神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

教王山 神護寺 大照院

2024-12-21 23:31:56 | 寺院
教王山 神護寺 大照院(きょうおうさん じんごじ だいしょういん)。
場所:茨城県猿島郡境町伏木2153。国道354号線と茨城県道215号線(坂東伏木線)の「伏木南」交差点から、県道を北東へ約700mで右折(東へ)、約80m。駐車スペースあり。
寺伝によれば、第64代・円融天皇のとき(在位:969~984年)、天台宗の僧・源信(恵心僧都)が東国布教の折に当地を訪れ、開山した。源信が説教していると、火雷天神となった菅原道真の霊が現れて妨害しようとしたが、説教により霊を鎮めた。道真の霊は自画像を残して飛び去り、この画像が寺宝となった。この故に、山号を「教王山」と称し、道真の神霊(天満大自在天神)を鎮守としたため「神護寺 太政院」と号したという。その後、真言宗に改宗(時期不明)。慶安3年(1650年)、徳川第3代将軍・家光から寺領15石を受け、最盛時には末寺60余ヵ寺を擁したとされる。明治時代初期、「太政官」と紛らわしいとして、「大照院」と改称。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵菩薩。なお、境内の観音堂は、末寺だった「宝光院」(廃寺)から移された聖観世音菩薩を祀り、猿島坂東三十三観音霊場第15番札所となっている。他に「大師堂」、「護摩(不動)堂」は室町時代のものとされる。また、明治三十年の暴風によって倒壊した山門にあった金剛力士像は本堂内に移されたが、運慶・快慶作との伝承があり(室町時代~江戸時代のものと推定)、境町指定文化財。
伝説①:寺宝の「菅原道真の坐像」(境町指定文化財)は、衣冠束帯の姿で、縄を円座にしたものを敷いている。これは、道真が筑紫下向の途中、上陸地に休息の家もないので、漁師らが帆綱を巻いて円座としたという伝説に基づくもので、道真が学問の神として定着する以前の天神像とされて、「縄(綱)座天神」「縄(綱)敷天神」などと呼ばれているものの1つである。また、この坐像に酒を供えると道真の顔が紅潮するといわれ、別名「御神酒天神」ともいうとのこと。  
伝説②:本堂の天井に天女に囲まれた龍の絵がある。昔ある時、戦に勝った武将たちが寺の前を通りかかり、境内に入って放火しようとした。その時、突然、天井の龍が動き出し、紅白の2匹の龍となって天に昇って行くと、辺りが一瞬のうちに暗雲に覆われ、幾千もの雷鳴が轟き渡った。これには武将たちも驚き、恐れて逃げ去った。こうして、寺は無事だったが、その後、龍が気ままに絵から抜け出して、村人を驚かせたり、農作物を荒らしたりするようになった。そこで、龍の急所とされる耳の付け根の辺りの鱗を一枚消したところ、龍は動き出さなくなったという。
伝説③:源義経が兄・頼朝に追われ、奥州に逃げる途中、腹の疼痛(さしこみ)で苦しんでいる老人に出会った。供の武蔵坊弁慶が持っていた薬を与えたところ、すぐに痛みが消えた。老人はお礼に笛を渡し、「もし危機が迫ったら、この笛を吹きなさい。必ずあなた方を救うだろう。」と言った。その後、義経一行がついに頼朝の追っ手に囲まれたとき、弁慶が老人から貰った笛を吹くと、見る見るうちに弁慶の身体が大きくなり、手のひらに義経を乗せて空高く舞い上がって、追っ手から無事逃れることができたという。このとき、巨大化した弁慶の足跡が、現・境町南部にある当寺院と、同・北部にあった「星智寺」(現在は廃寺)の池となったという(いずれも、今は池はない。)。


境町のHPから(菅原道真の坐像)

同(金剛力士立像)


写真1:「大照院」境内入口


写真2:観音堂(堂本尊:聖観世音菩薩)


写真3:大師堂


写真4:鐘楼


写真5:護摩堂(堂本尊:不動明王)


写真6:本堂


写真7:鐘楼の傍らにあるイチョウの大木
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秋葉山古墳(茨城県八千代町)

2024-12-14 23:33:10 | 古墳
秋葉山古墳(あきばやまこふん)。
場所:茨城県八千代町尾崎字前山415-1。「尾崎前山遺跡製鉄炉跡地」(前項)の東、約140m。駐車場あり。
「秋葉山古墳」は、現・茨城県南西部にかつて存在した大きな沼「飯沼」を望む、旧「飯沼入江」(現・入沼排水路)西岸の台地突端に立地し、現在は干拓された台地下の水田地帯を一望できる場所にある。古墳名は、北側に「秋葉神社」が鎮座しているため、その名がある。全長約45mの前方後円墳で、かつては他に2~3基の古墳があったらしいが、現在は消滅している。明治24年の発掘調査によれば、縦7尺(約212cm)×横2尺5寸(約76cm)×深さ3尺(約91cm)という石棺が発見され、その中から人骨2体、直刀2口、槍2幹、小刀2口が出土したとされている(出土物は所在不明。)。人骨は「秋葉神社」北側に埋めて塚とし、石棺の石材を石碑としたという。


写真1:「秋葉山古墳」案内板と説明板


写真2:古墳は台地上に(北西に)上っていく道路の右側(東側)。木々に覆われ、古墳は殆ど見えない。


写真3:前方部。後円部(北西側)から見る。写真の左手など、かなり崩落しているようで、形がわかりにくい。


写真4:後円部。北西側から見る。なんとなく円い形に見えるが、この位置からだと前方部は更に下がっていて、見えない。


写真5:後円部から見る「秋葉神社」社殿。こちらのほうが前方部のように見えるが、そうではないらしい。


写真6:シャッターが閉められた小屋のような「秋葉神社」社殿


写真7:「秋葉神社」の裏(北側)にある塚。
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尾崎前山遺跡製鉄炉跡地

2024-12-07 23:32:01 | 史跡・文化財
尾崎前山遺跡製鉄炉跡地(おさきまえやまいせきせいてつろあとち)。
場所:茨城県結城郡八千代町尾崎404ー3外。茨城県道20号線(結城坂東線)と同217号線(皆葉崎房線)終点(常総市崎房)の交差点(コンビニ「ファミリーマート常総崎房店」がある。)から北へ約550m、案内板が出ているところで右折(東へ)、約350m。遺跡前に駐車スペースはないが、更に東に約150m進むと「史跡見学者駐車場」がある。
「尾崎前山遺跡」は、台地下の斜面から水田にかけて鉄滓(てっさい。鉄を製錬する際に出る不純物)が散布していたことから、昭和53~55年に発掘調査が行われ、旧石器時代~奈良・平安時代の複合遺跡であることがわかった。特に、南側斜面から3基の製鉄炉跡や木炭・粘土などの材料置場・作業場などの製鉄施設が発見され、台地上では、平安時代の9世紀後半頃の竪穴住居跡や鍛冶工房跡が確認された。当初、製鉄炉は、住居・工房跡と同時期に操業された竪型の炉と考えられていたが、その後の研究の進展により、8世紀まで遡る箱型の炉であった可能性が指摘されているという。
さて、この製鉄炉跡が注目されるのは、平将門が支配していた可能性である。上記の通り、当地での製鉄の開始は将門の登場よりかなり早いとみられるが、将門の本拠地とされる下総国豊田郡(延喜4年(904年)に岡田郡から改称)に所在しているのがポイント。将門の居館があったとされる「石井営所」(「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事))は当地から南に直線距離で約8.5km、「鎌輪之宿」(「平将門公鎌輪之宿址」2021年3月27日記事))は北東に同じく約5kmという位置にある。そして、軍記物語「将門記」に次のような内容の記事がある。即ち、承平7年(937年)11月、敵方・平良兼は、将門の駈使(くし。雑役夫)である丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)を買収して、スパイとして使う。子春丸等は、将門の「石井営所」に偵察に出かける際、営所内に炭を搬入している。この炭について、居館の暖房用ではなく、製鉄炉で使用する木炭ではないか、と解する説があって、そうだとすれば、将門が製鉄のために大量に木炭を集めていたとも解されるという。この辺りの解釈は何とも言えないが、武器だけではなく、農業用にも鉄の需要が大きかったと思われるので、将門が当地の製鉄施設を活用したことは大いに考えられるだろう。
蛇足:古代の製鉄では、木炭もそうだが、砂鉄が大量に必要となる。「常陸国風土記」の香島(鹿島)郡の条に、慶雲元年(704年)に国司・采女朝臣が若松浜で(砂)鉄を採って剣を造った、という記事がある。当地は内陸だが、利根川と鬼怒川に挟まれた地域で、利根川・鬼怒川の砂地から砂鉄が採取できたらしい。


写真1:斜面に造られた「製鉄炉」跡。復元された「製鉄炉」は9世紀頃のものと想定された竪型炉のようだ。フェンスに囲まれ、扉に閂が掛かっているが、施錠されていない(見学後はきちんと閉めましょう。)。


写真2:同上。正面(南側)から見る。


写真3:同上、背後(北側)から見る。


写真4:同上、横(東側)から見る。


写真5:同上、上(北東側)から見下ろす。
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