神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

慈雲山 無量寿院 逢善寺

2022-05-28 23:34:49 | 寺院
慈雲山 無量寿院 逢善寺(じうんさん むりょうじゅいん ほうぜんじ)。通称:小野観音。
場所:茨城県稲敷市小野318。国道408号線と茨城県道5号線(竜ヶ崎潮来線)の「柴崎」交差点から東~北東へ約3.5km進んで「小野観音 逢善寺」という案内看板がある交差点を左折(北へ)、約1km進んで正面に「千勝神社」の赤い鳥居に突き当たるので、そこを右折(北東へ)、約200m。駐車場スペース有り。
寺伝によれば、天長3年(826年)、天台宗開祖・最澄(伝教大師)の法弟・逢善道人が千手観世音菩薩を草庵に安置したのを開山とする。偶々、本山より覚叡上人が諸国修行の途中に来訪したことから、覚叡を住職として布教に努めた。その霊験を知った常陸国司・小野篁が奏聞して、第53代・淳和天皇の命により堂宇建立の上、寺領800町歩が給され、勅願所となった。なお、淳和天皇の第三皇女・貞子内親王が幼少時に眼病を患った際に祈願したところ、見事に眼病が平癒したため、貞子内親王が篤く帰依し、落飾した後に当寺院境内に宮庵を設けて「寂光院政所」と称し、女人救済寺にもなったという。なお、貞子内親王は当地で亡くなり、当寺院の北にある小祠「姫宮神社」がその墳墓であるという伝承がある。その後も、歴代領主にも帰依され、天文8年(1539年)に堂宇が焼失すると、当時の江戸崎城主・土岐治英が再建した。江戸時代に入ると幕府から篤く庇護され、慶長7年(1602年)に徳川家康から300石の寺領が安堵された。十万石の格式を与えられ、正徳3年(1713年)には関東天台八檀林の1つに定められた。最盛時には境内36坊、全国に300余寺の末寺を擁していたとされる。現在は天台宗の寺院で、本尊は千手観世音菩薩。「茨城景観百選」第87番、「ぼけ封じ関東三十三観音霊場」第33番札所など。
蛇足:当地「小野」(旧・小野村)という地名の由来ともなっていると思われる小野篁(802~853年)については、文才に優れ、皇太子の東宮学士などを務めた後、遣唐副使に任命されたが、乗船を拒否して隠岐に流罪になったものの、許されると元の官位に復し(極めて異例)、最終的には従三位参議に上った、という人物である。一説に小野小町の祖父とされるが、時期が合わないようだ(「小野小町の腰掛石」(2020年8月8日記事など参照。)。それよりも有名なのは、存命中に地獄に行き来し、閻魔大王の補佐をしていた、という伝説だろう。また、「稲敷郡郷土史」によれば、当寺院境内に高さ3尺程(約90cm)で楕円形の自然石による石碑があり、風化して文字は読めなくなっているものの、小野篁の奏聞による伽藍建立を記念したものとの伝承があって、一説に小野小町の墓ともいう、というような記述がある。ただし、この石碑は現存しないようである。因みに、史実の官歴からすれば、小野篁が常陸国司になったことはないはずであり、これも不思議な伝説の一つかもしれない。


写真1:「逢善寺」境内入口、寺号標(「天台宗 逢善寺」)


写真2:同上、仁王門。文明年間(1469~1486年)に太田道灌が江戸城築城の時に建立したものといわれ、神仏分離のため明治2年に東京「日枝神社」(現・東京都千代田区)から仁王(金剛力士)像ごと移築されたという。仁王像は運慶作との伝承があったが、応永9年(1402年)銘の墨書がある。茨城県重要文化財。


写真3:同上、吽形金剛力士像


写真4:同上、本堂(圓通殿)。「圓通(円通)」とは、観世音菩薩の別名「圓通大士」による。天保13年(1842年)再建のもの。密教寺院の本堂としては県内最大という。茨城県重要文化財。


写真5:同上、本堂の彫刻。


写真6:同上、鐘楼


写真7:同上、萱葺の書院・庫裡。これも茨城県重要文化財。


写真8:「逢善寺」山門横にある「小野神社」。長禄3年(1459年)創建。旧・村社。祭神:速素戔嗚命。


写真9:「姫宮神社」の森(場所:稲敷市寺内。「千勝神社」横の道路を北に約800m、突き当りを左折(西へ)、約300m進んだ北側の田の中。駐車場なし。)


写真10:同上、社祠。祭神不明だが、上記の通り、淳和天皇の第三皇女・貞子内親王、又は東條城主・土岐氏の娘・虎姫を祀ったものという。
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宝性院 歩崎山 長禅寺

2022-05-21 23:31:44 | 寺院
宝性院 歩崎山 長禅寺(ほうしょういん あゆみざきさん ちょうぜんじ)。通称:歩崎観音。
場所:茨城県かすみがうら市坂924-3。国道354号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の交差点(コンビニ「ファミリーマート「かすみがうら田伏店」がある。)から県道を南に約2.2km進み、「帆引き船展示施設」・「かすみがうら市歴史博物館」の北東側の道路に入り(左折)、東へ約290m進むと「歩崎観音北参道」という案内看板があり、その近くに「真如苑専用駐車場」がある。こちらは、駐車場から少し下って本堂の裏手から入ることになる。表参道へは、「帆引き船展示施設」等の南西側の道路を南東へ約400m進むと「歩崎公園」があり、その駐車場に車を止めて、北東へ約350m進むと、急な石段がある(健脚向き)。
寺伝によれば、天平年間(729~749年)に行基菩薩が自ら彫った十一面観世音菩薩立像を旅の僧に与え、その僧が当地に安置したのが創建とされる。なお、この観音像は筑波山麓から湧出したので「小筑波」ともいう、ともされるが、その趣旨はよくわからない。筑波山には真言宗豊山派「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)があるので、その所縁かもしれない。当地は、霞ヶ浦に張り出した出島半島の北側の入江である「高浜入り」と西側の入江である「土浦入り」とが1つになる「三叉沖(みつまたおき)」に臨んだ景勝地で、茨城県指定名勝地の第1号となっている。平安時代後期、八幡太郎こと源義家が奥州征伐の帰途、(霞ヶ浦の対岸から)遥か水上に山が突出して見えたので、これを「霞ヶ関」と号した、という。天治年間(1124~1126年)、沖で難破しそうになった船を、この観音が灯りを持って水上を歩いて渡り、助けたとの伝説がある。この故事により「歩崎観音」と呼ばれるようになり、特に霞ヶ浦での漁業や水上交通関係者から信仰された。また、寿永年間(1182~1185年)には、身籠った竜女が「歩崎観音」に祈願したところ、無事安産できたので、「金の機(はた)」(黄金造りの機織機)を奉納したともいう。このことから、安産祈願にも御利益があるとされる。「長禅寺」は「歩崎観音」の別当として、文明7年(1475年)に僧・良俊が開山し、江戸時代には土浦藩から庇護されて常夜灯が寄進されたりしたが、次第に衰退し、元々檀徒がいなかったこともあり、昭和初期には無住の寺院となった。その後も荒廃が進み、太平洋戦争時の空襲の爆風のため本堂が傾き、仁王像も倒れたままとなっていたところ、真言宗から独立した新興宗教法人・真如苑(真澄寺)が村人の協力を得て昭和23年頃から再建に努めた。現在の宗派は真如苑で、本尊は十一面観世音菩薩。なお、この観音像は秘仏として33年ごとの開帳だったが、2012年から毎年8月16日に開帳されるようになったという。長く秘仏とされていたため調査が行われず、観音像の製作年代等は不明で、特に文化財等の指定はなされていない。


写真1:「長禅寺」山門(仁王門)。


写真2:本堂(観音堂)


写真3:本堂は丸太で支えられている。


写真4:境内の「金毘羅神社」


写真5:「茨城百景 歩崎の眺望」石碑。傍らの石段を上ると、常夜灯と展望台がある。


写真6:展望台から見た霞ヶ浦
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富士見塚古墳群(茨城県かすみがうら市)

2022-05-14 23:31:56 | 古墳
富士見塚古墳群(ふじみづかこふんぐん)。
場所:茨城県かすみがうら市柏崎1555-3(「富士見塚古墳公園」の住所)。茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)「馬場山」交差点から、東へ約5.9km。「富士見塚古墳展示館」、駐車場有り。
「富士見塚古墳群」は、霞ヶ浦(高浜入り)と菱木川の間の狭長な台地に築造された、前方後円墳1基と円墳4基からなる古墳群である。「富士見塚古墳」(1号墳)が前方後円墳で、周囲に幅約16~26mの盾形周溝を巡らせてあり、古墳全長80.2m、後円部径38.4m・高さ8.5m、前方部幅49.4m・高さ9mという大きさは、かすみがうら市では最大のもの。前方部は南西向きで、南側を走る県道側からは古墳が見えず、霞ヶ浦側からよく見えることを意識して造られたものと思われる。平成2年に行われた発掘調査の結果、既に盗掘に遭っていて埋葬施設周辺が荒らされていたが、後円部から木棺、前方部から箱式石棺が発見された。副葬品として直刀・鉄鏃・金銅製馬具・管玉・ガラス玉など、周溝・墳丘裾部・くびれ部の張出し部から円筒埴輪や形象埴輪(人型、動物型、家形等)が出土した。築造時期は、墳丘形態・埋葬施設・出土遺物等から5世紀末~6世紀初頭と推定されている。2号墳は直径約15mの円墳で、築造時期は1号墳と同じ5世紀末~6世紀初頭頃、3号墳は直径約18mの円墳で、6世紀末頃とされている。平成4年に史跡公園として復元・整備され、1号墳~3号墳が平成20年に茨城県指定史跡に、その出土遺物が茨城県指定有形文化財に指定された。


かすみがうら市のHPから(富士見塚古墳公園)

茨城県教育委員会のHPから(富士見塚 1号墳・2号墳・3号墳 3基)


写真1:「富士見塚1号墳」。南東側から見る。手前が前方部、奥が後円部。石段下の括れ部分に張出がある。


写真2:同上、南西側からみる。手前が後円部、奥が前方部。


写真3:同上、北西側から見る。手前が後円部、奥が前方部。


写真4:同上、北東部から見る。手前が前方部、奥が後円部。


写真5:同上、後円部墳頂から前方部を見る(南東方向)。


写真6:同上、後円部墳頂から前方部を見る。傾斜が結構きつい。


写真7:同上、前方部から霞ヶ浦を見る(北方向)。


写真8:同上、前方部墳頂から後円部を見る(北西方向)。


写真9:同上、前方部墳頂から南西側を見下ろすと、「富士見塚古墳群2号墳」が見える。


写真10:「富士見塚古墳群2号墳」


写真11:「富士見塚古墳群3号墳」。2号墳の南西側にある。
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王塚古墳・后塚古墳(茨城県土浦市)

2022-05-07 23:35:55 | 古墳
王塚古墳・后塚古墳(おうつかこふん・きさきつかこふん)。
場所:茨城県土浦市手野町2179-1(「薬王寺」の住所)。国道354号線「木田余跨線橋東」交差点から北東へ約600mの交差点を右折(南東へ)、茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)を約130mで「薬王寺」入口。駐車場なし。古墳は「薬王寺」本堂裏山の墓地を挟むような位置にある。
「王塚古墳」と「后塚古墳」は、霞ヶ浦の桜川河口に近い、標高約22~25mの舌状台地に、約100mの間隔で築かれた2つの古墳である。王・后の名がついているが、被葬者は不明で、王とその后の墳墓かどうかはわからない。「王塚古墳」は前方後円墳で、墳長約84m、後円部径約45m・高さ約8m、前方部幅約25m(復元)・長さ約39m・高さ約3mという大きさとされ、土浦市内では最大の古墳という。前方部の幅が狭い手鏡型という比較的古い形式を示し、4世紀終末~5世紀前半の築造とされる。一方、「后塚古墳」は前方後方墳(前方後円墳とする説有り。)で、墳長約54m、後方部幅約36m・高さ約5.5m、前方幅約18m・長さ約18m・高さ約2.5mで、周溝もあったとされる。築造時期は「王塚古墳」と同時期だが、こちらのほうがやや早く造られたとみられている。いずれも発掘調査等が行われていないため詳細は不明だが、葺石や埴輪、土器片等は見つかっておらず、もともと設置されなかった可能性が高い。自然地形を活かして築造されたようで、「王塚古墳」は前方部が南東向き、「后塚古墳」は南西向きになっているのは、それぞれ、台地の先端を利用した結果らしい。ともに土浦市指定史跡となっており、築造時期・大きさ・所在位置等からしても重要な古墳と思われるが、樹木や竹が生い茂り、土砂がかなり流出してしまっているようで、保存状態がやや悪いのが残念。


写真1:真言宗豊山派「涌出山 宝蔵院 薬王寺」入口。堂宇は石段の上、台地の端にあることがわかる。


写真2:同上、本堂と六地蔵


写真3:同上、大師堂。向かって左手の石段が墓地参道で、古墳へはここを上る。


写真4:「王塚古墳」後円部。墓地の南側にある。後円部の北側から見る。ぱっと見は、大きな円墳に見える。なお、南側は本堂敷地としてかなり削平されている模様。


写真5:同上、目印になる「馬頭観世音菩薩」板碑(草が茂っていると、隠れてしまうが。)


写真6:同上、板碑の右手に墳頂へ上る道ができている。


写真7:同上、後円部墳頂の石祠(「天満宮」とのこと。)


写真8:同上、後円部墳頂。何となく円い感じがわかる。


写真9:同上、前方部を見下ろす。初めて巨大さがわかるが、前方部はかなり細長いようだ。


写真10:同上、後円部。北東側から見る。


写真11:「后塚古墳」。「市指定史跡 后塚古墳」石柱がある。墓地の北西側。


写真12:同上、後円部。北側から見る。


写真13:同上、前方部。南西部から見る。


写真14:同上、後円部墳頂。


写真15:同上、前方部を見下ろす。


写真16:同上、前方部はかなり低く、傾斜になっていて、土砂が流出してしまっているようだ。


写真17:同上、括れ部分付近。南東側から見る。木の根付近に供養塔らしき石材がある。


写真18:同上、後円部東側から前方部東側を見る。
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