神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

酒列磯前神社(常陸国式内社・その7)

2018-05-26 23:36:06 | 神社
酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)。
場所:茨城県ひたちなか市磯崎町4607。国道245号線「部田野」交差点から茨城県道108号線(那珂湊大洗線)を東へ進み、「十三奉行」交差点を左折(北東へ)して茨城県道265号線(磯崎港線)を約1.5km進んだところで右折(東へ)、道なりに(これも県道265号線)約1.8kmで境内入口付近。駐車場は境内の右側(南側)に沿って約250m進んだところにある。
当神社創建の由来は、「大洗磯前神社」(前項)と同じ。即ち、「日本文徳天皇実録」斉衡3年(856年)記事によれば、常陸国鹿島郡大洗の磯辺に大己貴命と少彦名命が降臨し、塩作りをしている村人に神懸かりして、「昔、この国を造った後、東の海に去ったが、民を救うため今再び戻って来た」との託宣があったことから、大己貴命を祀るため「大洗磯前神社」が、少彦名命を祀るために当神社がそれぞれ創建された、という。以後も、両神社はセットで扱われ、天安元年(857年)にはともに官社となり、「薬師菩薩名神」と号した(「文徳実録」)。そして、「延喜式神名帳」には「酒烈礒前薬師菩薩神社」として登載されている。なお、現在、当神社と「大洗磯前神社」とは約8kmの距離(直線距離)にあるが、間に那珂川があり、当神社は那賀郡、「大洗磯前神社」は鹿嶋郡に鎮座となっている。もともと鹿嶋(香島)郡は那賀郡の一部であったが、大化5年(649年)に「鹿島神宮」の神郡として建郡されたという(「常陸国風土記」)。「鹿島神宮」も、本来は「那賀(那珂、仲)国造」家(多氏)の氏神だったのに、中臣氏に奪われる形となり、中臣氏が急速に勢力拡大していくのを苦々しく思っていたかもしれない。それで、斉衡3年の神託は大洗の海辺で起きた事件であるのに、那賀郡に当神社が創建されたのは「那賀国造」家(多氏)の影響力行使によるものではないか、との説があるようだ。
さて、その後、建久2年(1191年)には、源頼朝が筑波山に詣でた折、当神社の神威を崇めて茂木四郎を遣わし、神馬を奉献したほか、那珂郡以東・久慈郡以西の120町の神領を寄進したという。しかし、中世には衰退し、江戸時代以前に社殿も無くなっていたとされる。常陸水戸藩第2代藩主・徳川光圀公が詣でた時には神籬形式の祭祀であったことを憂い、第3代藩主・徳川綱條が先君の遺志を継いで旧社地から現社地に移して社殿を造営したという。


酒列磯前神社のHP


写真1:「酒列磯前神社」境内入口の鳥居と社号標。参道を覆うヤブツバキを中心とした樹叢は濃く、社殿裏なども含め茨城県指定天然記念物に指定されている


写真2:「酒列磯前神社 旧社跡」石碑。上記境内入口の向かって左側にある。この付近が旧社地で、元禄15年(1702年)に現社地に遷座。


写真3:磯崎港側(南側)から境内に入る石段


写真4:二の鳥居


写真5:万葉歌碑(右側)。「さかつらの おかにあわまき かなしきが こまわたぐとも わはそともはじ」(万葉集第14巻3451)


写真6:「水戸斉昭公お腰かけの石」


写真7:拝殿。社殿は西向き(太平洋側とは反対方向)。


写真8:本殿


写真9:本殿の裏手(東側)に回ると磯崎海岸に下りる道(参道)があって、海(太平洋)の前に巨大な鳥居が建立されている。


写真10:写真9の鳥居よりやや南に「磯崎灯台」があるが、その付近から見た磯の様子。岩石が北に傾いて並んでいるが、その一部に南に向いた岩の列があり、これを「逆列(さかつら)」と言った。これが当神社の名の由来という。


写真11:近くで見た磯の岩の列。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大洗磯前神社(常陸国式内社・その6)

2018-05-19 23:19:03 | 神社
大洗磯前神社(おおあらいいそさきじんじゃ)。
場所:茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890。茨城・千葉県道2号線(水戸鉾田佐原線)「大洗鳥居下」交差点から茨城県道108号線(那珂湊大洗線)に入り、東へ。自動車なら、「一の鳥居」の下を通って直ぐ左折して駐車場へ。「一之鳥居」から約300mで、海に向かって立つ「二之鳥居」正面石段。有名な磯浜に立つ鳥居は「二之鳥居」前にある。
当神社の創建は、所謂「六国史」の1つである「日本文徳天皇実録」齊衡3年(856年)に記事がある。式内社(名神大)で正史に創建の記事があるのは、とても珍しいのではないだろうか。曰く、「常陸国から次のような報告があった。鹿嶋郡大洗の海辺に新しく神が降りた。郡民の中に塩作りをする者があり、夜半に海を望むと天が光り輝いているのが見え、翌朝には一尺ほどの2つの怪石が海辺にあった。翌日、更に20余りの小石が二つの怪石に侍座するように並び、不思議な色をして、形は沙門(仏教修行者)に似ていた。里人の1人が神がかりして『我は大奈母知・少比古奈命である。昔、この国を造り常世の国に去ったが、人々の難儀を救うために再び戻って来た。』と言ったという。」。これにより、当地に「大奈母知命」即ち「大己貴命」を、那珂川の対岸に「少比古奈命」即ち「少名彦名命」を祀ったのが創祀という(少名彦名命」を祀ったのが「酒列磯前神社」となる。)。そして、やはり「文徳実録」によれば、翌年の天安元年(857年)には「酒列磯前神社」とともに官社に預かり、また、この2社が「藥師菩薩名神」と号することとなったという記事がある。そして、「延喜式神名帳」(延長5年:927年)には「大洗磯前薬師菩薩神社」として登載されている。このように、神社名に仏教の「菩薩」名がつくことも珍しいが、有名なのは豊前国一宮「宇佐神宮」(現・大分県宇佐市)で、「八幡大菩薩宇佐宮」(「延喜式神名帳」の記載)とも称された。仏教の「薬師」と言えば、普通「薬師如来」であるが、神仏混淆の時代、(日本の)神も悟り(解脱)を求めているという思想から、既に悟った「如来」ではなく、「菩薩」号を付けるのが一般的だったらしい。また、「薬師如来」の場合、「菩薩」のときに「十二誓願」という衆生を救う誓いを立てた(「薬師本願功徳経」)とされているところから、そういう神仏の恵みを期待したのかもしれない。
さて、このような由緒を持つ当神社も、中世以降は衰退し、戦国時代の永禄年間(1558~1570年)には戦火により、社殿が灰燼となった。以来、一小社となって細々と祭祀を続けてきたが、近世になって水戸藩第2代藩主・水戸光圀が社殿建設など再興に取りかかり、爾来水戸家の篤い保護を受けた、という。なお、現在の主祭神は「大己貴命」で、相殿に「少彦名命」を祀るが、これは「酒列磯前神社」の分霊だという。


大洗磯前神社のHP


写真1:「大洗磯前神社」の「一之鳥居」


写真2:「神磯の鳥居」


写真3:同上。ここに神が影向したという。


写真4:「二之鳥居」。海に向かって立つ。


写真5:石段脇の社号標「(国幣中社)大洗磯前神社」


写真6:石段の上から海(太平洋)を見る。


写真7:神門


写真8:拝殿


写真9:本殿(社殿は南東向き)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿弥神社(茨城県阿見町中郷)(常陸国式内社・その5の2)

2018-05-12 23:16:11 | 神社
阿弥神社(あみじんじゃ)。同町内の同名の神社と区別して、通称:中郷阿彌神社、又は阿見の阿彌神社。
場所:茨城県稲敷郡阿見町中郷2-25-1。国道125号線「中郷」交差点から北へ入り、直ぐ左折(西へ)して、境内入口。ただし、社殿は長い参道(約200m)を北東へ進んだところにあり、社殿の裏は茨城県道231号線(稲敷阿見線)と接している。駐車場なし。なお、所在地は、区画整理により「中郷」となったが、それ以前は「阿見町阿見2353」となっていた。
社伝によれば、和銅元年(708年)の創建。第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が、崇神天皇18年(BC80年?)に東国(あづまのくに、東海~関東地方一帯)を治めた事蹟を偲び、和銅元年(708年)に祠を建てて豊城入彦命を祭神として祀ったとされる(境内入口の説明板による。「崇神天皇18年」というのは崇神天皇48年の誤りではないだろうか?)。豊城入彦命は上毛野君や下毛野君などの始祖とされ、上野国二宮「赤城神社」(現・群馬県前橋市)、下野国一宮「二荒山神社」(栃木県宇都宮市)などの主祭神となっているが、初期ヤマト政権による地方平定の説話中の人物であり、実際に関東地方にまで来て治めたかは疑問視する説も多いようだ。ただし、別伝があり、元は海神を祀るもので、天平勝宝2年(750年)の神託により豊城入彦命を合祀したともいう。即ち、持統天皇5年(691年)の夏、霞ヶ浦沖が夜々怪しく光るので漁師が網を下ろすと、風雨とともに異人が現れた。異人は「海の神小童の神」と名乗り、霞ヶ浦の大毒魚の悪光が不漁と国家の愁をもたらすと言い残して光とともに波底に沈んだ。すると、雲が晴れて波が静まった。漁師は「海の神小童の神」を祀る「海神社」を村内の浄地に建立したが、後に社名が転訛して「網神社」になった、とする。
ということで、現在の祭神は豊城入彦命であるが、近世までは、祭神は武甕槌神(タケミカヅチ。常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神と同じ。)であったようである(「鹿島明神」と称する古文書があるほか、明暦3年(1657年)の棟札では単に「大明神」であるが、本地仏を十一面観音としていること等による。)。
さて、18世紀の終わり頃、当神社と前項の「(竹来)阿彌神社」、同村内の「熊野神社」の3社で、式内社「阿彌神社」を巡る争いが生じた。この辺りの事情は「阿見町史」に詳しいが、概略は次の通りである。当時、当神社は「大明神」、「(竹来)阿彌神社」は「二の宮鹿島大明神」、「熊野神社」は「熊野権現」と称しており、いずれも「阿彌神社」を名乗ってはいなかった。ところが、安永年間(1772~1781年)に「(竹来)阿彌神社」が「阿彌神社二の宮鹿島大明神」に社名を変えた。次いで、「(阿見)熊野権現」も「阿彌神社熊野権現」と称するようになった。これに対して、当神社は天明元年(1782年)に京都の吉田家から「阿彌神社」の称号につき許可を得た。同年、「熊野権現」は、「(竹来)阿彌神社」が「阿彌神社」を僭称しているとして、寺社奉行に訴え出た。「熊野権現」は延暦年中(782~806年)に当地に鎮座し、本地仏である阿弥陀仏の「阿弥」から「阿見」という地名になったのだ、と主張したのに対し、「(竹来)阿彌神社」は、「熊野権現」は元々「白山権現」だったのを熊野の修験者が「熊野権現」を勧請したもので、さほど古い由緒を持つものではない、と反論した。寺社奉行の裁定は、どちらも式内社「阿彌神社」と認める、という奇妙なものだった。そして、このとき、当神社は「引合」として呼び出され、「阿見(あけん)神社」と称するように指示された。ひどい仕打ちだが、元々当神社は土豪の野口氏が名主として庇護していたが、江戸中期には名主も免ぜられ衰退していた一方、「熊野権現」の別当「滝音院」が領主・丹羽氏と密接な関係にあったことが背景にある。当神社は、文政元年(1818年)にも吉田家から許状と「阿彌神社」の額を頂戴したが、文政3年(1820年)に「(竹来)阿彌神社」から訴えられ、許状と額を返却するよう命じられた(これに対して、吉田家は、当神社が式内社「阿彌神社」であるとして返却を拒否。)。結局、文政12年(1829年)、3社とも「阿彌神社」と名乗って良いが、「式内社」と名乗るのは許さない、という決着となった。明治期に入ると、元々修験の「滝音院」は存続できず、「熊野権現」は当神社に合祀された。しかし、この間、当神社代々の神主であった野口家の血統が絶え、「滝音院」の宮本家が還俗して神主となった、ということである。
以上のような経緯で、式内社「阿彌神社」は前項の「(竹来)阿彌神社」と当神社の2社が論社ということになり、一般的には社格が高かった「(竹来)阿彌神社」の方が有力とされているようだが、「阿見」(古代「阿見郷」に比定)に鎮座する当神社の方を推す説もかなり強いようである。


写真1:「阿弥神社」境内入口、社号標。


写真2:参道途中の鳥居(銅製?)。扁額は「阿彌神社」。


写真3:社殿。こちらの額でも「阿彌神社」となっているが、茨城県神社庁HPでは「阿弥神社」となっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿彌神社(茨城県阿見町竹来)(常陸国式内社・その5の1)

2018-05-05 23:27:56 | 神社
阿彌神社(あみじんじゃ)。通称:二の宮明神。同町内の同名の神社と区別して、通称:竹来阿彌神社(たかくあみじんじゃ)。
場所:茨城県稲敷郡阿見町竹来1366。「竹来中学校」の東側(グラウンド側)道路を北へ、茨城県道231号線(稲敷阿見線)との交点付近が正面入口。駐車場なし。
創建時期については諸説あり、推古天皇15年(607年)、舒明天皇3年(631年)、または天平勝宝年中(749~757年)ともされる。第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が、崇神天皇48年(BC50年?)に東国(現・東海地方~関東地方)を治めたことにより、後に祭神として祀られたともいわれる。しかし、「常陸国風土記」の記述に従って当地が「普都大神」(フツ)が降り立った「高来(たかく)」の里であるということに結び付けられて、祭神を「普都大神」とする説もある。また、「普都大神」=「経津主神」(フツヌシ)としたうえで、「経津主神」=「建御雷神」(タケミカヅチ)とする(「古事記」に「建御雷之男神」の別名を「建布都神」(タケフツ)とする記述がある。)ことから、祭神を建御雷神(常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神と同じ)とする説もある。そして、当神社は、中世までには「鹿島明神」と呼ばれるようになっていたらしい。現在の主祭神は「建御雷之男命」となっているが、相殿に「経津主命」と「天児屋根命」(アメノコヤネ)を配祀しており(これにより「竹来三社」とも称されていたという。)、これは「常陸国風土記」にある「香島天之大神」の3社(「鹿島神宮」・「坂戸神社」・「沼尾神社」)に由来しているらしい。近世には、「信太郡」の一宮「楯縫神社」(茨城県美浦村郷中)(2018年3月24日記事)に次ぐ二宮として「二宮(鹿島)大明神」と呼ばれ、「信太郡」の西半分の総社とされたという。「(一宮)楯縫神社」とは深い関係があり、両社の間で霞ヶ浦を介した「普都大神」渡御の神事(鹿島神事)が行われていたとのこと。
当神社が式内社「阿彌神社」を名乗るようになったのは、安永年間(1772~1781年)という。その後、茨城県阿見町中郷の「阿弥神社」などと式内社「阿彌神社」であることを争った。当神社の方が社格が高いこと等から、当神社を式内社「阿彌神社」に比定する説が一般的だが、中郷の「阿弥神社」を推す説も有力で、いずれも「論社」ということになっている(式内社争いについては、次項で書く予定。)。


写真1:「阿彌神社」鳥居と「社号標」(「縣社延喜式内二宮阿弥神社」)


写真2:深い樹叢(「阿弥神社樹叢」として阿見町指定天然記念物となっている。)の奥に社殿がある。


写真3:社殿(拝殿)


写真4:社殿(本殿)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする