教王山 神護寺 大照院(きょうおうさん じんごじ だいしょういん)。
場所:茨城県猿島郡境町伏木2153。国道354号線と茨城県道215号線(坂東伏木線)の「伏木南」交差点から、県道を北東へ約700mで右折(東へ)、約80m。駐車スペースあり。
寺伝によれば、第64代・円融天皇のとき(在位:969~984年)、天台宗の僧・源信(恵心僧都)が東国布教の折に当地を訪れ、開山した。源信が説教していると、火雷天神となった菅原道真の霊が現れて妨害しようとしたが、説教により霊を鎮めた。道真の霊は自画像を残して飛び去り、この画像が寺宝となった。この故に、山号を「教王山」と称し、道真の神霊(天満大自在天神)を鎮守としたため「神護寺 太政院」と号したという。その後、真言宗に改宗(時期不明)。慶安3年(1650年)、徳川第3代将軍・家光から寺領15石を受け、最盛時には末寺60余ヵ寺を擁したとされる。明治時代初期、「太政官」と紛らわしいとして、「大照院」と改称。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵菩薩。なお、境内の観音堂は、末寺だった「宝光院」(廃寺)から移された聖観世音菩薩を祀り、猿島坂東三十三観音霊場第15番札所となっている。他に「大師堂」、「護摩(不動)堂」は室町時代のものとされる。また、明治三十年の暴風によって倒壊した山門にあった金剛力士像は本堂内に移されたが、運慶・快慶作との伝承があり(室町時代~江戸時代のものと推定)、境町指定文化財。
伝説①:寺宝の「菅原道真の坐像」(境町指定文化財)は、衣冠束帯の姿で、縄を円座にしたものを敷いている。これは、道真が筑紫下向の途中、上陸地に休息の家もないので、漁師らが帆綱を巻いて円座としたという伝説に基づくもので、道真が学問の神として定着する以前の天神像とされて、「縄(綱)座天神」「縄(綱)敷天神」などと呼ばれているものの1つである。また、この坐像に酒を供えると道真の顔が紅潮するといわれ、別名「御神酒天神」ともいうとのこと。
伝説②:本堂の天井に天女に囲まれた龍の絵がある。昔ある時、戦に勝った武将たちが寺の前を通りかかり、境内に入って放火しようとした。その時、突然、天井の龍が動き出し、紅白の2匹の龍となって天に昇って行くと、辺りが一瞬のうちに暗雲に覆われ、幾千もの雷鳴が轟き渡った。これには武将たちも驚き、恐れて逃げ去った。こうして、寺は無事だったが、その後、龍が気ままに絵から抜け出して、村人を驚かせたり、農作物を荒らしたりするようになった。そこで、龍の急所とされる耳の付け根の辺りの鱗を一枚消したところ、龍は動き出さなくなったという。
伝説③:源義経が兄・頼朝に追われ、奥州に逃げる途中、腹の疼痛(さしこみ)で苦しんでいる老人に出会った。供の武蔵坊弁慶が持っていた薬を与えたところ、すぐに痛みが消えた。老人はお礼に笛を渡し、「もし危機が迫ったら、この笛を吹きなさい。必ずあなた方を救うだろう。」と言った。その後、義経一行がついに頼朝の追っ手に囲まれたとき、弁慶が老人から貰った笛を吹くと、見る見るうちに弁慶の身体が大きくなり、手のひらに義経を乗せて空高く舞い上がって、追っ手から無事逃れることができたという。このとき、巨大化した弁慶の足跡が、現・境町南部にある当寺院と、同・北部にあった「星智寺」(現在は廃寺)の池となったという(いずれも、今は池はない。)。
境町のHPから(菅原道真の坐像)
同(金剛力士立像)
写真1:「大照院」境内入口
写真2:観音堂(堂本尊:聖観世音菩薩)
写真3:大師堂
写真4:鐘楼
写真5:護摩堂(堂本尊:不動明王)
写真6:本堂
写真7:鐘楼の傍らにあるイチョウの大木
場所:茨城県猿島郡境町伏木2153。国道354号線と茨城県道215号線(坂東伏木線)の「伏木南」交差点から、県道を北東へ約700mで右折(東へ)、約80m。駐車スペースあり。
寺伝によれば、第64代・円融天皇のとき(在位:969~984年)、天台宗の僧・源信(恵心僧都)が東国布教の折に当地を訪れ、開山した。源信が説教していると、火雷天神となった菅原道真の霊が現れて妨害しようとしたが、説教により霊を鎮めた。道真の霊は自画像を残して飛び去り、この画像が寺宝となった。この故に、山号を「教王山」と称し、道真の神霊(天満大自在天神)を鎮守としたため「神護寺 太政院」と号したという。その後、真言宗に改宗(時期不明)。慶安3年(1650年)、徳川第3代将軍・家光から寺領15石を受け、最盛時には末寺60余ヵ寺を擁したとされる。明治時代初期、「太政官」と紛らわしいとして、「大照院」と改称。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵菩薩。なお、境内の観音堂は、末寺だった「宝光院」(廃寺)から移された聖観世音菩薩を祀り、猿島坂東三十三観音霊場第15番札所となっている。他に「大師堂」、「護摩(不動)堂」は室町時代のものとされる。また、明治三十年の暴風によって倒壊した山門にあった金剛力士像は本堂内に移されたが、運慶・快慶作との伝承があり(室町時代~江戸時代のものと推定)、境町指定文化財。
伝説①:寺宝の「菅原道真の坐像」(境町指定文化財)は、衣冠束帯の姿で、縄を円座にしたものを敷いている。これは、道真が筑紫下向の途中、上陸地に休息の家もないので、漁師らが帆綱を巻いて円座としたという伝説に基づくもので、道真が学問の神として定着する以前の天神像とされて、「縄(綱)座天神」「縄(綱)敷天神」などと呼ばれているものの1つである。また、この坐像に酒を供えると道真の顔が紅潮するといわれ、別名「御神酒天神」ともいうとのこと。
伝説②:本堂の天井に天女に囲まれた龍の絵がある。昔ある時、戦に勝った武将たちが寺の前を通りかかり、境内に入って放火しようとした。その時、突然、天井の龍が動き出し、紅白の2匹の龍となって天に昇って行くと、辺りが一瞬のうちに暗雲に覆われ、幾千もの雷鳴が轟き渡った。これには武将たちも驚き、恐れて逃げ去った。こうして、寺は無事だったが、その後、龍が気ままに絵から抜け出して、村人を驚かせたり、農作物を荒らしたりするようになった。そこで、龍の急所とされる耳の付け根の辺りの鱗を一枚消したところ、龍は動き出さなくなったという。
伝説③:源義経が兄・頼朝に追われ、奥州に逃げる途中、腹の疼痛(さしこみ)で苦しんでいる老人に出会った。供の武蔵坊弁慶が持っていた薬を与えたところ、すぐに痛みが消えた。老人はお礼に笛を渡し、「もし危機が迫ったら、この笛を吹きなさい。必ずあなた方を救うだろう。」と言った。その後、義経一行がついに頼朝の追っ手に囲まれたとき、弁慶が老人から貰った笛を吹くと、見る見るうちに弁慶の身体が大きくなり、手のひらに義経を乗せて空高く舞い上がって、追っ手から無事逃れることができたという。このとき、巨大化した弁慶の足跡が、現・境町南部にある当寺院と、同・北部にあった「星智寺」(現在は廃寺)の池となったという(いずれも、今は池はない。)。
境町のHPから(菅原道真の坐像)
同(金剛力士立像)
写真1:「大照院」境内入口
写真2:観音堂(堂本尊:聖観世音菩薩)
写真3:大師堂
写真4:鐘楼
写真5:護摩堂(堂本尊:不動明王)
写真6:本堂
写真7:鐘楼の傍らにあるイチョウの大木