神が宿るところ

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原日本民族居住遺蹟碑

2025-02-22 23:32:21 | 史跡・文化財
原日本民族居住遺蹟碑(げんにっぽんみんぞくきょじゅういせきひ)。
場所:茨城県守谷市みずき野7-16-1(「郷州文化財公園」の住所)。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から北東へ約270m、信号機のある交差点を右折(南東へ)して約50mのところ(交差点の角にある医院「貝塚みずき野クリニック」の背後)に「どんぐり公園」があり、そこから南東側の台地上に上る。駐車場なし。
現・守谷市みずき野は、昭和54年から三井不動産により開発された大規模な住宅団地であるが、それ以前は「郷州原(ごうしゅうっぱら)」という台地だった。殆どが雑木林だったが、古い土器片などがよく掘り出されることが知られていた。このため、宅地開発に先立ち、昭和53年に発掘調査が行われたところ、縄文時代前期の住居跡4軒と地点貝塚5ヵ所、古墳時代前期の住居跡9軒、同後期の住居跡22軒、平安時代とみられる住宅跡1軒などが検出され、その他にも時期不明の円形周溝墓1基、土壙5基、方墳と想定される古墳1基(湮滅)も発見された。
ところで、これを遥かに遡る明治42年頃、地元の考古遺物収集家・石田庄七が旧石器時代の打製石器とみられる石斧を採取していたという。戦前には、土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代に当たる。)の人々が日本の最初の住人だというのが常識で、これが覆されたのが「岩宿遺跡」(現・群馬県みどり市)での1万5千年以上前の関東ローム層内からの石器発見(昭和21年)によるとされる。つまり、石田庄七は、「岩宿遺跡」の発見より遥か前に見つけたことになるが、当時は、そこまでのこととは認識されなかったようで、大発見の栄誉は「岩宿遺跡」に与えられることとなった。当地では、昭和19年、石田庄七のほか、慶応大学講師・柴田常恵、地元の風俗史家(文学博士)・斎藤隆三などの有志によって郷州原台地の一画に「原日本民族居住遺蹟」という石碑が建立された。
蛇足1:上記のように、「郷州原」は、縄文時代から古代に至るまでは人々の住みやすい場所だったらしい。しかし、中世から近世には価値のない未利用地で、無主無住、つまり当地を支配する領主すらいなかったという。現・守谷市全体が概ね台地(平均標高約22m)で、水害がない代わりに、水田も少ないということが関係しているのかもしれない(江戸時代でも、「守谷一万石」に対して、隣接する現・つくばみらい市の一部、旧・谷和原村だけで「谷和原三万石」とされていた。)。
蛇足2:発掘調査の記録である「郷州原遺跡」(昭和56年)の序文の中で、霜多俊郎・守谷町文化財保護審議会会長(当時)は次のように書いている。「大正末期、・・・(中略)「郷州原」の森林の中の芝の生い繁った寂しい山道の傍に、かなり大きめの石碑があり、そこに「原日本民族居住の跡」と書かれてあったのをおぼろげに記憶が残っている。」。一方、「守谷のふるさとかるた」の「こ」の札(「郷州原 縄文・古墳の 石器土器」)の解説文では、「(石田庄七が)昭和十三年(一九三八)、そこに「原日本人発祥の地」と刻んだ発掘記念碑を建てました。」としている。碑文や建立時期が異なるが、現在の「原日本民族居住遺蹟」碑とは別のものがあったのだろうか、それとも、同一のもので、碑文や建立時期の違いは誤認なのか、謎である。


Morinfo WEB版から(土(石)器):石田庄七氏が守谷小学校に寄贈したもの

ADEAC:守谷中央図書館/わたしたちの守谷市 「守谷のふるさとかるた」


写真1:「どんぐり公園」から「郷州文化財公園」への階段(北西側から)。現在、「どんぐり公園」が周辺の住宅地とほぼ等高だが、低地の埋立のための土取りによって低くなったもので、「郷州文化財公園」の高さが元の「郷州原台地」の標高という。なお、「郷州文化財公園」の南端に緩やかな上り坂があり、入口に公園の説明板が設置されている。


写真2:階段を上った左手に赤い鳥居と小祠がある。


写真3:鳥居を潜った左手に「原日本民族居住遺蹟」碑が建立されている。


写真4:小祠


写真5:同上、賽銭箱には「山の神」とあるが、神名石は「稲荷大明神」となっている。
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伝 源頼朝之墓(茨城県常総市)

2025-02-15 23:34:12 | その他

伝 源頼朝之墓(でん みなもとのよりとものはか)。通称:頼朝様。
場所:茨城県常総市水海道亀岡町2637(「報国寺」の住所)。茨城県道357号線(谷和原筑西線)「天満町」から北へ約500mで右折(東へ)、約100m。駐車場あり。水海道第一高校の北側。
茨城県常総市の浄土宗「亀岡山 豊田院 報国寺」境内、墓地の中央付近に石造五輪塔が4基並んでいるが、これが鎌倉幕府を開いた征夷大将軍・源頼朝の墓と伝承されてきたものである。「墓」と通称されるが、頼朝は建久10年(1199年)に亡くなり、亡骸は現・神奈川県鎌倉市の「法華堂」(現「白旗神社」)に葬られている(「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として国史跡に指定。)ことから、これは「供養塔」である。4基のうち、「五輪」すなわち(上から)「空・風・火・水・地」が揃ったものは1基しかないが、「水海道市史 上巻」によれば「報国寺境内の伝頼朝之墓である五輪塔は水輪を欠いている」とあるので、写真1の向かって右端のもののようである。確かに、水輪があれば、4基の中では最も大きいことになるだろう。各輪の高さは、空輪21cm、風輪13cm、火輪30cm、地輪(地表上)26cmとされている。
さて、「供養塔」としても、何故ここにあるのだろう。詳細は不明だが、旧・水海道市周辺には当寺院のほかにも同様のものが3カ所あり、「源様」とか「頼朝御石碑」ともいうらしい。その伝承によれば、頼朝に地頭に補任された報恩のためとか、頼朝が征夷大将軍になってから3ヵ年の間、年貢を減免された恩徳のために建てられた、という。五輪塔は一般に年号等はなく、建立時期は不明だが、これらの五輪塔の中には鎌倉時代まで遡るものがあるのではないか、とされている。

亀岡山 豊田院 報国寺(かめおかさん とよだいん ほうこくじ)。
寺伝によれば、元は真言宗寺院であったが、上総国・下総国・常陸国を中心に布教活動を行った浄土宗第3祖・記主禅師然阿良忠上人が弘安4年(1281年)に浄土宗に改宗して開祖となった。最初、村人らは改宗に応じなかったが、良忠上人が寺の前の沼に飛び込み、竜宮から愛宕貝という土産をもらってきたと示して、改宗させることに成功したという。なお、境内に暦応5年(1342年)銘とされる「梵字光明真言板碑」が現存し、当寺院が元は真言宗であったことの傍証ともされるが、この年号(南北朝時代の北朝のもの)は当寺院開基より61年も後のものになるので、この板碑が他所から持ち込まれたか、あるいは当寺院の開基が寺伝より遅かったか、とも考えられる。当寺院はその後、戦乱により度々諸堂焼失したが、慶安年間(1648~1652年)に9間半×6間半の本堂が再建され、また、寺領15石を拝領した。関東十八檀林の1つ「飯沼弘経寺」(「寿亀山 天樹院 弘経寺」2021年5月29日記事)の末寺筆頭を勤め、当寺院自身も末寺4ヵ寺を有した。なお、現在の本堂は慶応年間(1865~1868年)の再建で、平成7年~9年にかけて解体修理が行われたという。現在は浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来。


茨城県常総市 報国寺のHP


写真1:「伝 源頼朝之墓」。説明板などはなく、当寺院のHPにも触れられていない。


写真2:「報国寺」本堂


写真3:「梵字光明真言板碑」。本堂前の植え込みの中にある。


写真4:「伝 源頼朝之墓」は、本堂前のイチョウの木の背後、奧に見えるシュロの木の前辺りにある。


写真5:鐘楼。こちらのほうが本堂より古いものという。


写真6:弘法大師堂。「新四国 第五十八番 たちよりて されいのどうに やすみつつ ろくじをとなへ きゃうをよむなり(立ち寄りて 作礼の堂に 休みつつ 六字を唱え 経を読むなり)」という額が掛けられているので、四国八十八箇所霊場第58番札所「作礼山 千光院 仙遊寺」(現・愛媛県今治市)の写し。近世~近代には利根川流域地域には多くの大師講があったといわれており、必ずしも真言宗寺院だけでなく、日蓮宗を除く他宗派の寺院も参加していたようである。

写真7:新しい弘法大師堂? 手前に「五十八番 大師堂 新築記念碑」が建てられているのだが...


写真8:多くの石造弘法大師像


写真9:不動堂。中に「不動尊」碑が安置されている。


写真10:何かの講の記念碑と思われる。第1番~第6番+番外の合計7ヵ寺の現・常総市内の浄土宗寺院が刻されている。当寺院は、その第1番になっている。梵字のキリークと阿弥陀如来の名が刻されている。

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木倉観音堂

2025-02-08 23:31:26 | 寺院

木倉観音堂(きぐらかんのんどう)。
場所:千葉県野田市目吹1414付近。千葉県道3号線と同7号線の「野田市目吹」交差点から東に約950m、コンビニ「ファミリーマート野田目吹店」の角を右折(南西へ)、約650mで右折(西へ)、約160m(制限時速30kmの狭い道路につき注意。)。駐車場あり。
「木倉観音堂」は、伝承によれば、永禄年間(1558~1570年)頃に当地の領主となった近江源氏の一族・佐々木義信が馬頭観音像を祀ったのを創建とする。義信は、寿永3年(1184年)、源頼朝が木曽義仲を追討した「宇治川の戦い」において、有名な先陣争いを行った佐々木高綱の12世孫とされる。「宇治川先陣争い」では、「生唼(いけづき)」という名馬を与えられた佐々木高綱と同じく「磨墨(するすみ)」を与えられた梶原景季が、雪解け水で増水した宇治川をどちらが先に渡るかで争ったもので、結局、佐々木高綱が先陣の栄誉を得た(「幸主名馬尊」(2024年10月26日記事)参照)。佐々木氏は宇多源氏の一族で、近江国佐々木庄(現・滋賀県近江八幡市)を本貫地とするが、高綱の屋敷は現・神奈川県横浜市港北区鳥山町の「鳥山八幡宮」付近にあったとされ、その近くにある「馬頭観音堂」に愛馬「生唼」が祀られているという。さて、当地の伝説では、佐々木義信は源氏の嫡流を任じていたため、平氏を自称する織田信長との同盟を断って、近江国から領地であった下総国目吹郷に移り、鎌倉権五郎景政が築いたという「目吹城」を改修して居館とした。義信は「生唼」の鞍を家宝としていたが、ある夜、夢枕に先祖の高綱の霊が現れて「鞍を重宝とし、城のほとりに馬頭観音を安置せよ」とのお告げがあった。翌日、祈りをあげていると馬頭観音像が出現し、これを祀ったのが「木倉観音堂」である。そして、「木倉」というのは、「木の鞍」が転化したものだとされている。なお、義信は源氏である甲斐武田氏(甲斐武田氏は、八幡太郎源義家の弟・新羅三郎源義光の後裔である。)に従っていたが、武田勝頼が天正10年(1582年)に敗死し、武田氏が滅ぶと、義信も無常を感じて出家し、下総国猿島郡小山村「佐々木寺」(現・茨城県坂東市、真言宗智山派「佐々木寺 醫王山 地蔵院」)に隠棲したという。
蛇足:「源平合戦」は、治承4年(1180年)~元暦2年(1185年)、源頼朝を中心とする武士集団による平清盛が築いた平氏政権に対する反乱で、最終的に頼朝方が勝って鎌倉幕府を開く。ただし、「源平合戦」とはいうが、単純に源氏と平氏の戦いというわけではないため、現在では「治承・寿永の乱」と称するようになっている。そもそも、頼朝の妻・北条政子や、その後鎌倉幕府執権職を世襲した北条氏一族は平氏を自称していた(実際の家系は不明なことも多いようだが。)。また、頼朝方の武士集団の中心は「坂東八平氏」といわれた上総氏・千葉氏・三浦氏・梶原氏など関東地方に根付いた桓武平氏の一族だった。もちろん、清盛方に源氏一族もおり、有名なのは佐竹氏(新羅三郎源義光の後裔)だろう。このことからすると、佐々木義信が源氏・平氏について、そこまで拘った理由はよくわからない。むしろ「源平合戦」という言葉に固定観念を持った後世の物語作者による伝説ではないかとも思われる。


野田市観光協会のHPから(木倉観音)

真言宗豊山派「花光院」(「中高山 花光院 城遍寺」)のHPから:「木倉観音」についての解説がある。


写真1:「木倉観音堂」。堂本尊:馬頭観音。


写真2:十九夜塔など


写真3:大師堂。中郷新四国八十八ヶ所霊場第55番札所。なお、「花光院」(住所:千葉県野田市目吹473)が第56番札所になっている。

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目吹城跡

2025-02-01 23:29:12 | 史跡・文化財
目吹城跡(めふきじょうあと)。
場所:千葉県野田市目吹1034(「熊野神社」の住所)付近。「野田市目吹」交差点から東へ約950mで左折(北東へ)、約120m。旧社務所の公民館前に駐車場あり。
「目吹城跡」は、平安時代後期の武将・鎌倉権五郎景政(景正)が最初に築いたという伝承がある中世城館跡。その後、戦国時代には古河公方の勢力範囲下にあって近江源氏の一族・佐々木義信が城主だったとされ、その後に一色氏の所領となった。天正10年(1582年)には丸山将監という人物が修復したが、天正18年(1590年)頃には廃城になったとされる。ただ、これらの伝承には確証がなく、現在、城館としての遺構もほとんど残っていないらしい。ただ、北に利根川が流れ、東・南・北の三方は元は沼沢地で、堅固な要害の地であったようだ。地名(字)は「十年坪」だが、「十年」はジュウネと呼び、「城内」の意とされる。付近には「城宿」、「城山」、「門城」、「首切場」という地名もある。現「熊野神社」が鎮座する高台が城跡の東端とされるが、元はここに景政の館があったともいう。
さて、景政と「目吹」の所縁については前項(「鎌倉権五郎目洗いの池」)記事の通りだが、これは「目吹」という地名が先にあって出来た伝説と思われる。下総国相馬郷は、そのほぼ全域について大治5年(1130年)に千葉氏第2代当主・千葉(平)常重により「伊勢神宮」に寄進され、当人は下司職(げすしき)になって、実質的な管理者として支配する一方で、「伊勢神宮」の神威により領地を守ろうとした(いわゆる「寄進型荘園」)。これを「相馬御厨」と称するが、その西端が「目吹」だった。また、このとき常重は、相馬郷は坂東平氏の祖・平良文が開発し、以来、その一流である千葉氏に伝領されてきた、と称している。ただ、その後も「相馬御厨」には下総守・藤原親通、源義朝(頼朝の父)、佐竹氏などの介入・侵奪があって、こうした「寄進型荘園」が意味をなさなくなっていき、やがて鎌倉幕府の成立・支配につながっていくことになる。


写真1:「熊野神社」鳥居。鳥居横に多くの石造物が並んでいる。


写真2:同上、参道石段を上っていく。


写真3:同上、社殿(拝殿・本殿一体)。元禄11年(1698年)創建で、祭神は伊弉諾命(イザナギ)と大山祇命(オオヤマツミ。明治41年に合祀した「日枝神社」の祭神)。なお、社殿の額は「三社宮」となっており、元は「三社権現」と称したらしい。


写真4:同上、境内にある「旭村誌」石碑。明治22年に目吹村などが合併して旭村が誕生したことを記念して建立されたもの。「目吹城」の伝承についても書かれている。


写真5:「熊野神社」の西側の「目吹城跡」の中心部とされる場所。コンビニ「ファミリーマート野田目吹店」敷地西端の向かい側の「この先 行き止まり」という標識が出ている道の先。左手奧の住宅の西側に「目吹城跡」という標柱が立っていたようだが、見当たらない。
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