神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

峰寺山 西光院 長命寺

2024-02-24 23:31:35 | 寺院
峰寺山 西光院 長命寺(みねでらさん さいこういん ちょうめいじ)。
場所:茨城県石岡市吉生2734。茨城県道7号線(石岡筑西線)「上曽」交差点から北西~西へ約4.4kmで左折(南~南東へ。「峯寺山 西光院 入口」という案内板がある。)、約2.2km。駐車場有り。東側(上曽交差点方面)及び北側(石岡市吉生方面)からも上る道路はあるが、道幅が狭いので注意。なお、動物園「東筑波ユートピア」と隣接しており、その案内看板が要所にあるので、それを目印にしても良い。
寺伝によれば、大同2年(807年)、法相宗の僧・徳一の開基とされる。徳一が吉生の里から北の山上を見上げると、光る観音像があった。よく見ると、それは巨大な岩が馬頭観音像となったもので、これを本尊として祀るために、山腹に覆屋として懸崖造の本堂を建立した、という。中世、真言宗に改宗したが、その後天台宗となり、現・茨城県石岡市の「東耀寺」(2023年11月4日記事)の末寺となった。安永6年(1777年)に本堂など諸堂焼失、寛政3年(1791年)に再建されたという。現在の本堂は、間口・奥行ともに7.6m、総高22mの寄棟造で、断崖上に組まれた脚高11m余の懸崖造となっている。本尊は、高さ約10mの自然石の上に直径約1mの丸石が乗ったものとされ、「霊石馬頭観世音」として信仰されているという。なお、歌舞伎等で有名な小栗判官に因む伝説(民話)がある。小栗判官は、中世、現・茨城県筑西市の小栗城主・小栗助重をモデルとしているが、伝承では、小栗判官が懐妊した妻の照手姫を連れて当地に来たとき、急に産気づき、山上の観音に祈ったところ、無事安産で生まれたところから、「よく生まれた」ということで村の名を「吉生(よしう)」とした。また、子の誕生に喜んだ小栗判官が山の急坂を馬で駆け上り、観音に感謝を伝えたということから、馬の守護神としての名声が高まったという。
因みに、境内に入って直ぐのところに「観音堂」があり、通称「立木観音」が安置されている。元は山麓の吉生集落にあった「立木山 高照院 長谷寺」の本尊の十一面観音立像で、「高照院」も平安時代、徳一の開山とされるが、明治42年に廃寺となり、本尊の観音像を当寺院に移したという。立ち木をそのまま観音像として彫り付けたような像(腕などは寄木)で、高さが5.9mもある。台座ではなく、自然木の根を矧付けている(ただし、その部分は後補。)など、意図して「立木仏」として造られたらしい。製作年代は平安時代末、12世紀頃のものとされている。
以上のように、見所が多い寺院なのだが、多分、過去に行儀の悪い観光客がいたのだろう、境内に「撮影禁止」、「カメラ、ビデオ等持ち込み禁止」などの掲示がある。このため、今回は、境内入口だけを撮影し、他は公的なウェブページなどから画像を掲載した(サイズ変更しているため一部不鮮明)。是非、現地には訪れていただきたいが、静かにお参りください。なお、画像の引用で差し支えのあるものがあれば、ただちに削除いたします。


石岡市のHPから(西光院)

茨城県教育委員会のHPから(球状花崗岩(小判石))


画像1:「峰寺山」中腹に建つ「西光院」(茨城県郷土文化振興財団HPから)


写真:境内入口。拝観時間は「午前十時から午後四時まで」となっているが、以前訪れたときは、午後3時半ちょうどに着いたのだが、既に閉門していた。入口に撮影禁止、カメラ等持ち込み禁止の表示がある。


画像2:「立木観音」。茨城県指定有形文化財。(石岡市HPから)


画像3:本堂。手前に「茨城百景 峰寺山」の石碑がある。茨城県指定有形文化財。(茨城県教育委員会HPから)


画像4:本堂は懸崖造となっている。(石岡市HPから)


画像5:「小判石」(場所:「西光院」駐車場入口から北西へ約100m。路傍に説明板があり、そこから下る。ただし、現在、落石のため見学路が立入禁止になっているとのこと。)。球状花崗岩の露頭で、黒雲母の断面が小判形に黒く表れるため「小判石」といわれ、世界的にも珍しいものらしい。茨城県指定天然記念物。(石岡市HPから)
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白鳥神社(茨城県石岡市)

2024-02-17 23:33:01 | 神社
白鳥神社(しらとりじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市小幡851。重複している県道42号線(笠間つくば線)と同150号線(月岡真壁線)の「小幡」交差点から西へ約900mで右折(北へ)して県道150号線を北へ約80m。「筑波四面薬師 薬王院」(前項参照)の西隣だが、直接つながる道はない。駐車場なし。
往古、日本武尊が東征の折、当地で功績があり、里人が仰慕して祀ったのが最初という。当地(小幡)は古代の新治郡大幡郷に属し、調(税としての布)として納められた絹織物の産地であった。当神社はその中央部に鎮祭され、「大幡明神」と尊称された。天正年間(1573~1592年)、佐竹義宣が小田氏春と合戦の折、戦勝祈願して大勝したことから、弓1張・矢20本を奉納した。兵火のため焼失するも、天正5年(1577年)、佐竹氏が再建し、田高3石2斗5升を寄進した。慶長年間、「薬王院」が別当の時、「五竜明神」と改称。元和4年(1618年)本社再建、享保3年(1718年)拝殿再建、天明2年(1782年)本社・拝殿再建。明治2年、現社名に改称し、明治15年に村社に列した。現在の祭神は日本武尊で、木花開耶姫命を配祀する。


写真1:「白鳥神社」鳥居。右側の小径の壁の向こうが「薬王院」。左側は県道150号線で、湯袋峠を越えて現・筑西市真壁町中心部に最短距離で至る。


写真2:同上、社号標


写真3:同上、社殿
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十三塚北面薬師跡(山寺跡)

2024-02-10 23:36:45 | 史跡・文化財
十三塚北面薬師跡(山寺跡)(じゅうさんづかほくめんやくしあと(やまでらあと))。
場所:茨城県石岡市小幡字十三塚。茨城県道42号線(笠間つくば線)と同150号線(月岡真壁線)の「小幡」交差点(コンビニエンスストア「セイコーマート「八郷小幡店」がある。)から、県道42号線を西へ約2.5km、「筑波霊園」の大きな看板の出ているところで右折、約400mのところが入口(カーヴミラーのあるところ。「筑波霊園」の東北端)で、西に少し上る。なお、県道からの入るところではやや広めの道路だが、途中で未舗装になり、北面薬師跡の入口からはかなり荒れているので、自動車は、手前の旧墓地分譲事務所(廃屋)前の広いところか、もっと手前の舗装道路端に駐車して行くのが安全と思われる。
寺伝によれば、延暦元年(782年)、法相宗の僧・徳一が「筑波山寺」(後の「筑波山 中禅寺」、現・「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事))を創建したとき、その守護として筑波山の周囲4ヵ所に薬師如来を配置した(「筑波四面薬師」)が、その1つ「北面薬師 十三塚山寺」として建立されたという。ただし、「八郷町史」(2005年)では、実際には、明徳元年(1390年)に慶珍僧都が開山したのが始まりのようであるとしている。小幡は、常陸府中(現・石岡市府中など市街地)方面から筑波山への参詣のための東側参道沿いで、古くから宿場町として栄えた(県道42号線を更に西へ進むと「風返峠」に至る。)ため、「十三塚山寺」も隆盛したが、その後衰えた。明治42年には、明治40年の石岡市街地の大火で焼失した「常陸国分寺」の本堂(薬師堂)として移築され(「常陸国分寺」(2018年1月20日記事の写真5)、本尊の薬師如来像は小幡宿の「薬王院」に移された。その後も、露座の石造不動尊像への参拝者があったが、現在ではすっかり寂れ、僅かな石仏・石碑等が残るのみとなっている。
なお、地名(小字)の「十三塚」であるが、全国各地にあり、十三仏に準えて、塚に経文などを納めて供養したものとされ、村境や峠道に多いといわれている。当地では、戦国時代末期、北条氏方の小田城主・小田氏治(天庵)と佐竹氏方の片野城主・太田資正(三楽斎道誉)が戦った時の死者を当時の地頭・小幡道三が葬ったところで、多くの小さな五輪塔が建てられていたという。ただし、当地には、いわゆる「12匹の猫と大鼠の伝説」もあって、こちらのほうが有名らしい。その伝説とは、「1人の僧が筑波山を下りてきた。日暮れて、近くに寺はないかと村人に尋ねたところ、近くに無住の寺があるが、泊まれるようなところではない。何か怪しいものが棲みついていて、泊って帰ってきた者はいない、と止められた。僧は、そのような場所こそ、修行する者に相応しいと言って、その寺に行った。さて、寝ようとしたときに1匹の猫がやってきて、この寺には大きな化け鼠が棲んでいて、それが人を喰ってしまう。猫のプライドにかけて退治したいが、1匹では無理なので、あと11匹の猫を連れてきてもらえれば、大鼠と戦うことができる、と話した。そこで、僧が里に下りて11匹の大きな猫を連れてきて、読経すると、猫たちは寺の奥の方に入っていった。夜中になると、寺の中でドタバタと大きな音がしたが、やがて静かになった。朝になって見に行くと、11匹の猫と巨大な金毛の鼠が死んでいた。僧と村人たちは、12匹の猫と大鼠の塚を築いて供養した。これが十三塚の由来である。」(適宜要約)というものである。類話も各地にあるようだが、当地では、戦国時代の領主・小田氏(源頼朝の重臣・八田知家を祖とする名門)と佐竹氏方の諸将との戦いを暗示したものとする説もある。その場合、小田氏を大鼠=悪役とする扱いだが、僧や村人からすれば、どちらも共倒れになる末路を示唆したものという、穿った見方もできるようだ。

筑波四面薬師 薬王院(つくばしめんやくし やくおういん)。通称:小幡薬王院。
場所:茨城県石岡市小幡849。「小幡」交差点から西へ約900m、重複している県道42号線と同150号線が分岐する直ぐ手前(東側)のところに参道入口がある。駐車場有り。
寺伝では応永9年(1402年)、宥衡により開山。慶長年間(1596~1615年)、宥鑑の代に再興されたが、文化12年(1815年)に火災により焼失、明治2年再建。真言宗豊山派「筑波山 薬王院 光明寺」と称したが、現在は宗派に属さない単立寺院となっている。本尊:薬師如来。


写真1:「十三塚北面薬師跡」。地に落ち、薄れかけた説明板には「筑波北面薬師堂聖址」とある。


写真2:同上、池跡?


写真3:同上、石仏等。


写真4:同上、石造不動尊像。


写真5:「筑波四面薬師 薬王院 参道口」石柱


写真6:「薬王院」本堂
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菖蒲沢薬師古道(その2・龍神様)

2024-02-03 23:32:00 | 磐座
龍神様(りゅうじんさま)。
場所:(前項から続く。)菖蒲沢薬師古道の起点「菖蒲沢公民館」前から約450mで「菖蒲沢薬師堂」との分岐、そこから左へ(北西へ)約290m。
「菖蒲沢薬師堂」(前項)の(最初の)薬師如来には、「海から来た薬師」という伝説がある。全国各地に海や池から引き上げられた仏像という話は多いが、この薬師如来も鹿島郡汲上村(現・茨城県鉾田市汲上)の浜で、漁師の網に掛かったものとされる。その漁師の夢に薬師如来が現れ、「ここは東の端で、人々が集まるのには不便だ。もっと西の方の山に行きたい。」とのお告げがあった。そこで、漁師が仏像を背負い、西へ歩き出したところ、背中から「歩いていくのは大変だろうから、青龍大王の力を借りよう。」という声がして、急に体が軽くなったかと思うと、菖蒲沢村の裏山に立っていた。漁師が一休みしようと、「ヨイトコサ」と岩に腰掛けたところ、薬師如来も「なるほどヨイトコだ。朝日は当たるし、沢もある。」といって、そこで7日7晩、光を放った。その光に驚いた村人が集まり、堂を建てて祀った。そして、その手助けをした青龍大王が巨石に化したのが「龍神様」で、その後も水の神様として信仰されたという。因みに、筑波山麓不動峠に源がある小桜川は、現・石岡市仏生寺・小野越から東に流れ、現・茨城県道138号線(石岡つくば線)を越えた辺りで大きく向きを変え、北東へ向かう。そのため、かつては、小桜川が増水すると、屈曲点付近の菖蒲沢及び辻の集落で度々水害が発生したということから、水神を祀ったというのは、その水害を治めるためだったのかもしれない。


写真1:「馬櫪神(ばれきしん)」。馬の守護神というが、来歴不明の謎の神とされる。茨城県稲敷市の「大杉神社」の境内社「勝馬神社」が馬櫪神を祀るという(「大杉神社」(2022年6月4日記事の写真10~11)参照)。


写真2:岩に彫られた「氏神様」


写真3:「不動尊」。元は、種字の板碑があったようだ。


写真4:「天白稲荷神社(天白位稲荷大明神)」表参道鳥居。


写真5:同上、社殿。伝承では、享保8年(1723年)、旗本・小菅氏の氏神社として創祀。以後、菖蒲沢村の村社とされたが、明治8年に現・石岡市月岡の「香取神社」が周囲の村々を統合した村社になったため、菖蒲沢の氏神となったという。


写真6:「龍神様」の巨石と石祠


写真7:同上


写真8:同上
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