神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

深奥山 方広萬寿禅寺(奥山半僧坊)

2012-02-25 23:15:25 | 寺院
深奥山 方広萬寿禅寺(じんのうざん ほうこうまんじゅぜんじ)。本尊:釈迦如来。
場所:静岡県浜松市北区引佐町奥山1577-1。県道303号線(新城引佐線)と県道68号線(浜北三ケ日線)の「奥山」交差点から県道68号線を西へ、約600mで参道入口。駐車場あり。拝観料300円。
当寺は臨済宗方広寺派の大本山で、建徳2年(1371年)、無文元選禅師(後醍醐天皇の皇子)が当地の豪族奥山六郎次郎朝藤に招かれ、開山した。末寺約170ヵ寺という巨刹だが、「方広寺」というより、「奥山半僧坊(おくやまはんそうぼう)」として有名。しかし、「奥山半僧坊大権現」は、当寺の別称ではなく、鎮守である。無文禅師が中国から船に乗って帰国する途中で台風に遭い、今にも沈没というときに、禅師が一心に観音経を読んでいると、鼻が高い異人が現れて禅師を無事に送り届けることを誓った。船が無事に博多港に着くと、異人はいったん姿を消したが、禅師が方広寺を開くと再び現れ、禅師の弟子となり、修行しながら禅師の世話を始めた。このとき、禅師から「お前は、既に半分は僧である。」といわれ、以来「半僧坊」と名乗った。禅師が亡くなると、当寺を守ることを誓い、姿を消したという。
「奥山半僧坊大権現」は一般に天狗の1人であると思われている(知切光蔵著「天狗の研究」の大天狗番付では、「秋葉山三尺坊」が東の前頭4枚目、「奥山半僧坊」は同21枚目となっている。)。その姿は、白衣に金色の袈裟を肩に掛けた半僧半俗、木の杖を持ち、身長は一丈余(約3m余)もあり、乱髪に顔は赤く鼻が高いというもの。あたかも猿田彦命のようだとされている。ただ、翼が生えているなどの異形ではなく、必ずしも不思議な技を示したわけでもない。もともと天狗は魔縁といわれるように、人間に仇をなす、あるいは天狗倒しや天狗礫のように人間を脅す、驚かせる性質を持っているはずだが、「秋葉山三尺坊大権現」も「奥山半僧坊大権現」も専ら仏法の守護神であり、随分大人しい。ただ、昭和18年の大火で「秋葉神社上社」は焼失してしまったのに対して、「奥山半僧坊」は明治時代にあった3度の裏山の大火でも、一度も類焼しなかった。今日のように大衆のうちに「奥山半僧坊」の神威が高まったのは、それ以来であるともいう。


臨済宗方広寺派大本山方広寺のHP


写真1:「方広寺」総門


写真2:山門


写真3:「奥山大権現」の扁額のある両部鳥居


写真4:椎河大龍王堂。無文禅師が中国での修行から帰国し、遠江国を行脚していたとき、増水した河が渡れず難儀した。そのとき、龍神が現れ、その身を橋にして禅師を渡した。この龍神は、後に禅師の徳により解脱し、昇天したという。


写真5:七尊菩薩堂。七尊菩薩(富士浅間大菩薩、春日大明神、伊勢大神宮、稲荷大明神、八幡大菩薩、梅宮大明神、北野天満大自在天神)を合祀した鎮守堂で、応永8年(1401年)の建立。県下最古の木造建築物という(国指定重要文化財)。


写真6:奥山半僧坊真堂。椎河大龍王堂、七尊菩薩堂と合わせて、奥山三社という。


写真7:奥山半僧坊真堂の背後に岩が露出している。これは磐座とは違うのだろうが、面白いと思った。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋葉山総本山 秋葉寺(三尺坊)

2012-02-18 23:27:00 | 寺院
秋葉山総本山 秋葉寺(あきはさんそうほんざん しゅうようじ)。本尊:聖観世音菩薩。
場所:静岡県浜松市天竜区春野町領家848。車道に面していないので、「秋葉山本宮秋葉神社 上社」(前項参照)から山道を10分程下る。
「秋葉山本宮秋葉神社」で書いたが、火難避けの神様「秋葉大権現」の創始はもともと仏堂だったという伝承もあり、長く神仏混淆だった。「秋葉大権現」が「三尺坊大権現」という天狗として認識されるようになったのは、次のような伝承による。即ち、三尺坊は、宝亀9年(778年)年、信濃国・戸隠(現・長野県長野市)生まれで、母が観音菩薩を念じて懐胎し、観音の生まれ変わりといわれた神童だったという。長じて、越後国・栃尾(現・新潟県長岡市)の蔵王権現堂で修行し、僧となった。「三尺坊」というのは、長岡蔵王権現堂の子院12坊の1つで、その名を取ったもの。ある日、不動三昧の法を修し、満願の日、焼香の火炎の中に仏教の守護神である迦楼羅天を感得し、その身に翼が生えて飛行自在の神通力を得た。そして、白狐に乗って飛行し、遠江国秋葉山のこの地に降りて鎮座したとされる。
現在も頒布されている秋葉山の火防札には「三尺坊大権現」の姿が描かれているが、猛禽類のような大きな翼が生え、右手に剣、左手に索を持ち、白狐の上に立っている姿である。火炎を背負い、身体は不動明王のようだが、口は鳥のような嘴になっている。これは、もともとインド神話の鳥神ガルーダが仏教に取り入れられた迦楼羅天(観音菩薩の化身の1つとされる。)の姿に、不動明王を合わせ、更に白狐に乗るところは荼枳尼天の形が取り入れられているようだ。実は、この姿は、信濃国飯縄山の「飯縄権現(飯縄大明神)」とほぼ同じである。「飯縄権現」は、飯縄智羅天狗とも呼ばれ、日本で第3位の天狗(「愛宕山太郎坊」(京都府)、「比良山次郎坊」(滋賀県)に次いで「飯縄山飯縄三郎」とも呼ばれる。)とされる。こうしたこともあり、「三尺坊大権現」は、その出自や修行地からして、戸隠や白山などの修験者の影響が強いようだ。そうすると、火難避けの神様としての秋葉山信仰は、古くても中世以降、民衆レベルでは江戸時代以降なのではないかと思われる。江戸時代には、資金を積み立てて交代で参拝する秋葉講が盛んに組織された。
さて、当寺はもともと「大登山 秋葉寺」と称し、上記のように密教・修験の色合いが強く、どうやら真言宗の寺院だったらしい。ところが、寛永2年(1625年)に内部対立が起こり、当時の住職であった蘆月厳秀が曹洞宗の「萬松山 可睡斎(ばんしょうさん かすいさい)」に助けを求めたところ、寺社奉行の裁定により厳秀方が勝ったが、これ以降、曹洞宗に帰属し、「可睡斎」の末寺となったという。
更に、明治時代に入ると、明治元年の神仏判然令(神仏分離令)及び明治5年の修験宗廃止令により、「秋葉大権現」が寺院なのか神社なのか決めなければならなくなったが、慶応3年(1867年)に正一位の神階を得ていたことから、明治5年に「秋葉大権現」は神社とすることになった。翌年には、「秋葉寺」は無檀・無住であるとして廃寺となり、仏像仏具は本寺である「可睡斎」に引き渡された。このとき、「三尺坊」神像も「可睡斎」に移され、現在も同寺の御真殿に祀られている。このため、「可睡斎」は「秋葉山総本殿」と称している。現在の「秋葉山 秋葉寺」は明治16年の再建である。

静岡市清水区にある「秋葉山 秋葉寺」については、2011年7月12日記事参照。

また、「可睡斎」については、「慈悲山 増善寺」(2011年1月28日記事)で少し書いた。


「ぞえじいの福々巡り」さんのHPから(秋葉山 秋葉寺(三尺坊))

可睡斎のHP


写真1:「秋葉寺」山門(仁王門)。扁額は「秋葉大権現」。


写真2:「秋葉寺」本堂


写真3:「可睡斎」山門(住所:静岡県袋井市久能2915-1。駐車場有り)


写真4:「可睡斎」御真殿。秋葉三尺坊大権現を祀る。(本堂には本尊:聖観世音菩薩を祀る。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋葉山本宮秋葉神社

2012-02-11 21:28:40 | 神社
秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)。
場所:(上社)静岡県浜松市天竜区春野町領家841。国道152号線で天竜川を遡り、雲名橋から北東に向って約9km。駐車場有り。(下社)静岡県浜松市春野町領家328-1。上社の南、約3km(直線距離)。国道362号線から「秋葉オートキャンプ場」辺りで北西に曲がり、気田川をわたって直ぐ。駐車場有り。
創建時期には諸説あり、大宝元年(701年)あるいは養老2年(718年)に行基が(寺として)開基したともいうが、社伝によれば和銅2年(709年)に最初の社殿が造られたという。当神社は式内社ではないが、「日本三代実録」の貞観16年(874年)の条にある「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」に比定されているらしい。「保神」というのは「火の神」であるとされ、当時から防火の神と認識されていたとされる。現在の祭神は、火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。
江戸時代以前は神仏混淆で、当神社から山道を10分程下ったところにある「大登山 秋葉寺」とともに、「秋葉大権現」または「三尺坊大権現」といわれていた。平安時代(鎌倉時代または室町時代ともいう。)、信濃国出身で越後国の長岡蔵王権現堂で修行した「三尺坊」という修験者が不動三昧の法を修して、その満願により飛行自在の通力を得たことから、これを秋葉山の守護神としたとの伝承がある。不動明王も、天界の火生三昧という炎の世界に住んでいるとされることから、火難避けに御利益があると思われたのだろう。
こうして、「秋葉三尺坊大権現」は防火の神として各地に勧請され、「秋葉神社」が建立された。因みに、東京の「秋葉原」は、明治2年の大火の後に建立された「鎮火社」を、火難避けの神様だから「秋葉神社」だろうと誤解し、その周辺の火避地(延焼を防ぐ空地)を「秋葉様の原」と呼んだことによるのだという。
明治時代に入ると、長く神仏混淆だった「秋葉山三尺坊大権現」も、明治元年の神仏判然令(神仏分離令)及び明治5年の修験宗廃止令に加えて、寺内の対立等もあり、「秋葉寺」が廃寺になっただけでなく、いったん「秋葉社」も廃社とされた。しかし、火難避けの神様としての「秋葉様」を信仰する民衆の願いが強く、明治6年には仏教色を廃した「秋葉神社」として再建された。ところが、昭和18年には、大火により神門を除く上社の建物全てが焼失してしまう。現在の社殿等は昭和61年に再建されたものである。


静岡県神社庁のHPから(秋葉山本宮秋葉神社)

玄松子さんのHPから(秋葉山本宮秋葉神社 上社)

同(秋葉山本宮秋葉神 下社)


写真1:駐車場から少し上ったところにある「秋葉山本宮秋葉神社 上社」の立派な随神門。扁額は「正一位秋葉神社」。


写真2:社殿前の黄金色の鳥居。ここから見下ろす眺めは、実に素晴らしい。


写真3:秋葉山(標高866m)山頂付近にある社殿。


写真4:昭和18年の大火で唯一残った神門。天保2年(1831年)の建築とされ、旧春野町指定有形文化財。「秋葉寺」に向って下りていく山道の途中にある。扁額は「火防秋葉神社」。


写真5:「秋葉山本宮秋葉神社 下社」境内入口に社号標がある。


写真6:社殿。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿波々神社(遠江国式内社)

2012-02-04 22:32:08 | 神社
阿波々神社(あわわじんじゃ)。
場所:静岡県掛川市初馬5419。県道415号線(日坂八坂線。国道1号線日坂バイパスができたため県道となったが、元は近世東海道)沿い、「事任八幡宮」(遠江国式内社「己等乃麻知神社」。遠江国一宮を称している。)西側の歩道橋のところから約9km北上。駐車場あり。
社伝によれば、天平8年(736年)の創建だが、創建時の事情は不明。祭神は阿波比売命だが、別名・天津羽羽神とされ、天石戸別命の御子で八重事代主命の后神という。一説に、阿波比売は和魂、天津羽羽神は幸魂で、「事任八幡宮」の祭神・己等乃麻知比売命は荒魂であるともいう。素人にはよくわからないが、粟ヶ岳(標高532m)山頂付近に鎮座していることから、粟ヶ岳という山自体を祀っていること、「事任八幡宮」と何らかの関係があったことは推測できるだろう。
さて、社殿前に磐座と思われる巨石群があることでも有名だが、発掘調査等は行われてはいないようで、いつの時代の、どういう性格のものかはわからない。なお、当神社境内には、もう1つ有名なものがある。それが「無間の井戸」で、昔、空道上人(あるいは、聖武天皇時代の仙人)が、撞けば現世では願い事が何でも叶うが、死後は無間地獄に落ちるという「無間の鐘」というものを粟ヶ岳山頂に掛けた。すると、死後のことは考えずに鐘を撞きに来る人々が絶えなかったことから、鐘を沈めてしまった井戸(の跡)だという。実は、磐座の中心に岩の裂け目があり、その底は奥知れず、これが地獄につながっている穴だとも言われている。このように、この磐座は仏教的な色彩も持っており、古代からのもの考えるには慎重な調査・判断が必要なのではないかと思われる。


阿波々神社のHP


写真1:「阿波々神社」入口


写真2:社殿


写真3:磐座とされる巨石群


写真4:「無間井戸」(遠州七不思議の1つ)


写真5:粟ヶ岳山頂には、茶祖・栄西の像もある。また、磐座のある山にはよくあるが、ここにも電波塔がある。桜の名所でもあるらしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする