慈雲山 無量寿院 逢善寺(じうんさん むりょうじゅいん ほうぜんじ)。通称:小野観音。
場所:茨城県稲敷市小野318。国道408号線と茨城県道5号線(竜ヶ崎潮来線)の「柴崎」交差点から東~北東へ約3.5km進んで「小野観音 逢善寺」という案内看板がある交差点を左折(北へ)、約1km進んで正面に「千勝神社」の赤い鳥居に突き当たるので、そこを右折(北東へ)、約200m。駐車場スペース有り。
寺伝によれば、天長3年(826年)、天台宗開祖・最澄(伝教大師)の法弟・逢善道人が千手観世音菩薩を草庵に安置したのを開山とする。偶々、本山より覚叡上人が諸国修行の途中に来訪したことから、覚叡を住職として布教に努めた。その霊験を知った常陸国司・小野篁が奏聞して、第53代・淳和天皇の命により堂宇建立の上、寺領800町歩が給され、勅願所となった。なお、淳和天皇の第三皇女・貞子内親王が幼少時に眼病を患った際に祈願したところ、見事に眼病が平癒したため、貞子内親王が篤く帰依し、落飾した後に当寺院境内に宮庵を設けて「寂光院政所」と称し、女人救済寺にもなったという。なお、貞子内親王は当地で亡くなり、当寺院の北にある小祠「姫宮神社」がその墳墓であるという伝承がある。その後も、歴代領主にも帰依され、天文8年(1539年)に堂宇が焼失すると、当時の江戸崎城主・土岐治英が再建した。江戸時代に入ると幕府から篤く庇護され、慶長7年(1602年)に徳川家康から300石の寺領が安堵された。十万石の格式を与えられ、正徳3年(1713年)には関東天台八檀林の1つに定められた。最盛時には境内36坊、全国に300余寺の末寺を擁していたとされる。現在は天台宗の寺院で、本尊は千手観世音菩薩。「茨城景観百選」第87番、「ぼけ封じ関東三十三観音霊場」第33番札所など。
蛇足:当地「小野」(旧・小野村)という地名の由来ともなっていると思われる小野篁(802~853年)については、文才に優れ、皇太子の東宮学士などを務めた後、遣唐副使に任命されたが、乗船を拒否して隠岐に流罪になったものの、許されると元の官位に復し(極めて異例)、最終的には従三位参議に上った、という人物である。一説に小野小町の祖父とされるが、時期が合わないようだ(「小野小町の腰掛石」(2020年8月8日記事など参照。)。それよりも有名なのは、存命中に地獄に行き来し、閻魔大王の補佐をしていた、という伝説だろう。また、「稲敷郡郷土史」によれば、当寺院境内に高さ3尺程(約90cm)で楕円形の自然石による石碑があり、風化して文字は読めなくなっているものの、小野篁の奏聞による伽藍建立を記念したものとの伝承があって、一説に小野小町の墓ともいう、というような記述がある。ただし、この石碑は現存しないようである。因みに、史実の官歴からすれば、小野篁が常陸国司になったことはないはずであり、これも不思議な伝説の一つかもしれない。
写真1:「逢善寺」境内入口、寺号標(「天台宗 逢善寺」)
写真2:同上、仁王門。文明年間(1469~1486年)に太田道灌が江戸城築城の時に建立したものといわれ、神仏分離のため明治2年に東京「日枝神社」(現・東京都千代田区)から仁王(金剛力士)像ごと移築されたという。仁王像は運慶作との伝承があったが、応永9年(1402年)銘の墨書がある。茨城県重要文化財。
写真3:同上、吽形金剛力士像
写真4:同上、本堂(圓通殿)。「圓通(円通)」とは、観世音菩薩の別名「圓通大士」による。天保13年(1842年)再建のもの。密教寺院の本堂としては県内最大という。茨城県重要文化財。
写真5:同上、本堂の彫刻。
写真6:同上、鐘楼
写真7:同上、萱葺の書院・庫裡。これも茨城県重要文化財。
写真8:「逢善寺」山門横にある「小野神社」。長禄3年(1459年)創建。旧・村社。祭神:速素戔嗚命。
写真9:「姫宮神社」の森(場所:稲敷市寺内。「千勝神社」横の道路を北に約800m、突き当りを左折(西へ)、約300m進んだ北側の田の中。駐車場なし。)
写真10:同上、社祠。祭神不明だが、上記の通り、淳和天皇の第三皇女・貞子内親王、又は東條城主・土岐氏の娘・虎姫を祀ったものという。
場所:茨城県稲敷市小野318。国道408号線と茨城県道5号線(竜ヶ崎潮来線)の「柴崎」交差点から東~北東へ約3.5km進んで「小野観音 逢善寺」という案内看板がある交差点を左折(北へ)、約1km進んで正面に「千勝神社」の赤い鳥居に突き当たるので、そこを右折(北東へ)、約200m。駐車場スペース有り。
寺伝によれば、天長3年(826年)、天台宗開祖・最澄(伝教大師)の法弟・逢善道人が千手観世音菩薩を草庵に安置したのを開山とする。偶々、本山より覚叡上人が諸国修行の途中に来訪したことから、覚叡を住職として布教に努めた。その霊験を知った常陸国司・小野篁が奏聞して、第53代・淳和天皇の命により堂宇建立の上、寺領800町歩が給され、勅願所となった。なお、淳和天皇の第三皇女・貞子内親王が幼少時に眼病を患った際に祈願したところ、見事に眼病が平癒したため、貞子内親王が篤く帰依し、落飾した後に当寺院境内に宮庵を設けて「寂光院政所」と称し、女人救済寺にもなったという。なお、貞子内親王は当地で亡くなり、当寺院の北にある小祠「姫宮神社」がその墳墓であるという伝承がある。その後も、歴代領主にも帰依され、天文8年(1539年)に堂宇が焼失すると、当時の江戸崎城主・土岐治英が再建した。江戸時代に入ると幕府から篤く庇護され、慶長7年(1602年)に徳川家康から300石の寺領が安堵された。十万石の格式を与えられ、正徳3年(1713年)には関東天台八檀林の1つに定められた。最盛時には境内36坊、全国に300余寺の末寺を擁していたとされる。現在は天台宗の寺院で、本尊は千手観世音菩薩。「茨城景観百選」第87番、「ぼけ封じ関東三十三観音霊場」第33番札所など。
蛇足:当地「小野」(旧・小野村)という地名の由来ともなっていると思われる小野篁(802~853年)については、文才に優れ、皇太子の東宮学士などを務めた後、遣唐副使に任命されたが、乗船を拒否して隠岐に流罪になったものの、許されると元の官位に復し(極めて異例)、最終的には従三位参議に上った、という人物である。一説に小野小町の祖父とされるが、時期が合わないようだ(「小野小町の腰掛石」(2020年8月8日記事など参照。)。それよりも有名なのは、存命中に地獄に行き来し、閻魔大王の補佐をしていた、という伝説だろう。また、「稲敷郡郷土史」によれば、当寺院境内に高さ3尺程(約90cm)で楕円形の自然石による石碑があり、風化して文字は読めなくなっているものの、小野篁の奏聞による伽藍建立を記念したものとの伝承があって、一説に小野小町の墓ともいう、というような記述がある。ただし、この石碑は現存しないようである。因みに、史実の官歴からすれば、小野篁が常陸国司になったことはないはずであり、これも不思議な伝説の一つかもしれない。
写真1:「逢善寺」境内入口、寺号標(「天台宗 逢善寺」)
写真2:同上、仁王門。文明年間(1469~1486年)に太田道灌が江戸城築城の時に建立したものといわれ、神仏分離のため明治2年に東京「日枝神社」(現・東京都千代田区)から仁王(金剛力士)像ごと移築されたという。仁王像は運慶作との伝承があったが、応永9年(1402年)銘の墨書がある。茨城県重要文化財。
写真3:同上、吽形金剛力士像
写真4:同上、本堂(圓通殿)。「圓通(円通)」とは、観世音菩薩の別名「圓通大士」による。天保13年(1842年)再建のもの。密教寺院の本堂としては県内最大という。茨城県重要文化財。
写真5:同上、本堂の彫刻。
写真6:同上、鐘楼
写真7:同上、萱葺の書院・庫裡。これも茨城県重要文化財。
写真8:「逢善寺」山門横にある「小野神社」。長禄3年(1459年)創建。旧・村社。祭神:速素戔嗚命。
写真9:「姫宮神社」の森(場所:稲敷市寺内。「千勝神社」横の道路を北に約800m、突き当りを左折(西へ)、約300m進んだ北側の田の中。駐車場なし。)
写真10:同上、社祠。祭神不明だが、上記の通り、淳和天皇の第三皇女・貞子内親王、又は東條城主・土岐氏の娘・虎姫を祀ったものという。