神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鹿見塚古墳

2017-12-30 23:19:14 | 古墳
鹿見塚古墳(しかみつかこふん)。大生西部2号墳。
場所:茨城県潮来市大生890-2。茨城県道187号線(矢幡潮来線)と同189号線(大賀牛堀線)の交差点(北の角に「特別老人養護ホーム いたこの里」がある。)から、187号線を北西へ約260m進んだところで左折して(北西へ)、未舗装路に入り、直ぐ。駐車スペースあり。「大生神社」(平成29年12月9日記事)の長い参道の入口の、県道を隔てた向かい側辺り。
北浦の西側に広がる「大生原(おおうはら)」と呼ばれる台地上には110基以上の古墳が存在し、茨城県下では最大級の古墳群として「大生古墳群」と称されている。特に、「大生神社」(前項)の西側にある「大生西部古墳群」は代表的なもので、その中の「鹿見塚古墳」は盟主的な古墳であるとされている。「鹿見塚古墳(大生西部2号墳)」は前方後円墳で、その大きさは全長約58m、後円部径約34m、前方部幅約32m。西側くびれ部分に造り出しがあるとされ、「片耳式前方後円墳」であるとしている。後円部が中腹から急に高く付き出している墳形が目につき、前方部の広がりが少ないのが特徴となっている。築造当時から現在のような墳形であったかは不明だが、現・鹿嶋市の「夫婦塚古墳」(2017年11月11日記事)にも共通する特徴であるという。築造時期については、現地説明板等では「古墳時代中期(5世紀)頃」となっているが、昭和27年から「子子舞塚古墳」(大生西部1号墳)等の発掘調査を行った国学院大学・大場磐雄教授によれば、6世紀後半~7世紀後半と推定している。なお、大場教授は、「大生神社」の由緒等も調査し、大生古墳群が「多(オフ)氏」の奥津城であろうとした。そして、「子子舞塚古墳」からは箱式石棺・玉類・円筒埴輪・直刀などが出土しているが、副葬品としては貧弱であり、「大生古墳群」が築造された6世紀後半~7世紀後半には「多氏」の権力は衰退し、地方の1豪族に過ぎないような地位になったとも推定している。
因みに、「鹿見塚古墳」は昭和46年に、「大生古墳群」は昭和50年に茨城県指定文化財に指定されている。


茨城県教育委員会のHPから(鹿見塚古墳) :ただし、地図は不正確


写真1:「鹿見塚古墳」ほぼ全景。南東側から。


写真2:同上、後円部がかなり急な山形。


写真3:同上、前方部から後円部を見る。


写真4:同上、後円部から前方部を見る。前方部に広がりが少ない。


写真5:同上、前方部。南西向き。


写真6:「天神塚古墳」(「鹿見塚古墳の北西、約150m)。北側から見る。写真右手前が前方部、左手奥が後円部。「天神塚古墳」(大生西部4号墳)も前方後円墳で、こちらの方が大きい(全長約63m、後円部径約40m)。


写真7:「古墳子子前塚」石碑。実物の「子子舞塚古墳(まごまいつかこふん)」は、前方部の一部しか残っていないとのことで、よくわからなかった。
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大生の思井戸

2017-12-23 23:03:18 | 史跡・文化財
大生の思井戸(おおうのおもいど)。
場所:茨城県潮来市大生。「大生山 延命院 観世音寺」(前項)前から北西~北へ、S字カーヴを約120m下る。駐車場なし。
「大生の思井戸」は、「大生の七ツ井戸」の1つで、「大生神社」(2017年12月9日記事)の神泉、御手洗池とされた湧き水。「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)の御手洗池と印象がよく似ており、それに倣って構築されたようだ。現在も水が湧いており、地元の酒造メーカー「愛友酒造」(潮来市辻)は、この「思井戸」と同じ水脈の水を仕込水に使っているそうである。昭和51年に潮来市指定文化財に指定されている。


写真1:「大生の思井戸」。鳥居が建立され、泉自体が神聖視されているようだ。


写真2:標柱と石祠。「青龍宮」を祀るという。


写真3:現在も泉が湧いており、鯉が泳いでいた。
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大生山 延命院 観世音寺

2017-12-16 23:10:05 | 寺院
大生山 延命院 観世音寺(おおうさん えんめいいん かんぜおんじ)。
場所:茨城県潮来市大生750。「大生神社」(前項)の東側の道路を北へ約90mで丁字路を右折(南東へ)、約130m進んで左折(東へ)、急な坂を下りて正面。駐車場なし。
寺伝によれば、大宝元年(701年)に多(オフ)氏の菩提寺として建立され、平安時代末期以降は大生氏の庇護により天台宗の寺院として隆盛を誇ったが、明治12年に火災に遭って衰退、現在では無住となっているようである。「大宝元年」創建というのは確かめようがないが、幸いにも火災を免れた本尊の「木像観世音菩薩立像」は、像の高さ161.2cm、カヤ(榧)材の一木造り、背刳りを施し、両腕とも肩先から別材、両足も別材で造られており、面相や衣装の衣文線など細部の制作手法等から制作年代は平安時代後期の作と考えられている、という(昭和33年、茨城県指定文化財に指定)。
因みに、当寺院の背後の台地には、「鳳凰台城(大生城)」という中世の城館跡があるらしい。伝承によれば、桓武天皇の皇子・葛原親王を祖として、第14代・大生八郎玄幹という人物(大生氏開祖)が、平安時代末期の寿永2年(1183年)に築いたとされる。この伝承によれば、(平安時代末期以降の)「大生氏」は桓武平氏の流れであり、所謂「常陸大掾氏」の一族であろう。「常陸大掾氏」は、もともと常陸国の大掾(国司の三等官)であるが、常陸国は親王任国であったため太守である親王は現地に赴任せず、二等官である介が事実上のトップであった。そして、平将門の反乱を制圧した常陸大掾・平貞盛が在庁官人らを掌握して、実権を握った。その子孫である「常陸大掾氏」の本拠地は筑波郡であったが、その庶家が水戸や行方・鹿島方面にも勢力を伸ばしていったとされる。「大生氏」もその一族で、多分、地名を採って名乗ったものと思われるので、「多氏」と「大生氏」とは直接の関係はないと考えられる。なお、「常陸大掾氏」は、佐竹氏により、天正18年(1590年)に宗家が、翌年には「三十三館主」と呼ばれた鹿島・行方郡の枝族の殆どが滅亡させられたという。


茨城県教育委員会のHPから(木造 観音菩薩立像)


写真1:「観世音寺」本堂? (観音像の収蔵庫) 


写真2:同上建立の石碑らしい。


写真3:墓石群。


写真4:境内入口の石造の仏像
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大生神社(茨城県潮来市)

2017-12-09 23:03:56 | 神社
大生神社(おおうじんじゃ)。
場所:茨城県潮来市大生814。茨城県道187号線(矢幡潮来線)と同189号線(大賀牛堀線)の交差点(北の角に「特別老人養護ホーム いたこの里」がある。)から、187号線を北西へ約210m進んだところで右折(北東へ)、直進約470m。駐車スペースあり。
社伝によれば、創祀年代は不明であるが太古から当地に鎮座。飯富一族(オフ:多氏)が大和国から常陸国に移住した際、氏神として祀られたという。勧請元とされるのは、大和国(現・奈良県)式内社「多坐弥志理都比古神社」(通称「多神社」)とされる。神護景雲元年(767年)、大和国春日に遷座して現・「春日大社」が創建された後、大同元年(806年)に当地に遷還、更に大同2年(807年)に遷座して現・「鹿島神宮」となった。そして、その跡地である当地に別宮として「大生神社」が祀られた、という。よって、当神社は「元鹿島宮」、「鹿島の本宮」という呼び名もあるとのこと。なお、現在の祭神は「鹿島神宮」と同様、建御雷之男神(建御雷神)(タケミカヅチ)となっている。
当神社は「延喜式神名帳」にも載っていないし、所謂「六国史」にも見えない。従って、この伝承については色々と想像できるのだが、実際、後に「鹿島神宮」の末社となり、当神社の例祭には「鹿島神宮」の「物忌」(女性祭主、「跡宮」(2017年11月4日記事)参照)が出輿したというから、関係は深かったのだろう。もともと多氏というのは、初代・神武天皇の皇子である神八井耳命(カムヤイミミ)を祖とする一族で、神八井耳命が異母弟である第二代・綏靖天皇に皇位を譲り、自らは神祇を司る者になったとされる(「日本書紀」、「古事記」)。以来、多氏は祭祀を司る一族になったというが、多は「太」、「大」、「意富」、「飫富」、「於保」とも書き、多くの国造家の祖などともなっており、各地に有力者を生んでいる。有名なのは阿蘇国造家、科野国造家などであるが、東国では常道仲(常陸那賀)国造家が多氏出身であるとされている。「常陸国風土記」によれば、香島(鹿島)郡は、文化5年(649年)に下総国海上国造の領内の一里と那賀国造の領内の五里を分割して、香島大神(「鹿島神宮」)のために神郡として建郡された。よって、那賀国造家の意向が反映した可能性は高いだろう。また、「常陸国風土記」行方郡条には香島・香取の分社(複数)の存在が記載されているので、古代の行方郡にも「鹿島神宮」の勢力が強く及んでいたことが窺われる。(多分)通説的な考え方は、元々「香島大神」は現地の神であったのを、多氏の進出によりヤマト政権の東国侵攻のため「建御雷神」を祀るようになったのではないか、ということである。そして、管見であるが、当神社が「延喜式神名帳」等に載っていないのは、「鹿島神宮」が公式、当神社が非公式、つまり多氏プライベートの神だったのかとも思われる。


茨城県教育委員会のHPから(大生神社本殿)


写真1:「大生神社」鳥居


写真2:社殿正面


写真3:拝殿、本殿。本殿は安土桃山時代の天正18年(1590年)の造営で、茨城県指定有形文化財。なお、「大生神社樹叢」も県指定天然記念物。
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息栖神社(常陸国式外社・その3の1)

2017-12-02 23:34:06 | 神社
息栖神社(いきすじんじゃ)。
場所:茨城県神栖市息栖2882。千葉県道・茨城県道44号線(成田小見川鹿島港線)と同260号線(谷原息栖東庄線)の交差点から、県道44号線の旧道に進んで(北西へ)約1kmで参道入り口。右折(東へ)して直ぐ。駐車場有り。
社伝によれば、応神天皇の時代に現・神栖市日川の地(現在地の東南、約8km)に鎮座し、大同2年(807年)に現在地に遷座したという。「延喜式神名帳」に記載がないが、「日本三代実録」の仁和元年(885年)の記事にある「於岐都説神」が当神社のことであるとするのが通説で、所謂「国史見在社」とされる。現在の社号では「いきす」と読むが、「於岐都説」は「おきつせ」で、沖洲(おきす)の意味だろうとされていることによる。現在、久那戸神 (岐神)(クナド)を主祭神とし、相殿に天鳥船命(アメノトリフネ)と住吉三神(上筒男神、中筒男神、底筒男神)を祀っており、近世までは「息栖五所明神」とも呼ばれたという。久那戸神は道祖神の原型の1つとされ、当社の社伝によれば、鹿島神(武甕槌命)と香取神(経津主命)の東国平定の先導をした神とされる。また、天鳥船命は「古事記」で建御雷神(=鹿島神)の副神として葦原中国平定に赴いたとされている。住吉三神も海上交通の神であることから、古くから道路・交通、特に航海の安全の神として祀られたものと思われる。加えて、「鹿島神宮」と「香取神宮」との関係が深く、当神社を合わせて「東国三社」と称された。地理的な関係もあって「鹿島神宮」との結びつきが強く、当神社は「鹿島神宮」の境外摂社とされている(現在、宗教法人としては独立)。なお、当神社は常陸利根川に面した場所に鎮座しているが、「鹿島神宮」と「香取神宮」とともに、古代にはいずれも「香取海」という内海に面しており、中でも当神社は海上の島のような場所にあり、互いに海上交通で行き来していたのだろう。更に、それぞれを線で結んで「東国三社トライアングル」(ほぼ直角三角形になる。)と呼んだり、太陽の方向やら富士山の方向やら、その鎮座地の必然性を論じる説も多いのだが、ここでは立ち入れない。
ところで、当神社の一の鳥居の下に日本三霊泉の1つとされる「忍潮井(おしおい)」という泉がある(他の2つは「伊勢の明星井」・「伏見の直井」)。海辺に面した場所ながら真水(淡水)が出る井戸として、塩水を押しのけて出る井戸の意味でその名がついたという。井戸は2つあり、大きい方の鳥居の下を「男瓶」、小さい方の鳥居の下を「女瓶」といって、それぞれ瓶(甕)が埋め込まれている。伝説によれば、当神社が日川の地から現在地に遷座する際、「忍潮井」は取り残されてしまった。2つの瓶は三日三晩泣き続け、その後自力で移動し、一の鳥居の下に取り付いたという。


神栖市観光協会のHPから(息栖神社)


写真1:常陸利根川に面した「息栖神社」一の鳥居


写真2:同上。一の鳥居の下に「忍潮井」の泉がある。


写真3:「忍潮井」(女瓶)


写真4:「忍潮井」(男瓶)


写真5:境内入口の鳥居と社号標(「東國三社息栖神社」)


写真6:社殿


写真7:境内の松尾芭蕉の句碑。江戸時代には、当神社の祭神を気吹戸主神(イブキドヌシ)とする説が広く流布していたらしく、句碑にも「この里は 気吹戸主の 風寒し」と刻されているとのこと。

コメント (3)
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