飯沼山 圓福寺(いいぬまさん えんぷくじ)。通称:飯沼観音または銚子観音。
場所:千葉県銚子市馬場町293(本坊)。JR「銚子」駅の東、約1.2km。本坊と本堂(観音堂)が少し離れており、県道244号線(外川港線)「馬場町」交差点から北へ進めば「本堂」、南に少し進めば「本坊」がある。いずれにも駐車場有り。なお、銚子電鉄「観音」駅からは「本坊」のほうが近く、駅から北へ徒歩2~3分。
寺伝によれば、創建は神亀5年(728年)。海が光るのが見え、浦人が怪しんでいるうち、ある漁夫の夢にお告げがあり、網を引いたところ十一面観世音菩薩像が引き上げられた。このとき、空から米が降るという奇瑞があったことから、この辺りの地名が「飯沼」となったという。この漁夫が出家して観音像を祀ったのが初めで、弘仁年間(810~824年)に弘法大師(空海)が当地を訪れた際、「海上長者」と称される土地の有力豪族の寄進を得て伽藍を整備したとされる(このため、弘法大師開山とする。)。鎌倉時代以降は海上氏の庇護を受け、坂東三十三観音霊場の第27番札所とされ、江戸時代には本坊のほか寺内に10院を有し、寺域は約5千6百坪に及んだという。現・銚子市は「ほととぎす 銚子は国の とっぱづれ」(江戸時代の俳人・古帳庵の句)といわれ、関東最東端の犬吠埼は(山頂・離島を除けば)日本で最も早く初日の出を見ることができることで有名。坂東三十三観音の第26番札所は現・茨城県土浦市の「南明山 慈眼院 清滝寺」で、当寺からは直線距離でも約80km離れており、次の第28番札所の「滑河山 龍正院」(現・千葉間成田市、2014年2月1日記事)へも直線距離で約50km離れている。このため、巡礼者、あるいは江戸からの参拝者も当地で必ず宿泊することとなり、現・銚子市は当寺の門前町としても栄えることになったようだ。残念ながら、江戸時代までの諸堂は昭和20年の「銚子大空襲」で焼失、現在の本堂等は昭和46年に再建されたものである。
なお、本堂の隣に鎮座する「銚港神社」は、古くは「龍蔵権現」(または「龍造権現」)と称し、「飯沼観音」と神仏混淆の状態で信仰されていた。創建時期は不明だが、「銚子」発祥の祖神であるとして、養老年間(717~723年)の創建ともされる。江戸時代から漁業・魚問屋などの関係者からの崇敬も篤く、明治2年には神仏分離により「銚港神社」と改称した。主祭神は闇淤加美神(クラオカミ)であるが、これは「龍蔵権現」の「龍」を水神とみて、神仏分離時に祭神としたものと思われる。因みに、現・奈良県桜井市の真言宗豊山派総本山「長谷寺(豊山 神楽院 長谷寺)」の本尊は十一面観音で、一説に、当寺の本尊は「長谷寺」本尊と同木であるともいう。そして、この「長谷寺」を守護する地主神とされるのが「瀧蔵神社(瀧蔵権現)」である。そういえば、坂東三十三観音霊場の第29番札所「海上山 千葉寺」の本尊も十一面観音で、境内に「瀧蔵神社」が鎮座していた(2012年4月21日記事参照)。「円福寺」や「銚港神社」の実際の創建時期はわからないが、ある時代に、こうした観音信仰を有する真言宗寺院のネットワークの中で現在のような形が生み出され、定着していったのだと思われる。蛇足ながら、奈良「瀧蔵神社」の祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊・速玉命だが、千葉市の「瀧蔵神社」の祭神は海津見尊だそうで、それぞれ異なる。管見ながら、長い神仏混淆により本来の祭神が忘れられた結果なのではないか、と考える。
「真言宗 飯沼山 圓福寺」のHP
「坂東三十三観音霊場」のHPから(円福寺へ御来山歓迎)
写真1:「圓福寺」仁王門
写真2:同上、本堂(観音堂)。本尊は十一面観世音菩薩。
写真3:本堂隣(というか、同じ境内)に鎮座する「銚港神社」(住所:千葉県銚子市馬場町1-1)。社号標と社殿の扁額の文字は再建(昭和32年)当時の内閣総理大臣・吉田茂の揮毫であるという。
写真4:「圓福寺」大師堂。本坊側にある。
場所:千葉県銚子市馬場町293(本坊)。JR「銚子」駅の東、約1.2km。本坊と本堂(観音堂)が少し離れており、県道244号線(外川港線)「馬場町」交差点から北へ進めば「本堂」、南に少し進めば「本坊」がある。いずれにも駐車場有り。なお、銚子電鉄「観音」駅からは「本坊」のほうが近く、駅から北へ徒歩2~3分。
寺伝によれば、創建は神亀5年(728年)。海が光るのが見え、浦人が怪しんでいるうち、ある漁夫の夢にお告げがあり、網を引いたところ十一面観世音菩薩像が引き上げられた。このとき、空から米が降るという奇瑞があったことから、この辺りの地名が「飯沼」となったという。この漁夫が出家して観音像を祀ったのが初めで、弘仁年間(810~824年)に弘法大師(空海)が当地を訪れた際、「海上長者」と称される土地の有力豪族の寄進を得て伽藍を整備したとされる(このため、弘法大師開山とする。)。鎌倉時代以降は海上氏の庇護を受け、坂東三十三観音霊場の第27番札所とされ、江戸時代には本坊のほか寺内に10院を有し、寺域は約5千6百坪に及んだという。現・銚子市は「ほととぎす 銚子は国の とっぱづれ」(江戸時代の俳人・古帳庵の句)といわれ、関東最東端の犬吠埼は(山頂・離島を除けば)日本で最も早く初日の出を見ることができることで有名。坂東三十三観音の第26番札所は現・茨城県土浦市の「南明山 慈眼院 清滝寺」で、当寺からは直線距離でも約80km離れており、次の第28番札所の「滑河山 龍正院」(現・千葉間成田市、2014年2月1日記事)へも直線距離で約50km離れている。このため、巡礼者、あるいは江戸からの参拝者も当地で必ず宿泊することとなり、現・銚子市は当寺の門前町としても栄えることになったようだ。残念ながら、江戸時代までの諸堂は昭和20年の「銚子大空襲」で焼失、現在の本堂等は昭和46年に再建されたものである。
なお、本堂の隣に鎮座する「銚港神社」は、古くは「龍蔵権現」(または「龍造権現」)と称し、「飯沼観音」と神仏混淆の状態で信仰されていた。創建時期は不明だが、「銚子」発祥の祖神であるとして、養老年間(717~723年)の創建ともされる。江戸時代から漁業・魚問屋などの関係者からの崇敬も篤く、明治2年には神仏分離により「銚港神社」と改称した。主祭神は闇淤加美神(クラオカミ)であるが、これは「龍蔵権現」の「龍」を水神とみて、神仏分離時に祭神としたものと思われる。因みに、現・奈良県桜井市の真言宗豊山派総本山「長谷寺(豊山 神楽院 長谷寺)」の本尊は十一面観音で、一説に、当寺の本尊は「長谷寺」本尊と同木であるともいう。そして、この「長谷寺」を守護する地主神とされるのが「瀧蔵神社(瀧蔵権現)」である。そういえば、坂東三十三観音霊場の第29番札所「海上山 千葉寺」の本尊も十一面観音で、境内に「瀧蔵神社」が鎮座していた(2012年4月21日記事参照)。「円福寺」や「銚港神社」の実際の創建時期はわからないが、ある時代に、こうした観音信仰を有する真言宗寺院のネットワークの中で現在のような形が生み出され、定着していったのだと思われる。蛇足ながら、奈良「瀧蔵神社」の祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊・速玉命だが、千葉市の「瀧蔵神社」の祭神は海津見尊だそうで、それぞれ異なる。管見ながら、長い神仏混淆により本来の祭神が忘れられた結果なのではないか、と考える。
「真言宗 飯沼山 圓福寺」のHP
「坂東三十三観音霊場」のHPから(円福寺へ御来山歓迎)
写真1:「圓福寺」仁王門
写真2:同上、本堂(観音堂)。本尊は十一面観世音菩薩。
写真3:本堂隣(というか、同じ境内)に鎮座する「銚港神社」(住所:千葉県銚子市馬場町1-1)。社号標と社殿の扁額の文字は再建(昭和32年)当時の内閣総理大臣・吉田茂の揮毫であるという。
写真4:「圓福寺」大師堂。本坊側にある。