神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

八郎太郎誕生之地(三湖物語 ・その1)

2016-10-29 23:42:08 | 伝説の地
八郎太郎誕生之地(はちろうたろうたんじょうのち)。
場所:秋田県鹿角市十和田草木保田。「草木小学校」南側の道路を約200m進み、右折(東南へ)、約350m。駐車場なし。
現・秋田県を中心に、十和田湖、八郎潟、田沢湖の3つの湖にまつわる伝説として「三湖物語」(「三湖伝説」)と呼ばれるものがある。3つの湖の龍神伝説が主であり、まずは十和田湖からなのだが、その前編。
現・鹿角市域は秋田県に属しているが、江戸時代には現・岩手県盛岡市を中心とする南部藩に属していた。当地には「南部ダンブリ長者」の伝説がある。大日神のお告げにより、婿を探す娘がダンブリ(トンボ)の導きで若者と出会い、酒が湧く霊泉を見つけて長者(大金持ち)になるという物語である。そして、その長者の娘・吉祥姫が継体天皇の側女となったことから、長者夫婦の死後、継体天皇の勅許を受けて、現・鹿角市の小豆沢と長牛、現・秋田県大館市比内町の独鈷にそれぞれ大日堂を建立したとされる(継体天皇17年:523年)。また、これら大日堂3社には、神亀2年(725年)に行基が訪れ、自刻の仏像を安置したという。このうち、現・大館市比内町独鈷の「大日堂」は、江戸時代までは神仏混淆の状態であったが、明治時代に入り「神明社」となり、平成元年に「大日神社」に改称した(現在の祭神:大日霊貴命ほか)という。
さて、昔、この比内町独鈷の「大日堂」に了観という僧侶が住んでいたが、戒律を破ったため大蛇の祟りを受け、現・鹿角市十和田草木に移り住むことになり、子孫は九内と名を変えた。九代目の九内は八郎太郎と名乗り、6尺余り(=180cm余)という大男で、力も強かったが親孝行な若者であった。ある日、仲間と3人連れで十和田の山奥に入った。数日後、八郎太郎が炊事当番であったとき、沢で大きなイワナを3匹捕まえた。これを焼いていると、あまりに美味しそうだったので、平等に分け合うという掟を破り、イワナを全部食べてしまった。すると、異常に喉が渇き、沢の水を飲み続けているうち、自分が竜に変身していることに気が付いた。こうして、八郎太郎は仲間に別れを告げ、沢を堰き止めて大きな湖を造ると、その主となった。この湖が「十和田湖」である、というのが、「三湖物語」の始まりとなる。


秋田県神社庁のHPから(大日神社)


写真1:「八郎太郎誕生之地」石碑


写真2:「桂の井戸」(場所:写真1の石碑から南東へ約120m。駐車場なし。)


写真3:「大日神社」参道の石段と社号標。「神明社」の社号標も残っている。(場所:秋田県大館市比内町独鈷字大日堂前8)


写真4:同上、社殿前の神明鳥居


写真5:同上、社殿。付け足しのような本殿もあるが、如何にも仏堂の趣き。
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青龍大権現(秋田県仙北市)

2016-10-22 23:06:21 | 磐座
青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)。
場所:秋田県仙北市田沢湖生保内。国道341号線「小先達」交差点から秋田県道38号線(田沢湖西木線)に入り(西へ)、直ぐのところにある「山のはちみつ屋」店舗の駐車場の西端にある未舗装路(畦道)を北へ約630m進むと森にぶつかるので、そこを左折(西へ)、少し行くと森の中に入る道があり、約50m。森の入口まで自動車でも行けないことはないが、お勧めしない。駐車場なし。
詳細不明。田沢湖に近いので、田沢湖の辰子姫伝説に関連するものかもしれないが、はっきりしない。秋田県・青森県県境の十和田湖にも青龍大権現の伝承があるので、単に大きな湖に因む水神を祀ったものかもしれない。当地の字名は「石神」というらしいので、個人的には、辰子姫とは無関係に、巨岩に対する素朴な信仰と考えたい。


写真1:森の道を進むと、素朴な鳥居がある。因みに、参拝の折、参道に蛇がいた。赤と黒の模様だったので、ヤマカガシだったと思う。


写真2:巨岩の前に小さな堂祠がある。


写真3:「青龍大権現」の巨岩。暗い森の中にあるので、全体像が掴みづらい。


写真4:巨岩の下の割れ目。卵が供えられているようだ。
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姫塚(秋田県仙北市)

2016-10-15 23:29:15 | 伝説の地
姫塚(ひめつか)。
場所:秋田県仙北市田沢湖生保内字堂ノ前。現・国道341号線と旧・国道341号線が交わるところにあるコンビニ「ローソン田沢湖造堂店」から旧・国道341号線を南に約500m。駐車場とトイレがある。
「姫塚」は、平将門の娘である瀧夜叉姫の墓とされる塚で、今も当地に多い田口姓は姫の子孫であり、姫は「村祖」とされている。「姫塚」から南に約1.4kmのところにある「中生保内神社」は、社伝によれば、御神体は瀧夜叉姫の守護神として懐中していたという延命地蔵像で、姫の長子・田口九郎右衛門(田口九兵衛とも)が氏神として祀ったという。元々は田口家の屋敷内(字堂ノ前)にあったが、東側の地蔵長根というところに移したところ、通行人が度々落馬することがあり、元の社地に戻したという。明治期に入り火産巣毘神(ホムスビ)を祭神として「愛宕神社」に改称、明治44年に「山神社」(大山祇神社)と合社して昭和3年に現在名に改称したとされる。民話では、昔、苗代掻きで人手不足に困っていると、ホエドワラシ(乞食童子)がサセトリ(馬の鼻をとって引き回すこと)をしてくれた。いつの間にか居なくなったので捜すと、地蔵堂に泥の足跡がついていて、地蔵像の足が泥で汚れていた。お地蔵様が童子となって手伝ってくれたことがわかった。以来、この付近の田を地蔵田といっている。また、地蔵の足に蛭が吸いついて血を吸ったが、罰として血を吸ってはならないことにされ、地蔵田の蛭は血を吸わないという話である。実は、類似の民話は各地に各地にあり、一般に「田掻き地蔵」といわれている。
ところで、平将門の娘は3人いたとされており、長女が五月姫、次女が春姫、三女が如蔵尼(俗名不明)となっている。このうち、長女の五月姫が、将門の死後、京都の「貴船神社」で妖術を授けられて瀧夜叉姫と名乗り、朝廷転覆の反乱を起こしたとされる。瀧夜叉姫は、京都「大宅神社」神主・大宅太郎光圀の陰陽術によって成敗された、というが、これは後世に作られた物語に過ぎないらしい。一方、瀧夜叉姫とは、三女の如蔵尼であるとする説もある。如蔵尼(瀧夜叉姫)は、将門の死後、東北地方に逃れて仏門に入り、地蔵菩薩を信仰して如蔵尼と名乗ったという。その隠棲した寺が陸奥国「慧日寺」(現・福島県会津磐梯町「恵日寺」)で、境内に墓碑があるとのこと。如蔵尼は、「國王神社」(現・茨城県坂東市、2012年10月6日記事参照)を創建した人物とも伝えられており、「瀧夜叉姫」(「夜叉」は元々インド神話の鬼神)という名とはイメージが異なる。
こうしたことから、東北地方では、将門の三女の名が元々「瀧夜叉姫」であったのであり、将門の死後、地蔵菩薩を篤く信仰して、その功徳を説くあまり、妖術を使って民を惑わすとして、朝廷から睨まれていた。それで、ついには現・秋田県仙北市田沢湖まで落ち延びてきた、との伝承が生まれたようだ。上記の「田掻き地蔵」の伝説があるように、この伝承・伝説には地蔵菩薩を信仰し、布教活動をしていた旅僧(団)の存在があったのではなかろうか。
蛇足ながら、将門の次女・春姫であるが、平良文の子・平忠頼の正室となり、平忠常らを生んだ。平忠常は後の千葉氏の祖であり、関東地方で多くの同族があって栄えたとされる(平良文については、「千葉神社」(2012年5月5日記事)、「夕顔観音塚」(2014年5月10日記事)等参照)。


「まるまる秋田」のHPから(姫塚)

秋田県神社庁のHPから(中生保内神社)


写真1:「姫塚」の石碑。江戸時代に建てられたものらしい。「姫者平将門三女也」と刻まれている。


写真2:「姫塚」


写真3:「中生保内神社(なかおぼないじんじゃ)」(場所:仙北市田沢湖生保内字中生保内1。「姫塚」から南に約1.4km、駐車場なし)


写真4:同上、社殿
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田村将軍試し切りの石

2016-10-08 23:01:49 | 名石・奇岩・怪岩
田村将軍試し切りの石(たむらしょうぐんためしぎりのいし)。
場所:秋田県仙北市田沢湖生保内。国道46号線「野中」交差点の東、約520mの交差点から北へ(「田沢湖駅方面」)、国道341号線の旧道(現・国道341号線の1本東側)を約2.6km進み、「(株)高橋鉄工所」の向かい側の道に入る(東へ)。道なりに約300m進んで、道が二岐に分かれるところで右手に進む。この道が「林道黒沢野線」で、未舗装路になるが、直ぐ(約20m)。駐車場なし。
この石は、延暦16年(797年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征の折、試し切りをしたというもの。この石は、長さ約4m、幅約2mの細長い石で、刀で斬られたかのようにザックリ割られている。もちろん伝説に過ぎないが、東北地方で最強の武人といえば、田村麻呂将軍なのだろうな、と改めて思う。


写真1:「田村将軍試し切りの石」標柱。石は、奥の樹木の陰。


写真2:石と案内板


写真3:「田村将軍試し切りの石」


写真4:近くにある石祠。「田村将軍試し切りの石」との関係は不明。面白いと思ったのは鳥居の形。秋田県内では笠木に素木の丸太を使っているのをよく見かける。その場合、木の根側が太くなるのだが、これはどうやら金属製らしいが、あえて素木丸太の鳥居を模して造られているようだ。
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神明社(秋田県仙北市角館町白岩前郷)

2016-10-01 23:37:38 | 神社
神明社(しんめいしゃ)。通称:白岩神明社。
場所:秋田県仙北市角館町白岩前郷1。国道105号線「下菅沢」交差点から秋田県道258号線を東へ約4.3km、または国道46号線「真崎」交差点から秋田県道50号線(大曲田沢湖線)を南に約5km進み、両者の交差点から南に約400m。駐車場スペースあり。
当神社の創建時期は不明だが、当地は、15世紀後半(社伝によれば宝徳年間(1449~1451年))頃から現・秋田県仙北地方を支配した戸沢氏(江戸時代は庄内藩主、明治時代には子爵)の武将・白岩氏の本拠地として栄え、その守護神であったとされる。当神社の祭神は天照皇大神など15柱と多いが、これは明治~大正時代に近隣の12社と境内社3社を合祀したことによる。で、その合祀された神社のうち、角館町白岩字寺後(当神社の東側)にあった「稲荷神社」が大同2年(807年)の建立であり、「日本三代実録」貞観12年に記事にある「出羽国の白磐神と須波神に従五位下を授ける。」の「白磐神」であるという。この説は、「白岩村郷土史」(高木徳治著、1931年刊)によるものであるが、その根拠は特に示されていないようである。
「角館」は武家屋敷の町並みや桜の名所として有名で、「みちのくの小京都」とも呼ばれている。白岩地区は、武家屋敷のある角館町中心部からは離れており、現在は静かな山麓の集落という感じだが、上記の通り、かつては白岩氏の城下町だった。また、約7km東に奥羽山脈真昼山地があり、そのうち、「白岩岳」(標高1177m)あるいは「白岩薬師」(同1159m)の山頂には現在も薬師の石祠があって、古くから病魔退散を願う人々が山に登り参拝したという。こうしたことから、当地でも別当は修験であり、その権威を高めるため上記「日本三代実録」記事を利用した可能性があるだろう。なお、同記事の「白磐神」としては現・山形県寒河江市の「白磐神社」(2016年3月26日記事)が「国史現在社」として比定されるのが通説となっている。


白岩神明社のHP

秋田県神社庁のHPから(神明社)


写真1:「(白岩)神明社」正面。素木(しらき)の神明鳥居が珍しい。なお、「薬師岳」・「白岩薬師」等には、当神社のところから東に進み、「入角沢林道」から登山口に至る。


写真2:同上、社殿


写真3:同上


写真4:曹洞宗「龍澤山 雲厳寺」。当神社の北、約150mのところにある。白岩氏により宝徳2年(1450年)に創建された。


写真5:同上、山門(秋田県有形文化財)。仁王像は「ドンパン節」作者の円満造の作という。
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