神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

常陸国分尼寺跡

2018-01-27 23:53:58 | 史跡・文化財
常陸国分尼寺跡(ひたちこくぶんにじあと)。
場所:茨城県石岡市若松3-1。「府中小学校」の北側に隣接。小学校北西角のところに入口があり、駐車場もある。
「常陸国分寺」(前項)と同様に、天平13年(741年)、聖武天皇の勅願により各国に建立された国分尼寺(法華滅罪之寺)で、国分(僧)寺の北西約500m(直線距離)の位置にある。発掘調査により「法華」と書かれた土器(土師器)が発見されたことから国分尼寺であることが証明され、寺域は約160m四方、南から一直線上に南大門、中門、金堂、講堂が並ぶ伽藍配置とされる(塔は元からなかったらしい。)。それらの建物の礎石が良く残っており、貴重な遺構となっている。「常陸国分寺」と同じく、天正18年(1590年)に佐竹氏が(常陸)大掾氏の拠点であった「府中城」(旧・「常陸国府」)を攻撃したときに焼失したとされ、その後は廃絶したらしい。「常陸国分寺」とともに昭和27年に国特別史跡に指定され、現在は史跡公園となっている。


茨城県教育委員会のHPから(常陸国分尼寺跡)

石岡市観光協会のHPから(常陸国分尼寺跡)


写真1:入口にある「史蹟地 常陸国分尼寺址」の石碑。右側は「府中小学校」、左に見える建物は「若松尼寺ヶ原公民館」。


写真2:「常陸国分尼寺 法華滅罪之寺跡」の石碑。


写真3:広大な跡地に説明板。


写真4:礎石
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浄瑠璃山 東方院 常陸国分寺(常陸国分寺跡)

2018-01-20 23:12:13 | 寺院
浄瑠璃山 東方院 常陸国分寺(じょうるりさん とうほういん ひたちこくぶんじ)。常陸国分寺跡(ひたちこくぶんじあと)。
場所:茨城県石岡市府中5-1-5。国道355号線「国分町 府中3丁目」交差点から北へ約200mのところを左折(西へ)、突き当りの右側(北側)直ぐ。駐車スペース有り。
当寺院は、真言宗智山派に属する現存寺院で、天平13年(741年)の詔によって聖武天皇が全国に建立させた「国分(僧)寺」(「金光明四天王護国之寺」)のうち、「常陸国分寺」の後継寺院である。古代「常陸国分寺」の遺構上に位置しているが、現寺院に至るまでには紆余曲折があったようだ。古代「常陸国分寺」が聖武天皇の詔によって建立されたことは疑いないが、具体的に、いつ創建されたかは不明。一説に、天平勝宝4年(752年)完成という。「延喜式 主税帳」の記載によれば、常陸国分寺料は稲束6万束で全国の最多。定住僧30名、封戸50戸を有し、寺域は60町歩あったとされる。しかし、天慶2年(939年)には、平将門が常陸国府(2018年1月6日記事参照)を攻撃したときに、巻き添えで焼失(国府とは直線距離で約800mしか離れていない。)。天正13年(1585年)の佐竹氏と(常陸)大掾氏との戦いの際にも焼失し、中世以降は無住となって衰退したらしい。慶長年間(1596~1615年)には、近隣の「菩提山 千手院 来高寺」の住職が国分寺の住職を兼務するようになったとされ、「千手院」の末寺として細々と存続したとみられる。そして、大正8年、「千手院」と「国分寺」が合併して、現在の「常陸国分寺」が成立した(「千手院」は廃寺)という。本尊は薬師如来。
現在も本堂は南向きであるが、古代「常陸国分寺」も中門、金堂、講堂が南北に一直線に並んでいたらしい。昭和52年から行われた発掘調査によれば、寺域は東西約270m・南北約240mの規模で、境界には土塁をめぐらし、その外に堀があったと考えられている。現在、境内の山門前に巨大な「塔心礎石」が置かれているが、これは元からこの位置にあったのではなく、移設されたもの。元の位置は不明だが、現在の境内の東に「伽藍御堂(がらみどう)」と呼ばれる場所があって、そこに七重塔が建てられていたとみられている。また、西には鐘楼基壇が見つかっている。なお、大正10年に国史跡、昭和27年には「常陸国分尼寺」とともに国特別史跡に指定されている。


茨城県教育委員会のHPから(常陸国分寺跡)

石岡市観光協会のHPから(常陸国分寺跡)


写真1:「常陸国分寺」境内入口


写真2:「中門址」石碑


写真3:弘法大師堂


写真4:「七重の塔心礎石」


写真5:本尊の薬師如来を祀る「薬師堂」


写真6:「金堂址」石碑


写真7:唐門。旧「千手院」山門。


写真8:本堂


写真9:「講堂址」石碑


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總社神社(常陸国総社宮)(茨城県石岡市)

2018-01-13 23:33:47 | 神社
總社神社(そうしゃじんじゃ)。通称:常陸国総社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)、明神様。
場所:茨城県石岡市総社2-8-1。「常陸国府跡」(石岡小学校校庭)(前項)の南側、約100m。自動車なら、国道355号線「中町 国府3丁目」交差点から、西~南西に約450m進んだところで右折(北へ)、約80mで駐車場入口。なお、境内入口は「石岡市民会館」の南、約130mのところにある。
社伝によれば、天平年間(729~749年)の創建とされるが、「総社」(国司の義務である国内神社の巡拝を効率化するため、国府の近くに国内の神々を合祀した神社)自体の発生が平安時代末期と言われているところから、当神社自身のHPでも、そのように書かれている。元々は「国府宮」と呼ばれていたが、天神地祇6柱を合祀したことから「六所明神」と呼ばれるようになったという。一説には、常陸国の式内社27社のうち名神大(社)の7社(「鹿島神宮」、「静神社」、「吉田神社」、「大洗磯前神社」、「酒列磯前神社」、「稲田神社」、「筑波山神社」)を合祀したという説もあるが、数も、現在の祭神(伊弉諾尊、大國主尊、素戔嗚尊、瓊々杵尊、大宮比賣尊、布留大神)とは合わない。ただし、各国の「総社」のうち、「六所神社」と称するケースが多々あるが、これは6柱の神を祀るというよりも、「録所」(管内の神社を登録・統括する役所・役職)から転じたとする説も有力なので、必ずしも数や祭神に拘る必要はないのかもしれない。なお、創建当初は、「常陸国分尼寺」(「常陸国府」の北)付近にあったが、天慶年間(938~947年)に「(常陸)大掾氏」が「常陸府中城」に築城した際に、鎮守のために現在地に移したとも言われているようだ。こうして、律令体制が崩壊していく過程で各国の「総社」の中には衰退していった神社も多かったが、当神社は中世・近世を通じて時の領主の庇護を受けたようで、永享12年(1440年)には太田道灌が奥州下向の際に武運長久を祈るため参拝し、戦勝後、「曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月」という短歌を詠んで軍配団扇などを奉納したとされる。なお、現在も、毎年9月に行われる「常陸國總社宮例大祭」は「石岡のおまつり」とも称し、神輿・ささら・獅子頭・山車などが出て賑やかに挙行されて、関東三大祭りの1つに数えられるという。


常陸国総社宮のHP

茨城県神社庁のHPから(總社神社)


写真1:「總社神社」参道入口。社号標は「常陸總社宮」。


写真2:鳥居


写真3:随神門


写真4:社殿


写真5:境内の「日本武尊腰掛石」。日本武尊が東征の折、この石に腰掛けたという。


写真6:北側の参道にある鳥居と社号標(こちらは「常陸國總社宮」)。
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常陸国府跡

2018-01-06 23:42:21 | 史跡・文化財
常陸国府跡(ひたちこくふあと)。
場所:茨城県石岡市総社1-2-10(「石岡小学校」の住所)。国道355号線「国府三丁目」交差点から南に約50mのところ(「筑波銀行石岡支店」の斜め向かい辺り)で右折(西へ)、約400m直進すると「石岡市民会館」に突き当たるので、そこを左折(南へ)、約60mで「石岡小学校」入口。「石岡小学校」敷地内(校門から入って直ぐ)に「石岡市ふるさと歴史館」があり、その前などに駐車スペースあり。
「常陸国府(跡)」は、霞ヶ浦に注ぐ天王川と恋瀬川によって形成された石岡台地に位置し、中枢の国衙は現・「石岡小学校」の敷地内にあって、埋め戻しされている。国衙(現代風に言えば、県庁)部分は平成10年~19年に発掘調査が行われ、7世紀末頃の誕生から11世紀の終焉までの推移が確認できる遺構として貴重な存在とされる。まず、当初は、桁行六間(約10.8m)の南北棟を正殿とし、東西棟の脇殿、南北棟の前殿が整然と並ぶ。8世紀前半には、塀で囲まれた一辺約100mの区画内に、東西棟の正殿、南北棟の脇殿が「コ」字形に配置されるようになった。8世紀中頃~9世紀後半には、中軸線を継承しつつ、正殿が桁行七間(約12.6m)に拡張。その後、1回の建て替えがあったが、正殿の中軸線は維持されて、約300年存続したということになる。なお、常陸国分寺・常陸国分尼寺と同笵(同じ型で造られた)の軒瓦、「国」の墨書銘を有する土器、円面硯等が出土しているとのこと。
因みに、「常陸国府」消滅後は、その跡地を取り込む形で「(常陸)大掾氏」(「大掾」は国司の3等官で、職名から一族の名称となったものとされる。)によって「府中城」(通称)という中世城館が建てられ、「大掾氏(馬場氏)」代々の居城となった。しかし、天正18年(1590年)、佐竹義宣によって攻略され、その後、佐竹氏、六郷氏、皆川氏、松平氏(水戸徳川氏の分家)と城主が変わり、明治まで存続した。


石岡市のHPから(常陸国府跡)

同上(石岡市ふるさと歴史館)


写真1:「石岡小学校」正門。「常陸国府跡」は、グラウンドの下にある。


写真2:「常陸国府跡」碑。


写真3:中世「府中城」土塁


写真4:何故か「箱式石棺」も。
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