泊崎大師堂(はっさきだいしどう)。
場所: 茨城県つくば市泊崎43-3。茨城県道210号線(谷田部藤代線)「細見橋北」交差点から東へ、道なりに直進約850m(途中で「千勝神社」前を通る。)、突き当りを右折(南東へ)、約1.6km。駐車場・トイレあり。
伝承によれば、大同年間(806~810年)、空海(弘法大師)が牛久沼に細長く突き出した先端にある当地を訪れ、千座護摩を修めた場所に建てられたという。弘法大師像が安置され、縁結びと長寿に御利益があるが、近年は特に「ポックリ大師」と呼ばれて、長患いせずに逝けるということで信仰を集めている。もちろん、史実としては、空海は常陸国を訪れてはいないだろうが、現・茨城県各地に弘法大師の伝説が残っている。その中でも、当地には「七不思議」の伝説があるのが珍しい。それは、①「駒の足跡」(大師が馬に乗って小川を渡ったときに、石橋についた馬の蹄の跡。)、②「木瓜(ボケ)」(参道の木瓜は実をつけなくなった。)、③「逆松」(大師の杖が根付いて、地を這うように成長した。)、④「硯水」(大師が墨を磨るのに使った湧水で、これで字の練習をすると上達する。)、⑤「独鈷藤」(枝の節々が法具の独鈷に似ている。)、⑥「五葉の杉」(5枚葉の杉。)、⑦「法越(のっこし)」(大師が当地を去るときに渡った川の付近を「法越」と呼ぶようになり、藻が生えなくなった。)の7つだが、そのうち「駒の足跡」・「逆松」・「硯水」の3つしか残っていない。しかも、「逆松」は小樹だし、「硯水」は「ふるさと創生事業」で再現したものらしい。「駒の足跡」も、ちょっと見るとわからないが、平らな石板にうっすらと丸い模様がついているものである。
なお、大師が千座護摩で出来た護摩の灰を固めて作ったという弁財天像が「岩崎山 守徳寺」本堂に安置されている。昔、村人がこの弁財天像を祀って雨乞いをすると、雨が降ったという。実際には、粘土を素焼きしたものらしく、関東では、空海が「江島明神」(現・神奈川県藤沢市の「江島神社」(通称:江島弁財天))の岩屋で修行したという伝説から同様のものが多く作られ、「守徳寺」以外にも残っているものがあるらしい(古くても江戸時代頃のものだろう。)。
蛇足:牛久沼の東側に茨城県牛久市があるが、沼の全域が茨城県龍ヶ崎市に属する。龍ヶ崎市の曹洞宗「太田山 金龍寺」の昔話によれば、同寺院に怠け者の小坊主がいて、勤行をサボっているうちに牛になってしまった。小坊主は、恥じて沼に入っていった。憐れんだ住職が尻尾を掴んで引き戻そうとしたが、尻尾が切れて、とうとう沼に沈んでしまった。それ以来、元は太田沼といっていた沼を、牛喰う沼~牛久沼と呼ぶようになった、という。
岩崎山 守徳寺(がんきさん しゅとくじ)。
場所:茨城県つくば市下岩崎1468。茨城県道46号線(野田牛久線)沿いの「茎崎運動公園」のところから同野球場、「つくば市ふれあいプラザ」方面(東~南へ)に入り、約900m進んで「守徳寺」の案内看板が出ているところで左折(東へ)、約160mで右折(南へ)、約140m進んだ右手が駐車場で、本堂の裏になる。
寺伝によれば、天文3年(1534年)、領主・岩崎勘解由左衛門が亡き母(守徳院喜春明慶信女)の菩提のために創建。当初は「慶喜山 守徳寺」と称したが、天正18年(1590年)、岩崎氏没落後の新たな領主・由良氏の菩提寺になり、元和3年(1617年)に「太田山 金龍寺」から宋的和尚を招いて中興開山とした。享保年間(1716~1736年)、火災に遭って焼失、その後再建されたとき「岩崎山」と山号を改めた。現在は曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏。
守徳寺のHP
写真1:「泊崎大師堂」参道入口
写真2:同上、参道脇の「茨城百景 牛久沼」石碑と弘法大師像(千座護摩を終えて当地を出発する姿という。)
写真3:同上、「駒の足跡」(向かって左の三角形の石板)と「逆松」
写真4:同上、「駒の足跡」表面。うっすらと丸い跡(凹み)がある。
写真5:「泊崎大師堂」
写真6:同上、堂裏からみた牛久沼。牛久沼も青空を映して美しい。
写真7:台地下、岬の先端にある「七浦弁財天」祠。牛久沼の方を向いている。元はこの場所に「七浦大明神」社殿があったが、平成24年に火災で焼失、その跡に建てられたという。
写真8:「弘法の硯水」。大師堂から北東へ進み、台地下に下りて右折(南東へ)、道なりに西へ約550m。駐車スペースあり。
写真9:「守徳寺」山門
写真10:同上、本堂
場所: 茨城県つくば市泊崎43-3。茨城県道210号線(谷田部藤代線)「細見橋北」交差点から東へ、道なりに直進約850m(途中で「千勝神社」前を通る。)、突き当りを右折(南東へ)、約1.6km。駐車場・トイレあり。
伝承によれば、大同年間(806~810年)、空海(弘法大師)が牛久沼に細長く突き出した先端にある当地を訪れ、千座護摩を修めた場所に建てられたという。弘法大師像が安置され、縁結びと長寿に御利益があるが、近年は特に「ポックリ大師」と呼ばれて、長患いせずに逝けるということで信仰を集めている。もちろん、史実としては、空海は常陸国を訪れてはいないだろうが、現・茨城県各地に弘法大師の伝説が残っている。その中でも、当地には「七不思議」の伝説があるのが珍しい。それは、①「駒の足跡」(大師が馬に乗って小川を渡ったときに、石橋についた馬の蹄の跡。)、②「木瓜(ボケ)」(参道の木瓜は実をつけなくなった。)、③「逆松」(大師の杖が根付いて、地を這うように成長した。)、④「硯水」(大師が墨を磨るのに使った湧水で、これで字の練習をすると上達する。)、⑤「独鈷藤」(枝の節々が法具の独鈷に似ている。)、⑥「五葉の杉」(5枚葉の杉。)、⑦「法越(のっこし)」(大師が当地を去るときに渡った川の付近を「法越」と呼ぶようになり、藻が生えなくなった。)の7つだが、そのうち「駒の足跡」・「逆松」・「硯水」の3つしか残っていない。しかも、「逆松」は小樹だし、「硯水」は「ふるさと創生事業」で再現したものらしい。「駒の足跡」も、ちょっと見るとわからないが、平らな石板にうっすらと丸い模様がついているものである。
なお、大師が千座護摩で出来た護摩の灰を固めて作ったという弁財天像が「岩崎山 守徳寺」本堂に安置されている。昔、村人がこの弁財天像を祀って雨乞いをすると、雨が降ったという。実際には、粘土を素焼きしたものらしく、関東では、空海が「江島明神」(現・神奈川県藤沢市の「江島神社」(通称:江島弁財天))の岩屋で修行したという伝説から同様のものが多く作られ、「守徳寺」以外にも残っているものがあるらしい(古くても江戸時代頃のものだろう。)。
蛇足:牛久沼の東側に茨城県牛久市があるが、沼の全域が茨城県龍ヶ崎市に属する。龍ヶ崎市の曹洞宗「太田山 金龍寺」の昔話によれば、同寺院に怠け者の小坊主がいて、勤行をサボっているうちに牛になってしまった。小坊主は、恥じて沼に入っていった。憐れんだ住職が尻尾を掴んで引き戻そうとしたが、尻尾が切れて、とうとう沼に沈んでしまった。それ以来、元は太田沼といっていた沼を、牛喰う沼~牛久沼と呼ぶようになった、という。
岩崎山 守徳寺(がんきさん しゅとくじ)。
場所:茨城県つくば市下岩崎1468。茨城県道46号線(野田牛久線)沿いの「茎崎運動公園」のところから同野球場、「つくば市ふれあいプラザ」方面(東~南へ)に入り、約900m進んで「守徳寺」の案内看板が出ているところで左折(東へ)、約160mで右折(南へ)、約140m進んだ右手が駐車場で、本堂の裏になる。
寺伝によれば、天文3年(1534年)、領主・岩崎勘解由左衛門が亡き母(守徳院喜春明慶信女)の菩提のために創建。当初は「慶喜山 守徳寺」と称したが、天正18年(1590年)、岩崎氏没落後の新たな領主・由良氏の菩提寺になり、元和3年(1617年)に「太田山 金龍寺」から宋的和尚を招いて中興開山とした。享保年間(1716~1736年)、火災に遭って焼失、その後再建されたとき「岩崎山」と山号を改めた。現在は曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏。
守徳寺のHP
写真1:「泊崎大師堂」参道入口
写真2:同上、参道脇の「茨城百景 牛久沼」石碑と弘法大師像(千座護摩を終えて当地を出発する姿という。)
写真3:同上、「駒の足跡」(向かって左の三角形の石板)と「逆松」
写真4:同上、「駒の足跡」表面。うっすらと丸い跡(凹み)がある。
写真5:「泊崎大師堂」
写真6:同上、堂裏からみた牛久沼。牛久沼も青空を映して美しい。
写真7:台地下、岬の先端にある「七浦弁財天」祠。牛久沼の方を向いている。元はこの場所に「七浦大明神」社殿があったが、平成24年に火災で焼失、その跡に建てられたという。
写真8:「弘法の硯水」。大師堂から北東へ進み、台地下に下りて右折(南東へ)、道なりに西へ約550m。駐車スペースあり。
写真9:「守徳寺」山門
写真10:同上、本堂