神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

黒前神社

2020-03-28 23:29:17 | 神社
黒前神社(くろさきじんじゃ)。
場所:茨城県日立市十王町黒坂762。国道394号線「上深荻」交差点から茨城県道60号線(十王里美線)に入り、東へ約5.3kmのところ(「茨城百選 竪破山 黒前神社 入口」の案内看板あり)で左折(北側)、道なりに約4.3mで一の鳥居前。ここに数台駐車可。左手の未舗装路を約500m進むと、広めの「竪破山登山口駐車場」(二の鳥居付近)があるが、未舗装路は道幅が狭く、かなり荒れているので注意。なお、JR常磐線「十王」駅付近からは、県道60号線経由で約20km。山頂までは、登山道を約40分。
当神社は「常陸国風土記」(ただし、「萬葉集注釈」による逸文)に登場する「黒坂命」(クロサカ)を祀る神社で、「黒坂命が奥州の蝦夷を討伐に行って凱旋する途中、多珂郡の角枯山で病死した。そこで、角枯を改めて黒前山と名付けた。」(現代語訳)という記事に基づく。この「黒前山」が現在の「竪破山」(658m)であるとされる。実際に行ってみると「こんな山の中に・・・」、と思うが、当時から既に信仰の山だったのだろうという。
社伝によれば、延暦2年(763年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州征伐の帰路、当地に宿営した際、その夜に霊夢を受けて5つの峰(東金砂、西金砂、真弓、竪破、花園)に祠を建てた。これが当神社の再興であり、貞観3年(861年)にも円仁(慈覚大師、第3代天台座主)によって諸堂が建立されたという。巨石信仰を背景として、古代~中世には天台宗の影響下で日吉山王権現が祀られ、「石大権現」、「竪破山大権現」と称されたらしい。江戸時代に入ると、御神体を鏡、別当を当山派修験(真言宗系)に改められ、巨石「太刀割石」前に奥院として八幡社があったというが、神仏混淆色が強かったことから、天保年間(1830~1844年)に水戸第9代藩主・徳川斉昭が仏像を廃棄して社名を「黒前神社」と改称したという。現在の祭神は黒坂命で、境内社に大己貴命(オオナムチ)を祀るとされるが、本来は、神体山あるいは磐座に関連する大己貴命(大和国一宮「大神神社」(現・奈良県桜井市)の祭神である大物主神の和魂)の方が主祭神であったのではないかともいわれている(「十王町史 地誌編」)。
上記の通り、「黒前神社」と「竪破山」とは一体不可分なのだが、写真が多くなり過ぎたので、「太刀割石」など巨石は次項で。


日立市のHPから(竪破山ハイキングコース)


写真1:「黒前神社」一の鳥居と社号標(「郷社 黒前神社」)


写真2:明神鳥居と随神門(元は仁王門で、裏に仁王像がある。)


写真3:「甲石」(かぶといし)と釈迦堂


写真4:「甲石」(外周12m、高さ3.5m)。「竪破和光石」とも言い、この巨石の中に薬師如来が宿り、石の割れ目から光を出して病を癒すという。また、格子の中に十二神将(薬師如来の守護神)が納められていたが、現在残っているのは6体で、麓の集落で保管されているとのこと。


写真5:「舟石」(長さ4m×幅1.5m)。小舟のような形をした石で、「甲石」から剥がれるようにして割れてできたものらしい。


写真6:釈迦堂


写真7:釈迦堂の裏手から急坂の石段を上って「黒前神社」へ。


写真8:「黒前神社」拝殿


写真9:同上、本殿。石祠である。


写真10:同上、「黒前神社碑」と境内社

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三鈷室の碑

2020-03-21 23:14:29 | 史跡・文化財
三鈷室の碑(さんこむろのひ)。
場所:茨城県常陸太田市里川町49-1。国道349号線から茨城県道22号線(北茨城大子線)に入り、約5.3km(「里川コミュニティセンター」の手前(西)、約350m)。県道沿いだが、少し高いところにあり、見落としやすい。駐車場なし(県道の路肩が少し広くなっている。)。
「三鈷室の碑」は、現・茨城県と福島県の県境にある「三鈷室山」の麓に建てられた石碑で、当地に出没した群狼を妙見菩薩の力によって調伏して平穏を得たということが刻されている。碑文によれば、宝亀7年(776年)、行基菩薩が当地に来て、狼の害を取り除くため、害が最も多い三峰のうちで先ず中峰を開いて観音を祀り、前峰に霊符を置いた。その後、後峰に上って法を修し、塚を築いて、そこに金紋のついた法器を埋めたことから、この三峰を三鈷室と称した。祭祀が行われている間はよかったが、祭祀が途絶えた天明年間(1781~1788年)には再び狼の害が多くなってきた。そこで、前峰に妙見菩薩を祀って調伏したところ、群狼は居なくなったという。調伏を行ったのは「鱗勝院」の前院主・隆豊と権大法印・祐観という2人の僧で、隆豊が碑文を書き、祐観が石碑を建てた、ということになっている。流石に行基が当地に来ることなどなかっただろうが、大袈裟に自分たちの法力をアピールしたのだろう。里川地区は、寛永4年(1627年)に蓮実掃部衛門という人物が開いた新田で、明治になるまで行政上は1つの村として認められなかったから、それ以前には集落は無かったとされる。ただし、現・高萩市には水戸藩の軍用馬を飼育する「大能牧場」があり、当地はその西端に当たるとのことで、放牧していた馬が狼の被害に遭ったということはあるらしい。なお、現在も「三鈷室山」(標高870m)があり、地形図にはないが、「妙見山」、「前室山」という峰があるとのこと。
因みに、妙見菩薩と狼の関係であるが、妙見菩薩は元々、中国の道教の影響により北極星または北斗七星を神格化したもので、妙見尊星王、北辰妙見菩薩などとも称する。「妙見」というのは、良く見える、ということで、善悪や真理を良く見通す者を意味するという(そのため、眼病治癒の御利益もある。)。一方、全天で最も明るい星の1つが「シリウス」こと「大犬座」α星で、中国では「天狼星」という。こうした星繫がりで、妙見菩薩が狼を抑える力があるとされたのではないかと思われる。


常陸太田市観光物産協会のHPから(三鈷室の碑)


写真1:「三鈷室の碑」。県道沿いだが、一段高いところにあり、説明板が目印。


写真2:同上


写真3:「三鈷室の碑」の後ろにも石碑


写真4:直ぐ横の道が「三鈷室山」の登山口のようだ。
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佐波々地祇神社(常陸国式内社・その26の2)

2020-03-14 23:20:28 | 神社
佐波々地祇神社(さははちぎじんじゃ)。通称:佐波神社。
場所:茨城県北茨城市上小津田1233。茨城県道10号線(日立いわき線)沿い、「華川小学校」北側の五差路から約190mのところを右折(南東へ)、約270m進んだところを左に入る。駐車スペース有り。当神社は向かって左手にある鳥居の奥にある。
創祀年代は不明。社伝によれば、元は現社地の北西約4kmの澤山(佐波山)の南嶺、浄蓮寺渓谷の奥の「神楯」というところに祀られていた。日本武尊が東征の帰途に佐波神を拝して、佐波山の妖蛇を斬り、また塩原山の山上に鏡を納めたのを創祀とする。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が征奥の折、佐波山に兵を休めて戦勝を祈願した。永禄12年(1569年)に塩原山の山上に移り、後に塩原山中腹の現社地に遷座したという。北茨城市には「佐波波地祇神社」を名乗る神社が2社あり、当神社も「日本三代実録」貞観元年(859年)の「常陸国正六位上の石船神と佐波波神に従五位下の神階を授けた」という記事にいう「佐波波神」、また「延喜式神名帳」登載の多珂郡鎮座「佐波波地祇(神)社」に比定される論社となっている(北茨城市大津町鎮座の「佐波波地祇神社」につき前項記事)。なお、現在の祭神は天日方奇日方命(アメノヒガタクシヒガタ)。
大津町の「佐波波地祇神社」に比べて、現在の社勢の差は明らかであるが、式内社としては当神社の方を推す説が強いようである。因みに、元は社殿が南向きであったのを、昭和45年に本殿を移築して東向きにしたという。これについて、玄松子さんは、「「式内社調査報告」には、海(東方)に向かせるためとあるが、あるいは、佐波山を背にするためじゃないかとも思う。」と書いているが、これは流石に慧眼だと思う。


玄松子さんのHPから(佐波々地祇神社)


写真1:「佐波々地祇神社」境内入口の鳥居


写真2:本殿。鳥居を潜って石段を上ると本殿の横に出る。


写真3:拝殿。「佐波神社」という扁額が掛かっている。江戸時代には「佐波明神」と呼ばれていたようだ。


写真4:社殿の横(北側)に短い石段があり、その上に小祠がある。ここに旧本殿があったようだ。


写真5:社殿は東向きだが、そちらには細い山道しかない。山道側から社殿を見る。

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佐波波地祇神社(常陸国式内社・その26の1)

2020-03-07 23:21:59 | 神社
佐波波地祇神社(さははちぎじんじゃ、さははくにつかみじんじゃ)。通称:大宮六所明神。唐帰山(からかいさん)。
場所:茨城県北茨城市大津町1532。茨城県道沿い「北茨城市大津町公民館」から東へ約170m(最初の交差点)のところで、左手(北側)に当神社の鳥居と石段が見える(徒歩約300mだが、結構きつい登り坂)。自動車の場合は、更に約100m進んだところで左折(北東へ)、道なりに約260m進み「佐波波地祇神社 車参道」という案内看板が出ているところを左折(北へ)、約500m進んだ行き止りが駐車場。
社伝によれば、創建年代は不明ながら、斉衡~天安の間(854~859年)であろうとする。「日本三代実録」貞観元年(859年)の記事に、常陸国正六位上の石船神と佐波波神に従五位下の神階を授けたという記載があり、この「佐波波神」が当神社のことであるという。また、「延喜式神名帳」登載の多珂郡鎮座「佐波波地祇(神)社」に比定される論社となっている。
当神社の鎮座地は大津港を見下ろす高台にあって、松の木に覆われていたため、古くから航海の目印になっていた。伝承によれば、日本武尊東征の折、大津沖で逆浪に遭って漂流したときに、白衣の神人が雲竜に乗って現れ、「吾は佐波波の神である。皇子(日本武尊)の船を守るためにやってきた。直ぐに順風にしよう。」と言うと、その通りになった。水戸藩第2代藩主・徳川光圀も、北地探検のときに目印にして難を逃れたといい、唐(外国)に行っても帰ってこれるということから「唐帰山」と呼ばれるようになった、という。現在の主祭神は天日方奇日方命(アマノヒガタクシヒガタ。三輪氏・賀茂氏の祖とされる。)で、「六所明神」ともいうように大己貴命・積羽八重事代主命・三輪神少彦名命・媛蹈鞴五十鈴姫命・五十鈴依姫命の5柱を配祀する。祭神からすると国土開発・国家鎮護などのために祀られたと思われるが、上記の伝承からしても海上守護の御神徳が特に高いとして、古来、武将や漁民の崇敬が厚かったという。なお、現在も5年ごとに行われる大祭「常陸大津の御船祭」は国重要無形民俗文化財に指定されている。


佐波波地祇神社のHP

茨城県神社庁のHPから(佐波波地祇神社)


写真1:「佐波波地祇神社」参道入口。社号標。


写真2:参道石段と鳥居


写真3:社殿正面


写真4:拝殿


写真5:本殿。脇に多くの錨が置かれている。


写真6:手水舎。享保以前からあるという井戸で、地下30mから汲み上げる御神水。


写真7:亀塚


写真8:駐車場からの境内入口にある鳥居
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