神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

寒川神社(千葉市中央区)

2012-03-31 23:27:54 | 神社
寒川神社(さむかわじんじゃ)。
場所:千葉市中央区寒川町1丁目123番地。国道357号線の1本東側の道路(これが旧街道らしい。)沿いで、寒川小学校の東側。駐車場有り。
当神社の創建は不明。御神宝の獅子頭に、室町時代の文明13年(1481年)銘があり、そのときに社殿も修復したとの記載があるので、創建はそれ以前となる。一説によれば、当神社が下総国式内社「寒川神社」であるという。
江戸時代には、当地寒川村にある神明社が式内社「寒川神社」とされることが多かった。しかし、当地は天正年間(1573~1592年)頃までは結城村と称しており、その後、清泉があったことから寒川村に改称したという。また、当神社は寒川新田と呼ばれたところにあり、式内社が鎮座するような場所ではなかったというようなことが考証され、千葉県船橋市にある「三山大明神」こと「二宮神社」が式内社「寒川神社」とされるようになり、今では通説となっている(このことは下記「寒川神社」のHPの付録にも記されている。)。
では、なぜ当神社が「寒川神社」とされるようになったのか。それはもちろん、鎮座地が寒川という地名であり、少なくとも江戸時代には既に下総国に「寒川神社」と称する神社がなかったことが大きいと思われる。それに加えて、当地は現在では静かな住宅地だが、かつては千葉の大きな漁業港として栄え(明治時代には魚市場も置かれた。)、経済力が豊かであった。そうした中で、網元などから、海上安全の神として、古社である当神社に対する信仰が篤かったという事情もありそうである。なお、当神社の祭神は、元々は神明社であったことから天照大神であったが、寒川神社と称するようになって相模国一宮「寒川神社」に合わせて寒川比古命・寒川比売命を祀るようになったらしい。
当神社は、式内社「寒川神社」の論社として必ず俎上に載せられ、その度に式内社であることを否定されるという残念な状況になっているが、下総国に「寒川神社」という名の神社が他には無くなっている現在、ある意味貴重な存在と言えるのではないだろうか。


下総国 寒川神社のHP


写真1:「寒川神社」正面鳥居


写真2:社殿前の鳥居と社号標(シンプルに「寒川神社」)
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医王山 高雲院 神宮寺

2012-03-24 23:53:31 | 寺院
医王山 高雲院 神宮寺(いおうざん こううんいん じんぐうじ)。
場所:千葉県船橋市三山5-37-1。前項の「二宮神社」(千葉県船橋市)の道路を隔てた東隣。駐車場有り。
下総国式内社「寒川神社」(の後裔)とされる「二宮神社」には、江戸時代には別当寺であった、その名も「神宮寺」という寺院が現存している。正式には「医王山 高雲院 神宮寺」といい、真言宗豊山派の寺院で、本尊は阿弥陀如来。と、書いたところで、少し仏教に詳しい人だと違和感を感じるのではないか。「医王山」という山号の寺院は少なくないが、それは、「大医王仏」という別名を持つ薬師如来を本尊とする寺院がその山号にしたケースが多かったことによる。真言宗の寺院の本尊は大日如来の場合が圧倒的に多く、真言宗では顕教系とされる薬師如来を本尊とする場合は比較的少ない。しかし、その寺院自体の創建が古く、後に真言宗に属するようになったようなケース、例えば、京都の「神護寺」(開基:和気清麻呂)などのほか、現存する国分寺(真言宗が多い。)の殆どが薬師如来を本尊としている。ところが、当寺の場合、山門の隣に「薬師堂」(写真2)はあるが、本堂(写真3)に安置されているのは阿弥陀如来であるという。阿弥陀如来は西方の極楽浄土の教主で、浄土宗・浄土真宗で本尊とされることが多い。胎蔵界曼荼羅の中心に位置する五仏のうち、西方の無量寿如来=阿弥陀如来とされるので、真言宗の寺院の本尊であってもおかしくはないというけれども、実際には滅多にない例だと思う。
ということで、どうして当寺がこうなったのかに興味が起こるが、事情は不明。あとは想像(根拠薄弱なので妄想レベル?)になるが、古代、下総国式内社「寒川神社」を祀った人々は、近くに仏教施設も建立したのではないか。その本尊は当時流行の薬師如来で、真言宗の寺院となっても、変わらなかった。中世、神仏混淆色が強くなると、疫病避けのために、「二宮神社(寒川神社)」ではスサノオ=牛頭天王(=薬師如来)が勧請された。その後、浄土思想が流行すると、当寺も阿弥陀仏を本尊とするようになった(一時的に、住職が浄土思想を受け入れたか、浄土系に改宗したかも。)。こうして、明治になって神仏分離が行われたときも、「二宮神社」は建速須佐之男命を主祭神とすることにしたのではないだろうか。


「習志野 郷土史めぐり」さんのHPから(神宮寺)


写真1:「医王山 神宮寺」入口


写真2:薬師堂


写真3:本堂
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二宮神社(千葉県船橋市)(下総国式内社・その2)

2012-03-17 23:20:03 | 神社
二宮神社(にのみやじんじゃ)。
場所:千葉県船橋市三山5-20-1。国道296号線(成田街道)「二宮神社入口」交差点から南へ、道なりに約1.5km。駐車場あり。
社伝によれば、嵯峨天皇の勅命により、弘仁年間(810~824年)に創建されたとする。主祭神は、建速須佐之男命。社号標に「延喜式内」と謳うが、延喜式神名帳に「二宮神社」とあるわけではなく、下総国一宮「香取神宮」に次ぐ二宮である、ということのようである。式内社としては千葉郡「寒川神社」の後裔であるとされる。いつから「二宮神社」と呼ばれるようになったか不明だが、乾元2年(1303年)銘の釣鐘に「総州二宮社」とあることから、鎌倉時代には既にそう呼ばれていたようだ。また、江戸時代には「三山明神」とも呼ばれていた。鎮座地の「三山(みやま)」は本来「御山」で、台地の上に祀られた神であったようである。
ところで、当神社が式内社「寒川神社」(の後裔)とされるのはなぜか。「寒川神社」と言う名は、相模国一宮・式内社(名神大)「寒川神社」が有名である。こちらの祭神は寒川比古命・寒川比売命(合わせて寒川大神と称する。)で、相模国の開拓神ともいわれるが、はっきりしない(元々、祭神自体にも諸説あったようだ。)。どうやら、寒川=清涼な水がわき出す泉という意味で、つまり「寒川」というのは一般名詞的な地名だったということらしい。相模国一宮「寒川神社」の近くには相模川が流れているが、古代には低湿地で、鎮座地には泉が湧き出していたという。
当神社では、写真1の鳥居を潜ると、谷の底に水源地があり、「御手洗之泉(みたらしのいけ)」の石碑が設置されている。その碑文では、この水源地に、農業の守護神として創建当初から建速須佐之男命などを祀ったものとしている。元々農業の神を祀ったというのはその通りだろうが、祭神が建速須佐之男命などというのはどうだろうか。最初は、単に泉の神、または水神が祀られていたのではないだろうか。


二宮神社のHP

玄松子さんのHPから(二宮神社)


写真1:「二宮神社」正面鳥居。傍らの社号標は「延喜式内 二宮神社」となっている。


写真2:上の写真の鳥居を潜り、いったん石段を下る。木立で薄暗い中に「御手洗之泉」の石碑が設置されている。


写真3:社殿前の鳥居のところから谷を見下ろす。奥に見えるのが写真1の鳥居の裏側。


写真4:社殿。薄暗い谷から石段を上ったところにある。


写真5:境内東側のT字路の真ん中に立っている「二宮大明神」の石碑。よく見ると、下のほうに「是ヨリ七町」(1町=約109m)と刻まれているので、どこか街道沿いにでもあったものだろう。更によく見ると、上のほうには「延喜式内 茂侶神社」とも刻まれている。この件は、いずれ別項で。

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神道山古墳群

2012-03-10 23:06:39 | 古墳
神道山古墳群(しんどうやまこふんぐん)。
場所:千葉県香取市香取。JR成田線「香取」駅の西、約400m。駐車場なし。
JR「香取」駅は、下総国一宮「香取神宮」の最寄駅ではあるものの、普段は無人駅で、距離も約2kmある。したがって、電車で「香取神宮」に参拝するには、JR「佐原」駅からタクシー(バスもあるが、便数は少ない。)というのが普通のようだ。しかし、「香取」駅と「鹿島神宮」の間に、島のように散在する小山には古墳がいくつもあるらしい。そして、「香取」駅のすぐ近くにあるのが「神道山古墳群」。神道山の山頂に前方後円墳があり、その墳長は約47mで、築造時期は6世紀後半とされる。ほかに、円墳(陪塚らしい。)が11基あるとのこと。健脚に自信のある方と古墳ファンは、「香取」駅から「香取神宮」へ徒歩でどうぞ。
さて、この前方後円墳は、一時は「香取神宮」の主祭神である経津主命の墳墓ではないかといわれたことがある。「香取神宮」の津宮河岸を見下ろす位置にあり、「神道山」(元は「神土山(しんどやま)」とも呼ばれていたらしい。)という名や、この山を「香取神宮」の祠官が所有していたこともあり「香取神宮」との結び付きが強いことなど、想像を膨らませる傍証的なことはいろいろあっても、明確な根拠は見出せなかったようである。
なお、「香取神宮」の東南約7kmのところに、前方後円墳が集中する「城山古墳群」(旧・小見川町)がある。一部は小見川高校の敷地となって消滅したが、「城山1号墳」(6世紀後半?)からは中国製の三角縁神獣鏡(下総地区で唯一の出土例。)や環頭太刀4振など大量の副葬品が出土した。このため、この古墳の主こそ、下海上国造あるいはその一族の有力者であったとみられている。さて、そうすると、「香取神宮」の鎮座の事情とその当時の政治状況はどうだったのだろう。


「神社探訪」さんのHPから(桝原稲荷神社)

香取市のHPから(神道山古墳群)


写真1:「桝原稲荷神社」への参道入口


写真2:参道を登りつめると、半分削り取られた円墳。よくみると、神社の跡らしい。今も石祠が置かれている。


写真3:その背後に、木造の神社が鎮座。こちらが今の「桝原稲荷神社」らしい。


写真4:神社の横を通り過ぎて南に向うと、前方後円墳がある。


写真5:他にも円墳多数。


写真6:山を下りてくると、「香取市指定史跡 神道山古墳群」の金属碑がある。
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香取神宮(下総国式内社・その1)

2012-03-03 20:18:00 | 神社
香取神宮(かとりじんぐう)。
場所:千葉県香取市香取1697。東関東自動車道「佐原香取IC」を下りてすぐの県道55号線(佐原山田線)を北西へ約1km。駐車場あり。
社伝によれば、創建は神武天皇18年(紀元前643年)。創建時の事情は明確ではないが、常に常陸国一宮「鹿島神宮」とセットで語られてきたことから、「鹿島神宮」の創建とも深い関係があったのだろうと思われる。因みに、現在では「神宮」号を称する神社も多いが、平安時代以降~明治時代まで、「神宮」と称していたのは、伊勢神宮(単に「神宮」といえば、伊勢神宮を指す。)・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったされる。下総国唯一の名神大(社)で、下総国一宮。
祭神は経津主大神。フツヌシは、いわゆる国譲り神話に登場する神で、「鹿島神宮」の祭神である武甕槌神(タケミカヅチ)とともに葦原中国平定を成し遂げた神である。「フツ」というのは、刀剣が物を断ち切る音を表し、その刀剣の鋭さをいう言葉であるという。「出雲国風土記」等によると、本来、葦原中国を平定したのはフツヌシが主役だったのが、後に中臣氏(藤原氏)の勢力拡大によって、その祖神であるタケミカヅチのほうが主役とされるようになったとされる(中臣氏は元々常陸地方の出身ともいわれる。)。フツヌシは、霊剣「フツノミタマ」を神格化したものであるとか、タケミカヅチの別名であるとか、言わば「フツヌシはいなかった」説もある。「フツノミタマ」剣の神霊は、備前国式内社「石上布都魂神社」や大和国式内社「石上坐布都御魂神社(石上神宮)」で祀られ、いずれも物部氏に縁が深いので、中臣氏の伸張と物部氏の衰退によって、タケミカヅチとフツヌシの関係が逆転したのだろうという。
ところで、「日本書紀」や「続日本後紀」などでは、「斎主神」・「伊波比主大神」(イワイヌシ)という名になっている。今ではフツヌシの別名であるということになっているが、菱沼勇・梅田義彦著「房総の古社」(昭和50年2月)によれば、「斎主」というのは祭祀の主宰者(の女性)であり、もともと「鹿島神宮」の祭神はフツヌシ(物部氏の祖)であり、「香取神宮」の祭神はその妻であったのではないか、と推定している。
こんなことを考証していくと、きっと面白いのだろうが、あまり深入りはできない。祭神も、元々は農業神だったとか、水上交通の神だったともいわれる。江戸時代以前には、利根川は現在の東京湾に注いでおり、古代には「香取海」という広大な内海が広がっていたとされている。現在も利根川河畔に「津宮浜鳥居」(写真7)があるが、そこからは対岸に「鹿島神宮」が見えたともいわれる。そもそも「香取」という名は「楫取り(かじとり)」が訛ったものともされる。
ともあれ、後世には、国譲り神話から、タケミカヅチとともに国家鎮護の武神として信仰された。現在の本殿等は、「鹿島神宮」・「香取神宮」ともに江戸時代初期に徳川幕府により造営されたもので、印象が良く似ている。どちらにも境内に「要石」(写真4)があることも同じである。ただ、その位置は、「鹿島神宮」のように本殿の奥ではなく、狭い旧参道脇のややわかりにくい場所にあって、「鹿島神宮」の「要石」ほどには知られていないようだ。当神宮の「要石」は、上面が凸型で、地上に出ている部分は小さいが「深さ幾十尺」とされ、貞享元年(1684年)に水戸黄門こと徳川光圀公が石の周囲を掘らせたが、根元を見ることができなかったという。当神宮と「鹿島神宮」の要石は地中でつながっているというトンデモ説(両神宮は利根川を挟んで約13km離れている。)もあるらしい。
「鹿島神宮」・「香取神宮」のご神威により、地震を起こす鯰はしっかり押さえつけておいていただきますように。


香取神宮のHP


写真1:境内参道の大鳥居と巨大な社号標


写真2:楼門


写真3:社殿


写真4:要石。写真1の大鳥居を入ってすぐ左の狭い道の奥にある。


写真5:奥宮。当神宮の摂社で、経津主大神の荒御魂を祀る。写真1の大鳥居の手前から、向かって左の狭い道を上っていった先にある。


写真6:奥宮の向かい側に現存最古の武術である天真正伝香取神道流の祖、飯篠家直の墓があり、その先にある。説明板によれば、天平4年(732年)、大旱魃のときに祭壇を設けて雨乞いを行った場所であるという。フツヌシが雷神=農業神としての性格を持っていることを示すものかもしれない。


写真7:津宮浜鳥居。当神宮の北、約1.8kmの利根川堤防の下にある(国道356号線「香取駅入口」の西約500m、県道404号線(銚子小見川佐原自転車道)の案内標識があるところを北へ入る。駐車場なし。)。
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