東雲山 愛染院 根本寺(とううんさん あいぜんいん こんぽんじ)。通称:水原観音。
場所:茨城県潮来市水原1121。国道51号線(潮来バイパス)と茨城県道188号線(大賀延方線)の「延方」交差点から、県道を北西へ約2.7km。駐車場有り。
寺伝によれば、天喜5年(1057年)、八幡太郎こと源義家が奥羽征討(「前九年の役」)の折、水原の里から鹿島に渡ろうとしたが、北浦の大風のため渡れなかった。義家は兜の八幡座(頂点)に像高5.9cmの如意輪観世音薩像を奉持していたが、霊夢により、その観音像を祀って七日七夜の水行を行ったところ大風が収まり、鹿島に渡ることができた。この観音像は空海(弘法大師)が弘仁元年(810年)に彫ったもので、天喜2年(1054年)に後冷泉天皇から武運の守護仏として授けられたものだった。この霊験のため、当地を衆生済度の根本の地として観音像を祀り、京から円通閣主を招いて草庵を建てた(よって、当寺院は義家を開基とする。)。その後、本堂を建立して像高59.4cmの如意輪観世音菩薩像を安置し、義家の守護仏を胎内仏とした。江戸時代、水原村には住民が127軒しかないのに、当寺院を含め3ヵ寺2堂1門徒があって、その全ての維持は困難となった。そこで、寛文10年(1670年)に全村が当寺院の檀徒となることとしたが、このときは公許が得られず、元禄7年(1694年)になって漸く許可され、宥範和尚を中興開山として堂宇再建を開始した。宝永元年(1704年)、麻生藩主・新庄越中守直隆から再建記念として愛染明王像・金一封等が下賜され、以後、新庄家の祈願所となったという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は如意輪観世音菩薩。安産・子育てに御利益があるとされる。
なお、本尊の如意輪観世音菩薩は、胎内仏とともに茨城県指定文化財。本尊は檜材の寄木造で、伝承では長元3年(1030年)の定朝作とされるが、玉眼が入れられており、室町時代頃のものと推定されている。胎内仏は白檀の一木造で、藤原時代の作とされる。ほかに、潮来市指定文化財として、灰造弁財天があるが、高野山(「金剛峯寺」)の護摩の灰から造り、裏面に弘法大師の左手判(手型)が押されているというものである。これは、「泊崎大師堂」(2021年11月27日記事)で書いたように、現・神奈川県藤沢市の「江島神社」(通称:江ノ島弁天)に因んで近世以降に大量に造られたものと思われる。
蛇足:奈良時代の古代東海道「板来」駅の比定地は現・潮来市潮来(臨済宗「長勝寺」付近?)が有力だが、現・潮来市延方とする説もある(2022年9月24日記事参照)。後説の場合、古代東海道は、現・行方市域では概ね茨城県道50号線(水戸神栖線)とほぼ同じルートで、行方市から潮来市に入ると、「大生古墳群」(「鹿見塚古墳」(2017年12月30日記事)参照)中央部を横切って「大生神社」(2017年12月9日記事)の南側を通り、築地と水原の大字境を進んで延方に至ると推定されている(茨城県教育庁文化課編「古代東海道と古代の道」)。その当否は不明だが、ここでは、源義家の伝説に注目したい。常陸国では、厚くもてなした長者に対して、後難を恐れて皆殺しにしてしまうという話が各地にある(例、現・水戸市の「一盛長者」。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照。)。ここでは、それらと違って仏教の霊験譚になっているが、義家が大軍を率いて当地を通った(古代官道のルート?)という伝説があることに興味を惹かれる。
茨城県教育委員会のHPから(木造 如意輪観世音菩薩像(附胎内仏))
写真1:「愛染院」鐘楼門。享保年間(1716~1735年)の建立で、潮来市指定文化財。
写真2:本堂(観音堂)。享保4年(1719年)建立で、潮来市指定文化財。本尊の如意輪観世音菩薩を祀る。
写真3:鐘楼門を入って左手にある三十三観音堂
写真4:大師堂
写真5:金堂。こちらに愛染明王が祀られている。
写真6:七福神と由緒を刻した石碑
写真7:背後の丘に登る急な石段。上るよりも、下りる方が怖い。
写真8:丘の上にある「若宮八幡宮」
写真9:同上、「金毘羅宮」。北浦の方を向いているが、雑木が生い茂っていて眺望はない。
場所:茨城県潮来市水原1121。国道51号線(潮来バイパス)と茨城県道188号線(大賀延方線)の「延方」交差点から、県道を北西へ約2.7km。駐車場有り。
寺伝によれば、天喜5年(1057年)、八幡太郎こと源義家が奥羽征討(「前九年の役」)の折、水原の里から鹿島に渡ろうとしたが、北浦の大風のため渡れなかった。義家は兜の八幡座(頂点)に像高5.9cmの如意輪観世音薩像を奉持していたが、霊夢により、その観音像を祀って七日七夜の水行を行ったところ大風が収まり、鹿島に渡ることができた。この観音像は空海(弘法大師)が弘仁元年(810年)に彫ったもので、天喜2年(1054年)に後冷泉天皇から武運の守護仏として授けられたものだった。この霊験のため、当地を衆生済度の根本の地として観音像を祀り、京から円通閣主を招いて草庵を建てた(よって、当寺院は義家を開基とする。)。その後、本堂を建立して像高59.4cmの如意輪観世音菩薩像を安置し、義家の守護仏を胎内仏とした。江戸時代、水原村には住民が127軒しかないのに、当寺院を含め3ヵ寺2堂1門徒があって、その全ての維持は困難となった。そこで、寛文10年(1670年)に全村が当寺院の檀徒となることとしたが、このときは公許が得られず、元禄7年(1694年)になって漸く許可され、宥範和尚を中興開山として堂宇再建を開始した。宝永元年(1704年)、麻生藩主・新庄越中守直隆から再建記念として愛染明王像・金一封等が下賜され、以後、新庄家の祈願所となったという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は如意輪観世音菩薩。安産・子育てに御利益があるとされる。
なお、本尊の如意輪観世音菩薩は、胎内仏とともに茨城県指定文化財。本尊は檜材の寄木造で、伝承では長元3年(1030年)の定朝作とされるが、玉眼が入れられており、室町時代頃のものと推定されている。胎内仏は白檀の一木造で、藤原時代の作とされる。ほかに、潮来市指定文化財として、灰造弁財天があるが、高野山(「金剛峯寺」)の護摩の灰から造り、裏面に弘法大師の左手判(手型)が押されているというものである。これは、「泊崎大師堂」(2021年11月27日記事)で書いたように、現・神奈川県藤沢市の「江島神社」(通称:江ノ島弁天)に因んで近世以降に大量に造られたものと思われる。
蛇足:奈良時代の古代東海道「板来」駅の比定地は現・潮来市潮来(臨済宗「長勝寺」付近?)が有力だが、現・潮来市延方とする説もある(2022年9月24日記事参照)。後説の場合、古代東海道は、現・行方市域では概ね茨城県道50号線(水戸神栖線)とほぼ同じルートで、行方市から潮来市に入ると、「大生古墳群」(「鹿見塚古墳」(2017年12月30日記事)参照)中央部を横切って「大生神社」(2017年12月9日記事)の南側を通り、築地と水原の大字境を進んで延方に至ると推定されている(茨城県教育庁文化課編「古代東海道と古代の道」)。その当否は不明だが、ここでは、源義家の伝説に注目したい。常陸国では、厚くもてなした長者に対して、後難を恐れて皆殺しにしてしまうという話が各地にある(例、現・水戸市の「一盛長者」。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照。)。ここでは、それらと違って仏教の霊験譚になっているが、義家が大軍を率いて当地を通った(古代官道のルート?)という伝説があることに興味を惹かれる。
茨城県教育委員会のHPから(木造 如意輪観世音菩薩像(附胎内仏))
写真1:「愛染院」鐘楼門。享保年間(1716~1735年)の建立で、潮来市指定文化財。
写真2:本堂(観音堂)。享保4年(1719年)建立で、潮来市指定文化財。本尊の如意輪観世音菩薩を祀る。
写真3:鐘楼門を入って左手にある三十三観音堂
写真4:大師堂
写真5:金堂。こちらに愛染明王が祀られている。
写真6:七福神と由緒を刻した石碑
写真7:背後の丘に登る急な石段。上るよりも、下りる方が怖い。
写真8:丘の上にある「若宮八幡宮」
写真9:同上、「金毘羅宮」。北浦の方を向いているが、雑木が生い茂っていて眺望はない。