御門御墓(みかどおはか)。別名:将門塚。
場所:茨城県桜川市大国玉3803付近。茨城県道148号線(東山田岩瀬線)「前原十字路」から北東へ約1.2km、「大国郵便局」のある道路へ入る。約240m進んだところで左折(西~北西へ)、約400m進んで左折(西へ)、狭い道路を約200m、突き当りの直ぐ左側。駐車場なし。目印が無いのでわかりにくいが、地図で見ると「光明寺」という寺院の反対側(西へ直線距離で約280m)辺り。
「御門御墓」は、平将門の供養塔とされる4基の五輪塔である。伝承では、かつて当地に将門の居館があり、非業の死を遂げた将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために建てられたという。現地の説明板によれば、鎌倉時代初期のものとされる。当地の地名(字名)である「三門(みかど)」は、将門が「新皇」と自称したところから、「帝」→「御門」→「三門」に変わったものという。将門の本拠地がどこであったかということについては諸説あるが、現在の茨城県坂東市岩井周辺というのが通説。そして、当時、当地を含む現・桜川市大国玉には平真樹(たいらのまさき)という豪族の館があり、式内社「大國玉神社」(2018年11月10日記事)と、真壁・新治・筑波の広い範囲を領地として支配していたとされる。真樹は、「平」姓を名乗ってはいるものの、高望王流桓武平氏の一族かは明確ではないとされるが、その娘が将門の妻(「君の御前」)として嫁いだ(つまり、将門の義父に当たる。)といわれている。もともと、その領地をめぐって常陸大掾・源護(みなもとのまもる)と対立していて、将門は真樹側につくことになる。加えて、君の御前が源護の3人の息子から横恋慕されたというような話もあって(こちらは尾鰭のようなものだろうが)、これが「平将門の乱」の原因となったとされる。よって、「御門御墓」は真樹の供養塔でもあるとみたほうがよいようだ。なお、当地には奈良時代創建の「西山寺」(三門廃寺)という寺院があったという説もあるようだが、詳細不明。
そして、当地の南東、約1km(直線距離)のところに「后神社」がある。ここの地名(字名)は「木崎(きさき)」=后で、「三門(みかど)」=帝と対をなしているという。「将門記」によれば、承平7年(937年)、将門は叔父・平良兼に攻められ、君の御前と子を殺害された(「将門記」は平安時代中~後期成立ともいわれるが、軍記物語であって伝記ではなく、記事に重複や矛盾する箇所もあるとされる。)。君の御前は将門の正室であり、死後、将門により「后」として祀られたのが「后神社」であるとされる。御神体は、平安時代の「五衣垂髪」(「五衣(いつごろも)」、いわゆる「十二単」(じゅうにひとえ)の着物に、背に長く垂らした髪型である「垂髪」(すいはつ、すべらかし)の女人木像で、これは現・茨城県坂東市の「國王神社」(2012年10月6日記事)の御神体である将門公の木像と対のものであるという。幕末、水戸藩士・青山延光が「后神社考」で、「后神社」の祭神は、式内社「大國玉神社」の祭神・大国主命の后である須勢理毘売命(スセリビメ)だという説を提唱した。 村人たちはこれを信じ、明治に入ると「大國玉神社」に合祀してしまった。すると、村に疫病が流行したため、「将門様の祟りだ」と恐れて「后神社」を元に戻したところ、疫病は治まったという。というようなことがあってか、現在の祭神は、須勢理毘売命と君の御前。
なお、「后神社」の北側(県道を隔てた向かい側の民家の裏手)に「木崎宝塚古墳」という円墳があって、墳上に稲荷社の小祠が祀られているという(未確認)。これは平将門が財宝を埋めた塚であるとの伝承があり、「将門宝塚」と呼ばれていた。そして、この辺りは桜川の右岸で、台地の東端に当たり、平真樹の城館があったところともいう。
蛇足:地図の「御門御墓」と「后神社」を直線でつなぐと、ちょうど中間に「大國玉神社」が鎮座している。何か意味があるのだろうか。
桜川市観光協会のHPから(御門(三門)御墓)
写真1:「御門御墓」入口。民家の庭のようなところだが、説明板が立てられている。
写真2:「御門御墓」。4基の石塔だが、向かって左端のものは低くて、よく見えないかもしれない。
写真3:「后神社」社殿(場所:桜川市大国玉1840。「大国小学校」東側から茨城県道343号線(木崎雨引停車場撰)を東に約200m。駐車スペースあり。)
写真4:同上、本殿
写真5:同上、拝殿と本殿の覆い屋が一体となっているような建物で、小さな本殿が中にある。
場所:茨城県桜川市大国玉3803付近。茨城県道148号線(東山田岩瀬線)「前原十字路」から北東へ約1.2km、「大国郵便局」のある道路へ入る。約240m進んだところで左折(西~北西へ)、約400m進んで左折(西へ)、狭い道路を約200m、突き当りの直ぐ左側。駐車場なし。目印が無いのでわかりにくいが、地図で見ると「光明寺」という寺院の反対側(西へ直線距離で約280m)辺り。
「御門御墓」は、平将門の供養塔とされる4基の五輪塔である。伝承では、かつて当地に将門の居館があり、非業の死を遂げた将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために建てられたという。現地の説明板によれば、鎌倉時代初期のものとされる。当地の地名(字名)である「三門(みかど)」は、将門が「新皇」と自称したところから、「帝」→「御門」→「三門」に変わったものという。将門の本拠地がどこであったかということについては諸説あるが、現在の茨城県坂東市岩井周辺というのが通説。そして、当時、当地を含む現・桜川市大国玉には平真樹(たいらのまさき)という豪族の館があり、式内社「大國玉神社」(2018年11月10日記事)と、真壁・新治・筑波の広い範囲を領地として支配していたとされる。真樹は、「平」姓を名乗ってはいるものの、高望王流桓武平氏の一族かは明確ではないとされるが、その娘が将門の妻(「君の御前」)として嫁いだ(つまり、将門の義父に当たる。)といわれている。もともと、その領地をめぐって常陸大掾・源護(みなもとのまもる)と対立していて、将門は真樹側につくことになる。加えて、君の御前が源護の3人の息子から横恋慕されたというような話もあって(こちらは尾鰭のようなものだろうが)、これが「平将門の乱」の原因となったとされる。よって、「御門御墓」は真樹の供養塔でもあるとみたほうがよいようだ。なお、当地には奈良時代創建の「西山寺」(三門廃寺)という寺院があったという説もあるようだが、詳細不明。
そして、当地の南東、約1km(直線距離)のところに「后神社」がある。ここの地名(字名)は「木崎(きさき)」=后で、「三門(みかど)」=帝と対をなしているという。「将門記」によれば、承平7年(937年)、将門は叔父・平良兼に攻められ、君の御前と子を殺害された(「将門記」は平安時代中~後期成立ともいわれるが、軍記物語であって伝記ではなく、記事に重複や矛盾する箇所もあるとされる。)。君の御前は将門の正室であり、死後、将門により「后」として祀られたのが「后神社」であるとされる。御神体は、平安時代の「五衣垂髪」(「五衣(いつごろも)」、いわゆる「十二単」(じゅうにひとえ)の着物に、背に長く垂らした髪型である「垂髪」(すいはつ、すべらかし)の女人木像で、これは現・茨城県坂東市の「國王神社」(2012年10月6日記事)の御神体である将門公の木像と対のものであるという。幕末、水戸藩士・青山延光が「后神社考」で、「后神社」の祭神は、式内社「大國玉神社」の祭神・大国主命の后である須勢理毘売命(スセリビメ)だという説を提唱した。 村人たちはこれを信じ、明治に入ると「大國玉神社」に合祀してしまった。すると、村に疫病が流行したため、「将門様の祟りだ」と恐れて「后神社」を元に戻したところ、疫病は治まったという。というようなことがあってか、現在の祭神は、須勢理毘売命と君の御前。
なお、「后神社」の北側(県道を隔てた向かい側の民家の裏手)に「木崎宝塚古墳」という円墳があって、墳上に稲荷社の小祠が祀られているという(未確認)。これは平将門が財宝を埋めた塚であるとの伝承があり、「将門宝塚」と呼ばれていた。そして、この辺りは桜川の右岸で、台地の東端に当たり、平真樹の城館があったところともいう。
蛇足:地図の「御門御墓」と「后神社」を直線でつなぐと、ちょうど中間に「大國玉神社」が鎮座している。何か意味があるのだろうか。
桜川市観光協会のHPから(御門(三門)御墓)
写真1:「御門御墓」入口。民家の庭のようなところだが、説明板が立てられている。
写真2:「御門御墓」。4基の石塔だが、向かって左端のものは低くて、よく見えないかもしれない。
写真3:「后神社」社殿(場所:桜川市大国玉1840。「大国小学校」東側から茨城県道343号線(木崎雨引停車場撰)を東に約200m。駐車スペースあり。)
写真4:同上、本殿
写真5:同上、拝殿と本殿の覆い屋が一体となっているような建物で、小さな本殿が中にある。