、疑問とする説も強い(前項「赤浜神社」参照)。「承和寺」自体の存在を疑うことはさて置くとしても、「平将門の乱」のとき焼失した(承平5年:935年)後、観応2年(1351年)に当地に移転・再興されるまでの約400年間、どうなっていたのか。また、当寺院の住職は、初代・円仁(天台座主第三世)~第二代・安慧(同第四世)~第三代・長意(同第九世)・・・などとなっているが、円仁は下野国壬生(現・栃木県壬生町)の出身で、関東~東北を巡錫したとされるので、あるいは創建に関わったかもしれないものの、その他の住職も天台宗総本山のトップばかり、というのは考えられない。古代、現・茨城県西部に天台宗が進出して盛んに布教活動したことは認められるとしても、当寺院と「承和寺」とは別のものと考えた方がよいように思われる。
蛇足:当寺院にまつわる次のような伝説がある。昔、「千妙寺」に「黒童子」と呼ばれる小僧がいた。色黒の上、いつも黒い着物を着ていたからだが、何年たっても16~17歳くらいのまま、年を取らず、雑用をこなしていた。ある日、「黒童子」が水汲みに行ったまま、しばらく戻ってこなかったので、住職がきつく叱ると、「天竺(インド)の川まで汲みに行っていましたので…」とうっかり答えた。 実は、「黒童子」は護法天の化身で、130年間、当寺院の7代の住職に仕えていたのだという。そして、境内の杉の巨木を足場にして、天に昇って行ってしまった。それ以来、この杉は「護法杉」と呼ばれるようになったという( 樹齢600年以上といわれた「護法杉」は落雷の後に枯死し、今は残っていないとのこと。)。
蛇足の蛇足:上記の伝説は子供向けの「昔話」で、もう少し辛口なものは、次のようになっている。「黒童子」は中興開山・亮守に寺院移転の適地を教えるなど建立に協力した。その後も歴代の住職に仕えたが、七代後の住職・亮禅には水汲みが遅いと罵られた。「黒童子」は、「この地の水は汚れていて仏前には供えられないから、ガンジス川の源流まで汲みに行ったのだ。神通力の弱いお前にはわかるまい。」と言い返した。そして、大杉から天に昇ろうとしたところ、怒った亮禅が念じて「黒童子」の昇天を妨げた。これを恨んだ「黒童子」は何処ともなく姿を消した、という。亮禅は「神通力が弱い」と言われながらも、護法天を昇天させないほどの通力があった一方、時は室町時代末期で下剋上の世の中、仏教界も堕落・腐敗していったことを風刺したものとされる。(参考文献:渡辺荘仁「千妙寺」(筑波書林、1980年))


千妙寺のHP


写真1:「千妙寺」山門


写真2:「三昧流灌頂」石碑


写真3:釈迦堂(総本堂)


写真4:同上の彫刻


写真5:「正一位代続稲荷大明神」。由緒等不明。


写真6:客殿


写真7:庭園


写真8:国旗掲揚台? 「鎮護国家」というところが天台宗寺院らしい。
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赤浜神社(茨城県筑西市)

2021-02-20 23:26:53 | 神社
赤浜神社(あかはまじんじゃ)。通称:山王さま。
場所:茨城県筑西市赤浜525。茨城県道131号線(下妻真壁線)沿いのコンビニ「セブンイレブン明野中上野店」のところから同132号線(赤浜上大島線)に入り、西へ約950mのガソリンスタンド「エネオス赤浜SS」前を右折(南へ)、約450m。カーヴ・ミラーのあるところを左折(東へ)して約60mで鳥居前だが、農道のような道で、駐車場もないので、手前の墓地付近で自動車は置いてきた方が良い。
社伝によれば、延喜5年(905年)、天台宗「承和寺」(現在の「東睿山 金剛寿院 千妙寺」。次項予定)第3代住職・長意が守護社として近江国式内社(名神大)「日吉大社」(現・滋賀県大津市)を勧請して創建した。当時、「承和寺」は当神社の西側にあり、地図上では「東叡山承和寺跡」となっているが、旧・明野町のときには鎌倉時代の館跡として「堀ノ内遺跡」と称されていた。この「承和寺跡」または「堀ノ内遺跡」には謎があるが(後述)、当地が「将門記」冒頭の所謂「野本合戦場」付近であり、承平5年(935年)、将門が敵方の待ち伏せに遭ったものの、反撃し、その際の兵火で「承和寺」などが焼失したとされる。その後、「承和寺」は現在の筑西市黒子に移転・再興されることになるのだが、なぜか当神社は移転せずに残ったということになる。なお、「将門記」には「承和寺」のことは触れられておらず、「山王は煙に交わりて巌の後ろに隠れ、人の宅は灰の如くにして風の前に散りぬ」(読み下し文)とあって、「山王社」が焼失したことが記されている。この「山王社」が当神社のことであるとされ、かつては「山王二十一社権現」と呼ばれていたともいう(江戸時代に「山王二十一社権現」という棟札が境内から出土したとされるが、これは同時代の捏造品らしい。)。また、伝承であるが、「野本合戦」での戦没者を集めて当神社の境内に埋めたという土塔があったという。その後、現在までの経緯は不明だが、近世は「山王権現」(または「日吉神社」)で、明治時代になって稲荷神社を合祀して「赤浜神社」と改称したとのこと。
さて、「承和寺跡」または「堀ノ内遺跡」であるが、当地に「承和寺」があったというのは伝承だけで、古記録などはない。東西・南北ともに約180mの正方形に近い地形で、周囲を取り囲む堀跡が残っている(このため、通称「百間濠」ともいう。)が、古代寺院跡によくある古瓦片が全く見つかっていない。「将門記」の「野本」という地名は遺称地がなく、当地がそれに当たるというのも、明確な根拠はない。「明野町史」(昭和60年)では、「かかる寺社(注:承和寺と日吉山王社)の10世紀での存在に肯定的になるだけの条件を完備し得ているとはいえない」(注は当ブログ管理人)と随分回りくどい書きぶりだが、全体的にかなり否定的な印象である。一方、中世の城館としての「堀ノ内遺跡」(通称:「赤浜堀ノ内館」)は、平安時代末に「承和寺」が移転した後に、鎌倉時代の有力武士が城館を築いた(あるいは、「承和寺」とは無関係に城館を建てた)ということもあり得るのだが、これだけの規模にもかかわらず、城館の主の名が全く伝わっておらず、殆ど使われないまま放棄されたらしいということもあり、不思議な場所となっている。
因みに、古代には現・茨城県下妻市比毛付近で鬼怒川と小貝川が合流しており、運ばれた土砂によって小貝川が堰き止められて、筑波山の西側に大きな湖沼が形成されていた。これを、「萬葉集」では「鳥羽の淡海(とばのおうみ)」、「常陸国風土記」では「騰波江(とばのえ)」と呼んでいる。その後、鬼怒川の流路が南に変わって水位が下がり、江戸時代には新田開発のために干拓されて、殆どが水田になったとされる。現在では、関東鉄道常総線「騰波ノ江」駅にその名を残しているのみである(昭和29年までは「騰波ノ江村」が存在した。)。古代の当地は「騰波ノ江」に浮かぶ島のような台地の南端にあったらしく、「赤浜」という地名の「浜」はこれを示すもののようである。


写真1:「赤浜神社」鳥居


写真2:境内の石仏や石塔


写真3:同、「十七夜供養塔」。旧暦15日の夜を「十五夜」と言って満月になることが多いが、多少ずれることもある。これは「十七夜」の月待ちの記念塔で、宗教行事というよりは民間信仰、もっと言えば、月見の宴会ということもあったようだ。


写真4:社殿。神額は「赤濱神社」


写真5:「赤浜神社」の西側にある「東叡山承和寺跡」(場所:筑西市中上野字堀の内1858-1外。この遺跡部分だけが、赤浜の中にある中上野の飛び地)。北東角から南側をみる。堀の跡が残っている。


写真6:同上、北側中央から南側をみる。


写真7:同上、北西角から東側をみる。


写真8:万葉歌碑。高橋虫麻呂の歌の一部「新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺に 登りて見れば」。(場所:下妻市比毛の「糸繰川排水機場」前の「寿久橋」中央)。この付近で、鬼怒川と小貝川が合流していたらしい。「赤浜神社」の南西、約4km(直線距離)。
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明王山 不動院 大栄寺

2021-02-13 23:28:08 | 寺院
明王山 不動院 大栄寺(みょうおうさん ふどういん たいえいじ)。通称:山川不動尊。
場所:茨城県結城市山川新宿311-1。茨城県道20号線(結城坂東線)と同23号線(筑西三和線)の交差点から、23号線を南西に約550m進み(押ボタン式信号があり、「→水野家累代の墓」という案内看板が出ているところで)右折(西へ)、約100m進むと山門がある。ただし、ここからは自動車は入れないので、道なりに更に約250m進んだところで右折(東へ)、約110m進んだところが本堂裏で、駐車場がある。
寺伝によれば、本尊の不動明王像は弘法大師の作で、平将門が京都に上った際、「東寺」(真言宗総本山「教王護国寺」)に安置されていたものを持ち帰ったものとされる。天慶3年(940年)、将門が討ち死にした後、将門の家臣・坂田蔵人時幸はこの不動明王像を持って山川の「綾戸城」に潜んでいたが、源経基の家臣・安部小太郎幸光の軍勢千五百余に攻撃され、一心に不動明王に祈っていたところ、突然の暴風雨により敵・味方とも「山川沼」に沈んでしまったとされる。その後、漁師の網に不動明王像が掛かって引き上げられ、仮の小屋に安置されていたが、慶長6年(1601年)、大恵上人によって「大栄寺」が建立され、祀られたという。なお、現在、「山川沼」は水田となっており、「山川沼排水路」が痕跡として残っているのみである。
さて、本尊の不動明王(不動尊)像は、木造の坐像で、大きさは像高50.3cm、光背96.7cm、台座40.7cm。寄木造で、玉眼が嵌められ、肉身には群青の彩色が残っている。鎌倉時代中期~室町時代の作とみられ、茨城県指定重要文化財(彫刻)となっている。現在は、本堂裏の収蔵庫に安置・保管されているとのこと。
また、当寺院は「山川のお不動さん」として近隣市町村の住民に親しまれ、毎月28日の縁日には山門から本堂まで多くの露店が立ち並び、賑わうという。
蛇足:(伝説)当寺院の不動尊は平将門の守り本尊であったので、将門が朝廷に反逆したとき、一夜、枕元に現れて、謀反を諫めた。しかし、将門は自分も桓武天皇の子孫であり、天皇の地位についても良いはずだとして、聞き入れなかった。このため、不動尊も、それならもう将門を守ることはできない、と言って消えた。その後、京都から寛朝(第19世東寺長者)が京都「高雄山 神護寺」護摩堂の不動明王像(空海作とされる。)を奉じて、将門調伏の祈祷を行った。乱の平定後、この不動明王像を祀ったのが「成田山 新勝寺」である(「成田山 明王院 神護新勝寺」(2014年1月25日記事))。不動尊の諫言を聞かなかったために、不動尊の力で敢え無い最期を遂げることになったということかもしれない。


茨城県教育委員会のHPから(木造 不動明王坐像)


写真1:「大栄寺」山門。石碑は「茨城百景 山川不動尊」


写真2:楼門(仁王門)


写真3:本堂


写真4:本堂の巨大な屋根の上の鬼瓦


写真5:境内の「聖徳太子」碑


写真6:収蔵庫と「茨城県指定文化財 不動明王坐像」碑。
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船玉古墳(茨城県筑西市)

2021-02-06 23:06:22 | 古墳
船玉古墳(ふなだまこふん)。船玉古墳群1号墳。
場所:茨城県筑西市船玉247。茨城県道15号線(結城下妻線)「船玉」交差点から県道を南に約400m、自動車販売店「ホンダカーズ筑西 関城店」の手前から(「県指定史跡 船玉古墳」の案内看板がある。)右折(西へ)、約240mのところで斜め右(北西へ)の道路に入り、約50m進んで左折(西へ)、約70m。駐車場なし。なお、県道から入った道路を直進して突き当りの「船玉田園都市センター」の駐車場が利用できるようだ。県道から先は、やや狭い道路となるので注意。
「船玉古墳」は、鬼怒川左岸(東岸)の河岸段丘上に立地する方墳で、一辺約35m、高さ約4mの規模。付近の7基の古墳(いずれも円墳)とともに船玉古墳群と呼ばれ、その1号墳とも称される。横穴式石室があって、羨道部、前室、玄室からなり、羨道部から玄室までの全長は約11.5m。石材は、筑波系の雲母片岩の板石で、県下でも最大規模の巨石という。江戸時代から石室が開口しており、玄室の奥壁と西壁とに壁画が描かれていたことから、明治時代に鳥居龍蔵らによって調査が行われ、赤や白の顔料で円文や靱(ゆぎ。矢を入れる武具)、舟と思われる絵などが描かれていたとされるが、永年の石室開口により現在では石材表面の剥離のため絵柄の判別は困難となっているとのこと。もし、本当に舟のようなものが描かれていたとすれば、あの世への旅立ちを示すものかもしれず、祭祀的・呪術的な要素が強まる。常陸国では、装飾(彩色・線画など)のある古墳や横穴は太平洋沿岸地域に多く、例えば「吉田古墳」(2018年3月17日記事)、「虎塚古墳」(2018年6月16日記事)、「十王前横穴墓群」(2020年2月29日記事)などがある。元々、装飾古墳などは北九州地域に多く、同地出身の豪族(多氏など)が移住してきたことの影響が指摘されている。その中で、当古墳は現・茨城県の県西地区にあり、上野国(現・群馬県)や下野国(現・栃木県)との関係が深く、貴重なものといえるだろう。当古墳の築造時期は7世紀中頃の推定されているが、もちろん被葬者は不明。昭和8年、茨城県指定文化財に指定。
なお、墳丘上に「船玉神社」が鎮座していたが、平成23年の東日本大震災により倒壊してしまった。地元民が再建しようとしたところ、県有地のため再建は不可、とされたとのことで、石段だけが残っている。仕方ないのだろうが、残念なことである。
また、古くから石室が開口していたためだろう、ここにも所謂「椀貸伝説」があるらしい。すなわち、この岩屋は入口は小さいが、奥に入ると広くなっていて、更に下に下っていく穴があって、そこが知れないという。そして、岩屋の入口で「膳椀を何人分お貸しください。」と祈って、翌日行くと、その通り椀が岩の上に置かれていた。ところが、貪欲な者がいて、椀を借りたのに長い間返さなかった。すると、夜な夜な「椀返せ」、「椀返せ」と言う声が聞こえ、それでも返さずにいると、借りた者の家運が傾き、廃れてしまったという。これは全国的にもある民話で、近いところでは、千葉県栄町の「岩屋古墳」など(「龍角寺古墳群」(2012年6月23日記事))。


茨城県教育委員会のHPから(船玉古墳)


写真1:「船玉古墳」


写真2:石段の横に石室の開口部(南側)、石碑、説明板がある。「船玉神社」が撤去される前に当古墳を紹介した画像と比べると、現状は全体的に荒廃感がある。県も、神社を再建させないなら、保存を万全にしてほしい。


写真3:開口部正面。


写真4:同上。開口部付近でも、かなり大きな板石が使われている。


写真5:南西側から。石仏も祀られている。


写真6:墳頂部。「船玉神社」が鎮座していたが、東日本大震災で倒壊、撤去されたままとなっている。平らにならされており、かなり削平されていたようだ。


写真7:わずかに神社の痕跡。


写真8:墳頂、北側から南を見る。
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