神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

三百坊跡

2016-05-28 23:01:51 | 史跡・文化財
三百坊跡(さんびゃくぼうあと)。
場所:山形県山形市土坂。山形県道53号線(山形永野線)と同167号線(妙見寺西蔵王公園線)の接続点から県道167号線を東北に約550mのところで南東へ(「←市営西蔵王放牧場」案内板がある。)、道なりに約2km。「西蔵王放牧場」手前にあるペンション「ログハウス三百坊」の東側辺り。駐車スペースあり。
伝承によれば、蔵王連峰の1つ「瀧山」(標高1362m)は和銅元年(708年)に行基が開山し、山麓に「石行寺(岩波観音)」(前項参照)を開創した。仁寿元年(851年)には慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が「瀧山」山頂に自作の薬師如来を祀り、「瀧山大権現」と称したが、山頂は修行するにも不便なため、一段下に「護摩堂」を建立した。以来、平安時代から鎌倉時代初期まで西蔵王一帯に堂塔伽藍が立ち並び、繁栄を極めた。特に、当地には、「瀧山」別当の「醫王山 瀧山寺」を中核に「三百坊」と呼ばれる多くの寺院があったという。因みに、西蔵王は「オオヤマザクラ(大山桜)」の名所で、歌人としても有名な西行法師が出羽国の「たきの山」を訪ね、「たぐいなき 思ひいではの 櫻かな 薄紅の 花のにほひは」(「山家集」)という歌を詠んでいる。この「たきの山」が「瀧山(寺)」であろうと考えられている(「西蔵王放牧場」入口付近に歌碑がある。)。このように隆盛を誇った「瀧山」であるが、建長3年(1251年)または正嘉2年(1258年)、鎌倉幕府の執権・北条時頼に閉山を命ぜられ、徹底的に破却されたとされる。北条時頼(最明寺入道)には「廻国伝説」があり、「瀧山」勢力が強大であることを見聞きしての弾圧とする説もあるが、「廻国」自体が伝説に過ぎないので、北条時頼の命令だったのか確証はないが、出羽国では「朝日修験」も同様に弾圧されて消滅したとされており(「靈山朝日嶽神社」2016年4月9日記事参照)、鎌倉幕府により閉山させられたのは史実らしい。
ところで、「日本三代実録」貞観9年(867年)条に出羽国最上郡の「霊山寺」が定額寺に列せられたという記事があるが、上記の「瀧山寺」がその定額寺「霊山寺」であるという説が有力。なお、古代の「最上郡」は現在の村山地方・最上地方を合わせた地域を指すので、当地が「最上郡」でも矛盾はない。「霊山寺」という寺号は各地にある名であるが、「りょうぜんじ」という読み方をすることが多い。現在、蔵王連峰の「瀧山」は「りゅうざん」と読むが、「瀧」は「ロウ」、「リョウ」とも読める。類似した地名・寺号と、鎌倉幕府が危惧するほどの隆盛の伝承から、確かに有力候補だろうと思われる。


写真1:「三百坊の石鳥居」。凝灰岩製で、高さ約4m。慶応2年(1866年)建立。


写真2:鳥居の横にある「瀧山塔」(石碑)。安政2年(1855年)建立。参道に杉並木が寄進されたことを記しているが、現在、杉並木はほとんど残っていないようだ。


写真3:「瀧山」参道(登山道)


写真4:「西行歌碑」
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新福山 般若院 石行寺

2016-05-21 23:07:28 | 寺院
新福山 般若院 石行寺(しんふくさん はんにゃいん しゃくぎょうじ)。通称:岩波観音(いわなみかんのん)。
場所:山形県山形市岩波114-1。国道13号線(山形バイパス)「小立」付近から山形県道53号線(山形永野線)に入り、南東へ。道なりに約2.2km進み、左折(北へ)、約150m。県道から入るところに「岩波観音」の案内板があるが、小さいので見落としやすい。駐車場有り。
寺伝によれば、元は「磊行寺」と称し、和銅年間(708~715年)に行基が開創し、貞観2年(860年)に慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が中興したという。本尊の十一面観世音菩薩は行基の作と伝え、脇侍の不動明王と毘沙門天は慈覚大師の作とされる。境内の「岩波観音堂」は「最上三十三観音霊場」の第7番札所となっており、三間四方の御堂は室町時代末期の建造とされ、内陣に天正8年(1580年)銘の絵馬があるという。また、寺宝として「大般若経」114帖が伝わるが、各巻奥書の年号から南北朝時代の文和2年(1353年)~永和元年(1375年)に書写されたものであることがわかる。行基開創・慈覚大師中興という伝承はともかく、古刹であることは間違いない。「瀧山寺」の表参道に位置し、同寺開創の根拠地になったとされる。現在の宗旨は天台宗。


「みちのく山形の霊場 最上三十三観音」のHPから(第7番 岩波観音)


写真1:「石行寺」境内入口にある石鳥居と「十一面観世音菩薩」の石碑。奥に観音堂がある。


写真2:寺号標


写真3:山門


写真4:本堂


写真5:(写真ではわかりにくいが)滝のある流水式庭園が美しい。


写真6:地蔵堂。延命地蔵像は慈覚大師作という。


写真7:観音堂(山形県指定文化財)。本尊の十一面観音は秘仏。
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温泉神社(岩手県一関市)

2016-05-14 23:43:57 | 神社
温泉神社(おんせんじんじゃ)。
場所:岩手県一関市厳美町字滝ノ上331。一関市役所厳美出張所の西、約150m。磐井川の景勝地「厳美渓」の近くにあり、一関市役所厳美出張所の敷地が無料駐車場になっている。
当神社の創建時期は不明。「日本三代実録」貞観15年(873年)の記事に見える出羽国「酢川温泉神」の社地は「須川岳」(栗駒山)の山頂にあり、1年中雪が消えず、険しい山道のため参拝が不便なので、山麓に遥拝所を設けて里宮と称したという。現在の祭神は大日霊貴命ほか。当神社の鎮座地は「栗駒山」(標高1626m)の東麓、旧・陸奥国側にある。社伝が正しければ、出羽国の式外社が陸奥国に移ったということになる。前項「大日岩」(2016年5月11日記事)で書いたが、「栗駒山」で湧き出す「須川温泉」の温泉水は、当初、現・秋田県側に流されていたが、強酸性のため農作物に害があるとして、江戸時代初期に現・岩手県側に流されるようになった。「(酢川)温泉神社」が現・岩手県側にあるのも、これと関係があるのだろうか。


岩手県神道青年会のHP(温泉神社) :なお、このHPも、当神社境内入口の説明板にも、「貞観5年」とあるが、正しくは「貞観15年」と思われる。


写真1:「温泉神社」境内入口。


写真2:鳥居


写真3:境内の「エドヒガン」(桜)。一名「貞山桜」といい、伊達政宗公(貞山公)が植えさせたものとされ、一関市指定天然記念物。


写真4:社殿


写真5:「厳美渓」


写真6:同上

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大日岩(岩手県一関市)

2016-05-11 23:56:52 | 名石・奇岩・怪岩
大日岩(だいにちいわ)。
場所:岩手県一関市厳美町祭畤山国有林内。岩手県側からは東北自動車道「一関」ICから国道342号線で、または秋田県側からは湯沢横手道路「十文字」IC付近から同じく国道342号線で、「栗駒山」を目指す。どちらも距離は45~50kmで所要時間は約80分。旅館「須川高原温泉」建物裏手の露天風呂の背後に聳える。「栗駒山」登山口にも当たり、登山者用の駐車場あり。なお、冬期間は国道345号線などが閉鎖される。
「栗駒山」(標高1626m)は宮城県・岩手県・秋田県の3県に跨る山で、宮城県側では「栗駒山」または「駒ケ岳」、岩手県側では「須川岳(酢川岳)」、秋田県側では「大日岳」と称したという。山頂付近には小祠があり、これが陸奥国式内社「駒形根神社」の「嶽宮」(奥宮)であるという(山麓の現・宮城県栗原市栗駒沼倉に「麓宮」(里宮)がある。)。「栗駒山」は活火山で、近くは昭和19年にも小規模な水蒸気噴火があり、「昭和湖」が形成された。岩手県・秋田県境付近の登山口に「大日岩」があり、その辺りから毎分6千リットルという豊富な温泉が湧き出しており、岩手県側の「須川高原温泉」、秋田県側の「須川温泉 栗駒山荘」という2つの旅館で源泉掛け流しの温泉を楽しむことが出来る。しかし、この温泉水は含硫黄硫酸塩泉を主体とするph2.1の強酸性で、「須川」(「酢川」)という名の由来になっている。温泉としては良いが、農作物にとっては「毒水」であり、元々は現・秋田県側に流されていたが、江戸時代初期に秋田藩が引湯を拒否し、現・岩手県側に流されることになったという。
さて、「日本三代実録」貞観15年の「出羽国の正六位上・酢川温泉神に従五位下を授ける。」という記事にある「酢川温泉神」というのが、この「須川(高原)温泉」あるいは「栗駒山」山麓の温泉(「小安峡温泉」など)を神格化したものという説がある。特に、「秋田県史」(昭和52年)では、「酢川温泉神社が須(酢)川嶽すなわち栗駒山山麓の温泉群の神であることは疑いを差し挟む余地さえない。」とまで書いている。しかし、現在では、現・山形県山形市の「蔵王温泉」にある「酢川温泉神社」に比定するのが通説となっている(前項参照)。


須川高原温泉のHP

須川温泉 栗駒山荘のHP

小安峡温泉のHP


写真1:「大日岩」。右手の塀の中が「栗駒高原温泉」の露天風呂。手前に温泉水が川のように流れているが、「湯の花」を含んでいて黄色く見える。


写真2:同上。2008年6月14日に発生した「岩手・宮城内陸地震」(震度6)により、上部が崩落してしまったらしい。


写真3:「大日岩」横にある鳥居と石祠(「温泉神社」?)


写真4:同上、石祠。ここが「栗駒高原温泉」の源泉地らしい。


写真5:「栗駒山」山頂(宮城県・岩手県境)


写真6:同上、山頂付近にある陸奥国式内社「駒形根神社」の嶽宮


写真7:「栗駒山荘」から見た「鳥海山」


写真8:栗駒山中腹にある「栗駒山神社」(場所:秋田県東成瀬村。県道282号線(仁郷大湯線)で「栗駒山」方面に向かい、湯沢市・東成瀬村境から東に約300m。県道沿いにあり、駐車スペースもある。)。祭神不明。地元の山人が古くから崇めていた祠を栗駒有料道路開通時に移設したものという。


写真9:栗駒山山麓にある「小安峡」大噴湯付近の遊歩道(場所:秋田県湯沢市皆瀬。国道13号線「表町四丁目」交差点から東~東南へ約28km。駐車場有り)。川岸の至るところから温泉が湧き出ている。
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酢川温泉神社(出羽国式外社・その8)

2016-05-07 23:24:40 | 神社
酢川温泉神社(すかわおんせんじんじゃ)。
場所:山形県山形市蔵王温泉字坂の上関神811-6。「蔵王温泉」の蔵王スカイケーブル「上ノ台」駅の南、約180m。 駐車場スペースあり(鳥居横)。
社伝等によれば、持続天皇4年(690年)に役小角(役行者)が蔵王権現を現・宮城県蔵王町の「刈田岳」山頂(標高1758m)に祀り、周辺が修験道の修行の地となった。現・山形県側でも、和銅元年(708年)、「熊野岳」(標高1841m)山頂に熊野神社分霊が勧請されて「熊野神社」(現「蔵王山神社」:昭和27年改称)が建立され、承和年間(834~847年)に「酢川温泉神社」が創建、仁寿元年(851年)には慈覚大師によって「瀧山」(標高1362m)に「医王山 瀧山寺」が開山された。その後、「酢川温泉神社」を「ロノ宮」、「熊野神社」を「離宮」、「瀧山寺」を「本宮」として、三宮一社として信仰されるようになったという。「日本三代実録」には、貞観15年(873年)に出羽国の「酢川温泉神」が従五位下の神階を授与されたことが記されており、それが当神社のことであるとされている(「国史現在社」)。中世以降、薬師如来像を本地仏として祀っていたため、「薬師堂」などと呼ばれてきたが、明治時代に入り、仏像等は別院に移され(現・境内社「薬師神社」)、明治11年に旧社号に復した、という。現在の祭神は大国主神ほか。
「蔵王温泉」は、蔵王連峰の西麓、標高約900mにある温泉地で、かつては「高湯」と呼ばれていた。伝説によれば、日本武尊東征の折、武将・吉備多賀由が毒矢に当たって苦しんでいるとき、家臣によって温泉が発見され、その湯に浸かって快癒したという(約1900年前)。これに因み、「多賀由温泉」~「高湯温泉」と呼ばれるようになったとされる。泉質は強酸性(ph1.6)の硫黄泉で、当地から発して西へ流れる川を「酢川」といい、上山市金瓶で「須川」に合流する。言うまでもなく、どちらも強酸性の水が流れることによって名づけられたものだろう。「開湯1900年」は伝説に過ぎないかもしれないが、古くから知られていたことは確かなように思われる。県都・山形市街地に近く(昭和31年に蔵王村を編入して「市内」になった。)、近代には温泉宿、スキー場が充実したリゾート地としても開発されたこともあり、当神社が「国史現在社」として有力視される背景ともなっているものと思われる。


写真1:「蔵王温泉」街から上る「酢川温泉神社」の石段


写真2:石段を上ると、白い鳥居。神社前の車道沿いに建てられている。


写真3:鉄筋コンクリート造の社殿。モダンなデザイン。


写真4:境内社「薬師神社」。神仏混淆時代の薬師如来像が祀られており、珍しい鎌倉時代の鉄仏であるとのこと。


写真5:石段前にある「蔵王温泉 上湯共同浴場」


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