神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

茂侶神社(千葉県流山市)(下総国式内社・その9)

2012-10-27 23:28:09 | 神社
茂侶神社(もろじんじゃ)。
場所:千葉県流山市三輪野山619。流山電鉄「流山駅」から県道5号線(松戸野田線、通称:流山街道)を北上し(約1.3km)、流山市消防本部の交差点を右折(東へ)、約600mの交差点付近。コンビニ「ファミリーマート流山南店」の向かい側。駐車場なし。
創建時期は不明だが、大和国一宮「大神神社」の分霊により創建され、大物主命を祀るとされる。本社と同じく、江戸時代までは「三輪明神」と呼ばれ、鎮座地の台地を三輪野山という。千葉県神社庁HPには「三輪茂侶神社」名で登録されている。
下総国の式内社11座については論社は少ないが、「茂侶神社」にはいくつかの論社があるとされている。その中で最も有力なのが当神社で、古代に西国から移住してきた人々が江戸川側から現鎮座地の丘を見て、大和国の三輪山(御諸山)に似ているとして祖神を祀ったものともいわれている。古文書等もないので詳細は不明であるが、①当神社の正面に南北の直線的な道路が延びているが、これが古代道路の跡であることが確認されたこと、②当神社の東の田地に「茂侶下」という小字があること、③当神社の東、約400mのところに古墳時代前期の方墳とされた「三輪野山向原古墳」があった(現・流山卸センター付近。同センター建設により消滅)こと、④当神社の南西約1kmのところから大規模な古代祭祀跡が見つかり、須恵器等が出土したこと、⑤鎮座地の丘を北限にして、その前(南側)に向って集落が作られていったことなどが傍証となる。
なお、「式内社調査報告 第11巻」(「茂侶神社」の項:梅田義彦氏)では、論社として当神社と埼玉県吉川市鎮座の「三輪神社」(写真5、6)を挙げているが、吉川市の「三輪神社」は、慶長3年(1598年)に現在の江戸川が掘鑿されたことによって、当神社の氏子区域が分断されたため元和年間(1615~1624年)に当神社から分祀して創建されたものである(その旨を記した石碑が境内にある。)。
さて、式内社「茂侶神社」に関する史料は乏しいが、日本三代実録に、貞観13年(871年)に従五位上、元慶3年(879年)に正五位上の神階を授与されたことがみえる。社名の「茂侶」というのも、「御諸山」の「もろ」とか(敬称の「み」を省くのはおかしいという反論がある。)、「森」の「もり」が訛ったとかという説があるが、はっきりしない。現・埼玉県毛呂山町(もろやままち)の中心部の丘(臥龍山)に式内社「出雲伊波比神社」が鎮座しており(ただし、論社あり。)、その祭神は大名牟遲神だが、大物主命と同神とされる。何か関係があるのだろうか? 因みに、「和名類聚抄」には、同じ下総国だが、結城郡に「茂侶郷」があることが記されており、現・茨城県結城市東茂侶・北南茂侶付近と思われる。この地名について、吉田茂樹著「日本古代知名事典<コンパクト版>」(2006年9月)によれば、「も(盛)ろ(接尾語)」の意で、低平地の小高い所を言う、とある。特に反論するつもりもないが、それだけの意味なら、そこら中に「茂侶」という地名があっても良さそうなものだとも思うのだが・・・。まあ、低平地の小高い所という意味で当神社の鎮座地である「三輪野山」を指すと考えれば、全く矛盾はない。 
ところで、下総国式内社「寒川神社」に比定されている「二宮神社」(千葉県船橋市)(2012年3月17日記事)も「御山(みやま)」という台地上にあり、背後に深い森があったと伝えられている。このため、江戸時代には、この「二宮神社」が式内社「茂侶神社」ではないかと考えられていたらしい(2012年3月17日記事の写真5参照)。「二宮神社」自身にしてからが、天明元年(1781年)に吉田家に提出した文書に「二宮明神の義は茂侶神社と申す。往古より鎮座・・・」とあり、江戸時代末期まで「二宮神社」が式内社「茂侶神社」と思われていたようだ。しかし、「二宮神社」の鎮座地は千葉郷にあり、式内社「茂侶神社」が葛飾郷鎮座となっていることに反する。こうしたことから、「二宮神社」が式内社「茂侶神社」ではないことについては、現在では殆ど異論がない。


玄松子さんのHPから(茂侶神社(流山市))


写真1:「茂侶神社」境内入口の石鳥居。社号標は、「式内社 茂侶神社」


写真2:参道にある朱塗りの両部鳥居


写真3:社殿


写真4:境内の万葉歌碑、「鳰鳥の 葛飾早稲を 饗すとも その愛しきを 外に立てめやも」。この歌については次々項で。


写真5:分社された「三輪神社」(場所:埼玉県吉川市三輪野江1372。JR「三郷」駅の北、約3.5km。県道21号線(三郷松伏線沿い。駐車場有り。)。当神社前にある東武バスのバス停の名は「三輪之江神社前」となっている。


写真6:同上、社殿
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将門の胴塚

2012-10-20 23:32:11 | 史跡・文化財
将門の胴塚(まさかどのどうづか)。
場所:茨城県坂東市神田山715(「延命院」境内)。国道354号線「神田山」交差点から県道252号線(坂東菅生線)を南東に約450m進み、「毘沙門天 延命院」の案内板があるところを右折(西へ)、約200m。駐車場有り。
「将門塚」というと、東京都千代田区大手町にある「将門の首塚」が有名だが、茨城県坂東市には「将門の胴塚」がある。平将門は、いわゆる承平天慶の乱において、天慶3年(940年)に敗死する。戦闘中、飛んできた矢に当たって死んだことになっているが、その場所が現在の「國王神社」付近とされる(2012年10月6日記事参照)。将門の首は京都(平安京)に送られ、都大路の東市に晒されたが、何ヵ月たっても腐らず、夜な夜な叫び続けた。あるいは、3日目には関東目指して飛び立ち、その落ちた場所が旧・武蔵国豊島郡芝崎村、現在の東京都千代田区大手町の「将門塚」付近であるとされる。因みに、東京の「神田神社」(神田明神)の主祭神が平将門公であると思っている人もいるようだが、「神田神社」は天平2年(730年)に国土開発の守り神として大己貴命を祀ったのが創建とされる。元々、「将門塚」付近に鎮座していたが、江戸城の拡張によって現在地(東京都千代田区外神田)に遷座したものである。将門公が合祀されたのは、14世紀初めに疫病が流行り、これが将門公の祟りだと考えられて、これを鎮めるためであったという。
さて、将門の胴体はどうなったのか。弟の将頼と家来らにより「神田山 如意輪寺 延命院(かださん にょいりんじ えんめいいん)」境内に運ばれ、密かに葬られたという。将門終焉の地といわれる「國王神社」からは南東に約4km離れているが、なぜ、ここまで運ばれたのかははっきりしない(なお、「國王神社」近くに将門の菩提寺とされる「延命寺」(前項参照)があって紛らわしいが、まったく別の寺院である。)。所在地の「神田山(かだやま)」という地名は、一説に将門の身体を葬った所として「からだやま」が訛ったものともいうが、当地は伊勢神宮の神領である「相馬御厨」に含まれていたため「神田」と名づけられたというのが通説で、ここに葬れば墳墓が荒らされないと考えられたからともいう。
因みに、「延命院」は現在は新義真言宗に属し、「篠越山 延命院 観音寺」とも称したという。本尊は延命地蔵菩薩。創建時期は不明だが、寺伝によれば、弘法大師が関東巡錫の折に一宇を立て、将門の時代に伽藍が整備されたと伝えられる(一説に、将門の営所の鬼門除けのため整備されたともいう。)。
「将門の胴塚」は「延命院」の不動堂の背後にある(というより、不動堂が胴塚そのものを祀っているような形になっている。)。「将門山古墳」として坂東市の埋蔵文化財に指定されているが、発掘調査等が行われたのかどうか不明。築造時期は奈良・平安時代とされているのは、「将門の胴塚」なら当然だが、いわゆる古墳時代の古墳とは違うものである。塚の上に榧(カヤ)の大木が根を張っており、この木も坂東市天然記念物に指定されている。幹回り3.6m、樹齢は1千年以上とされる。


坂東市のHPから(延命院と胴塚)


写真1:「延命院」不動堂(南向き)。扁額は「谷原光不動尊」となっている。なお、向って右手に本堂があったが、昭和39年に不審火により焼失。


写真2:「将門の胴塚」(東側から)。不動堂が塚(古墳)そのものを祀るように建てられているのがわかる。


写真3:同上(北側から)。「神田山 一名将門山」の石碑と青面金剛の石像。


写真4:同上(西側から)。向って右が「将門の胴塚」の由来を記した石碑、左が石塔婆。写真が小さくて見えにくいが、石塔婆の右側のもの(古くて黒っぽい方)は、東京の「将門塚」に安置されていたものを「史跡将門塚保存会」から贈られたもの。要するに、この胴塚は、首塚である「将門塚」公認のものということだろう。


写真5:同じ境内にある「観音堂」(宝永7年(1710年)建立)。


写真6:同じく「毘沙門天堂」
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島広山・石井営所跡

2012-10-13 23:18:06 | 史跡・文化財
島広山・石井営所跡(しまひろやま・いわいえいしょあと)。
場所:茨城県坂東市岩井1603。県道20号線(結城坂東線)の「国王神社」入口付近の信号のところを東に入って、約200m。駐車場有り。
「島広山」は江川右岸(西岸)の台地で、ここに平将門の重要な拠点(陣屋・兵営)として「石井営所」があったといわれている。もちろん、将門敗死の後には全ての建物が焼き払われ、今では記念の石碑が置かれているだけである。また、ここに営所があったということ自体も伝承によるものらしく、発掘調査等は殆ど行われていないようである。
「島広山・石井営所跡」を南東に下り、次の交差点を右折(南西へ)すると、直ぐに「石井の井戸」がある。将門が王城の建設地を探して当地を見回っていたとき、喉が渇いて水を求めたところ、1人の老翁が現れ、大きな石を軽々と持ち上げて投げつけた場所から清らかな泉が湧き出した。将門が老翁に名を問うと、「久方の 光の末の 影うつる 岩井を守る 翁なりけり」という歌1首を詠って消えたという。この老翁を祀ったのが「一言神社」で、社伝によれば、創建は承平5年(935年)で、祭神は一言主命。ただし、これらはいずれも伝説に過ぎず、おそらく将門以前から泉自体はあったのだと思われる。現在の地名は「岩井」と書くが、かつては「石井」と書いて「いわい」と訓んでいたようで、古代の「石井郷」に当たると思われている。
さて、先ほどの交差点に戻り、更に南東に進むと、「医王山 金剛院 延命寺(いおうさん こんごういん えんめいじ)」がある。寺伝によれば、創建は文安2年(1445年)で、薬師堂に安置された薬師如来像は行基作といわれ、将門公の護持仏であったとされており、房総平氏の子孫という相馬氏が開創したという。現在は真言宗豊山派に属する寺院となっている。


坂東市のHPから(島広山・石井営所跡)

同(延命寺の薬師如来)


写真1:「島広山・石井営所跡」


写真2:「石井の井戸」跡。今は泉は湧いていないようだ。


写真3:「一言神社」。「石井の井戸」の西側にある。


写真4:「延命寺」山門(場所:坂東市岩井1111。駐車場有り。)


写真5:山門を入ると、池に架かる石橋を渡って、その先に薬師堂がある。これが「島薬師」の由来だろうか。


写真6:同上、薬師堂
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國王神社

2012-10-06 23:37:16 | 神社
國王神社(こくおうじんじゃ)。
場所:茨城県坂東市岩井951。国道354号線「岩井交番前」から県道20号線(結城坂東線)に入り、北東へ約1.5km。県道沿いにある。駐車場有り。
社伝によれば、鎮座地は祭神の平将門公の終焉の地。奥州で隠棲していた将門公の三女である如蔵尼が、三十三回忌に当たる天禄3年(972年)に当地に戻り、付近の山林で得た霊木をもって将門公の像を刻み、祠を建てて祀ったのが創始という。茨城県西部を含む北総地区では今も人気がある将門公であるが、新皇を名乗って反乱を起こした「朝敵」として江戸時代までは表立って祀れる状況ではなかったとされる(建長5年(1253年)には朝廷から赦免を受けているが・・・。前々項:2012年9月22日記事参照)。江戸時代になると、江戸総鎮守とされる「神田明神」(東京都千代田区)に合祀されていたこともあり、三代将軍徳川家光のときに「朝敵」の扱いは解かれた。しかし、明治維新後は再び逆賊として扱われ、「神田明神」でも祭神から外されるなどした(再度合祀されるのは1984年になってからである。)とされる。こうした苦難を乗り越え、坂東市(旧・岩井市)では「将門まつり」が行われるなど、地元の英雄として崇敬を集めている。

このブログでは、式内社や古代道路など、延喜式を中心史料としてしてきた。転勤してくるまで平将門公にはさして興味もなかったのだが、考えてみると、延喜式の成立が延長5年(927年)、施行が康保4年(967年)とされるので、まさに将門公(903?~940年)が生きた時代と重なる。要するに、延喜式は律令制の詳細を定めたものだが、既にこのときには律令制自体が大きく揺らいでいく時代に入っていたということがよくわかる。そういう前提を忘れてはいけないということだろう。


國王神社のHP

坂東市のHPから(国王神社と将門座像)


写真1:「國王神社」正面


写真2:社殿


写真3:拝殿も本殿も茅葺。いずれも茨城県有形文化財(寄木造将門座像も)。


写真4:境内に「宮内遺跡」の石碑もある。当神社から東側の広い地区内から、古墳時代後期から平安時代にかけての集落跡が発見され、特に平安時代の住居跡から鉄滓など鍛冶関連施設があったことを示すものが出土している。
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