浅間古墳(せんげんこふん)。
場所:静岡県富士市増川624。県道22号線(三島富士線)沿いの曹洞宗寺院「福聚(禅)院」横の狭くて急な坂を登り、東名高速にぶつかったところで右折、すぐの橋を渡って左折。駐車場なし(1台程度駐車できるスペースあり。)。
4世紀後半頃の前方後方墳で、東西に長く、墳長103m・後方部幅61m・前方部幅40m。墳丘全面に葺石が施され、一部には周溝らしき凹部があるとされる。静岡県東部で最も大きい古墳といわれ、国指定史跡となっている(昭和32年7月指定)。
築造時期・規模などからして、珠流河(スルガ)国の王墓であるとされ、「浅間古墳は珠流河国造初代の物部片堅石連公の墳墓とみるべき」(原秀三郎静岡大学名誉教授)という意見もあるらしい。
4~5世紀にかけて、大和政権による全国統一が進められる中で、服属した地方の豪族は国造(くにのみやつこ)に任命されることで、その地方の支配権を認められた。「先代旧事本紀」のうち「国造本紀」には、その様子が記されている(この書は偽書であるとされているが、平安初期の資料を含むとされる。)。それによれば、現在の静岡県には6つの国があり、このうち珠流河国(富士川から狩野川の間あたり)については、成務天皇の御代(在位:131~190年?)に片堅石命(かたかたしのみこと)が国造に任命されたとする。
「浅間古墳」は未発掘のため詳細不明だが、もともと富士山・愛鷹山の南麓は、静岡県内でも最も早くから古代人の集落が開けたところの1つとされており、駿河湾を見下ろす高台にこのように大きな古墳を造るような大勢力があったことは間違いないだろう。
「全国旅そうだん」さんのHPから(浅間古墳):http://www.nihon-kankou.or.jp/soudan/ctrl?evt=ShowBukken&ID=22210af2170020105
写真1:茶畑の中に赤い鳥居。その奥の森が「浅間古墳」。
写真2:後方部の上に「浅間神社」がある(南面している。)。
写真3:社殿横から前方部を見る。
場所:静岡県富士市増川624。県道22号線(三島富士線)沿いの曹洞宗寺院「福聚(禅)院」横の狭くて急な坂を登り、東名高速にぶつかったところで右折、すぐの橋を渡って左折。駐車場なし(1台程度駐車できるスペースあり。)。
4世紀後半頃の前方後方墳で、東西に長く、墳長103m・後方部幅61m・前方部幅40m。墳丘全面に葺石が施され、一部には周溝らしき凹部があるとされる。静岡県東部で最も大きい古墳といわれ、国指定史跡となっている(昭和32年7月指定)。
築造時期・規模などからして、珠流河(スルガ)国の王墓であるとされ、「浅間古墳は珠流河国造初代の物部片堅石連公の墳墓とみるべき」(原秀三郎静岡大学名誉教授)という意見もあるらしい。
4~5世紀にかけて、大和政権による全国統一が進められる中で、服属した地方の豪族は国造(くにのみやつこ)に任命されることで、その地方の支配権を認められた。「先代旧事本紀」のうち「国造本紀」には、その様子が記されている(この書は偽書であるとされているが、平安初期の資料を含むとされる。)。それによれば、現在の静岡県には6つの国があり、このうち珠流河国(富士川から狩野川の間あたり)については、成務天皇の御代(在位:131~190年?)に片堅石命(かたかたしのみこと)が国造に任命されたとする。
「浅間古墳」は未発掘のため詳細不明だが、もともと富士山・愛鷹山の南麓は、静岡県内でも最も早くから古代人の集落が開けたところの1つとされており、駿河湾を見下ろす高台にこのように大きな古墳を造るような大勢力があったことは間違いないだろう。
「全国旅そうだん」さんのHPから(浅間古墳):http://www.nihon-kankou.or.jp/soudan/ctrl?evt=ShowBukken&ID=22210af2170020105
写真1:茶畑の中に赤い鳥居。その奥の森が「浅間古墳」。
写真2:後方部の上に「浅間神社」がある(南面している。)。
写真3:社殿横から前方部を見る。