神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

梅柳山 墨田院 木母寺

2013-04-27 23:02:08 | 寺院
梅柳山 墨田院 木母寺(ばいりゅうさん すみだいん もくぼじ)。
場所:東京都墨田区堤通2-16-1。「隅田川神社」の北東、約200m。駐車場有り。
東武鉄道伊勢崎線「鐘ヶ淵」駅の南を通る、古代東海道の痕跡とされる直線道路を西に延ばして隅田川にぶつかる辺りにあるのが天台宗「木母寺」(本尊:慈恵大師(元三大師))で、「梅若寺」とも通称される。これが能の「隅田川(角田川)」などの題材となった「梅若伝説」に因む寺院である。
平安時代、京都・北白川の吉田少将惟房卿の一子・梅若丸は父と死別し、稚児として比叡山に入った。しかし、山内の諍いから比叡山から逃れる際に人買いに攫われ、奥州に売られていく途中、武蔵・下総国境の隅田川畔で病に倒れ亡くなった。その1年後、子が行方不明になったことで狂女となった母親が我が子を探して隅田川までやってきた。川を渡ろうとすると、対岸で大念仏を唱えているのが聞こえ、これが梅若丸という12歳の子の供養のためと教えられて、我が子が亡くなっていたことを知った。里人とともに母親が大念仏を唱えると、梅若丸が霊として現れるが、やがて消えてしまう。
これが「梅若伝説」であるが、梅若丸が亡くなったとき(貞元元年(976年)とされる。)、天台宗の僧・忠円阿闍梨が塚を築き、柳の木を植えて供養したとされ、その脇に念仏堂が建立されたことが「木母寺」の創始という。徳川家康から「梅柳山」という山号を贈られたほか、慶長12年(1607年)には前関白の近衛信尹によって「木母寺」(梅の偏と旁を分けたもの)に改称されたという。明治時代には、神仏分離によって廃寺になり「梅若神社」として祀られたが、 明治21年に寺院として再興され、昭和51年に現在地に移転したとされる。なお、旧地は白髭団地(白髭東アパート)第9号棟の東側で、都旧跡「梅若塚」の石碑が立てられている。
さて、「梅若伝説」が史実に基づいている話かどうかは不明。能の「隅田川」は作者が判っていて、世阿弥の長男・観世元雅(永享4年(1432年)没)であるとされる。多分、観世元雅の創作だろうと思う。後世、史実として受け取られ、梅若丸が山王権現と化したという信仰も生まれたことから、寺院として整備されたものと思われる。因みに、長禄3年(1459年)に太田道灌が参拝して「梅若塚」を改修したといい、このとき「梅若寺」として整備されたという伝承もあるようだ。
「梅若伝説」の1つのポイントは、都の貴族出身の少年が人買いに攫われ、辺境である下総国まで連れてこられて亡くなるという悲劇であることとされる。梅若丸の辞世の歌とされる「尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと」にいう「都鳥」が現在のどの鳥を指すかについては確定していないようである(ユリカモメ説が有力?)が、「都」という言葉が付いていながら伊勢物語でも「京には見えぬ鳥(京都では見かけない鳥)」とされていて、京都への望郷の念を誘うものであったようだ。


木母寺のHP


写真1:都旧跡「梅若塚」の石碑(旧地)


写真2:「木母寺」


写真3:境内の「梅若堂」。「梅若塚」を供養するための小堂であるが、防災地区内にあるために木造建築物が許可されず、全体をガラス張りの建物で覆った形になっている。


写真4:同、現「梅若塚」

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隅田川神社

2013-04-20 23:21:57 | 神社
隅田川神社(すみだがわじんじゃ)。
場所:東京都墨田区堤通2-17-1。東武電鉄伊勢崎線「鐘ヶ淵」駅の西、約700m。隅田川左岸(東岸)。駐車場有り。
創建時期は不明であるが、治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵のとき、この地で隅田川に船橋を架けて渡った際に水神を祀ったのを創始とするともいう。祭神は速秋津日子神・速秋津比売神ほか。当初の鎮座地は、現在地より100mほど北にあったとされるが、「水神の森」と称された微高地で、隅田川が増水しても沈むことがなく、「浮島」とも呼ばれたともいう。このため、近世には「水神宮」、「水神社」のほか、「浮島の宮」ともいわれ、水上交通の神として舟で隅田川を往来する人々の信仰を集めた。なお、当地の通称である「鐘ヶ淵」は、隅田川が大きく蛇行する場所として「曲ヶ淵」といわれたところで、かつては隅田川の河口であったともいう。
さて、「延喜式」に記された古代東海道では、武蔵国最後の駅である「豊嶋」駅(現「谷中霊園」付近と推定)から東に進み下総国に向うと、隅田川が国境となる。大河に渡し船の増強を指示した承和2年(835年)の太政官符によれば、「武蔵下総両国堺住田河四艘」とあり、この「住田河」が隅田川であって、隅田川が武蔵国と下総国の国境になっていたことがわかる。ただし、河川の流路は変わるし、江戸幕府による新たな水路の開削や流路の変更等もあって、古代の国境がどこであったかは厳密にはわからない。ただ、古代東海道のルートを推定すると、隅田川(住田河)の渡河点は「隅田川神社」の旧社地付近が有力だろうと思われる。時代はやや下るが、源頼朝の当神社創始の伝承が正しければ、頼朝軍も古代東海道のルートで行軍してきたのだろうと考えられる。
なお、近世には、隅田川の渡し場はいくつかあり、当神社付近にも「水神の渡し」があった。記録に残る最も古い隅田川の渡し場は「橋場の渡し」または「白髭の渡し」といい、現・白髭橋(当神社の約500m下流)付近にあったとされ、こちらが古代東海道からの渡し場であったといわれるが、厳密な場所は判ってはいないようだ。現・水神大橋から白髭橋の間にあったと考えれば、大きな間違いはないように思われる。


東京都神社庁のHPから(隅田川神社)


写真1:東京都道(吾妻橋伊興町線)沿い、都営白髭東アパート9号棟前にある「隅田川神社参道蹟」の石碑。ここから東に、「鐘ヶ淵」駅の南側を通る直線的な道路がある。これが古代東海道の痕跡であるとされる。


写真2:「隅田川神社」境内入口の鳥居と社号標


写真3:社殿。狛犬の代わりに亀が守っている。背後に見えるのは首都高速6号向島線の高架。その下に隅田川の堤防がある。


写真4:境内の「水神宮」の石碑


写真5:神社裏は高い堤防になっていて、隅田川は見えない。上流の水神橋の上から隅田川を眺める。左手に東京スカイツリーも見える。
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小菅万葉公園

2013-04-13 23:46:10 | 伝説の地
小菅万葉公園(こすげまんようこうえん)。
場所:東京都葛飾区小菅1-35-16。東武鉄道伊勢崎線「小菅」駅の北、約150m。東京拘置所の西側の塀沿い。駐車場なし。
古代、東京湾は現在よりも奥まで入江が入り込んでいて、現・東京都葛飾区小菅付近に海岸線があったともいわれている。また、小菅付近には古隅田川の河口があったとされる。古代には隅田川が国境となっていたから、武蔵国と下総国の国境の地域でもあったということになる。現在も町名としての小菅は葛飾区だが、「小菅」駅は足立区にある。
万葉集の東歌のなかに「古須気(こすけ)ろの 浦吹く風の あどすすか 愛(かな)しけ児ろを 思いを過さむ」(巻14-3564)と詠まれた歌がある。「小菅の入江に風が吹き過ぎてゆくように、どうしたら愛しい彼女を心にとどめず過ごすことができるだろうか。(いや、できない。)」という意味のようだが、「古須気」が地名の小菅なら、万葉集の頃(成立:8世紀後半?)には、小菅が入江だったことの証拠になる。賀茂真淵は「万葉考」の中で、この歌について「武蔵と下総の国境近くに小菅という地名があり、元は浦辺であった。」(かなり省略した引用)というようなことを書いている。ただし、「小菅」というのを植物の名として、つまり、小さな菅(スゲ。カヤツリグサの一種)と解する説もある。そうすると、歌の意味もかなり違ってくる。
さて、この万葉歌を記念して(多分)、東京拘置所の西側の堀の脇にある細長い公園に「小菅万葉公園」という名がついている。ただし、万葉歌碑などはなく、なぜ「万葉公園」なのか、わからない人も多いだろうと思う。

因みに、東京拘置所のある場所は、江戸時代初期には関東郡代伊奈忠治の広大な下屋敷で、徳川吉宗のとき、将軍家の鷹狩りの際の休息所となった(「小菅御殿」)。明治時代には、小菅県の県庁が置かれたが、短期間で廃止となり、監獄と煉瓦工場となった。この小菅監獄が現在の東京拘置所に引き継がれたという。


写真1:「小菅万葉公園」北側入口


写真2:小さな滝や遊歩道も整備されている。向って左が東京拘置所のフェンス、奥に見えるのが首都高速東京環状線の高架と荒川の土手。
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下総国の古代東海道(その1・豊嶋駅)

2013-04-06 23:21:06 | 古道
古代東海道は当初、相模国(現・神奈川県)の観音崎から東京湾を船で渡って上総国に上陸、そこから北上して下総国を縦断(現・千葉市~佐倉市~成田市)して「香取海」に到り、再び船に乗って常陸国に入った(終点は常陸国府)とされる。これは、日本武尊の東征ルートと同じであるという。因みに、国名に前・中・後、上・下が付いている場合、都に近いほうから前・中・後あるいは上・下を付ける。房総半島の北側が下総国、南側が上総国になっているのは、都からの道順が上総国~下総国になっていたからだ、というのが通説。
さて、武蔵国は、元は東山道に属していたが、「続日本紀」の宝亀2年(771年)の記事により、東海道に所属替えとなったことが判る。また、その記事によれば、東山道の負担を負う上に、武蔵国を経由して下総国等へ行く公使も多くて負担が重いので、東海道に所属替えしてほしい、という理由が記されている。したがって、以前から下総国に向うルートはあったことになる。そして、「延喜式」によれば、武蔵国最後の駅は「豊嶋」駅になる。東京都には「豊島区」という地名があるが、「豊嶋」というのは比較的よくある地名だそうで、古代東海道武蔵国の「豊嶋」駅家は現・谷中霊園(東京都台東区谷中七丁目)辺りと推定されている。発掘調査等の結果ではないが、その前の駅の「大井」駅は現・JR京浜東北線「大井町」駅(東京都品川区)付近(こちらは遺称地である。)とされ、そこから北上した直線的なルートと、旧・下総国に当たる東京低地に残る古代直線道路の痕跡のルートの交点が、「谷中霊園」付近となる。木下良監修・武部健一著「完全踏破 古代の道 畿内・東海道・東山道・北陸道」(2004年10月)を引用すると、「現在のJR品川駅付近からは近世東海道、現在の国道15号に沿って北上し、JR田町駅付近から日比谷通りで皇居前を通り、名前が変わって本郷通りを北進し、直線路がなくなってもそのまま上野公園の西端を通って行けば谷中霊園に達する。ここが木下による豊嶋である。」。「東京低地に残る古代直線道路の痕跡」については、また別項で採り上げたい。
ところで、現「谷中霊園」付近は交通の要衝であったようで、東京都北区西ヶ原の「北区立滝野川公園」付近の「御前前遺跡」は武蔵国の「豊嶋郡家」跡と推定されている。ここから台地上を地形なりに南東に進むと、約3kmで台地の端の「谷中霊園」に到る。また、武蔵国府(現「大国魂神社」付近(東京都府中市))から下総国府(現「市川市国府台公園」付近(千葉県市川市))まで直線を引くと、「谷中霊園」の南端付近を通る。

「谷中霊園」は東京都立の霊園で、元は谷中「天王寺」の寺域であった。現在も谷中「天王寺」等の墓地も隣接して広大な霊園となっており、通称「谷中墓地」ともいわれる。なお、谷中「天王寺」こと「護国山 尊重院 天王寺」(場所:東京都台東区谷中7-14-8)は、元々、文永11年(1274年)に日蓮宗「長耀山 感応寺」として開山したが、不受不施派に属したため江戸幕府から弾圧を受け、元禄11年(1698年)に天台宗に改宗、天保4年(1833年)に現寺号に改称したという。この寺の五重塔は、幸田露伴の「五重塔」のモデルとなったことで有名であるが、残念ながら昭和32年に放火により焼失した。なお、現在の本尊は阿弥陀如来であるが、天台宗への改宗時には毘沙門天であり、現在も「谷中七福神」の毘沙門天に当てられている。


天台宗東京教区のHPから(天王寺)


写真1:谷中「天王寺」山門。入ったところに銅製の釈迦如来坐像(台東区指定有形文化財)がある。


写真2:同上。写真1の山門は現在的なデザインだが、右手に少し古風な門がある。
コメント (1)
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