神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

久佐奈岐神社(駿河国式内社・その7)

2010-09-28 21:32:18 | 神社
久佐奈岐神社(くさなぎじんじゃ)。祭神:日本武尊。
場所:静岡市清水区山切101。現在、第二東名高速道路の清水連絡路の工事中で、道路が臨時に通行止になっていたり、迂回路になっていたりと、道がわかりにくい。国道一号線バイパス「庵原」交差点から北に向かい、「デイリーヤマザキストア」の角を右折(北東へ)、道なりに進んでいくと「山の上病院」があるが、その手前に「シテイホールたちばな」という葬儀場がある。その駐車場の角を左折(北へ)すると、正面にみえる。駐車場なし。
当神社は旧・廬原郡に鎮座し、旧・有度郡の式内社「草薙神社」と区別するために、「東久佐奈岐神社」とも称した(鳥居の扁額に残っている。)。
創建時期は不明だが、日本武尊東征と関連があり、一説に、この地が日本武尊の行宮の置かれた場所とし、「行宮」をイホリと読んで、「廬原」という地名はここから付けられたともいう。主祭神は日本武尊であるが、その副将軍の吉備武彦命など4柱、更に従者9万8千の神々を祀るといい、このため「九万八千の御社」とも呼ばれた。また、当神社の一帯に「高部」という地名があり、日本武尊の名代部であったともいう。
このように当神社は日本武尊と大きな関わりがあるが、東征の戦功によって吉備武彦命がこの地を与えられ、その子である意加部彦命が初代の廬原国造になった、ともいわれるので、その氏族が祖神として祀ったのが当神社であると思われる。
ところで、なぜ「クサナギ神社」が2つあるのか。一説にはそれぞれ別の氏族が祀っていたとし、あるいは、1つの氏族が移動して2ヵ所に祀ったのだ、ともいう。因みに、風土記の編纂に関連して、和銅6年(713年)に、郡・郷の名には漢字2字の好字を付けるように、という官命があった。「久佐奈岐」は、いかにも当て字であり、あるいは、こちらの方が古いのかもしれない。1つの氏族が移動したのだ、とすると、廬原郡から有度郡に移動したことになるが・・・。


玄松子さんのHPから(久佐奈岐神社):http://www.genbu.net/data/suruga/kusanagi_title.htm


写真1:一の鳥居。扁額には「東久佐奈岐神社」とある。正面の道路は、当神社の前で左右に分かれる。つまり、正面の道路は当神社の長い参道だったらしい(地図で見ると500mくらいはある。)。


写真2:二の鳥居。こちらの扁額も「東久佐奈岐神社」。


写真3:舞台のような拝殿? 一段高いところに本殿がある。


写真4:本殿。この背後には古墳があったらしい。
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豊由気神社(静岡市清水区庵原町)

2010-09-24 23:15:58 | 神社
豊由気神社(とよゆけじんじゃ)。祭神:豊受比売命。
場所:静岡市清水区庵原町2894。清水庵原球場の南側。国道1号線バイパスの「西久保」交差点(東名高速「清水」ICのすぐ東側)を北西に曲がり、約2km。突き当りを右(北東)に曲がって、小高い丘の南麓に回る。駐車場なし。
式内社「豊積神社」の論社。社伝によれば、日本武尊が東征の折、安倍郡「神部神社」に天照大神を祀り、廬原郡の現鎮座地に豊受大神を祀ったのが当神社であるとする。日本武尊の副将軍であった吉備武彦の子である意加部彦命が廬原国造として当神社の祭祀を司り、神職を世襲していたが、延暦17年(798年)に世襲を禁じられ、以後当神社も衰退していったという。
「惣国風土記」は、「豊積神社」の別名を「止由気神社」とし、駿河国二宮であるとする。このため、当神社が式内社「豊積神社」とする説が生じた。しかし、「惣国風土記」は後世の偽書であるとされている。また、「特選神名牒」では、「豊」の字から豊受大神に結びつけたもので、取るに足らない説である、という。
以上のようなことから、当神社が式内社「豊積神社」であるとするのは疑問に思うが、現鎮座地周辺には、三池平古墳(当神社の東、約900m)、式内社「久佐奈岐神社」(同:東、約1.4km)、尾羽廃寺(同:南東、約2km)など重要な史跡等があって、もともと祭祀的に重要な場所だったかもしれない。


玄松子さんのHPから(豊由気神社):http://www.genbu.net/data/suruga/toyuke_title.htm


写真1:「豊由気神社」鳥居。脇の社号標は「郷社 豊由氣神社」。


写真2:社殿。写真には見えていないが、拝殿と本殿の間に立派な門がある。


写真3:社殿に向かって左に石段があり、少し登ると(当神社社殿より高い位置にある。)、別の社がある。多分、天照大神を祀るものと思われる。
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豊積神社(駿河国式内社・その6)

2010-09-21 22:32:02 | 神社
豊積神社(とよすみじんじゃ※)。祭神:木花開耶姫。
場所:静岡市清水区由比町屋原185。国道1号線「寺尾」交差点から県道396号線(富士由比線)に入り、途中で県道370号線(由比停車場線)でJR「由比」駅方面へ。同駅前を通り過ぎて約1kmで、清水銀行由比支店の横に参道入口がある(写真1)。駐車場なし。
境内の説明板によれば、鎮座地の「町屋原」というのは物々交換の市が立ったところで、天武天皇の時代(在位:673~686年)に五穀の神である「豊玉姫」を祀ったのが当神社の創建にあたる。延暦10年(791年)には、神主の夢想神託により祭神を木花開耶姫に改め、。延暦16年(797年)には坂上田村麻呂が東征の際に当神社に戦勝を祈願し、凱旋の際の宴が現在の「お太鼓祭り」の起源になったという。
問題なのは、祭神が変わった際、もとの「豊玉姫」は稲荷社として境内社に遷宮した、というところである。延喜式の成立が延長5年(927年)とされているので、説明板の通りであれば、既に祭神は「木花開耶姫」に変わった後になる。
ただ、「富士山本宮浅間大社」の項(2010年7月31日記事)で書いたように、浅間大神が木花開耶姫と同一神であるとされるようになったこと自体が後世のことと思われるし、もし延喜式神名帳成立当時から木花開耶姫を祀っていたなら、社名も「浅間神社」としたのではないだろうか。
当神社創建当時の祭神が「豊玉姫」なら、式内社「豊積神社」は境内社の「稲荷社」(写真4)ということになるが・・・。祭神自体が不詳、というのが正しいような気もする。

※社名は静岡県神社庁HPの記載によるが、これはどうだろうか。「とよつみ」か「とよづみ」かは迷うところだが、「とよすみ」は無いのではなかろうか。因みに、鎮座地も「由比屋原」となっていて、「町」が抜けている。


静岡県神社庁のHP(豊積神社):http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4405118

玄松子さんのHPから(同):http://www.genbu.net/data/suruga/toyosumi_title.htm


写真1:「豊積神社」参道入口。社号標には「式内 郷社 豊積神社」。奥の緑が、神社の森。


写真2:神橋を渡って一の鳥居。


写真3:社殿前


写真4:社殿の向かって左にある1社5扉の境内社。その左から2番目が稲荷社(豊受大神)。
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高見山古墳 (辻畑古墳)

2010-09-17 21:14:53 | 古墳
高見山古墳(たかみさんこふん)。旧称:辻畑古墳(つじばたけこふん)。
場所:沼津市東熊堂24(「熊野神社」の住所)。国道1号線「江原公園」交差点を北に曲がって、すぐ。駐車場なし。
珍しい前方後方墳(駿河国内で発見されたのは3例目)で、南北約62m、東西35m(ただし、西側が道路に削り取られているため推定)、北側の後方部の高さ4・5m。後方部の墳頂の1m下に木棺跡があり、水銀朱のほか、鉄の鏃、銅鏡、勾玉などの副葬品、(祭祀のため)人為的に割られた高坏土器も出土した。
前方後方墳は、前方後円墳より古い形式とされるが、「高見山古墳」は、土器の形式などから3世紀前半頃の築造と考えられるという。これは、駿河国どころか、東日本でも最古級の前方後方墳となる。もちろん、被葬者は不明だが、これほど古い時期に大掛かりな古墳を築造できる首長がいたということになる。
しかし、この古墳が発掘されたのは、都市計画道路「沼津南一色線」の工事のためであり、いずれ消滅してしまう・・・?


「大和國古墳墓取調室」さんのHPから(辻畑古墳):http://obito1.web.fc2.com/tuzibatake09.html

「割狐塚稲荷神社」勝又清宮司のHPから(高尾山穂見神社):http://www.inarijinja.com/kenmu/takaosan/index.htm


写真1:「熊野神社」境内入口。「熊野神社」については、2千年前に勧請されたと伝わるほかは、よくわからない。祭神は伊弉那岐尊・伊弉那美尊らしい。2千年前、はともかくとして、鎮座地名が「熊堂(くまんどう)」というのだから、相当の由緒があるのだろう。「熊野神社」は、右手の立派な建物(東熊堂自治会館)の奥にある。


写真2:研石。2千年前、「熊野神社」を勧請した地元の村人が、農作物を荒らす猪を退治するため、この石で鏃を研いだ。その鏃には絶大な効果があったので、この研石を神宝として祀ってきたという。


写真3:遷座した「高尾山穂見神社」。弘化3年(1846年)に山梨県の「高尾山穂見神社」から分祠、明治21年(1888年)に「熊野神社」境内の高台に移したという。道路工事のため、現在地に遷座した。「高尾山穂見神社」は甲斐国巨麻郡の式内社の有力な論社。祭神は保食神(江戸時代には稲荷社)。


写真4:「高見山古墳」。小高いところに「高尾山穂見神社」が鎮座していた。発掘によって、古墳のくびれが明確にされている。(正直、古墳のことはよくわからず、神社や石のほうに興味があるので、古墳の写真はあまり撮っていなかった。)
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丸子神社(駿河国式内社・その5)

2010-09-14 22:53:20 | 神社
丸子神社(まるこじんじゃ)。祭神:金山彦命。
場所:静岡県沼津市浅間町4。JR「沼津」駅の南西、約1km。県道163号線(東柏原沼津線)沿いで、「浅間町」交差点の北東の角(かなり交通量が多い。)。駐車場有り。
社伝によれば、創建は崇神天皇の御代(在位:前97~前29年?)。崇神天皇は人皇第10代とされるが、実在性が高い最初の天皇ともいわれる(ただし、3~4世紀頃?のことらしい。)。創建時の祭神は金山彦命だが、景行天皇東国巡幸の際、国常立尊を祀るようになったともいう。また、旧社地は沼津市本字堂敷免にあり(写真1)、社地は方八町ともいわれる大社であったという。しかし、文亀年間(1501~1503年)の火災により社勢が衰え、更に天保2年(1831年)の火災によって、「浅間神社」(沼津市浅間町)の相殿となった。そして、明治10年(1877年)の「浅間神社」再建の際に、二扉一社となったとされる。
因みに、「浅間神社」は延暦20年(801年)、坂上田村麿が東夷征伐の際に富士山に戦勝祈願し、その凱旋時に創建されたという。後に「仙元沼津大明神」とも称され、特に武家の崇敬が篤かった。いずれも相当の古社だが、式内・式外の差か、二扉一社という形でありながら「丸子神社」は旧県社、「浅間神社」は旧郷社であった。
さて、「丸子」というと、静岡では、とろろ汁で有名な「丸子(まりこ)宿」を思い浮かべる。しかし、「丸子」というのは「麻呂子」であって、男子を指す。したがって、当神社は、誰か高貴な王子などを記念したものか、あるいは男子の集団、例えば軍団創設を記念したものではないだろうか(妄想?)。もちろん、これでは祭神が金山彦命であることは説明できない。しかし、もともと、当神社の由緒からしても、特に金山彦命が祭神である理由は説明されていない(江戸時代には、国常立尊を主祭神としていたらしい。)。


玄松子さんのHPから(浅間神社・丸子神社):http://www.genbu.net/data/suruga/asama3_title.htm


写真1:「丸子神社」旧跡。場所:沼津市。第一中学校の南側。社殿は鉄筋コンクリート製の立派なものだが、ここには神霊はなく、祭礼の際の御旅所となっているという。因みに、この旧跡の東に、やや広い市道が南北に通っているが、当神社の例祭の日(9月15日)には北の本田町まで市が開かれ、沿道に幟旗が立ったという。このため、北上するという意味も込めて、今もこの道を「幟道(のぼりみち)」と呼んでいる。


写真2:「丸子神社」・「浅間神社」鳥居


写真3:社殿正面
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