神子御前乃宮(みこごぜんのみや)。神子御前社。(小貫)香取神社の飛地境内社。
場所:茨城県行方市小貫294(「香取神社」の住所)。国道354号線と茨城県道50号線(水戸神栖線)の「泉北」から国道を東に約2.4km、たばこ店「新滝屋」の角を右折(南西へ)、約140mで右側道に入り、約60mで右折(北西へ)、約180m(突き当り)で、「香取神社」の鳥居前。駐車スペースあり。なお、「神子御前乃宮」は北東2丁(約218m)の場所に鎮座するとし、「香取神社」から直接に行く道はない。上記「新滝屋」南西、約100mにあるゴミ・ステーションのところから未舗装の狭い道を北西に向かい、廃屋を通りすぎた奥にある。
「茨城縣神社誌」(昭和48年)では、「香取神社」について、通称:下の明神、祭神は経津主命で、江戸時代の創建、ということくらいしかわからない。境内神社について、八幡宮(石宮)・子安様(方四尺の祠)・道祖神の記載があるが、「神子御前乃宮」については触れられていない。一方、鳥居横の昭和63年建立の「香取神社誌」石碑では、創建を第12代・景行天皇御代(4世紀頃?)とし、飛地の境内神社に芸津毘売を祭神とする「神子御前乃宮」があるとしていて、「常陸国風土記」の芸津里(きつのさと)に関する記述を要約・引用している。それは、「常陸国風土記」行方郡の条の「当麻郷の南に芸都里がある。昔、寸津毘古(キツヒコ)・寸津毘売(キツヒメ)という国栖(くず。土着の民)がいた。寸津毘古は、倭武天皇(ヤマトタケル)の命に逆って無礼な振る舞いをしたので、剣の一太刀で討たれてしまった。寸津毘売は、白旗を掲げて道端にひれ伏し、天皇を迎えた。天皇は憐れんで許し、小抜野の仮宮に向かった。そこに、寸津毘売が姉妹を引き連れて、真心を尽くして朝夕に仕えた。天皇は、その懇ろな姿をお喜びになったことから、この野を「宇流波斯(うるわし)の小野」というようになった。」(現代語訳・一部省略)という話である。芸津毘売(寸津毘売)を祭神とする「神子御前乃宮」が古くからの当地区の守り神だったというのだが、以前は、それが秘匿されていたらしい。言い方は悪いが、芸津毘売(寸津毘売)は征服者に性的奉仕をして歓心を得たということになるのだから、秘して祀るしかなかったのではないか、とする人もある。それが、広く知られるようになったのは、どうやら柴田弘武著「常陸国風土記をゆく」(平成12年)で紹介されてからだと思われる。「小貫」が「小抜野」の遺称地であり、「香取神社」が鎮座する丘辺りは古代から土着の民が住んでいそうなところであることに異論はないが、「神子御前乃宮」が祀られるようになった経緯等については、まだ謎が残っているような気がする。因みに、小沼忠夫著「北浦の昔ばなし」(昭和60年)では、「神子御前社」の祭神「ミコージン」は日本武尊に従って来た機織の女神で、昔は娘達が機の道具を供えて機織りの上達を祈願したという、と書かれている。
写真1:「香取神社」鳥居、社号標
写真2:同上、鳥居横の「香取神社誌」石碑
写真3:同上、拝殿
写真4:同上、本殿
写真5:「御子御前乃宮」
写真6:同上
写真7:同上
写真8:「香取神社」が鎮座する丘(国道沿いの「八坂神社・愛宕神社」から見る。間に武田川が流れている。)。ちょうど、「御子御前社」と「八坂神社・愛宕神社」が向かい合うように建てられている。
場所:茨城県行方市小貫294(「香取神社」の住所)。国道354号線と茨城県道50号線(水戸神栖線)の「泉北」から国道を東に約2.4km、たばこ店「新滝屋」の角を右折(南西へ)、約140mで右側道に入り、約60mで右折(北西へ)、約180m(突き当り)で、「香取神社」の鳥居前。駐車スペースあり。なお、「神子御前乃宮」は北東2丁(約218m)の場所に鎮座するとし、「香取神社」から直接に行く道はない。上記「新滝屋」南西、約100mにあるゴミ・ステーションのところから未舗装の狭い道を北西に向かい、廃屋を通りすぎた奥にある。
「茨城縣神社誌」(昭和48年)では、「香取神社」について、通称:下の明神、祭神は経津主命で、江戸時代の創建、ということくらいしかわからない。境内神社について、八幡宮(石宮)・子安様(方四尺の祠)・道祖神の記載があるが、「神子御前乃宮」については触れられていない。一方、鳥居横の昭和63年建立の「香取神社誌」石碑では、創建を第12代・景行天皇御代(4世紀頃?)とし、飛地の境内神社に芸津毘売を祭神とする「神子御前乃宮」があるとしていて、「常陸国風土記」の芸津里(きつのさと)に関する記述を要約・引用している。それは、「常陸国風土記」行方郡の条の「当麻郷の南に芸都里がある。昔、寸津毘古(キツヒコ)・寸津毘売(キツヒメ)という国栖(くず。土着の民)がいた。寸津毘古は、倭武天皇(ヤマトタケル)の命に逆って無礼な振る舞いをしたので、剣の一太刀で討たれてしまった。寸津毘売は、白旗を掲げて道端にひれ伏し、天皇を迎えた。天皇は憐れんで許し、小抜野の仮宮に向かった。そこに、寸津毘売が姉妹を引き連れて、真心を尽くして朝夕に仕えた。天皇は、その懇ろな姿をお喜びになったことから、この野を「宇流波斯(うるわし)の小野」というようになった。」(現代語訳・一部省略)という話である。芸津毘売(寸津毘売)を祭神とする「神子御前乃宮」が古くからの当地区の守り神だったというのだが、以前は、それが秘匿されていたらしい。言い方は悪いが、芸津毘売(寸津毘売)は征服者に性的奉仕をして歓心を得たということになるのだから、秘して祀るしかなかったのではないか、とする人もある。それが、広く知られるようになったのは、どうやら柴田弘武著「常陸国風土記をゆく」(平成12年)で紹介されてからだと思われる。「小貫」が「小抜野」の遺称地であり、「香取神社」が鎮座する丘辺りは古代から土着の民が住んでいそうなところであることに異論はないが、「神子御前乃宮」が祀られるようになった経緯等については、まだ謎が残っているような気がする。因みに、小沼忠夫著「北浦の昔ばなし」(昭和60年)では、「神子御前社」の祭神「ミコージン」は日本武尊に従って来た機織の女神で、昔は娘達が機の道具を供えて機織りの上達を祈願したという、と書かれている。
写真1:「香取神社」鳥居、社号標
写真2:同上、鳥居横の「香取神社誌」石碑
写真3:同上、拝殿
写真4:同上、本殿
写真5:「御子御前乃宮」
写真6:同上
写真7:同上
写真8:「香取神社」が鎮座する丘(国道沿いの「八坂神社・愛宕神社」から見る。間に武田川が流れている。)。ちょうど、「御子御前社」と「八坂神社・愛宕神社」が向かい合うように建てられている。